はじめてのボス戦
十分に距離をとって、わたしとザラさんは、魔熊――もとい、森のヌシと対面している。いつでも逃げられるように身構えて、自分よりも年下の女の子の後ろに隠れるように。
しかし、改めて見ても、凶暴そう……。あまりにも熊離れし過ぎじゃないかしら。シルエットくらいよ、共通点は。眼光は鋭いし、得物を見つけた喜びか、口元には涎がだらだらと輝いている。そして、身体はとても厚みがあって、手や足の爪は長くて、どこかダガーみたいだ。切れ味は鋭いだろうね、きっと。
「がおぉぉぉっ!」
「まったく弱い犬程、よく吠えるってね」
「ザラさん、これ熊だよ?」
「わかってますってば! 例えです、例えっ!」
ザラさんはこちらを強く睨んできた。その顔は真っ赤。唇はわなわなと震えている。全身から、不機嫌なのが伝わってくる。だがそこに――
「あぶないっ――!」
「よっと」
振り下ろされるヌシの爪。しかし、わたしが叫ぶのよりも先にザラさんは動いていた。軽い様子で、さっと後ろに跳び避けて見せる。ふわりとスカートの裾が揺れた。
わたしは、ひとまず彼女が無事で済んだことを確認して。とりあえず、怖くなって、かなりヌシからは離れた。遅れて、ザラさんもこちらに向かってくる。
「裂風魔法!」
駆け寄ってきながら、彼女は詠唱を口にした。
おおっ! それは、今朝わたしを騙くらかそうとしたあの無礼な男に放った風の魔法では!? あの時もすごい威力だったし、期待できますね、これは! って、わたしってば、つい興奮しちゃった。
ザラさんの前方に二つの真空の刃が生まれる。ひゅんひゅんと、風を切る音をたてながら、それらは敵に向かって飛んで行った――
「あ、あれ?」
ザラさんは気の抜けた声を漏らした。わたしも、今目の目で起きた出来事に目を奪われていた。茫然となりながら。
裂風魔法は、ヌシには効かなかった。風でできた刃は、その身体に傷一つ与えられずに、消えてしまった。完全に失敗だ。
「ちょ、ちょっと、ザラさん?」
「あ、あはは……あれ、おかしいですね?」
とぼけているものの、その声は上擦って。さらに、笑顔は引き攣って。本当に大丈夫なのか、心の底から心配になる。でも、わたしには彼女を信じることしかできなくて――
「ぐわぁおぉぉっ!」
その時、一層強くヌシが吠えた! その咆哮は、周りの草木を揺るがす。怒りのままに、ザラさんの方へ向かって来る。
「ひぃっ!」
「危ないなぁっ!」
慌てて、私はそれを避けた。ザラさんも逆方向に身体を動かす。
そこに、次々と魔熊は攻撃を繰り出していく。短剣のように爪を振り回す。どうやら、ターゲットを完全にザラさんに定めたらしい。
「なんかさっきより凶暴になってますけど!」
「ちょっと待ってください。えっと、これなら!」
それをひょいひょいと躱しながらも、ザラさんは声を返してくれた。その姿には、余裕さえ感じられる。さすがは勇者様の妹君ね。
「小火球魔法、小爆発魔法、氷刃魔法!」
次々と紡がれる詠唱。遅れて生じる、奇蹟の数々。小さな火の玉が飛び交い、小さく爆発が起き、巨大な氷柱が三本程、魔物の頭上から降り注ぐ。
それらが一緒くたに混ざり合ったせいか、辺りが一気に煙に包まれた。敵の姿も、ザラさんの姿さえも、見えなくなる。
「ザラさん!」
「無事ですよ~」
視界を覆う白い靄の中に向かって叫んでみると、すぐに返事がした。遅れてひょっこりと、幼い少女がその中から出てきた。確かな手応えを感じたのか、得意げな表情をしている。
「さすがに倒せたと思うんですけど」
「すごいっ! さすがは勇者様の妹さんですね!」
「えへへ、そんなに褒めないでくださいよぉ~。照れちゃう――って、あれ!」
煙がすっかりと消え去って、ヌシの姿がはっきりと現れた。見るからに、なんともなさそう。あれだけの魔法を受けたというのに、全くダメージを負っていないように見えるんだけど……。
