第五輪
「しかしもったいないな……」
「仕方ないさ。別の機会に使ってもらって供養して貰えばいい」
「使用料取ろうぜっ」
「その場合著作権はどこに帰属するんだよ」
どうでもいい会話は、舞台裏の緊張感と共に。隣の依織の冗談に返せば何故か真剣に悩み始めた親友に呆れつつ一度外に出る。
勝手口の向こう側は高い金網と、それから大きく広がる滝桜市の町並み。小高い丘の上にあるここ、滝桜高校からはそれなりの景色が眺められる隠れスポットだ。
ゴールデンウィークが終わって数日。入学当初は一面桜色だった景色も、今は葉桜となり涼やかな色合いで町を彩っている。春らしい桜満開も捨てがたいが、緑溢れるその光景も風情があって悪くはない。
気分転換には丁度いい場所だ。男二人でなんて悲しい話かもしれないが、だからこそ安心出来る空気に深呼吸をする。
もうそろそろ終わる前の組の劇。題材は『アリババと40人の盗賊』をアレンジした台本らしく、可能であれば客席側から見たかったと少しだけ後悔する。上演順の都合上舞台袖からなのが恨めしい。
どうでもいいが、『アリババと40人の盗賊』は千夜一夜物語の原本には収録されていないらしい。と言うのを先ほど袖で待機している別の生徒に聞いた。何でもどんどん物語が追加されて、最終的に千一夜を経るの物語になったからそう呼ばれるようになったのだとか。『アラジンと魔法のランプ』や『シンドバッドの冒険』などの有名な話も後付けなのだそうだ。……また今度時間があったら読んでみるの面白いかもしれない。
と、そんな事を考えながら伸びを一つしたところで耳に捉えた微かな声。今は公演中で外に生徒はいないはずだが……などと考えながら角から顔を覗かせれば、そこにいた顔の中に見知ったそれを見かけて声を掛ける。
「……空木さん?」
「え……あ…………長松君……」
空木葉子。演劇祭の組み分けがあったその日の放課後に懸に告白をしてくれた女の子。運悪く彼女の気持ちに答えることが出来なかったが、あれから顔を合わせれば挨拶や他愛ない話をするくらいには関係を紡いでいる女子生徒だ。
そんな彼女と、他に数人の生徒。何やら観劇を抜け出して話をしていたらしいその面々に、声を掛けておきながら知らない振りをするのもおかしな話だと首を突っ込む。
「どうかした? 空木さんたちの準備はまだなんじゃ?」
「……そうなんだけど、ちょっとトラブルがあったみたいで…………」
「トラブル……?」
彼女達の出番は懸達の後だったと記憶している。裏での準備は前の組が発表している間に、と言うのが進行の流れだが、トラブルとは一体何事だろうか。
「でも大丈夫。長松君たちに迷惑を掛けるわけにはいかないから……」
「よかったら話してくれない?」
「でも…………」
「成功させたいのは同じ気持ちだから。もし時間が必要なら少しくらいアドリブで引き伸ばせるし」
おせっかいかもしれない。自分の番がこれからだと言うのに他人の心配とはそれこそいい迷惑だろう。
けれど言葉にしたのも本音。演劇祭の目的は新入生の歓迎会も兼ねた親睦だ。だからスタートダッシュで失敗しないための舞台を皆で作り上げて、先輩後輩の垣根なく楽しい高校生活を送るための大事な催し。生徒会の一員としても生徒の事を考えればそこに貴賎はない。純粋に真っ直ぐにそう告げれば、しばらく悩んだ彼女はやがて重い口を開く。
「……演劇で使う背景が一枚、運んでくる最中で壊れたらしくて。補強も考えたけど、安全面を考えると倒れる危険もあるからどうしようかって」
ハプニングは付き物とは言え、こんなときにそんな大きな問題を起こさなくともいいだろうに。天の命運とやらは随分と残酷だ。
……けれども同時に、運命のようなものも感じる偶然に考えが巡る。
「どんな背景?」
「西洋のお城。でも変わりになるものも見つからなくて……」
「うちのでよかったら使う?」
「え…………? けどそれだと長松君の舞台に迷惑が……」
提案に返ったのは希望の音よりも心配の声。その優しさに、もしかしたら本当に惜しいことしたのかもしれないと過去を憂いながら答える。
「それは大丈夫。元々使う予定だったのを途中で変更した末の余りものだから。俺達の舞台では使わないし、丁度さっきもったいないって話をしてたところなんだよ」
つい先ほどの依織との会話が脳裏に蘇る。
それは背景班の道楽と意欲で新しく作り出された背景。その陰に隠れてしまった元々の創作物。和風にアレンジしてしまったが故にお披露目の機会を失った西洋の世界が、違う世界に光を齎す。
「折角作ったものだし別の機会に供養してもらえたらって話してたんだけど、どうかな……?」
声に悩むような間。顔を見合わせた彼らは、幾つかの言葉を交わしあって相談を始める。
時間はない。決断は今だけだ。だとすれば迷いの種は……ここか?
