第一輪
「ただいま」
「おか…………って、またぁ?」
玄関をくぐり微かな疲労と共に声を落とす。先に帰っていた血の繋がらない妹、紫に挨拶をする。と、返った言葉の途中で話題を変えた彼女が呆れたように呟く。
今日はチョコを食べていた。
「またって何がだ……」
「告白」
「っ……」
全く以って分からない根拠からつい先ほどの出来事を言い当てられ肩が震える。
脳裏を過ぎるのは高校の屋上での出来事。真っ直ぐで、けれど禁忌に触れた事に後悔するような彼女の顔。
────わたしと付き合って
告げられた、想いの篭らない白が脳裏に蘇る。
「……前々から思ってたが、プライバシーだぞ?」
「だったらばれないようにしたら?」
出来たらそうしてるっての。改めて考えて見てもよく分からないその兆候。そんなに顔に出やすいか?
「で、今度は誰? っていうかなんて答えたの?」
「……紫には関係ないだろ?」
「関係ないから訊いてるんだよっ」
いい野次馬根性だ。そんなに恋バナがしたいなら自分で彼氏でも作ればいいだろうに。八重梅に聞いたが大層おモテになるんだろう? 選り取り見取りじゃないか。
などと少し色の悪い感情を妹に抱きつつ、外れない興味に溜息を吐く。
「…………相手は言わない。ただ保留にはして来た」
「何それっ、もっと詳しく!」
ほら見ろ食いついて来た。こうなる事が想像できたから答えたくなかったのに。……あと飲みかけをこっちに差し出すんじゃないっ。こぼれるぞ。
「……あれ、でも前の彼女さんとは別れたんじゃ…………」
「何で知ってるんだよ」
「秘密」
だから一体何の根拠だよ。そろそろ教えろ、直すから。
「で、でっ!」
「……これ以上は無しだ。俺だけの問題じゃない」
「ケチー。娯楽提供してよー。じゃないと課金街道フルマラソンするよ?」
「何だよその脅しは……」
全く意味分からん。お兄ちゃん怖い。……もしかして俺に集る気か? 強請る気かっ?
「はっ!? もしかして何か変化でもあったのっ?」
「……ねぇよ」
反論さえも疲れて短く答えつつコップにお茶を注いで喉の奥へ流し込む。次いで蛇口の真下に置いて栓を開け、零れないギリギリを狙って水を注ぐ────残念、溢れてしまった。
「なぁんだ……残念」
「何で紫が残念なんだよ」
「だって折角お兄ちゃんが真人間になれたのかと思って」
「……大きなお世話だ」
相変わらず遠慮の無いやつ。それでも本当に嫌な事には踏み込んでこない辺り弁えていると言うか、要領のいいことで。このまま悪女に育ったらどうしようか……。
そんな事を考えつつ鞄を持って部屋に上がる。と、居間を出ようとしたところで紫がいつになく真剣に声を掛けてきた。
「お兄ちゃん」
「なんだ?」
「もし本当に悩んでるんだったら、相談くらいは乗るから。遠慮なく言ってよね」
「……見返りを要求しないならな」
「それほど馬鹿じゃないよ」
「そりゃどうも」
妹の優しさに肩越しの掌で答えつつそれから自室に篭ってベッドに鞄を投げる。仰向けに倒れ込んで窓から差し込む夕日に視界を遮り静かな部屋の中で目を閉じる。
…………全く、妹にまで心配掛けてどうするんだ。兄貴失格だろうが……。
それもこれも、彼女の────俺の所為だ。
告白を、された。とても打算的で、愛など一切求めていない、仮初だけの関係を迫られた。俺ならば大丈夫だから。その弱みを利用された。
よくは分からないが、彼女は真剣だった。その事から考えれば、俺の心を利用したいほどに色々悩んでいるという事なのだろう。
普通ならば、頷いていた。彼女には借りがある。……借りかどうかすら曖昧な憧れがある。そんな彼女の願いならば、出来得る事なら二つ返事で叶えたい。
尊敬する先輩に頼られたのだ。嫌なわけは無いだろう。けれど、その問題が問題だ。……いや、それも判断材料の一つでしかない。
最も引っかかったのは、あの言葉だ。
────解決したいのよね、その体質みたいな心の問題
心の底から嫌いになれるわけは無い。しかし、あの瞬間だけは頭に血が昇ってしまった。
彼女だって分かっているだろう。デリケートで繊細な部分であることくらい。
そしてそれ以上に悪気が無かった事もよく分かる。彼女はただ、善意で協力してくれようとしただけだ。同情と、哀れみと、希望を抱いて。大切な後輩の力になりたいと、そう言ってくれただけだ。
……でも、それ以上に触れられたくない部分だった。だから今まで隠してきた。語ってこなかった。
だから……だから、胸の内が渦巻いたのだ。簡単に受け入れられなかったのだ。
今更な話だ。自ら過去を語っておいて、踏み込まれた事に拒絶する。矛盾している。
けれど、仕方の無い事だと許して欲しい。それくらいには俺にとって大きな問題なのだ。
「……答え、どうしようか…………」
誰に聞かせるでなく声に出す。言葉にすれば迷いの先に答えが見え、覚悟に変わると何かで読んだ気がする。
その言葉が本当だったのか、次の瞬間に少しだけ胸の内がすっきりした気がした。
夕食を食べ終えて自室で宿題をしていると部屋の扉がノックされた。次いで響いたのは妹である紫の声。
「お兄ちゃん」
「何?」
「本」
「あぁ」
短い会話。扉を開けて部屋に入ってきた彼女は、いつも括っているツインテールを解き、黄色いパジャマに身を包んで湯上りの匂いをさせながら本棚の前に立つ。
紫と暮らし始めてもう五年以上になる。近所では仲のいい兄妹として評判らしく、そしてそれは家の中でも変わらない。
だからこそなのか、年を経る事に互いの事をよく理解した結果、こんなところまで進化してしまった。きっと他人が聞いたら暗号にしか思えない会話だろう。しかし単語だけであっても、互いの目的が手に取るように分かる。
紫が部屋にやってきて本と言った時は少女マンガを読みたいときだ。
懸は恋愛と言うものが分からない。愛と言うものを理解出来ない。だからその教科書になればいいと、恋愛を主題にしている少女マンガをよく読んでいるのだ。他人に言わなければ別に恥ずかしくは無い趣味。それに意外と少女マンガは面白いのだ。……下手をすると少年向けよりも刺激的な物もある。
