紅き竜の背に乗って
うん、寒さはわりと平気だ。ただし、今のところはという限定条件が付くけれど。しかし、油断は禁物。迅速に、そして軽やかに足を進めていく……そうしたいが、どうもこの深く積もった雪の中だと、いちいち足を踏み出していくのも大変だ。
我々逃亡者一行は、雪中進軍の最中だった。厨房の裏口から外に出て、大回りでワイバーンの厩舎に向かっている。はい、ただいま、滅茶苦茶に吹雪いております。これからすれば、故郷の冬の野山など、子供の遊び場みたいなものだ。
タークを先頭にして、次に俺。そして、キャサリンが殿を務める。視界の悪い中を黙々と歩いている。その中でも、すぐそばに魔王城の気配を感じるので、道には迷っていないらしい。これは、絶対に人力で山下りは無理そうだ。天候が穏やかでも不可能。ただ、この比較的短い移動ならまだ耐えられる。
と思っていたら――
「し、死ぬぅ……」
後ろから、地獄の底から響いているが如き嘆き声が聞こえてきた。その不気味さに俺もタークも足を止めて、思わず後ろを振り向いた。
見ると、ウンディーネの小娘さんは、今にも死にそうになっていた。恐ろしい程に顔が青白いものの、辛うじてまだその身体は動いている。……ふらふらしていて、かなり危なっかしいが。
一応、俺も彼女も同じように厚手のコート、そして脛の辺りまである革のブーツ、きっちりとひもを締めて。そして手袋に、頬を包むようになっている毛糸の帽子と、寒さ対策は万全だった。
その下は、今までのように地肌をちらつかせるひらひらしたワンピースなどではなく、しっかり着こんである。しばらくぶりにズボンを履いたが、とてもしっくりきた。嬉しい。
とにかく、だ。むしろ、今までと格好が変わらないタークの方が心配になる。だが、寒さには強いらしい。とにかく、その上――
「ターくん、もう一回、防寒魔法!」
「おかしいですね、効果時間はまだ残っているはずですが……。アルス様も、寒いですか?」
「いや、俺は大丈夫だ」
「なら、残念ですけど、重ね掛けは無駄ですよ」
「そ、そんな……もうダメ……」
タークは攻撃魔法はからきしなものの、補助魔法に長けていた。彼の魔法のおかげで、身体の芯からポカポカなのよ。
だけども、どんなに対策しようとも、種族としての弱点を克服することは難しいらしい。外に出てまだ数分だけれども、彼女の活動限界は近そうだ。
「ターク、あとどれくらいだ?」
「もう少しですよ、ほら、頑張って、キャサリンさん!」
「ああ、そうね。素敵なお花畑と湖が見える――待って、チョウチョさん~」
「禁断症状が出てるな」
「……ですね」
結局、俺は彼女を担ぐことにした。いくら大人の人間よりは軽いとはいえど、この格好足元の悪さと組み合わされば、正直かなりしんどいものがある。――元の身体ならば、そんなことはないのに。
恨めしい思いと、しなだれ掛かってくる高潔な泉の乙女を抱えて、再び歩き出す。初めはこの新雪を踏みしめる感覚が、懐かしいと思うと同時に楽しかったが、こうも何度も繰り返していればそれも鬱陶しくなってくる。キャサリンほどではないが、俺自身、早く建物の中に戻りたい。
「あれです」
「あれって言われてもなぁ……」
タークはその短い腕を前に突き出した。俺もぐっと目を凝らしてみるが、視界には薄暗い闇と空から舞い降りるうざったい白い断片ばかり。
しかしそれでも確かに俺にも何かが見えてきた。一歩一歩近づくにつれて、じわりじわりとそのシルエットが闇の中に浮かび上がる。
それは、立派な倉庫のような建物だった。正面は一面壁で、入口は見当たらない。ともかくも、おそらくこれがワイバーンの飼われている厩舎なのだろう。
……しかし改めて考えてみると、竜種を飼育するだなんてとんでもないスケールの話だ。うちではせいぜいキツネが限界。あのバカギツネ元気にしているだろうか?