「お礼なら舞台の成功でいいし、それで収まりがつかないならまた今度別の形でいいから」
「……………………うん、分かった。ありがとう、長松君っ」
沈黙を挟んで、それから落ちた納得。ならばと直ぐに愛達を集めて話をすれば、快く許諾してくれたお陰で大きな問題なく両者の合意が取れた。
……話を聞いたときは少しだけ焦った。が、どこで何がどう転ぶかは分からないものだと安堵を落とせば懸達の開演が目の前に迫る。
「長松君っ」
舞台衣装に身を包んで最終チェックを終え袖に控える。と、そこへやってきた葉子が名前を呼んだ。
振り返れば、そこに立っていた彼女は晴れやかな様子で、笑顔を見て取れる。どうやら流用しても雰囲気を壊すような問題はなかったらしい。また一つ安心だ。
「大丈夫そう?」
「うんっ」
胸の前で拳を握った彼女が微笑む。そんな彼女が小さく呼吸を挟んでそれから告げた。
「舞台頑張ってね。袖からだけど、見てるから。衣装、よく似合ってるよっ」
「ありがとう。空木さんもね」
「ふふっ、わたし舞台には立たないんだけどね」
「応援し損じた……」
肩透かしを食らって呻けば、口元に手をあててくすくすと笑った葉子。いい感じに抜けた緊張に感謝をしながら続けて笑えば、懸を呼びに来た恋が少しだけ不思議そうな顔をしていたのだった。
上がった幕の上で既に自分を見失うほどの没入感を味わう。
照明が眩しく、暗い客席の顔は全く見えない。光が熱く、衣装も重い。声を張り上げると僅かに汗が滲む。けれど手を動かせば形のない視線の存在感がその先を追うように突き刺し、足を出せば体を押し潰されるような圧迫感が観客側から押し寄せる。
これまで何度か舞台に立ってきたが、これは不思議な感覚だ。まるで自分の一挙手一投足。そして台詞の端を捉える呼吸までもが観客を先導する指揮のように錯覚する。それは数多もの視線に晒されると同時に、自分がどこにいるのかも分からなくなるような孤独と紙一重で。けれども染み付いた演技が滔々と流れるように紡がれれば、そこにある何かを手繰り寄せていく。自分と言うものを見失いながら、自分以外の物が感覚から消えていく。
……孤独に感じるのは、今回の役柄である兵士のバックグラウンドが殆ど色や柵のない事に端を発しているのかもしれない。
己はただ居場所をなくした哀れな男。行く当てもなく、家に戻れば生きて帰った事に家族が泣いてくれる。しかし兵士として大切なものを戦場に忘れてきてしまったような心の穴がどこかにあって。虚ろで、ぼんやりとした不完全燃焼感だけが薄く渦巻いて体を支配している。まるで、傀儡師に忘れられた哀れな操り人形のようだ。
そんなわたしの許に一人の老婆がやってくる。襤褸を身に纏った、妖しげな空気の老女。舞台栄えする特殊メイクで飾った彼女は、三年生の先輩。演劇部員だと言う彼女は発声の面で懸の指導をよくしてくれた人物で、教える身として実力を誇示するように役を降ろす。
小さい背丈に、不気味に響くしわがれた声。背筋を冷たい鱗で撫で上げられたような悪寒が、本番一発勝負で練習以上のおぞましさを伴って首筋に纏わりついてくる。ともすれば、そのまま縊り殺されてしまうのではないかと思うほどの名演。
アドリブよりも本能で一歩退いた事に、深く被ったローブの奥で妖しく艶やかな紅の唇が嗤う。
戦場にも居場所を失って何も困るものがないと言うのに、死ぬ事には恐怖を覚える彼女の演技に呑み込まれて、言われるがままに頷き姿を隠すマントを受け取る。
最早この先の演技が手に付かないと思うほどに逼迫した空気に息を呑めば、やがて出番を終えた彼女が捌けて行く。その擦れ違い様、マイクに拾われるかどうかと言う微かな声で耳元で嗤った彼女。それが演技なのか、それとも彼女に隠されていたのか素なのか分からないほどの自然な擽りに、本能的な恐怖で一歩二歩と距離を取りながら振り返ってしまう。
と、もう少しで次の台詞を忘れそうになってどうにか紡げば、久しぶりに聞いた気がする自分の声に微かな安堵。そしてそれは観客席からも同様に音と圧を伴って漏れた。
舞台上だけではない。この講堂全てを掻っ攫った演技力に引っ張られて懸も兵士を憑依させれば、そのまま場面転換のために一度捌けた。
すると舞台袖で待機していた愛が小さく零す。
「……あの子も君も、アドリブを効かせ過ぎよ。少し焦ったじゃない」
「すみません……呑まれました…………」
「でも演技としては上々ね。兵士に対する注目が嫌に集まってる。余裕があればその路線で遊んでもいいわよ?」
「…………その時は先輩も乗って下さいね?」
無理な即興は既にある物を壊しかねない。けれど愛の言う通りに少しだけ掘り下げているのも面白いかもしれない。……ただそれには、先ほどの彼女のように役と本人の境界が曖昧になるくらいに重ねなければ難しいだろう。演劇を、その都度舞台でしかやってこなかった懸に辿り着ける領域だろうか? もし偶然でも手を掛けたなら、その端を手繰り寄せてみるとしようか。
そんな事を考えながらお触れへ他の男達が挑戦しては失敗していく御殿のシーンを終えて、再び兵士にスポットライトが当たる。