因みに紫は懸の体質の事を知っている。家族で隠し事をしてもいい事など無いと、恥を捨てて話したのだ。それ以降、何かあれば相談に乗ってくれるいい理解者であり、これ以上なく近い場所からからかってくれる敵になってしまった。
そんな心の病を治す一助にと買い始めた少女マンガ。ならばと紫が買う事をこちらに丸投げして、こうして時折部屋に来ては読みたい本を持っていくのだ。
「……あれ、葉菜色って一巻だけ?」
「あぁ。次本屋に寄った時にと思ってまだ買えて無いんだよ」
「そっか。……まぁいいや。買ったら教えて?」
「分かった」
言いつつ葉菜色──『葉菜の色は』を抜き出した紫がそのままベッドに腰掛けて本を開く。どうやら今日はここで読んで行くつもりらしい。まぁ一巻だけだしな。
紫は本を読むのが遅い。普通ならコミック一冊を15分から30分。文庫なら2時間から3時間程度が一般的な尺度だろう。しかし紫は基本その倍の時間を掛けて読む。
前に理由を訊いたときには、文字だけではなくそれ以外をちゃんと読んでいるのだと力説された。漫画なら背景などや隠された小ネタ、小説なら行間と言う事になるのだろう。
もちろんそれらを読みつつ一般的な平均で読み終える人たちも沢山いるだろう。
ただし紫の場合は更にその先…………一度読んだ話を一回で九割覚えてしまうらしい。なんでも二度以上同じ話を読む時間がもったいないのだとか。だったらその時間を別の物語との巡り合わせに使いたいと言っていた。
もちろん瞬間記憶能力のような特例ではない。だからページを絵として覚えているわけではないため、読み終えた後に何ページ目の何コマ目の誰々の台詞は何、と問うたところで紫はそれに直ぐに答えられない。しかし物語を流れとして確かな時系列で整理し理解しているらしく、時間を掛ければ「その時はこんなキャラが、この話の流れで、作中のこの場所の、この時間、誰と一緒に、誰に向けて、こんな仕草と共に、こんな表情で、こんな言葉を使っていた」程度の、いわゆる5W1Hに相当する部分まで細かく理解が残っているらしい。
それを、殆ど混ぜずに幾つもの物語を平行して記憶している、と言うのが紫の自慢だそうだ。曖昧な表現だが、いい記憶能力、程度のものだろう。
だから教科書の内容を全て覚えて試験の解答に流用する、と言う事が必ず出来るわけではない。しかし流れとして覚えていればいいらしく、特に歴史の年表などは殆ど頭の中に入っているのだとか。……確かに歴史も大きな括りで見れば地球と言う本の完結する事の無い物語か。
それをほぼ一回で覚えられると言うのだから羨ましい限りだ。
だが、少しデメリットも存在する。それは自分の世界に入ってしまう事だ。
どうやら意識して感覚を切り離し、本を読んでいると言う実感すら無くなるほどに手元に没入しなければならないらしい。何でももう一人の登場人物として自分がそこにいるかのように錯覚するのだとか。だから本を読んでいる紫に話し掛けても返答は基本ない。それどころか、ページをめくる音すら邪魔になるらしく、彼女の読書は静寂を作り出すのだ。自分が作り出した異音があると集中出来ないと言っていた。
……なんとなくだが、色々考えた結果それなりな納得を懸は見つけている。
恐らく紫は物語を音や音楽として認識している。読んでいる時に入ってくる微かな音を無意識に関連付けて記憶しているのだ。
その根拠の一つに、紫は物語を問われて思い出すとき、その読んだ状況下を脳内で思い出すらしい。現実に紐付けされた記憶と言うわけだ。
この話を読んでいるときは、あの場所であの人が傍でこんな話をしていた。あの話の時は遠くに電車の音が聞こえていた。そんな記憶の仕方をしているのだと言う。
だからなのか、よく何かの音のする場所で本を読んでいる。今回もその例に漏れず、懸が勉強する音をどこかで記憶しながら関連付けているのだろう。
そこでふと疑問に思って、前に訊いたことがある。彼女はよく懸の部屋で読んでいる。当然同じように勉強をしていた事も何度もある。と言うか彼女に声を掛けても返らないから、懸も勉強に集中して他の事をしていない。ならばどこかで記憶が混ざってしまうのでは、と尋ねたのだ。似たような音ばかりなのだから記憶が混濁するのでは、と。
すると彼女は恐ろしい事を口にした。曰く、話毎に音が違うと。ある時は英語の勉強をしていて、滑るようなペンの音が記憶に残っているとか。ある時は物語の一番盛り上がるところで懸が座っていた椅子が微かな軋みを上げたとか。はたまたペン先でノートを叩く音や、勉強が終わったときの溜め息を覚えているなどと言ったのだ。……我が妹ながらちょっと引いた。なにその特技。
別に絶対音感があるわけでもないとの事。ただ、そんな微かな音を物語の要所と関連付けて覚えているのだそうだ。
原理的には生体認証と似ているだろうか。あれは特徴を複数データ化して保存し、それと照合する事で本人かどうか見分けているらしい。それと同じように、物語の中に幾つかのポイントを作って、その時に聞こえた音をゲームのセーブ機能の様に分割して、けれども連続的に記憶しているのだろう。
また、だからこそ物語が頭の中に入っていて。好きなときに好きな物語の好きな場面を追憶出来るのだとか。だから同じ本は二度と読まないのだ。
全く以って不思議な妹だ。家族でありながら少しだけ理解の及ばないところにいる少女だ。
……もし同じ血を引いていたのなら、懸にも似たような特殊能力が備わったのだろうかと少しだけ考える。もしそうならどれだけ要領よく生きられる事か。彼女が羨ましい。
勉強の手を止めて、既に物語の中へ自分を投じているらしい紫を一瞥すると、それから小さく息を吐いて思考を切り替える。
懸にとっても彼女がそこにいるときは何故か勉強効率がいい。今の内に出来る限り宿題を終わらせるとしよう。