タークはそのまま厩舎(仮)に近づいていく。俺はキャサリンを支えるのに一層力を込めて、後に続いた。側面の方に折れると、そこに扉があった。タークがゆっくりと取っ手を動かす。
中は真っ暗だった。タークが暗闇の中を、躊躇いもなく進んでいく。とりあえず、俺は後ろ手で扉を閉めて、しっかり鍵をかけた。そのまま入口のところで、凍てつくウンディーネと共に突っ立たまま。
やがて、明かりが灯った。とても巨大な建物――ただひたすらに空間が広がっている。天井もとても高い。そして、鼻を衝くのは獣の臭い。
「とりあえずキャサリンさんはここで休んでいてください」
タークは俺たちの元に戻ってくると、入り口近くの暖炉に灯を燈した。
それを見て、俺はさっとその前にキャサリンを横たえる。地べたの上だが、そのまま凍え死ぬより断然ましだろう。
暖気が彼女に襲い掛かり、心なしかその顔が安らかになった気がする。それを見て、すでに中に入っていったタークを追った。
「なかなか神秘的な光景だな」
「こっちだと、ドラゴンは珍しいですか?」
「ああ、この世のどこかにはいるんだろうけど。それに親父はその長と友達らしいが、俺は見たことないな」
ぐるりと見渡すと、四角く区切られたスペースが三列ずつ並んでいる。それぞれに、大きな翼が生えたトカゲの怪物――ワイバーンがいた。その足には枷がかけられ、あまり自由に動きは取れない様になっている。
「ガオー」
「キシャー」
「ガルルー」
「バルバロルー」
近くを通れば、どれもが思い思いの咆哮をあげた。中には勢いよく襲いかかろうとしてくるものも。なかなか、威勢がいい。
「どれにします?」
「どれでも同じじゃないか?」
「まさか。みんな違います。みんな個性があります」
「個性、ねぇ……」
俺には色の違いくらいしかわからないけど。鱗の色は、文字通り十匹十色。赤青黄緑紫、見事にバラバラ。
しかし、それくらいしか、俺には違いがわからない。まさか、気性でも異なるとで言うのだろうか、この小さな兵士くんは。
「せっかくだから、俺は、あの紅い色のやつを選ぶぜ」
「ほう、アルス様。なかなか、お目が高い。あれはかなりの逸材ですぞ――用意してきますね」
嘯きながら、タークは奥の方に消えていく。何ふざけたこと言ってんだか。することがなくて、手持無沙汰に彼が戻ってくるのを待っていた。
「なにか、物音が聞こえないか?」
「確かに。見つかったかもしれません」
その時、外から叫び声のような音が聞こえてきた。気のせいだと思ったけれど、タークの耳にも届いたよう。厩舎の奥の方で、不安そうにこちらを振り返っている。
嫌な予感がして、俺は素早くキャサリンの所に戻った。体温が回復したのか、少し血色のいい頬を叩く。ぺちぺちと、小気味いい音がする。
「大丈夫か?」
「なんとか~」
もぞもぞと、弱々しく彼女の腕が上がる。うん、ダメそう。しかしそうもいってられない。億劫ながらもも、生ける屍を持ち抱えようとしたが――
ゴゴゴゴゴ……途端、物騒な音が室内に響き渡る。そして、微かな振動――建物が揺れている?
キャサリンに向けて伸ばしかけた手を引っ込めて、俺は即座に視線を巡らせた。すぐに、異変に気がついた。
壁がなくなっている――視界が一気に開けて、暗黒の舞台の中に白銀の舞を見るはめになった。いや、今回はそこにちらちらと光が動いている。
「いたぞ! あいつら、ワイバーンの厩舎にいやがる!」
「あらら、予想以上に近くに来てましたね」
「準備はできたのか? もちろんですとも」
びしっとタークは俺が選んだあの紅いワイバーンを指さした。その背中には、しっかりした鞍がつけられている。さらに頭には手綱。
「先乗っててください!」
「いや、俺ワイバーンなんか乗ったことないぞ!」
「大丈夫、なんとかなります。さあ、早くっ!」
外を見ると、次々に追手が迫っていた。これは確かに躊躇っている暇はない。瀕死のキャサリンを担いで、俺はまっすぐにワイバーン目掛けて走る。
ドン、ドンっ! すさまじい衝撃音と共に、とうとう入口の扉が強引に壊された。なだれ込んでくる、魔王軍配下たち。俺はそれを、手綱を握りつつ飛竜の背中から見守っていた。
その距離は僅かしかないのに、未だに飛び立てないでいた。それもそのはず、その竜の足には枷がハメられたまま。
二方向から攻め入ってくる魔物たち――タークは何してるんだ! 俺は興奮するドラゴンを必死な想いで宥めつつ、不安に駆られながらも彼を待った。その時――
「今ですっ!」
タークの大きな声、そしてガシャンという音がした。そして、いきなり風景が動き出す。
それは枷が外れる音だった。こいつだけじゃない、他のワイバーンも同様。彼らは久方ぶりの自由を手にしたからか、皆、次々に空へと飛び立とうとしていた。
「ま、待った、待った。お前は、あっち!」
俺が乗るやつも例外ではなくて、すぐさま飛んでいこうとしやがった。それを必死にいなす。ようやく、
辛うじて言うことを訊いてくれた。そのまま、竜を操ってタークの回収に移る。
低く飛び立って、近づいていた兵士たちは驚いたように足を止めた。その隙をついて、こちらに向かって走り出していた仲間の手を掴む。
「タークっ!」
「はいっ!」
がっしりとその身体を引っ張り上げた。そのまま、ワイバーンは空へと飛び立ってくれた。無限に広がる闇夜の中へ。
ついに、俺は――俺たちは魔王城からの脱出に成功したのである!