魔女に言われるがまま乗せられてやってきた王の下。そこでようやく後ろを振り返り、何もない事を実感して前へと一歩を踏み出す。目的がないのなら、彼女が言っていたようにお触れに挑戦してみよう、と。
首を落とされる覚悟を固めて衛士に話を通し、謁見の一室へ。和装に身を包んだ王と、その隣に並ぶ12人の王女。
一番上の王女を愛が。四番目の王女を愛が。末の王女を恋が演じる。それ以外は演劇部員だったり、立候補した女子生徒だったりで、学年もまばらだ。
彼女達を豪奢に彩る衣装は、駄目になってしまったドレスの代わりに愛が家から用意してくれた和装のアレンジ。時間もなかったためこの際季節感は仕方ないと多種多様な模様の着物にフリルなどを縫いつけたそれは、けれども逆にそれぞれの個性と視覚的な賑やかさを纏って舞台栄えのする衣装になった。
もちろん衣装班の心達の頑張りも当然の功績で。遠目から見れば立派なドレスに見えるそれは、フリルやリボンのお陰で美しさの中に可愛さも同居する物ばかりだ。心が、元の状態がよかったから自分達が作った物よりも高い完成度になったと少し悔しそうに言っていた。
そんな衣装に身を包んだ彼女達の登場に、客席の生徒達が少しだけざわつく。流石に有名税を振りまいている二人が着飾っているのだ。関心を惹きつけるのは仕方のない事で、それ以上に誇りであり目玉の一つ。
けれども名前だけで勝負するつもりはないと。練習の中で色々勉強し学んだ全てを賭して己を演じる。
王に言い渡された三日の期日。その間に王女達の秘密を突き止められれば、好きな者を嫁にとってもいいと言う条件。練習で何度もしたやり取り。けれどもやはり本番は特別で。決めた覚悟が本気ならばその頂を手にしてみたいと思いが募る。
そんな兵士に向けて余程の自信らしい王女達が口々に告げる。隣国の王子も、伯爵の息子も、大商会の次男坊も。これまでの者達は皆命を落としてきたと。きっと誰にもその秘密は暴けない……できるものならやってみろと。
台詞の中で、愛が蔑み哀れむような視線をこちらに向けてくる。その事に胸の奥を刺激されて、一歩を踏み出す。誰も届かぬ花。しかし、ならばこそ手折って見せようとっ。
そうして始まる彼女達との化かし合い。物語の裏側を知っている身からすれば、昼間のそれは戯れに過ぎない。けれどもその一つ一つに本気を交えて答えれば、少しだけ彼女達のことが見えてくる。
王女達は……退屈なのだろう。誰もが比べられないと言葉にし、王家の血筋に縛られる。この程度の戯れも乗り越えられないような男に振り向く心はない。
だからどこかで、待っているのだ。本物の……王子ならぬ男を。
あの手この手で翻弄しようとする王女に戦場帰りの鍛えられた体でどうにかついて回る。やがてやってくるのが、一日目の夜。物語が大きく動き始めるターニングポイント。
特別に任された寝室前の警備。そこに差し出された、王女たちからの飲み物の差し入れ。曰く、昼間はそれなりに面白かったから褒美だと。
そこで昼間に出会った魔女の事を思い返す。彼女が言っていた。何があっても出された飲み物を飲んではならない、と。知らなければきっと、盲目な思いと労いに騙されて口をつけてしまうだろう、眠り薬。しかしここまで来て間違えるわけにはいかないのだと飲む振りをする。
因みに原作だとお酒だが、高校生の演劇と言う事で飲み物と言うぼかし方に落ち着いた。依織が、こう言うのは徹底して予防線を張るものだと零していた。
演技に騙された王女達が寝室へと入って行き、しばらくして声が聞こえなくなると兵士も瓶を抱えて眠った振りをする。
静かに、微かに開かれた扉の気配。眠りこけている事を確認するように取り囲んで口々に零す彼女達。一人……少しだけ心配そうな予感の音を呟くのは、恋が演じる末の王女。原作でもそうだが、末姫は勘が鋭いのだ。
末の彼女を小馬鹿にする姉達のそれは、これまでの経験から来る慢心。今回も大丈夫と言う、驕り。
それから再び部屋へと戻って行った彼女達。舞台演出でスポットライトを片方落とし、兵士の回想へ焦点を当てる傍らで寝間着から和装への早着替え。短い時間だったが、沢山練習したお陰で問題なく進む。一応間に合わなかったときの為にアドリブも用意しておいたが、それを使う機会はなかった。
ライトが戻れば、舞台上には着替えた12人の王女達。少し騒がしくなった部屋の中の話し声に体を起こした兵士が、微かに開けた扉から中を覗いて様子を伺う。
するとなんと言うことか、設えられた壁際の家具が動いて、壁の中に隠し階段が姿を表すのを見つけるのだ。直ぐに姿を隠すマントを羽織り、彼女達の後を追って下へ下へと下りて行く。
一度捌けて場面転換。背景を幻想感溢れる金や銀が煌めくそれへ。リハーサルの時に背景を交え全て通して分かったが、地上での話を和風に変更したことがいいアクセントとなり、ここからの演出がよりファンタジー感溢れる異界らしさを生み出すのだ。
それはまるで『不思議の国のアリス』のように。はたまた『銀河鉄道の夜』のように。ここではないどこか別の世界へ足を踏み入れたような違和感と高揚感。
幻想的なBGMと共にしんと張り詰めたような空気が舞台から講堂全体に広がっていくのを肌で感じる。さぁ、一時のファンタジーに共に溺れよう。