そうしてしばらくシャーペンを走らせれば時間が瞬く間に過ぎ去って。気付けば早くも一時間経過した頃に背後で小さな気配。振り返れば本を読み終えた紫が少し疲れたようにベッドに身を預けて天井を眺めていた。
「どうだった?」
「……うん、面白かった」
いつもの感想。多くを語らない紫は、何かを噛み締めるように目を閉じて物語を反芻する。やがて腹筋をするように置きあがろうとして……やめたらしい彼女は、のそりと立ち上がり本棚に戻す。
そんな彼女の横顔に、気付けば声を掛けていた。
「紫、ちょっといいか?」
「なに?」
「相談なんだが」
────もし本当に悩んでるんだったら、相談くらいは乗るから。遠慮なく言ってよね
学校から帰ってきて彼女に言われたその優しさに甘える。
と言うのも、相談してもいいくらいには心の整理がついたのだ。多分勉強したからだろう。
これもなぜかは分からないが、懸は勉強をすると少し落ち着く。別に勉強が特別好きと言う事はないのだが、頭を使う事で一度クールダウンして客観視ができるようになるらしい。そう言うものなのだ。
「……恋愛感情のない告白、と言うか別の目的のある交際ってありだと思うか?」
「なにそれ」
「ほら、漫画でもよくあるだろう。偽装カップルとか、そう言うのだ」
「……大変なだけじゃない?」
これ以上ないくらいに冷静で平坦な意見に何かを削がれる。
「それって試しに付き合うとか、そう言うのじゃなくて?」
「あぁ。互いに別の目的があって、その方法論として付き合うって言う話だ」
「ん~…………」
悩んでいるのは何か参考になりそうな物語を探しているからなのか。それとも彼女個人の見解を組み立てている最中なのか。
やがてしばらく沈黙を挟んだ紫は、真剣な瞳で告げる。
「えっと……怒らないでね?」
「あぁ」
「あたしには関係ない。だから勝手な事を言うけど、納得してるならいいと思うよ」
「納得ねぇ……」
「お兄ちゃん得意でしょ? 理由や言い訳があればいいんだよ」
今年で中学三年生……まだ14歳とは思えない回答に助けられて自分に問う。さて、俺はどうしたい。何が嫌で、何を求める……?
その答えが、なんとなくぼんやりと浮かび上がる。整理された心が答えのような何かを見つける。
「…………ん、そうだな。ありがと」
「また後で聞かせてね?」
「だから人の恋愛を娯楽にするな」
相変わらずな妹に呆れれば、笑い声を残した彼女が部屋を出て行く。
……しかし相談すると……口に出すと意外とはっきりするものだ。
足りないのだ、情報が。兵士が12人の王女から一人を選べなかったように。判断に足る理由がない。
だからもう一度……今度はしっかりと話をするべきだ。その上で、今ある決心が揺らがないならその答えを返すとしよう。
時間はあっという間に過ぎて行く。悩みと決断の葛藤で揺れながら授業を受ければ、気付けば週末……演劇祭の打ち上げ当日になっていた。
演劇祭の放課後以降、愛とは一度も面と向かって話をしていない。一回だけ、教室移動の最中に擦れ違いはしたが、それだけだ。
別に避けていたわけではないのだが、答えが出るまでなんと声を掛けていいのか少し手を拱いていた感はある。その事に心は気付いていたようだったが、特別何かを言う事もなく普段通りに接してくれた。
心と言えば、彼女の抱える問題。解離性同一性障害……二重人格の方で、二日前に一度心が出てきた事があったらしい。なんでもクラスの女子での恋バナに巻き込まれたのだとか。不可抗力で、仕方ない。懸だって四六時中彼女の傍にいられるわけではないのだ。
しかし、心も慣れているからその場はどうにか切り抜けてくれたようで。後から女子の恋バナは少し怖いと愚痴のような何かを零していた。
そんな彼女に、それから未だに懸の足を気にしている恋と、今回の演劇祭の立役者の一人である愛も加わって、滝桜市の中にあるカラオケをほぼ全室ジャックして打ち上げが始まった。全員参加ではないとは言え半数の五十人近くが名乗りを上げたのだ。物量とは恐ろしいと、ある種幹事のようなものを押し付けられた身として配分と予約取りにはちょっと疲れた……。
懸の部屋は他に、愛、依織、心、亜梨花が顔を並べ、愛は三年生の友人たちと別室。これは愛の意見で、参加表明に合わせて可能なら懸と別室がいいという彼女の言葉を尊重したためだ。
さすがに打ち上げの場で空気を微妙にするわけにはいかない。そんな思いと、それから話なら打ち上げ後に出来ると言う約束があっての事だ。
……まぁそれまではとりあえず目の前に集中。今は今を楽しむに限る。
どうでもいいが、心はそもそも懸達のグループではないのだが……今更な話か。彼女には随分世話になったし、幼馴染特権で見逃すとしよう。
「あ、これあれだ。えっと、日曜の朝の……」
「せいかーいっ! 一緒に歌う?」
「もちろん、パスでっ」
「ダメかぁ」
そんな部外者な心が依織の選曲に反応を見せる。……しかしよく高校生にもなって日朝の、しかも女児向けアニメのEDなんて入れられるな。尊敬するよ。
因みに懸は何となく聞き覚えがある。確か前に依織に言われて一度だけ見た事があったか。彼曰く、女児向けと侮る事なかれ、との話だ。いや、別に作品事態を貶したつもりはないんだが……。
考えていると、女性ボーカルだったはずのそれをどこまでも楽しげに歌い始める依織。恥じらいなど微塵も感じさせない、堂に入った歌声に、軽く戦慄すら覚える。同級生を目の前にそこまで貫けると本物だよ……。
向かいで心がノリよくタンバリンを叩く。お前も大概だな。
「長松君、曲入れた?」
「いや。藤宮さん先にどうぞ。……使い方分かる?」
「べ、勉強してきたからっ」
隣に座る愛。彼女はお嬢様と言う威容を振りかざす──機械音痴だ。目に見えない電気が怖いらしい。一体いつの時代を生きているのだろうか。