「ちょっと、ぴんぴんしてますよ!」
「や、やっぱり初等魔法じゃダメなの……?」
「ギャーーーッス!」
またしても、とても大きな雄たけびを上げる魔熊。殺気よりも怒りのボルテージが上がってますね、これは。心なしか、放つ邪気もより禍々しくなっているような……。感覚の話だから、実態は不明だけれど。
それが証拠か。猛然と、こちらに襲い掛かってくるヌシ! 四つ足で、猪よろしく突っ込んでくる――猪突猛進というやつ、熊なのに! って、そんなこと考えている場合じゃない。
「と、とにかく、いったん逃げましょう!」
少し凹んだ様子のザラさんの腕を無理矢理引っ張って、わたしたちは駆け出した。彼女の魔法が通用しないとわかった今、わたしたちに打つ手はないのだから。
「それで、初等魔法っていうのは?」
「一番簡単な魔法です。魔力の有無という条件は付きますけど、基本的には誰にでも扱えますね。なので、威力も相応に低いんです。使い手にもよりますけど……」
「ええっ! あ、あんなに、凄そうだったのに……」
「姫様は知らないからそう見えるだけですよ。見る人が見れば、わかっちゃいます。あんなの大した威力がないって。それこそお兄ちゃんが見たら、バカにされちゃう……」
「そ、そんな落ち込まないで」
走りながら、ザラさんの様子を気に掛ける。先ほどまでの、勝気さというか元気の良さは完全になりを潜めていた。暗い顔をして、しおらしい姿は見ているだけでちょっとかわいそうになってくる。
「実はザラ、攻撃魔法は苦手で……」
「そ、それ本当?」
突然の告白に、わたしは目を白黒させるしかなかった。わたしからすれば、立派な魔法だと思うのだけれど。なまじ、自分がそんなものを一切使えないからそう思うのかもしれないけど。
「じゃあどうして、ヌシを倒そうなんて」
「やれるかなって、思ったんです。自分の力を試してみたかったというか……。ザラ、いつもお兄ちゃんに守られてばかりだったから」
ううん、なかなかにいじらしいというか……。起るに怒れない。彼女は、わたしをこの危険な状況に追いやった元凶だというのに。
自分の力を見せたいというのは、何となくわかる。わたしも子供の頃、よくそんな風に背伸びして見せたっけ。っと、思い出に更けている場合ではないけれど。
考えるべきは、この状況をどう切り抜けるかということ。そろそろ、諦めてくれないかしら――わたしはそっと、後ろを窺い見た。
「グルルルルゥ」
……唸り声を上げているわね。相変わらず、追いかけてきてる。……逃げられるのかしら、これ?
「ど、どうする、ザラさん?」
「ごめんなさい、ごめんなさい。姫様をこんなことに巻き込んで……。こうなったら、命を懸けて償います!」
「わあっ! 待って、待って。そんなことしなくていいから。わたし、そんなに怒ってないからね、ねっ! 落ちついて」
それはさすがに思いつめすぎというか。走る速度は緩めずに、顔だけザラさんに向けて。なんとか彼女を励ましにかかる。
「今はここを切り抜けることの方が先決よ。ほら、ザラさんも何か考えて」
「は、はい。本当に、ごめんなさい」
しかしそうはいったものの、わたしとしてはなにも浮かばない。この期に及んで、自分が勇者様の身体をフル活用して、ヌシに立ち向かおうというつもりはなかった。穏便に、自分の身に危険が及ばない方法を必死に探すけれど。
「あ、あの姫様?」
「何か思いついたのね、ザラさん!」
「は、はい。それで――」
ザラさんはわたしの耳元にぐっと顔を近づけてきた。間近に感じる息遣いが、とてもくすぐったい。こそこそと、小さな声が聞こえてくる。
わたしはその内容を神妙な面持ちで聞いていた。とてもじゃないけど、納得しがたいというか……。
「で、できるかな?」
「やるしかないと思います!」
力強いザラさんの声掛けに、わたしとしてもいよいよ覚悟を決めるしかないのだった――