道行きの途中、辺りの景色に見蕩れた兵士が前を行く末姫のドレスの裾を踏んでしまう。こけそうになった彼女が訝しむのを上の王女が嗜めてひやりとしつつも後をつけて行く。
この世界の証拠にと並木道を彩る銀色の葉っぱをした枝を一つだけ手折る。その音に気付いた末姫が振り向くが、そこには誰もいない。不思議そうに首を傾げる彼女との緊張感のある駆け引き。
次いで金の葉、ダイヤモンドの葉を揺らす木々から一本ずつ手に取れば、その度に末姫が振り向いて視線を注ぐ。彼女からすれば聞き間違いを疑いたくなるほどに何度も聞こえる不思議な音。ともすれば幽霊に怯えるように、それから彼女が足を止める。
その事に兵士も立ち止まれば、交わるはずのない視線が交わされる。
「……そこに誰かいるの?」
「っ……!」
微かな声は、怯え。けれどもそれは台本にないアドリブ。
思わぬ投げかけに、息を呑んで気付く。いつも上の王女たちにまともに相手をされない末の彼女。その溜まった思いからか、それともある種確信しているような疑念の解消のためか。姉達と同じ血で確かな信念を持った指先が答えを探すようにこちらに伸びてくる。
逃げられないっ……! そう悟った刹那、響いた声は一番前を歩いていた最も年かさな長女のもの。
「何を立ち止まっているの? 置いて行くわよ?」
「…………はい」
咄嗟の愛の機転に助けられて、兵士と共に安堵の息を吐く。振り返り様、少しだけ寂しそうな色で目を流した恋が、それから再び歩き始める。
彼女は何か言いたいことがあったのだろうか……? そんな事を一人考えながらひりつくような空気と共に次の場面へ。
背景が西洋風な城へと変わり、舞台上に用意されたのは川と12艘の小さなボート。その一つ一つに遠くに見える城からやってきた王子達が姫を迎える。
因みにこの背景は元々作っていた二つの片方で、開演前に葉子の組に譲ったのは地上の場面で使う予定だったもう一つだ。お陰で和と洋……二つの対比が今のこの空気を作り出しくれている。
結果論としてハプニングに感謝をしながら続く演技。
王子達が漕ぐボート。その内末姫のそれに相乗りして対岸に見える城に向かう。すると聞こえてくる楽器の楽しげな音楽。既に開かれている舞踏会の門。その奥には大きく広がったダンスホールに、豪華な食事がテーブルに並べられているのを見つける。
本当にこんな場所が存在するのかと疑う兵士をよそに、12人の王女達は城の中へと入って行き、王子たちと代わる代わる音楽に合わせて踊り始める。
ダンスシーンではこれと言った失敗もなく24人の煌びやかな演者達が優雅なステップを披露していく。中でも愛のそれは一際注目を集めたようで、視線に温度がついたような錯覚すら覚えた。
やがてナレーションと共に時が流れ楽しい時間も終わりを告げる。来たとき同様王子達の漕ぐボートに乗って対岸へと戻る。帰り道は一番上の王女と同じ舟へ。辿り着くと、背後で別れを告げる彼女達を置いて先に来た道を駆け、階段を飛ばして昇り、部屋の前に座り込んで寝た振りを行う。
遅れて戻ってきた王女たちがいびきを掻く兵士に向けて満足そうな笑顔を浮かべると部屋へと引っ込み眠り始める。
翌日、何も知らない振りで寝ぼけながら再び昼間の化かし合い。夜になればその日も向かった地下の舞踏会へと乗り込み、更なる証拠を集めて先に戻るの繰り返し。
そうして二日目、三日目の夜を過ごし、明くる朝。王の目の前に呼び出され頭を垂れる。
約束の期日である三日が過ぎた。いかにして王女達は一夜の内に靴をすり減らしていたのか。その真実を述べろと硬く音にする。
王の声に顔を上げて用意していた三種の枝やこの世の物とは思えないカップなどを並べて答える。彼女達は部屋から地下へと赴き、そこに広がる幻想的な世界で時間も忘れて踊り続けていた、と。
兵士の語った真実に王が確認をすれば、言い逃れてもその内暴かれると悟ったらしい彼女達が首肯する。ざわめいた広間を一喝して沈めた王。彼が問う。
「よくぞ真実を暴いてくれた。約束通り、褒美として彼女達の中から好きな者を妻に娶らせよう。さぁ、そなたは誰を妻に望むのだ?」
重く圧し掛かる王の言葉。その先を、今になって考える。
誰。そう問われて…………けれどもやはり、甲乙はつけられない。
厳しくも芯の強い長女や、優しく朗らかな四女。鋭い勘と慎重さを備えた末姫。そのほかにも色々な長所があって、誰もが自分には相応しくないくらいに美人ばかりで。
誰かを選べば彼女以外を傷つけてしまうとか。誰かを選べば他の魅力的な者達とは関係を結べないとか。そんな色々な感情が綯い交ぜになって、13番目の選択肢を紡ぎ出す。
それはとっても卑怯で、優柔不断な、わたしらしい────俺らしい終着点だ。
「…………わたしにはもったいないほどに優れた方達ばかりです。甲乙のつけられない彼女達から一人を選ぶなど、わたしには出来かねます」
「しかし約束は約束だ。全員を娶らせるわけにもいかん。それがならぬと言うのならば、代わりに欲する事を申してみよ」
「……わたしは────」
わたしは、何が欲しいのだろう。何があれば、満たされるのだろう。