飲み物を口につけつつ視界の端で伺えば、タッチペンを片手にディスプレイとにらめっこ。慣れなければ文字の入力にも苦戦するらしい。確かガラケーではなくスマホを使っていた気がするが、普段は一体どうしているのだろうか……。
「あれぇ……同じ名前の曲がいっぱい…………」
「アーティストの名前は?」
「……誰、だっけ?」
訊かれても。
「じゃあ歌い出しとか歌詞で覚えてるところは?」
「ん~と…………」
このままだと知らない曲を入れて、マイクを握りしめ慌てる様子が目に浮かぶようだったので助け舟を出す。と、仏を見たりといった様子で端末ごとこちらに預けてくれた彼女に代わり望む楽曲を予約に入れる。懸も知っている曲で、確かドラマの主題歌になったんじゃなかったかな。
続けて自分の分を、と頭の中にレパートリーを浮かべつつ少し悩む。それとほぼ同時、息を切らして一曲歌いきった依織がスイッチの入ったままのマイクを握り液晶に向かって叫ぶ。
「どやっ!」
疲れているのは、踊っていた所為だろう。よくそこまで全力で振りきれる物だ。まぁ見ている分にはいい道化で楽しくはあるけれども。
と、出た点数は67点と言う微妙なもの。……いや、熱は伝わったから。本人が楽しければそれでいいのだろう。
まるでひとっ走りしてきたように息を落とす依織が腰を下してドリンクを煽る。その間にも次の曲が流れ始め、亜梨花が座ったままマイクを構えていた。
次いで広がった、先ほどの依織とは雲泥の差の歌声。随分と歌い慣れている様子の、確かな芯のある歌唱に思わず手を止めて視線を奪われる。腹式の、歌い方を知っている声だ。
彼女がここまで上手だとは知らな……いや、そう言えば心が前に言っていたか。亜梨花は歌姫だと。確か中学の頃は合唱部でアルトを担当していたはずだ。
「す、ごいね……」
隣の愛が圧倒されたように短い感想を零す。何をどう言えば彼女の歌声が素晴らしいと表現出来るのか。それを考える事さえ無粋なほどに上手な歌。これは確かに歌姫だ。ギャルっぽい見た目とのギャップがすさまじい。
最早息さえ忘れた懸達を置き去りに部屋の空気を掻っ攫う亜梨花。けれど当人は気にしていないのか、ただ歌詞の流れる液晶をじっと見つめて歌を歌う。……と言うか座ったままか。立たずにこの安定感は一体どう言う事なのだろうか。
そんな事を考える懸を心が見つめている事に気が付く。交わった視線に、何故か彼女が得意げに笑う。……確かにこんな親友がいれば自慢したくなる気持ちは分かる。
やがて心が満足そうに体を揺らしてメトロノームのようにリズムを取り始める。そこでようやく、今彼女が歌っているのが去年の年末の歌番組で歌われていた中の一曲だと思い出した。
他を黙らせるほどの歌唱力に喉が渇くのさえ忘れて。それから一曲歌い終わった亜梨花が小さく息を吐けば、それをスイッチにしたように懸達が我に返る事が出来た。
「あーちゃんさすがだねぇー」
「ありがと、心」
よく二人でカラオケなどに行っている事は知っている。だから心にしてみればいつもの事なのだろう。賞賛に答える亜梨花も心なしか嬉しそうに笑みを浮かべる。
可能ならば続けてもう一曲……いや、一曲と言わず許される限り聞いていたいと考えるのと同時。液晶に映った97点と言う懸の得意教科の点数よりも上な評価に何かを諦める。
彼女は次元が違い過ぎる……。別に勝負を仕掛けるつもりはなかったが、別格過ぎるだろうと。
「まじかぁー……すげぇな、桔梗原さん」
「…………普通よ」
素直な依織の賞賛に、顔を逸らしてそっけなく答える亜梨花。多分謙遜とかではなく、本心なのだろう。でなければ心が持ち上げるような事はしないはずだ。
意外な一面を知ってしまったと彼女の認識を少し改める。と、直ぐ隣の愛が視界の端に入って、小さく声を掛ける。
「……大丈夫?」
「…………が、頑張ってみる」
うぅん、さすがにこの流れでカラオケ初心者へのバトンは荷が重いだろう。これならば先に懸が入れて道化を演じておけばよかったと少し後悔する。
考えている間にも入れた曲が始まって前奏が流れ始める。遅れて立ち上がったところで、壁にあったスピーカーにマイクが近寄った所為か、小さくハウリングを起こした。
驚いて跳ねるように取った距離で直ぐに収まったが、代わりに曲の入りを逃す。直ぐに気付いた愛が慌てて歌詞を追いかけて発声する。
そうして響いた声。緊張が聞いて取れる不慣れな音だが、けれど透き通った鈴の音のような彼女のソプラノが個室の色を変える。
亜梨花ほどに慣れてはいない。けれども聞き取りやすい優しい声が反響して、目に見えない空気を優しく彩っていく。サビに入れば、懸も聞き覚えのあるメロディに愛の自信が乗っかって確かな響きに変わった。恐らく記憶と噛み合ってリズムを取り戻したのだろう。
声に芯が通って彼女の歌声になる。初心者とは思えない原石。今日を始まりに歌い続ければ、きっと亜梨花にも劣らない美声を響かせる未来が想像として過ぎる。
67点が既に観葉植物と同じ置き物となっている傍らで、亜梨花は少し驚いたように愛を見つめていた。
そうして曲が二番に入ったところで愛が慌て始める。その理由に気付いて……ここは仕方ないと曲を中断した。
「……ふへぇ…………二番あるの忘れてたよ……」
「だと思った」
「ありがと、長松君っ」
批判も覚悟したが、どうやらいい方に転がったようで。まだスイッチの切れていないマイクを握ったまま疲れたように腰を下す愛。途中やめになった事で点数は表示されなかったが、知った歌でハプニングもなく最後まで歌えたならきっといい点数が出るだろうと少しだけ想像を馳せる。少なくともそこのオタクよりは上なのは確実だ。
などと考えていると懸の順番。亜梨花の歌唱力、初心者の愛と、波乱の一室だが楽しい事に違いはない。ならば懸はいつも通り自分でいるだけだ。
それから楽しみ方を見つけた懸達の部屋は大きな問題が起きる事もなく盛り上がった。
