サーモンの勇者
「起きなさい、私の可愛い息子、アルス」
声がした。とても耳になじむ心地よい音色。昔からずっとその子をを聞いている。それで意識が覚醒した。それでもまだ眠いので、瞼により力を込める。再び眠りの世界へ飛び込む心づもりだ。
「起きなさい、息子よ!」
その声には幾分か怒気が込められていた。それでも従来の柔らかさは多少残っていて。やはり俺はどうにも起床する気分にならない。迫りくる睡魔に白旗を上げる。
「起きなさいっ! この馬鹿息子!」
この家全体を揺るがすほどの怒声。がばっと布団がはぎ取られたのがわかった。俺は身一つで現実に放り出されたことになる。季節は初夏の時分だから寒くないのが幸いだけど。窓から差し込む朝の陽ざしが非常に眩しい。それでも頑なに目は開けない。身を亀みたく縮めて、遠ざかっていく夢の世界を必死に追いかける。眠いものは眠い。
「今日がどういう日なのか、忘れましたか?」
上から声が降り注いできた。先ほどの怒りの調子はどこへやら。今度はそこに呆れの色が混じっている。おそらく俺が起きているのには気づいているみたいだ。まあもぞもぞと芋虫みたいに動いたからね、仕方ないね。
「覚えてるって、当代の『サーモンの勇者』のお披露目式ですな」
「そう、あなたのね。それがどうしてそんな他人事みたいなんですか!」
「ただひたすらに煩わしいのです、母上」
俺は目を閉じながら母さんに言葉を返した。あえて不動のままでいることで、自らの意志が固いことを示す。
「全くサーモンがこの姿を見たら何と思うことでしょうね!」
サーモンとは今から数百年前この世界を救った者の名前だ。当時、魔界から魔王が精鋭の軍団を率いて、人間界に攻めてきた。それを撃退したのが、サーモン――俺の遠い先祖。人々は彼を勇者と讃え、その子孫のことを『サーモンの勇者』と呼んで慕い、時にはその力を頼ってきた。
そう、サーモンがもたらした平和は一時的なものに過ぎなかったのだ。世界は何度も様々な悪意に襲われてきた。依然としてこの世界に魔物は残り、あるいは魔に魅せられた人間が牙を剥くこともあった。だが、サーモンの子孫がその都度何とかしてきた。
代々この家に生まれた男は成人を迎える十五までに、先代から勇者としての力・技の全てを受け継ぐ。そして、この地を治める当世の王と謁見し認められて初めて『サーモンの勇者』を名乗ることができるわけだ。その後は、世界の平和のためにその身を捧げることになる。あとついでに嫁探し。家族を作って、次の勇者を育成する。その繰り返し。
じいちゃんは、邪教に手を染めて大魔神を復活させようとしたとある神官をフルボッコに。親父はドラゴン族の反乱を鎮圧。最後はドラゴンの頭領と酒を酌み交わしたと自慢げに話していたが、本当だろうか? まあその真偽はともかくとして、他にも色々な逸話がこの家には残っている。どの世代の『サーモンの勇者』も世界の危機に立ち向かってきたのだ。
そして、今日は俺の十五回目の誕生日だった。つまり、次の勇者としてとりあえず王に会いに行かなくてはいけないわけで。それが俺は死ぬほど嫌だった。色々理由はあるけれど、とにかく勇者になんかなりたくない。
目を開けて一度身を起こす。母は明らかに不機嫌そうだった。眉間に小さな皺を重ね、唇を少しとがらせている。そんな顔をされても困るというか。少しどぎまぎしながら、俺は目的のもの――剥ぎ取られた布団を見つけた。手を伸ばせば届く距離にあって、それを強く引き寄せると頭から被り直す。もう一度だけ、二度と眠れなくなってもいいから寝たい。だが――
俺の耳に不穏な呟きが入ってきた。その意味を理解した頃には遅かった。それは母が最も得意とする魔法の詠唱で――
「神の怒り、ここの宿れ! 極大炎熱魔法!」
「わあ、待った待った。それは流石に死ぬ!」
「こんなことで死ぬようならば、初めから勇者の大役は務まりませんとも!」
そして、焼き勇者(見習い)が一丁出来上がった!