愛が分からず。恋が出来ず。傷を背負い、傷つける事しか知らず。帰る宛てもない。
無いもの尽くしの、中途半端。だからこそ誰にも真っ直ぐで、誰にでも優しい、誰にも受け入れられない存在。特別を許されながらにして、特別を受け入れられない誰か。
わたしには、何が足りないと言うのだろう。
「父上、かの者を追い詰めてはなりません」
「しかし……」
「……ではこう致しましょう。彼に私達を選ぶ機会を作るのです」
悩む兵士に差し出された掌。それは、上から四番目の、愛が演じる王女の提案。
「私達は秘密の踊りを突き止められました。でしたら始末は踊りでつけるのが道理かと存じます」
「ふむ…………どうかね?」
問われて。分かっているのに、手汗が滲む。微かに震えた唇でようやく答える。
「わ、わたしは……元は兵士です。踊りの作法など知りもしません。踊りなど────」
「構いませんわ。わたくしたちがそうしたいのですもの。その中で、答えを見つけてくだされば」
試すような微笑は長女の……愛のもの。広がる沈黙に、逃げ場をなくして気付く。
逃げる場所なんて、端からない。決めた覚悟は、この胸にまだある。ならば、どうにかして答えを出すのがせめてもの本気。
「…………わかり、ました。しかし彼らのように上手にとは行きません。きっと迷惑を……」
「大丈夫ですよっ」
いつしか傍に来ていた末の王女。こちらを覗き込むように手を取った彼女は、それから一歩大きく出して根が生えてしまいそうな体をどこからか引っ張り上げてくれる。
「あたしの真似をしてくださいなっ」
「曲を用意しろっ!」
大きく叫んだ王の声と共に舞台袖に控えていた者達がさっと整列する。彼らの手には本物の楽器。
演出の段階で試行錯誤をした結果、最後のここだけは生演奏でと決まって、吹奏楽部や楽器経験者を掻き集めてどうにか作り上げた舞台なのだ。
一転した雰囲気。じわりと広がって行くワルツの調べと共に、呼吸も慌しく個人的にメインだと思っているダンスが始まる。
最初は拙く、たどたどしく。恋の演じる末姫に促されるままにどうにかついて行くのもやっとな足運び。上手に踊るのではなく、相手に合わせる事だけを考えてステップを踏めばいい。そう教えてくれた愛の言葉が脳裏に蘇る。
肩肘を張るな。全てを受け入れろ。相手ではなく、自分の為に一所懸命に踊れ。何も考えるなと思考を真っ白にして、ただ目の前の事に視線を注ぐ。
と、視界に想定には無いものが目に入る。それは降り注ぐ桜吹雪。全く予定には聞いていなかったが……懸に秘密で準備していたのだろう。和風な舞台により映える演出だ。驚かされた事には目を瞑るとしよう。
そんな事を考えながら僅かに辺りへ向けていた視線を戻す。すると偶然交わった恋との視線。その中でくすりと微笑んだ彼女は、導くように一歩大きな足を出す。
少しだけ思い出すのは中学の頃のこと。同じバドミントン部で、後輩として入ってきた彼女達一年生を迎えるために、仮入部期間ながら男女混合で行われた模擬戦。そもそも素養があったのか、抜きん出た実力とビギナーズラックで先輩さえも下してトーナメントの決勝でぶつかったのが彼女だった。
先輩たちからの声援と私怨ならぬ支援を受けて、部員としての意地と尊厳を見せろと本気でぶつかった相手。それでも食らいついてきた恋にどうにか勝利を収めれば、その後の感想戦でラリーをしながら投げかけられた言葉。
────部活、決めましたっ。これからよろしくお願いしますね、先輩っ
そう言って不敵に微笑んだ彼女と、気付けばもう三年目の付き合い。既に実力では敵わないだろう彼女が、それでも先輩だと慕ってくれる事に微かな嬉しさを感じながらこの劇の練習もして。その中で彼女が言っていた言葉。
────あの時は先輩に引っ張られてましたが、今度はわたしがリードしますっ
懸としては特に意識していたつもりは無かったのだが、どうやら中学の頃の恋のモチベーションの一端には懸がいたらしい。だからあそこまで頑張れたのだと。そう言ってもらえる先輩であれたなら誇りにはなるし、何より懸も恋から学んだ事はある。彼女の前向きな心と明るさは見習うべき長所だ。
そんな彼女が持ち前の運動神経でコツを体に教えてくれる。大丈夫だ。何も心配は無い。根拠も無くそんな自信がつき始め、踊ることが楽しく思えて来る。
そうして調子が出てきたところで次の相手へ。まだ少し慣れないとばかりに戸惑いながら代わった相手は演劇部に入部を決めたらしい一年生の女の子。恋と同じく中学の頃から続けているそれを高校でも追いかけ続け、叶うことなら将来舞台に立つような仕事がしたいと語っていた彼女。
これまで積み重ねて来たその実力を活かして、今回の舞台でも演技の面では一年生の纏め役をしていた少女だ。彼女のお陰で新入生との橋渡しも恙無く行えた感がある。そこに関しては大きく感謝だ。
と、更に次いで別の女子生徒とのダンス。休み無く移り変わる王女たちとの踊りは、きっとこの舞台の見せ場の一つでもあるだろう。
私情のような何かを重ねれば、男として夢のような時間かもしれない。だからこそ、背景が空洞でありながらも芯のある兵士と言う役が、見る者に自分を重ねさせて世界に引き込んで行くのだ。