歌唱力はダントツな亜梨花。少しずつ慣れてきて美声を披露してくれる愛。盛り上がり要因と緩衝材の67点。この面子では当たり障りのない心と懸。途中からは一緒に歌えそうな曲も探して、二本のマイクが楽しい音を響かせた。
息が合っていたのは心と亜梨花の二人。よくカラオケに来ている二人はレパートリーにデュエットもあったらしく、元気な心とそれを包むような亜梨花の声が強く印象に残った。
……あと愛が演歌なら一曲歌いきる事が出来ると途中から分かった。なんでも彼女の父親が好きらしく、子供の頃から聞いて育ったお陰で擦り込まれていたらしい。とは言え流石に華の女子高校生が同級生の目の前で演歌は恥ずかしかったらしく、歌ったのは二曲ほどだった。
そんな楽しい時間はあっという間で。時が経てばドリンクなども減っていく。
「懸、俺のも頼むっ」
「何がいい? オリジナルブレンド?」
「やめろっ。炭酸じゃないやつ」
「あいよ」
もう三度目になるおかわり。そろそろトイレが視野に入ってくる頃合いか、などと思いつつ戻ったら何の曲を入れようかと少しだけ悩む。依織が乗り気なら男二人で歌ってみるのも楽しいかもしれない。
と、コップを両手にサーバーまでやってくると、偶然窓から外を眺める愛を見かけた。それとほぼ同時、こちらに向いた彼女と視線が合って、少しだけ沈黙が流れる。
「……先輩もおかわりですか?」
「…………ちょっと休憩よ」
どうでもよさそうな話題を振れば、僅かの間の後に答えてくれた愛。次いで小さく息を吐いた彼女が口を開く。
「そっちはどうかしら? 楽しい?」
「その訊き方だと逆の邪推をしますよ?」
「別に居心地が悪くて部屋を出てきたわけじゃないから」
言葉は、本心か。と言う事はお手洗いにでも立っての帰り道だったのだろうかと。
「主役を演じても体質は変わらないようね」
「もしそうだとしたら、その責任は先輩にありますからね。中学の頃から散々パシらせてくれたんですから」
「お陰で先生の評価はよかったでしょう?」
「稼がないといけないほど困ってませんでしたけれど」
両手に持ったコップに向けた視線。続いた言葉に反論すれば少しだけ疲れたように笑った彼女。もしかして要らぬ焦りを与えてしまっただろうか。
けれどあの場で直ぐ答えを返せるほど簡単ではなかった。その間に流れた時間に、彼女は不安になったのかもしれない。もしそうなのだとしたら、責任は懸にある。
「それに、本当に嫌なときは嫌だって断りますから」
「…………そう」
少しだけ滲ませた別の話題。それに気付いたらしい愛がじっとこちらを見つめる。
やがて何かを覚悟したように唇を噛んだ彼女が、擦れ違い様に小さく零す。
「また後で」
「はい」
静かに返せば、依織のドリンクを持って部屋に戻る。と、外開きで開けられない事実にどうしようかと逡巡。流石に蹴って知らせるわけにはいかないしなぁ……。
中では依織が熱唱中。そんな彼に視線が向いている中で、一人亜梨花がこちらに気付いて振り返る。
交わした視線。……けれどもなぜか一回無視されて、その後仕方なさそうに扉を開けてくれた。何で一回見なかった振りしたんだよ。
まぁ別に怒るほどの事でもないかと。心以外には基本厳しい彼女の通常営業だと思いつつ腰を下す。隣ではまだ少し不慣れに愛が端末と格闘していた。
「……大丈夫?」
「…………じゃない。ごめん、助けて」
葛藤の後、申し訳なさそうに笑う愛。頼ってもらえるだけ仲がいい証か。
彼女の今日の目標は点数よりも端末の操作方法を覚える事かもしれない。そんな事を考えながら彼女の曲をリクエストして、それから丁度終わった依織に向けて喝采やら声援のボタンを連打する。
「ぅおいっ、煽るのやめろっ!」
「いや、ライブ感あるかと思って」
「ねぇよ、合唱曲だぞこれ!」
「なら一人で歌うなよ、寂しいやつ」
「だったら一緒に歌ってくれよっ」
分かる曲を入れればその誘いだって悪くないのに。どうしてこう我が道を突き進むのだろうか、俺の親友は。
「あ、これっ」
「萩峰さん知ってる? 一緒にどうかな?」
「坂城君、マイク、ヘイパァスッ!」
「ん、おう」
くだらないやり取りの間に流れ出した次の曲。反応したのは心で、依織の手からマイクを奪った心が愛と距離を詰めて歌い始める。アグレッシブだなぁ……でも賑やかなのはいい事か。楽しいしな。
そんな騒がしい空間で打ち上げとは名ばかりのただの楽しい時間を堪能して。時間的にもう一曲は無理だと、予定していた時間より少し早く部屋を出てロビーに向かえばそこには既に恋と同室だったらしい一年生達が一組だけ来ていた。
顔を見つけるや否や、変わらない快活さで声を掛けてくる彼女。
「あ、先輩っ。お疲れ様です!」
「部活じゃないんだからその挨拶はどうなんだ?」
「すみません、先輩の顔を見るとつい癖で……」
彼女とバドミントンをしていたのは二年だけだったが、確かにそう思えないくらいには濃密な時間を過ごした記憶はある。だから懸も、元気で愛らしい後輩の事は大切で、今もこうして仲良くしているのだろう。
「そう言えばわたし、先輩の歌聞いた事無いですっ」
「また機会があったらな」
「はいっ」
大きく頷く仕草に揺れる、彼女のトレードマークでもあるショートポニーテール。今日は赤色のリボンで括られていた。
犬のように慕ってくれる彼女の事を無碍には出来ない。それに、思い返せば彼女と二人きりでどこかに遊びに行ったり……と言う記憶は殆どない。彼女が望むならその願いを実現するのも悪くないだろう。彼女との時間は楽しい事間違い無しだ。
「先輩達の方はどうでしたか?」
「依織が煩かったのと、歌姫が二人いたな」
「ほぇー……。それは羨ましいです」
それは歌が上手い事が、なのか。それとも上手い歌を聞ける事が、なのか。まぁ、間違っても依織に対する感想ではないだろう。
「あ、比較はしないでくださいね。わたしは普通ですからっ」
「なら八重梅と行くときは採点機能なしで歌うか?」
「そんな事出来るんですかっ?」
「知らなかったのか?」
「はいぃ……」
