山内さんですか?
山内さんじゃないですよ~
「もし……もしもし……」
手に開いた文庫本に並ぶ活字の列から視線を外し、声の主へと焦点を結ぶ。年のころ三〇といったところか。自然薯のように細長く、土色の顔をした、いかにも病弱といった感じの男が、痙攣するような、ヒクヒクとした笑いを浮かべてそこに立っていた。
「山内さんですか?」
卓に置かれた珈琲を一口、もったいぶったように啜る。細く開けた視界から彼の様子を窺いつつ、私は返答した。
「はい」
私の名前は川内である。しかし、そんなことは些末な事実に過ぎない。私が山内であろうが川内であろうが、大体において似たような名前であるし、それに、名前なぞというものは、言ってしまえば他人が私を識別するための記号なのであって、つまり、他人が私を「川内」として必要とするのであれば、私は「川内」なのであるし、逆を言って、他人が私を「山内」として必要とするのであれば、私は「山内」なのである。
「よかった……いや、はじめまして。川原です」
男の顔から緊張が解け、口角が上がる。しかし、落ち窪んだ眼球からは光が失われており、若い見た目のわりには頭髪は寂しいものがある。無遠慮に私の向かいに座を占めた彼は、店員を呼びつけブレンドを注文する。私は文庫本を卓に置くと、もう一度、アメリカンを口元へと運び、濁った泥水のようなそれをわざとらしく音を立てて啜りこみつつ、彼を観察する。何年も着古したようなジーンズ……百貨店で山積みされているような安物のシューズ……濃緑色のシャツはジーンズにイン……申し訳程度に羽織るジャケットは一部が裂けていて中の綿が顔を出している……
「待ちましたか?」
私は、首を傾け、そッと、空間の一隅をなぞるように視線を漂わせつつ、応えた。
「まァ……少しね」
「やッ……やッ……」
男は、動揺したように口を開閉しつつ、それでいて無意味な発声ばかりを狂ったように繰り返す。何かしらを伝えんと片手を宙に遊ばせ、しかし、努力も虚しく、いずれは卓上に落ち着き、彼は結局、口から言葉を紡いだ。
「申し訳ありませんでした……なにぶん。馴染みのない土地でありますから迷ってしまいました。山内さんはこちらにお住まいなんですか?」
「徒歩圏内ですね」
「よく来られるんですか、ここには……」
「ええ。常連ですね」
男は、落ち着きを取り戻した。媚びるような笑いが口の端に滲む。それは男の人生を物語るような笑いだ。主人公になれない笑い……従者が示すような……弱弱しく……相手の機嫌を窺うような……笑い。心の底からの笑いではなく、あくまで社交辞令としての笑い。愛想笑い。へッへッと、息を吐くような、感情を押し殺した笑い。
「山内さんの……いつも読んでますよ。あなたは私の希望だ……」
男の瞳に、僅かに光が戻る。しかしその光は、どこか常軌を逸したような、ゆらゆらと揺れていて、ひどく不安定であり、そのくせ、妙に熱っぽく、すがるような色をしている。
「お待たせしました」
店員が、男の前にブレンドを置く。白く透き通るようなカップの中に、湯気立つ泥水がたまっている。男は、爪先にたっぷりと垢を溜めた指を、細かく震えさせながら、カップへと手を伸ばす。恐るおそる、口を尖らせながら、彼は泥水を啜る。
「誤解を恐れず言えば、私はあなたと一緒だ。確信さえしていますよ。あなたの文章にありましたでしょう……社会への怒りとか、個人と集合の話とか、人間心理学的な意味での、宗教の話とか……まさに同じだ。私も、あなたと同じ思想を持っていますよ……思想的ドッペルゲンガーと言ってもいいぐらいですよ」
一度、形になった活字というものは、それ自身迫真性を持ち、活字に裏打ちされた思想は、力をもって、伝播する……男は、形になった思想の内に、自らを見出したに過ぎないであろう。それは、既成の服を組み合わせて、自身を表現していると思い込むのに似ている……
「あなたの思想は、それ自身真理だ。私が保証しますよ」
「結構な自信ですね。私とあなた、二人揃って間違っているのかもしれない」
男は、静かに首を振った。
「そんなことはありえませんよ。何故なら、私たちの魂に根付く、この、狂おしいほどの怒り……これ自体は、紛れもなく真実でしょう」
上目遣いに私を見やりながら、震える唇で、彼は細々と言葉を舌先に乗せていく。
「人類はみな自殺すべきだと、あなたはおっしゃいましたね。人間は愛を知りえない。隣人愛など以ての外だ……人間の認識力などというものはたかが知れています。実態は、つまり、輪郭だけの記号で思想を満足させ、皮一枚の造形で恋をしている。それが人間の限界なのです。真理を知る人間は、総じて絶望します。表層をなぞってばかりの人間に、神の愛を知る術は無い……」
「あなたは死にたいのですか?」
私の問いに、彼はほとんど馬鹿にするように口元を歪める。灰皿を引き寄せると、懐から煙草を取り出し、ライターで火を点ける。すうと吸い込むと、次の瞬間には、彼の口から紫煙がこぼれ出る。大気の流れに身を寄せるように、勝手気ままに揺蕩う煙は、いずれ分散し、目に見えない粒子となって消えていく。彼は、その様を目で追いながら、再び口を開いた。
「欲求、とは少し違うでしょう。自殺は人間の義務だ……山内さんにも、お分かりのことと思いますが」
「しかし、自殺などとは随分と大袈裟な話ですね」
男は訝しげに眉を顰める。