流れの中で段々と上達して行くステップ。やがてようやく自分の物にした頃に愛が演じる四女との組み合わせがやってくる。
今回の踊りの場面に関する指揮と監督は彼女の役割だった。自分の演じるそれに加えて他人の指導。更には和服の提供や着付けなど、多方面に動き回っていた彼女は準備段階で最も忙しかった立場かもしれない。その上で時間があれば一対一で練習にも付き合ってくれた事には感謝をしてもしきれない。
だからこそその集大成を今ここで示して、これ以上ない結果を残すのだと自分に言い聞かせる。
呼吸さえ聞こえる距離で微かな思考から浮上すれば足運びが少しだけ変わる。それは先日のリハの後に二人で打ち合わせして決めた変更。本番に間に合わなければ元のままでと言う話だったが、どうにか覚え切ってそちらの案に決まったのだ。
滑るような足捌き。他の女子生徒とは向かい合ってのそれを数種類組み合わせただけだったが、愛との組み合わせはより複雑だ。
例えば、向かい合っているのに相手の踵側へ外から足を入れて、愛がそれを引っ掛けないように抜けたり。三拍子でありながらステップが四つであったり。ダンスと言ってよく想像するような後背への反りであったり……。
ダンスでは男性が優先され、技も男の動きを基準に名前がつけられる。だからこそリードするのはいつも男性で、それを飾るのが女性の役割なのだ。その先を、可能な限り堂々と追いかけて導く。
難度は高いが、だからこそ優美に見える流れ。愛が、懸ならば出来ると信じて託してくれたそれに、全身全霊で答える。
と、最後近くのステップで微かに爪先が彼女の靴の先を引っ掛けた。傍目から見れば衣装の内側の出来事で気付きはしないだろうが、その小さな力が大きな変動を起こす。咄嗟に伸ばした腕と出した足。崩れて大きく反った愛を抱えるように前傾すれば、結果的に上体を後ろへ投げ出した彼女を背中に回した片腕で支えるような形になった。
予定にはない形。けれども直ぐに愛がフォローを入れて向き合う形に戻してくれる。彼女に助けられた……男側としては面目ない話だが、とりあえず今は舞台を止めるわけには行かない。目の前に集中だ。
やがてくるりと一回転してお辞儀をした愛。ミスをフォローし、最後まで笑顔を絶やさなかった彼女の実力に甘えつつ、直ぐに次の王女との踊りへと移る。
頭を切り替えて望めば、動き続ける舞台上でスポットライトと運動の熱に汗が浮かぶのを止められない。声を上げ、大きな身振り手振りを付け、最後にこのダンス。演劇は役を演じるだけではない。それ以上の物を賭してこそ、達成感があるのだ。
だからこそきっと、今懸は演じてなどいないのだろうと思いながら。
そうして最後の相手までやってくる。最早体が最初からそうであったように自然と出るステップ。例え音楽が止まっても踊り続けられるとさえ感じる刻み込まれたリズムと共に、目の前には愛の姿。
彼女が最後の相手。呼吸は既に同じ調子を刻み、出した一歩で互いのその先を察する。中学からの付き合い。生徒会では隣で仕事をしてきた間柄。ともすればアイコンタクトで話が通じることがある信頼関係が出来上がっている。
そのお陰か、ペアで踊って最もタイミングが合うのが彼女なのだ。それはまるで、ステップなど決めていなくとも互いについていけると確信出来るほどに……。
けれどもしかし、ぶっつけ本番で打ち合わせ無しにそんなことは出来ない。アドリブこそあったが、ここまで順調に来ているのだ。その場のノリ一つでここまでの流れを断ち切る訳にはいかない。
ダンスはワルツに始まりワルツに終わる。そう愛が言っていたのと同じように、演劇はどこまでいっても演劇だ。全てがアドリブ一発勝負の人生とは違う。だから台本通りに、演劇は役に始まり役に終わるのだ。
と、考え事をしていた所為か。それとも先ほどの愛とのダンスで狂った歯車が戻りきっていなかったのか。少しだけ甘かった足の動きが、己の踵に爪先を引っ掛けてバランスを崩す。
どうにか踏ん張ろうとしてみたが数瞬遅く、加えて舞台に絨毯のように落ちていた桜の花びらを踏んだのか、傾ぐ勢いが加速する。直ぐに愛を巻き込むわけにはいかないと離した掌。次の瞬間、天井を仰ぐような視界のまま、あっけなく舞台上で尻餅をついてしまう。
…………あぁ、全く。何もこんなときに失敗しなくてもいいのに……。
どっと湧いた冷や汗と共に焦点が揺れる。そんな中で一瞬視線が交わった愛が、分かりやすく口元に手を当ててくすりと笑った。そして────
「いきなりでわたくしたちと代わる代わるの踊りは酷が過ぎましたかね?」
「……すみません」
「いえ、楽しかったですわ。貴女達もそうでしょう?」
同意を求めるように視界を回す愛。その言葉は舞台上の王女達に向けられたそれだったが、きっと別の意味で観客席まで広がる問いかけになったのだろう。音はなく、空気として胎動した気がする客席からの雰囲気を肌で感じる。
次いで差し出された掌を取れば、頭の回転の早い愛のアドリブに助けられながら元の台本へと軌道修正をする。全く、演じているだけだと言うのに波乱万丈が過ぎると。この緊張感はきっと、ここに立たなければ味わえないはずだ。