愛ほどではないのだろうが、彼女も機械には疎いのかもしれない。それはそれで彼女の魅力かもしれないが。
他愛ない話と共に約束を確かめていると、やがて続々と滝桜の生徒達が姿を現す。流石にロビーでたむろして他の客の邪魔になると悪いから、直ぐに清算して解散となった。
この後は各々自由行動だ。部屋を出る前に訊いた限りでは、依織は帰って見たい番組があるらしい。恐らく夕方帯のアニメだろう。愛は家の用事があるとの事で、ここでお別れだ。心と亜梨花はここから二人で遊びに行くらしく女の子同士の空間に首を突っ込むのも気が引けたので誘いは遠慮した。
「先輩はこの後ご予定はありますか? もしよかったらわたしと遊んでもらえたら嬉しいなって思うんですけど……」
「あー、悪い。先約があるんだ。また今度八重梅の都合がつく時に誘ってくれるか?」
「そうですか……分かりましたっ。ではそれまでに計画を立てておきますっ」
「デートか?」
「先輩がお望みならっ!」
もしかして薮蛇だっただろうかと。返す言葉に詰まれば、どこか上機嫌に笑った彼女が、それから別れの挨拶を告げて駆けて行く。その背中を見送れば、タイミングを図っていたように声を掛けられた。
「逃げるかと思ったのに」
「……どう答えるにしても誠実さだけは忘れるつもりはありませんよ」
声に振り返ってそこにいたのは愛。少しだけ空いた距離は彼女の葛藤から生まれた心のそれか。
「菊川さんは……兵士君と抜け駆け?」
「ご期待に沿えずすみません、生徒会の仕事です」
「おっと、それは失礼っ」
愛を誘いに来たのだろう三年生の言葉に咄嗟に答える。こう言うその場限りな受け答えは愛と紡いだ関係の中で身についたものだ。
友達なのだろうその女子生徒の額を笑って小突いた愛と共にゆっくりと歩き出す。
「……助かったわ」
「嘘にはちょっと抵抗がありますけれどね」
「なら嘘にしなければいいでしょう? 丁度見ておきたい物があったのよ」
「それは先輩の私物では?」
「生徒会の仕事で使えば嘘じゃないでしょう?」
そんな屁理屈を……。とは言え正当化の理由が出来るならそれは構わないかと。考えながら彼女について歩き出す。
しばらくして辿り着いたのは枝垂駅構内だった。
人の出入りの多いこの場所には、様々な店が入っていて時間潰しには丁度いいところだ。その一角にあった書店に足を運ぶ。
「本を備品と言うには少し無理がありませんか?」
「ここ、奥に100均が併設されてるのよ。何か買うなら好きに見て来たら?」
「でしたら俺は本の方に用事がありますね。妹に買って来いって急かされたので」
「だったら後でここに集合ね」
「分かりました」
傍から見ればデートにも見えるかもしれないが、今のところ互いにそんな気はしていない。それよりも互いの胸にあるのはいつその話題に触れるのかと言う微かな緊張感だけ。……そう言う意味では色恋に絡むのかもしれないが、打算的な先輩と恋愛の分からない後輩とでは色気がなさ過ぎる話だろうと。
普通ではない。そう自覚しながら『葉菜の色は』の二巻……と、三巻も一緒に買う。前に依織が言っていた。漫画は三巻で小説一本分だと。だからよく三巻区切りで物語が纏まっているらしい。……まぁ嘘だったら後で依織をしめておけばいいだろう。それに、彼のおすすめと言う事もあって面白かった。だからこうして続刊を買っているのだ。どうせその次も買うのなら、彼の言っていた事が当たっているか試してみるのも面白いかもしれない。
因みに既に少女マンガを買う事への羞恥心は無い。慣れとは悲しいものだ。
読むのは宿題が終わった後にしようかとある種のご褒美にしつつ集合場所に戻れば、既に買い物を終えたらしい愛が待っていた。
「お待たせしました。先輩は買い物早いんですね」
「偏見は身を滅ぼすわよ」
心のお陰で長い買い物に付き合う事には慣れているが、それは人それぞれかと見識を改める。
そう言えば彼女は普段から行動が早かったように思う。即断即決有言実行。一度決めた事を迷うような事は殆どなく、無駄もあまり挟まない。あまり型に嵌めて考えるのはよくないかもしれないが、理系の彼女らしい現実的な性格かもしれない。
「他に何かありますか? この際ですから付き合いますよ」
「……そう言えばそろそろお米がなくなりそうだったのよねぇ」
そう言う意味ではなったのだが……まぁいいか。それだけ信頼されていると考えれば少し気も楽になる。
「ちょっと歩くけれどいいかしら?」
「構いませんよ」
だったら本を買わなければよかったと思いつつ、覚悟を決めて彼女について歩き出した。
彼女がよく買い物に来ると言うスーパーで買い物をする。彼女曰く安くて家に近いところがポイントらしい。
努力の垣間見える愛と共に店内をぐるりと一周して食料品を買い求める。米は、悩んだようだったが懸がいるからと10kgの物を購入していた。別に腐る物でもないしいいけれど、大概遠慮がないですね。
口で悪態を吐くのも自ら言い出した手前格好悪い気がして少しだけ視線に乗せておく。
10kgなんて普通に持つ分には軽い荷物だ。しかしそれを持ち、運ぶとなれば話が変わってくる。特に米なんて上手く持たないと重心が動いて体が振られる。かと言って袋に入れると重さの全てが取っ手の部分に掛かって手が痛い。
必然、袋に入れたまま、胸の前で抱えて運搬する破目になった。
愛の住むマンションに辿り着けば自然と吐息が零れる。
「……あまり目に見える反応されるとわたしが悪い事押し付けてるみたいだからやめてもらえる?」
「どこまでサディスティックなんですか…………」
「失礼ね。ノーマルよ」
本物は自覚なんてしてないものですよ、先輩。そう言葉にし掛けて、それより数瞬早く彼女の部屋に辿り着く。
「米びつの近くに置いておいて貰えるかしら。あと何が飲みたい?」
「何がありますか?」
今更気兼ねなどするものかと。二度目になる彼女の部屋への訪問にあまり緊張する事なく問い返す。
