一息ついて
しんしんと雪の降る中歩く。すっかりと辺りは夜の闇に染まっていた。昼間の灰色の薄暗さとはやはりかなり違っている。
ヨシフの家に長居したわけではないけれど。雪国だから、陽が落ちるのも早いということか。
だからといって、気が滅入るわけでもなく。むしろ、なにかほっとする気持ちだった。今までは、ずっと城の中に押し込められていたわけだし。こうした当たり前の光景がぐっと心にしみた。
「あれだべ」
前を行くヨシフがすっと腕を伸ばした。指さした先には、すっかり雪に侵されつくされた札が、屋根からつるされていた。文字はすっかり潰れているが、INN――なんとなく宿屋のものだと思われる。
まあでも、その予想は決して的外れではない。目的地から逆算したから。たとえ札がなくたって、あの建物は宿屋なのだ。
「でも、本当にいいんですか? 案内してもらったあげく、手配までしてくださるなんて……」
「いいの、いいの。あんたたちは、命の恩人だからさ。これくらい大したことないって。――ちょっと、待っててくんろ」
ヨシフは頼もしげに頷くと、一人で堂々と建物のなかに入っていく。ちょっとだけ、中の明かりが闇を打ち払う。
今日はこの町で過ごすことになった。町に向かうのは明日――俺たちもヨシフも疲れていた。それに加えて、もう夜になろうとしてるし、店も閉まってしまうかもしれないと危惧しての結論だ。
当初は、俺たちは野宿する気満々だった。この寒空の下で、空き地を探して、なんとか夜を過ごそうと。今にして思えば、それはとても愚かな試みだと思うけれど。
まあ、結局こうして、ヨシフが宿を用意してくれることになったわけだが。何から何まで、世話になりっぱなしである。
とにかく、俺たちは手持ちぶさたに、彼が戻ってくるのを待つことに。短時間の移動とはいえ。タークが魔法をかけてくれたので寒さはなんともない。
「つくづくヨシフ様はいい人ですね。僕らのために、宿まで取ってくれるなんて」
「ええ、そうね。かなり、気がひけるけれど……」
「仕方ないよ~、アーくんちゃん」
「なんなの、その謎のキメラ呼びは」
「いや、どっちかわかんなくなっちゃって……てへへ」
こつんと、自らの頭に拳を当てて、それと舌を出す。顔は皺だらけの笑顔。きゃぴきゃぴとしたオーラが出ていた。
「……完全三人の時以外はちゃんで頼むわね」
「オッケー、了解だよアーくん!」
「今、この場では、ちゃん《・》だ! わかってねーじゃねえかっ!」
――しまった。いつヨシフが戻ってくるかわからないのに、つい地が出てしまった。
からかっているのか、本気なのか。彼女の表情からはよくわからない。ただ、えへへと、悪びれもせずににやけているだけだから。
はあ……全く性質が悪いこと。ため息はすぐに白くなって、宙に溶けていく。
程なくして、再び宿屋の扉が開いた。ひょっこりと、待ち人が姿を見せる。
「ふう。待たせたね。ちゃんと、三部屋とっただよ」
「まあ、本当にありがとう!」
「いんや、だからこれくらいなんともないさね。宿屋のおばさんも、しばらく客がいないからか、だいぶ嬉しがってたよ」
「いやぁ~とても楽しみだわ~。昨日はまさか、洞窟の中で一晩過ごすことになると思ってなかったからね~」
お前、ずっと眠ってたじゃないか。目が覚めたのは、今朝早くだったから、それほどつらくもなかっただろうに。と、心の中で文句を言っておいた。
「したらば、また明日、迎えに来るから。ゆっくり、休んでくんなね」
「はい、おやすみなさい、ヨシフ様」
手を振って彼と別れた。その姿が、すっかりと見えなくなるのを待って、俺たちは宿屋の中に入った。
*
思えば、こうして一人になるのは、ずいぶんと久しぶりだ。部屋に入るなり、長く息を吐く。
帳場にいたのは、にこにこと素敵な笑顔を浮かべたおばさんだった。ヨシフの言う通り、俺たちのことを歓迎してくれた。