「さて、ではそろそろ答えを聞くとしようか。そなたは誰を妻に娶りたい?」
戻った台本と共に問いかけが響く。
きっと、アドリブで誰かを選んでもその相手はついて来てくれるだろう。そう言う高揚感が、今この舞台には満ちている。
……けれど、兵士としても、懸としても、やはり選べないのだ。
兵士の迷いは、選り取り見取りで誰かを選べば誰かを選ばない事に対する思い。
懸の迷いは、男として情けない盛りの……誰にも女性としてのときめきを感じないと言う冷酷で残忍なほどの平等。
幼い頃に負った心の傷。母親に否定された事で愛や恋と言うものを理解出来なくなってしまった、ある種のトラウマ。仕方ないのだ。そう言う性格で、心で、傷だ。彼女達の普段の一面を知っていても……役に彼女達を重ねても、それでも決められない。
別に、彼女達に魅力がないわけではないのだ。美人だとは思うし、可愛いとも思う。けれどそれは、動物を愛でるようなそれであって、異性として男の性がどうしようもなく暴れ出すような衝動ではない。
口にすれば、彼女達を傷つけ。そして自分自身も後悔に苛まれるだろう心の内。ともすれば博愛とも表裏一体な、誠実にして不誠実な不完全だ。
「……わたしには、やはり過ぎた褒美です。ですから今この瞬間に誰かを選ぶなど、できません」
「しかし、ならばどうする?」
「…………もし。もし、許されるのならば、僅かばかりで構いません。わたしが己と王女様たちと真摯に向き合い、答えを出すまでの時間をいただけませんでしょうか? それであれば、必ずやわたし自身が納得のいく決断を見つけてみせましょう」
客観視すれば、逃げであり停滞。人によってはがっかりするエンディングかもしれない。
しかし兵士の決断の先には、まだ前に進む道が残されているのだ。全く先の見えない懸のそれとは根本的に違う、前に進むための回り道。
そんな決断に、手を取ってくれるのは王女達だ。それこそ、踊りでリードをするかのように……。
「構いませんわ。折角将来を預ける殿方ですもの。わたくしたちにも彼を知る機会をくださいな」
「そうですわ。知りもしない相手に想いを寄せるなどできようはずがありませんものっ」
「あたしもいーですよっ。また一緒に踊りましょう!」
愛の、愛の、恋の声が響く。続けて口々に他の王女たちも王と兵士に向けて言葉を発せば、掌で静寂を手繰り寄せた王が呟いた。
「……いいだろう。その代わり、期日を設けさせてもらう。────三日だ。まだ見ぬ未来を暴くには十分だろう?」
「仰せのままに」
大仰に畏まり頭を垂れれば、その台詞をきっかけにブザーがなって緞帳がゆっくりと下りてくる。これにて閉幕だ。
と、その形のまま終わるはずだった舞台に、最後の風が吹く。
「では早速行きましょうかっ」
「え……?」
「まずは敷地を案内して差し上げますわ」
「そのまま城下に遊びに出ちゃいましょー!」
「え、えぇっ……!?」
どんどんと下りていく幕。その奥で、見切れ芸のように繰り広げられていく次を期待させるような景色。当然台本にもないやり取りだが、どう言うわけか王女役の彼女達だけは示し合わせたように段を降りてお転婆にこちらへと駆け、口々に呟きながら腕を引き上手側へと懸を連れて行く。
終わったと言う安心感から軽く油断していたところへ12人の王女と言う視覚的に大きな流れに絡め取られて、なすがままに連行された。と、その途中で気付く。幕は下り続けている。どうやら、懸抜きで打ち合わせでもしていたらしい。最後に担いででも捌けてギャグに寄せようと。
そのお陰か、拍手に混ざって笑い声が客席から零れている事に気がつく。
しかしながら体は正直で、理解出来ない現状に慌て、口からは戸惑いの音が漏れた。それが更に間抜けさを加えて、いい感じにオチたのだろう。
そうして緞帳が下りきるのと同時、舞台袖でしてやったりな王女達がこちらへ振り返った。口を突いたのは疲れたような、助けられたような音。
「……聞いて無いよ…………」
「その方が面白いかと思って。優柔不断のツケよ」
微笑む愛に痛いところを突かれれば思わず渇いた笑いが漏れた。
やがて舞台上から下りてきた他の生徒達が息やら声やらを零しつつ成功を噛み締め始める。そんな中で、胴上げさえされそうになった懸の元へ恋がやってきた。
「先輩、足見せてください。最後、菊川先輩とのダンスの時に捻りましたよね?」
「後でもよかったのに……」
「手当ては早い方がいいですからっ」
恋の声に驚きと心配の入り混じった空気が突き刺さる。反応から察するに気付いていたのは恋だけか。しかしよく見ているものだ。隠せると思ったのに……。
確かに愛との踊りで尻餅をついた際に、踏ん張ろうとして足首を捻った。それ以上動く演技もなかったから演技に演技を重ねてどうにか乗り切ったが、いつも元気な後輩はこの身を気遣ってくれたようで。
指摘されたならしょうがないと近くの段差に座り込み裾をまくり上げる。すると右の足首が赤く熱を持っていた。
「……しかしよく気付いたな」
「動いてる先輩はずっと見て来ましたからね。気付いてないかもしれませんけれど、先輩は怪我をしないときだけ顔に出るんです。逆に、怪我をしそうな行動で表情が変わらないときが、先輩が怪我をした証なんですっ」