「お茶と、紅茶と……ココアね」
「紅茶で」
「水ね」
「せめて沸かしてください」
「じゃあ白湯ね」
おしい。後もう一手間なのに……。
などとどうでもいい会話をしつつ、前来た時と同じ場所に腰を下せばやかんを火にかけた愛がカステラを用意してくれた。
「食べられる?」
「ありがとうございます。いただきます」
心地のよい間。いつもの彼女との距離感に少しだけ安堵する。場所が変わっても、彼女は変わらない……。
と、考えた次の瞬間、愛が着ていた薄いカーディガンを脱ぎ始める。直ぐに他意のないただの着替えだと気付いたが、脳は勝手に視線を逸らす命令をくだしていた。
「……やめてくれる?」
「こっちの台詞です」
何でこう彼女は一々責任を丸投げしてくれるのだろうか。信頼されて嬉しいやら男として情けないやらで複雑な気分だ。
「というかここまで躊躇いがなかったわね。自然すぎて今更びっくりしたわ……。慣れてるの?」
「自慢じゃありませんが妹以外では女性の部屋は先輩が初めてでしたよ」
「…………ヘタレ」
「そうじゃなかったら今ここにはいないですよね?」
「そうね」
認めているのか認めたくないのかはっきりして欲しい。一体懸に何を望んでいると言うのだろうか。
授業の応用問題よりも難しい気がする設問にぶつかったような錯覚に陥る。と、次いで響いた沸騰を知らせる音に思考が奪われて、どうでもいい疑問がどこかへ消えた。
紅茶を用意すれば、ようやく二人腰を落ち着ける。
「……全く、面白く無いわね」
「俺は先輩の何なんですか……?」
「可愛い後輩よ?」
どう言葉を次げばお気に召す返答になるだろうか……。そう考えた直後、紅茶を飲む愛が少しだけ笑っている事に気がついた。
「……どうかしましたか?」
「いいえ。ただ……まるで恋人みたいだと思って」
「先輩の彼氏になる人はきっと苦労するでしょうね」
「どう言う意味かしら?」
「先輩が無自覚にもほどがあるって事ですよ」
どうやら意味の通じなかったらしい愛が小さく首を傾げる。仕草に長い髪が一房、するりと首筋を流れる。行儀悪く机に片腕を突いてカップを傾けるその下には、僅かに覗く白い鎖骨。
……これだけ無防備で誘惑していないと言うのだから恐ろしい話だ。
「そう言えば本、何買ったの?」
「漫画ですよ。二巻からですけど」
「それは残念ね」
一巻からだったなら読む気だったのだろう。……チャンスを逃さない貪欲さは先輩を慕う後輩として見習うべきだろうか?
なんて、そんな話はどうでもいいわけで────
逃げ回るように次から次へと話題を提供してはぐらかし続ける愛にそろそろいいだろうかと視線を送る。すると彼女はようやく観念したらしく、カップを置いて深呼吸をした。
彼女にしてみれば一世一代の告白……にも似た蛮行なのだろう。信頼する後輩の事情を知って、それさえも利用して己の安息を貫こうとした我が儘。形振り構わない堅実とも暴挙とも思える選択は、彼女が彼女足り得る証だろう。
そんな提案に、懸は保留を返した。しっかりと悩んで、答えを返すと誓った。
その、愛にとっての審判のような一瞬を、ようやく目の前に突きつける。
「……いいわ、聞かせてくれる? 恋人役、引き受けてくれるかしら?」
「はい」
「……………………そう。で?」
続いた音に、彼女の本音を聞く。もしそう続かなければ、例え幾ら謗られようとも掌を返していたところだ。
試すような間を紡いだ事に、胸の内で謝りながら続ける。
「条件があります」
「いいわよ」
「聞かないうちに判断するのは早計ではないですか?」
「例え馬鹿を見るのだとしても、それ以上の失礼を先に働いたのはわたしだもの。……もし懸君がわたしの体を望んだとしても、それは素直に受け入れるわよ?」
「だからこそ了承したんです。先輩は、毅然なようで危なっかしいですからね」
懸が覚悟と理由を見つける裏で、仮に断った場合どうなるのかと想像を巡らせた。その時に真っ先に浮かんだのが、どこまでも現実的に、目的のために手段を選ばない彼女の姿だったのだ。
優秀で、尊敬するべき先輩だ。だからあまり悪く言うつもりはないのだけれども……。時折彼女は危険だ。
理知的だからこそ、その判断で信じた物は貫き通す。その危うさと、どうにか結実して来た結果が今の彼女を形作っている。
自慢にはならないだろうが、そんな彼女を中学の頃から支えてきたのだ。その側面を知っているから、恋人役を受けたいと言う欲求よりも、受けなければならないと言う義務感のような物が勝った節は、確かにある。
けれども、それだって立派な決断。一度決めた事を、男だから、何て古臭い理由を振りかざすわけではないけれど……自分の選んだ道を疑うなんて事はしたくないから。だから理由はどうあれ、決めた道は振り返らずに突き進むだけだ。きっとそれが、愛も恋も分からない懸にとって一番誠実な答えだから。
「先輩、あの屋上でいいましたよね。もし許すなら俺の心の問題に協力するって」
「えぇ」
「なら協力してください。約束してください────これ以上、その話題に触れないと」
果断に強い視線で射抜いて告げる。それが懸の出した譲歩だ。
信頼はしている。信用もしている。彼女以上に頼れる年上は、他には知らないほどだ。
だからこそ、頼ってしまえば彼女は生来の性格で、本気で手を貸してくれるだろう。慈悲でも、哀れみでも。彼女自信が良かれと思って懸の我が儘に付き合ってくれる筈だ。
……それが、我慢ならない。
懸を理由に、何かを浪費して欲しくない。例え好意でも────俺にとってのそれはありがた迷惑だ。
何より、これは懸自身の問題。
心の解離性同一性障害を理解するときに学んだ。精神の問題は、他人が軽はずみに手を出してはいけない。
だから彼女には、知らぬ存ぜぬで通して欲しいのだ。
「先輩だって一人でどうにも出来そうにないから俺に頼ったんですよね。なのに俺の問題にまで首を突っ込むなんて、少し傲慢が過ぎませんか?」