*
全くさっきはひどい目に遭った。起きて早々無駄に魔力を使うことになるとは。全快治癒魔法って、結構消費激しいのに。おまけに傷しか治らないから、俺のお気に入りの寝間着は見事に燃えカスになり果てた。いや、ベッドも含めた寝具も全てもだけど。母の温情が、範囲を狭めていたから部屋は何とか無事だったけどな。
流石にいつまでも全裸でいるわけにもいかず、結局母が用意した洋服に身を通した。防御力の薄そうな青色のシャツと橙色のズボン。それに箔をつけるためだけの深紅のマント。頭には、サーモンが当時の国王から授かったという曰く付きの金でできたサークレット。そして、世界最強の剣とオリハルコンでできた盾を身に着けて。勇者出張セットの完成である。鏡の中の自分は、絵や写真の中の先祖たちとそっくりの姿をしていた。
そして、今俺は食卓に一人分だけ残された朝食に手を付けている。どうやら俺が最後だったらしい。大き目の野菜がゴロゴロ入ったコンソメスープ。そしてプレーンなコッペパン。あとサラダ。実にオーソドックス。いつもの朝といった感じだ。これから王様に会いに行くなんてとても思えない。
「しかしどうしても行かないとダメですかね?」
「何を馬鹿なことを言ってるのですか。あなたも勇者サーモンの子孫なんですから当然です。この日のために、私もあの人も貴方を一人前の勇者として育て上げたつもりなのよ。胸を張って、世のため人のため身を粉にして働きなさい」
「はいはい、わかりましたよー」
相変わらず母さんは手厳しい。さっきみたいな余程のことがない限り、その声色や話し方は優しい。しかし、その発言内容は鬼というのがこの人の特徴だ。
子供の頃、どうしたら母さんみたいに色々な魔法を使えるようになるか聞いたことがあった。それはとても幼い時の話で、好奇心からくる無邪気な質問だった。しかし母の解答は、魔術書をたくさん読めばいいのよ、と笑顔で山積みになっている本を指さした。こんなエピソード、日常茶飯事である。
とにもかくにも。その世のため人のために尽くす、という部分に俺は非常に気掛かりを覚えていた。それが『サーモンの勇者』の使命だとは知っているけども。はっきりいえば、納得はいっていない。しかしそんなことを目の前でどこか嬉しそうにしている母親に言うこともできず。
「ごちそうさまでした」
結局、それ以上何も抵抗する気が起きなくて。そのまま黙々と朝食を食べ終えてしまった。お腹はいっぱい、けれど気力は……それでも父や母の顔を潰すわけにはいかない。ひとまず城に行かなくては。最早、そんな義務感に俺は突き動かされていた。そこに俺の感情が入る余地はない。
「よし、どこから見ても立派よ、アルス。あの人もきっと喜んでいるわ」
「だといいけどね」
玄関口で、改めて母と向かい合った。おそらくしばらくの別れになるだろう。これから俺は勇者として世界に召し上げられることになる。残念なことに、またしても世界は危機に瀕していた。俺はその元凶と対峙しないといけない。……たぶん。
それは母さんも予感しているのか。どこか涙汲んでいた。彼女のそんな表情を見るのはこれで二度目。一度目は俺が初めて頬を叩かれた日のこと。それ以外に母が気弱なところを見せたことはなかった。
常に夫を陰から支え、子供の教育には一切妥協しない。それでいて家族を包み込む優しさを兼ね備える。まさに理想の良妻賢母というやつだろう。今も体調が悪いはずなのに、その素振りすら見せない。……先ほど、最上位の魔法を撃ってきやがったぐらいだし。
「母さん、身体は大丈夫なのか?」
「貴方はもう私のことなど心配する必要はありません。あの子もいるし何とかなります」
母さんは強がりな笑顔を浮かべた。それが本当に痛々しくて胸が締め付けられる。それでもここに残るなんて決して言葉にできない。してはいけない。母はそんなこと一ミリたりとも期待していない。それが証拠に、今日彼女が祝っているのは、息子の誕生ではなく、勇者の誕生であった。
「行ってまいります」
そんな思いを押し殺して、俺は深々と頭を下げる。この人里離れた山奥の辺境の地から、いよいよ俺の冒険の第一歩が始まるのだ。そう思うと、気持ちが鬱になって仕方がない。
回想は次回までです。