「貧しい認識力をしか持たない人間は、等しく死ぬべきですよ……あなたもおっしゃっていたことです。我々は神の不完全な似像なのです。それを完全なる存在に昇華させるためには……死ななければならない。死こそが、我々をしてモナドの牢から解き放つのですよ。自殺こそが、神の愛に近づく道なのです」
私は、重たくなってきた瞼を指で擦りながら彼の話を聞いていた。そう言えば、昨日は何時に寝たのだったか……思い出せない。
昨夜、夢を見た。軸の無い、断線的なイメージ。斜陽。暖色に染まる通り。一人の男。ハンチング帽を目深に被り、顔は窺い知れない。しかし、口元には人を軽侮する忌々しい笑い。皺だらけの手に乗せられていたのは、死んだ魚……濁った瞳。陽光を照り返す、乾いた鱗……「死にたがり、死にたがり……」ハンチング帽の男が、薄汚れた唇を動かしている……言葉になりきらない言葉……ほとんど独り言のような……死体だったはずの魚が、びくびくと、男の手の上で動き出す……口を開閉させて、酸素を求めている……次の瞬間、男の口調が文章となり、しかし、聞かせるつもりさえないような、ひどく早口で、嫌がらせと言っていいような、ねっとりとした、活舌の悪い……言葉の列。
「人間だけですよ。人間だけ。人間だけが思想によって人を殺せるのです。思想とはかくまで人を縛りつけておるのですよ。宗教、主義、政治団体……エトセトラ、エトセトラ。思い込みですよ、思い込みです。正邪の思い込み、善悪の思い込み、不合理の思い込み。思い込みですよ、思い込みです。何が正しいのですか? 何が間違っているのですか? その基準もまた思い込みです。人間の認識とは狭窄ですな、狭窄です。視野狭窄です。人間の視界なんてね、歳を経る毎に、キューッと縮こまって、何にも見えなくなってしまうんですね。思い込みですよ、思い込みです。思い込みは、それ自身真理です。恋人から愛されていると思い込んでいる。あいつが悪いと思い込んでいる。自分の状況は不条理だと思い込んでいる。思い込みですよ、思い込みです、しかし、それ自身真理です。それ自身真理なんですな。思い込みは、それ自身ひとつの軸なんですな。人間の生きる軸なんですな。それも、思い込みですよ、思い込みです、しかし、それ自身真理です」
ハンチング帽のイメージ。毛玉がびっしりとこびりついた、ハンチング帽……
ぬるくなった珈琲に、再び口をつける。底に残った、三日月の滓。静かに、カップを台に戻す。陶器と陶器が重なり合う、甲高い音。前方に視線を戻せば、男が紫煙を口から吐き出していた。指に挟んだ煙草の先で、灰の部分が長くなっている。
「あなたのように人生を真っ直ぐ生きられる人を、私は尊敬しますよ」
男は、弾かれたように腰を浮かせ、身を乗り出す。その瞳には、かつてないまでの興奮が映っている。
「あなたなら分かってくれると思っていました! あなたは、あなたこそは、私の精神的、思想的ドッペルゲンガーなのですから……確信さえしているぐらいですよ!」
男は、唇をせわしなく震わせ、卓に落とした手の衝撃のあまり、カップが振れ、悪くすればこぼれてしまうような……興奮の伝播。
「……自殺しましょう。一緒に、死にましょうよ。それが、その行為こそが、我々をして完全たらしめるので……どうしたのです?」
私は、彼の言葉を手で制すと、財布を取り出し、千円札を卓に置く。その様を視線で追いながら、彼は、信じられないというような、ひどく混乱した、慄くような、絶望した表情をしてみせた。
「これは私の持論なのですが、思想や、主義主張などというものは、言ってしまえば人生を生きるための方便でして。そのために死ぬなどという倒錯を起こすことは、ほとんど愚直というか、ひどく真っすぐに過ぎると思っているのですよ。ですから……結論を言えば、あなたと共に死ぬことはできませんよ」
「愚かな!」男は立ち上がる。「そんな、そんな主張は……それこそがひとつの主義でありましょうが! 愚かな、実に愚かだ! あなたもまた、相対主義という主張をしているんだ。そして、それを真理だと思い込んでいるだけだ! ねえ、こんな確たる基盤も無い人間の生なぞというものに、一体どれだけの価値があるんですか? いずれ、死ぬしかないのですよ……貧しい認識をしか持たない人間はねえ! そうでしょうが、山内さん!」
私は黙って席を立つ。男を置き去りにし、出口へと向かう。狭い階段を降りながら、上ってくるスーツの男と道を譲り合う。その男は、ひどく太っているものだから、私は後ずさりし、元来た場所へと戻る……
「失礼……」
男は一礼すると、カフェへの入り口の戸に手をかけ、しかし、思い出したように振り返ると、痙攣するような、ヒクヒクとした笑いを浮かべて、私に向かい合った。
「もしかして……川原さんですか?」
凍てつく外気に遊ばせていた手を、もったいぶったようにポケットに突っ込む。細く開けた視界から彼の様子を窺いつつ、私は返答した。
「はい」
私の名前は川内である。しかし、そんなことは些末な事実に過ぎない。私が川原であろうが川内であろうが、大体において似たような名前であるし、それに、名前なぞというものは、言ってしまえば他人が私を識別するための記号なのであって、つまり、他人が私を「川内」として必要とするのであれば、私は「川内」なのであるし、逆を言って、他人が私を「川原」として必要とするのであれば、私は「川原」なのである……
〈了〉
川原さんでもないです。