「…………そうね。悪かった。心の底から謝罪するわ。ごめんなさい」
流石にここまで明確に拒絶すれば、彼女も分かってはくれたのだろう。
誰にだって、触れられたくない部分は存在する。懸にとってのそれが恋愛観の話で、心にとっては解離性同一性障害で、愛にとってはパーソナルでプライバシーなこの部屋の中での事。きっとそれは、愛にも、恋にも、依織にだって、亜梨花にだって存在する。
その一端に触れただけのこと。けれどそれは、おあいこだ。
懸だって前に彼女の秘密にしておきたい部分の傍を素通りした。それが今回、逆の立場だっただけ。
「その上で、約束するわ」
「……ではこれでこの話は終わりです。そしてこの瞬間から、俺は先輩の彼氏ですね」
「…………全く、何て実感のない恋人関係かしらね。こんな有り触れた雑談みたいな始まり、話にすら聞いた事無いわよ」
懸は恋愛が分からなくて。愛は仮初の関係だと割り切っていて。色恋の華やかさなど微塵も感じない曖昧で不確かな関係に、それから二人で笑みを零す。
「俺も初めてですよ。それこそ、恋愛が理解出来そうなほどに心が躍ってます」
「…………懸君って大概根に持つわよね?」
「さて、何の話ですか?」
最初で最後の自虐と約束の反故に、言葉を探した愛が悪態を落としてくれた。それくらいには怒っていたのだ。そろそろ無自覚なプライバシーの侵害を見つめなおしてくださいね。
「……まぁいいわ。…………はぁ、安心したらちょっとお腹が空いてきたわね」
「そこは胸一杯にはならないんですね」
「セクハラよ」
……常々思うのだが、その結論に至る彼女の思考回路が一番破廉恥なのではなかろうか。恋人として彼女のことが少し心配だ。
などと考えていると追加でスナックの袋を持ってきて開け始める愛。普通そこは彼氏を目の前に隠すところじゃないんですかね。色々価値観が逆転してませんか? 一人暮らしの所為ですか?
「それで、基本的には後輩業の合間に先輩の呼び出しに面を貸せばいいんでしたっけ?」
「そうね。今のところその予定はないけれど……何かあれば連絡するわ」
「周りにはどの程度話しますか?」
「訊かれたら答える程度でいいんじゃないの?」
「臨機応変にって事ですね。分かりました」
残念、気取った言い回しはスルーされてしまった。彼女の琴線には触れなかったか。
相変わらずよく分からない先輩だと。これ以上があるなんてそれこそ不可思議な話だが、きっとこの偽者の恋人関係が齎す新たな発見もその内あるのだろうと思いながら。
そうして少しだけ他愛ない話をした後に彼女の部屋を後にする。マンションロビーを出たところでスマホが震えて、画面を見ればただのゲームの通知。と、その前に一つ紫からの連絡が入っていて、『葉菜の色は』の続刊を買って来て欲しいとのお達しだった。
血が繋がらなくても考える事は同じか。今回は懸の方が早かったけれどな。
兄を顎で使おうとする不遜な妹に、帰ったら何を言ってやろうかと考えながら帰路について。見慣れた町並みの、夜にほど近い景色を楽しみながら家に帰ってきた。
「ただいまー」
「おかー……えり?」
「どうした? 本は買って帰ったぞ?」
「いや……うん。……え…………? どゆこと?」
「何がだよ……」
要領の得ない紫の疑問の声。何か理解のし難い物を見たような彼女がじっと懸を見つめる。
「えっと……何があったの?」
「だから何だよ……」
「告白されて……振られたの……? 一日で?」
「……何を言ってるのかさっぱりだが、まぁ何かがあったとだけは言っておく」
「ふぅむ……これは要検証だね。お兄ちゃんマニュアルに新項目だよ」
一体何の話だろうか……。全く訳が分からない。が、少なくともくだらない話だと言うのは確かだろう。
……勘ではあるが、恐らく恋愛絡み。今まで何度も見抜いて来た彼女の知見が、今回は嫌に鋭くはたらいて愛との事を感じたらしい。だが……初めての事で理解が出来なかった…………そんなところか?
確かに中々に珍しい話だろう。偽者の恋人関係なんて、それこそ漫画の題材にぴったりな珍事。幾ら懸当人にすら分からない判断基準で今までを言い当ててきた紫にも、今回のこれは難しい事だったらしい。まぁ俺も初めての経験だしな。それで見抜かれたら本気でそのからくりを解明しないといけなくなってしまう。
実を言うと、少し楽しみなのだ。不謹慎な話かもしれないが、紫が懸の恋愛遍歴を言い当て、その根拠を懸が当てる。今まで言葉にはしてこなかったが、暗黙の勝負が彼女との間には存在する。
とは言え今のところこちらには手がかりが殆どないのが現状だ。分かっている事と言えば、俺を見て何かを判断していると言う事だけ。つまりは懸の何かがその基準なのだろうが…………何だろうか? 多分自覚していない癖か何かだろう。
「で、どうする? 先に読むか?」
「んー……お兄ちゃん先でいいよ。また夜にでも読みに行くから」
「二時間も俺の部屋に居座る気か?」
「別に邪魔しないんだからいいでしょ?」
それはそうだが……。
…………いや、別に認めるのが癪と言う話ではないのだが、彼女が部屋にいると勉強の効率はよくなる傾向がある。だからどちらかと言えばありがたい話なのだが……。
「……そろそろ兄離れしろよ」
「離れるほどくっついてるつもりないけど。お兄ちゃんこそシスコンで自意識過剰なんじゃない?」
「妹にシスコン否定されると家族愛まで否定された気になるからやめろ……」
「うへぇ……お兄ちゃんが愛語ってるぅ……」
そもそも何で玄関でこんな会話しなきゃならんのだ。どんな兄妹だよ。早く靴脱がさせろ。
「あぁ、そうそう。今日お母さん遅くなるって」
「夜は?」
「じゃあお兄ちゃんは残飯処理班決定だねっ」
「食べれるものを作ってくれ。普通に作れば上手いんだから」
「にひひっ」
楽しそうに──どこか嬉しそうに笑った紫。後ろ腰に手を組んで踵でくるりと方向転換した妹が歩き出す。
……ほんと、頼むから人体実験はやめてくれよ?