そんな彼女から鍵を受け取って、三人揃って二階へ上がった。そして、散り散りになってそれぞれの部屋に入った。
見た感じ、特に特筆すべきことは何もない。俺がノースデンで泊った部屋とあまり変わりはないようだった。
今日は精神的に疲れたなぁ……そそくさと中に歩いて行って、ベッドへと飛び込む。多少はこの身体の持ち主に少しは悪い気がしたけれど。
ああ、ふかふかだ。牢屋のものとは大違い。比べることすら失礼。この感触からすれば、あんなものはただベッドの姿をした何かなだけだ。
明日もヨシフと一緒かぁ。別に彼のことが嫌いなわけではない。ただ、猫を被るのが非常に面倒くさいだけ。いちいち言葉遣いに気を付けなくちゃいけないなんて、神経が参ってしまう。
この期に及んで、まだ女のふりをしないといけないなんて……。本来ならば、今頃は……いまいち何も思い浮かばなかった。ラディアングリスに戻れたからと言って、すぐに元に戻れるわけではない。でも、少なくとも、何の気兼ねもなく、自由に振舞えていたことは確かだ。
このまま、眠り込んでしまいたい。柔らかいマットレスに沈んでいく、自分の身体。こうしているだけで、すぐに意識が落ちていきそうだ。
それでも気力を振り絞って、ひとまず風呂に入ろう。そこまで奇麗好きなわけではないけれど、二日も身体を洗わないのは姫様に対して悪いと思ったのだ。
のっそりと身体を起こす。のろのろと、風呂場に向かっていく。だが、その途中に鏡台に差し掛かったところで足を止めた。
――さっきも通ったはずだけど。あの時には、疲弊しきっていて一刻も早く横になりたかったのだ。だから、気が付かなかった。
俺は一つあることを思いついて、静かに鏡の方に身体を向ける。どことなく落ち着かない気持ちのまま身を屈めた……途端、見知らぬ少女の顔が映りこむ。
目鼻立ちはすっきりとしている。くりりとした丸い瞳、ぱっちりとしたまつ毛が可憐な印象を与えた。肌はやはり白くて、きめが細かい。左目の下には泣きぼくろがあって、とても蠱惑的に見える。
ああ、なるほど。これは確かに美しい。鏡越しに、今は自分のものとなったそれに少し心を奪われた。そういうことには、かなり疎いがそれでも、姫様の姿はとても華憐だ。
おそらく今の光景を誰かが見れば、思いっきり自己陶酔しきっている女にしか見えないだろうが。それでも、今は部屋に俺一人。そのまま、しばらく彼女に目を奪われていた。
だからこそ――
「……あらら~? アーくんったら、いったい何をしているのかしらん?」
誰かが入ってきたことに全く気が付かなかった。
その突然の呼びかけに思わず驚いて、身体がびくっとする。やや、ぎこちない動きで首だけ入口に向けた。
そこにいたのは、ウンディーネのキャサリンさん。にやにやと小馬鹿にするような笑顔を浮かべている。……もちろん、その声色や、言葉で、やってきたのは誰だかはわかっていたが。
「ええと、どこから見てた?」
「うーんとね……『ああ、これはなんと美しい。もうアルス、胸ずっきゅん!』の辺りから?」
「……いや、なんで疑問形? それにそんな言葉、一ミリたりとも吐いてないから」
「またまた~、心の中では惚れちゃったんじゃないの~? しばらく、見惚れてたよね」
「はぁ。それで、何か用か?」
「うん。さ、お風呂の時間ですよ~」
途端に手をワキワキとさせるウンディーネ。ふっふっふ、とどこか悪役じみた風に笑う。
「待て待て待て。理由がわからない。必要ないからそんなの」
「またまた遠慮しちゃって~。ほら、一人より二人のが楽しーよ?」
がちゃり。扉の鍵が閉まった。そして、逃げられないことを俺は悟る。そもそも、入口に陣取っているのは、彼女の方だし。
じりじりと、にじりよってくる女に、もうかける言葉はなかった。何を言っても効き目はないことはよくわかっている。どうして、とか。やめろ、とか。そんなものは、この怪物には何の意味もなさないのだった。