「…………それで昔からよく言い当ててたんだな」
自分の事は自分では分からない。妹の紫もそうだが、懸には分からない何かを根拠に、そうして内面の変化を感じ取っているのだろう。そこまで丸裸にされるとさすがに恥ずかしい気もするが……。
そんな事を考えている間にも、運動部の知識で的確に応急手当の指示を飛ばす恋。こう言う行動力は見習うべき彼女の長所だろう。
「ありがとうな、八重梅」
「だったら今度から隠さないでくださいっ」
「……善処する」
「優柔不断は役だけにしてくださいよ!」
そこまで言わなくてもいいのに……。当たりのきつい後輩だ。
続いて愛や愛が心配の言葉を投げかけてくれる。特に愛は彼女にはない責任を感じているらしく、言葉以上に心配顔だ。
そんな二人に大丈夫だと答えれば、やがて入れ替わりに次の舞台の準備が進められて人の通りが多くなる。迷惑を掛けている事を承知で簡単に着替え手早く手当てを済ませると、依織の肩を借りて袖から出る。
と、丁度で入り口にところで舞台に使うのだろう小道具を抱えた葉子とぶつかりそうになった。
「おっと、ごめん」
「いえ……。あの、どうかしたんですか?」
「……未熟さから少し足首を捻っただけ」
不恰好に歩く懸に気付いた彼女が気遣ってくれる。本当に優しい子だ。タイミングが悪くて彼女の気持ちを断ってしまった事が悔やまれる。
もし頷けていたのなら、それなりに良好な恋人関係を気付けたかもしれないのに。
「大丈夫ですか?」
「あぁ。舞台、楽しみにしてるから」
「…………はい。……って、だからわたしは出ないんですってば」
お約束になってしまった感のあるやり取りをしてすれ違う。
言葉にしたからには無理にでも彼女の舞台は見なければ。思って恋に顔を向ければ、彼女は呆れたように溜息を吐いてくれた。
「先輩、一度決めた事は基本曲げないんですから……。優柔不断じゃなかったんですか?」
「それはもういいって」
彼女に他意はないのだろうが、言われるたびに心の奥が小さく刺されるからやめてっ。
疲れたように答えればくすりと笑ったのは依織。ほんと、いい性格してるよ。
「席変わるよ。八重梅さんが懸の世話をしてやってくれる?」
「はいっ、分かりました」
「介護じゃなくてリハビリさせてくれ」
「お爺ちゃーん。ボケてないで席に戻りましょうねー」
「八重梅も乗らなくていいから……」
心と依織のタッグも大概だが、恋も恋でノリがよすぎる。冗談が許されるほどに仲がいいのは結構だが、その上で何か楽しそうな表情をするのはやめろっ。
と、そんなやり取りに笑ってくれた愛と愛。さすがに彼女達に後悔や責任を感じさせるわけにはいかないと、笑ってくれた事に安堵する。
まったく、不甲斐ない懸にはもったいないくらいな友人達だ。
それから客席で葉子の組の舞台を見て。その後最後の演目であるまた別の組の演技に笑い、演劇祭は終わりを向かえた。
本来ならば背景などの大道具の運び出しなどを手伝うのだが、そこは過保護な恋に止められて仕方なく諦める。代わりに打ち上げの連絡係を任されてその任務に従事する。因みに打ち上げはカラオケで、日を改めての休日にと言う話。一応主役の身。不参加と言うわけにはいかないだろう。
週末の予定を埋めつつあっちこっちから返ってくる通知を文字に書き出して分かりやすく管理する。そうしていると別の通知が一つ鳴って、何事かと覗けば話があるとの事。
何の話かは分からないが、人がいる場所でいいなら打ち上げの最中でも構わないはず。ならば静かに話が出来るところを、と考えて返事に屋上で待っているとだけ送り、一足先に向かう。
すると教室を出たところで偶然心と会った。
「あ、いたいた」
「どうした?」
「椿野先生が日誌の提出忘れないようにって」
「……そう言えばそうだったな」
今の今まで忘れていた。……が、日誌と言ってもあったのは演劇祭だけ。どこか定型文染みた感想を書き連ねておけば今日は許してもらえるだろう。それ以上を求められて作文を望まれても困ると言う話だ。
「坂城君から聞いたよ。足大丈夫? 帰れそう?」
「皆揃って心配性だな」
「そりゃあ我らが兵士様だからねっ」
「前線から下げられるような鍍金の兵士だけどな」
自嘲すれば、冗談に笑ってくれた心。心配なのは本心だが、今のやり取りで大丈夫だと伝わったらしい。長い付き合いの信頼は正直助かる。
「帰る時は声掛けてね」
「あぁ」
「じゃあ私まだ用事あるから」
そうして早足に去る心。そんな彼女に思い出して問う。
「心っ、打ち上げの連絡回してるから後で返事を──」
「行くからだいじょーぶっ!」
くるりと回って手を振った彼女がそう言い残して角を曲がる。そんなことしてると俺みたいにこけるぞ? 怪我人二人で互いに支え合って帰宅なんてみっともない姿晒したくないからな?
などと考えつつ幼馴染を見送って。それから懸もと目的地に向けて足を出す。
途中通った渡り廊下に設置されている自販機で飲み物を二本買い、両手に抱えて階段を昇ると彼女から渡された鍵を使って屋上の扉を開ける。しばらくして聞こえてくるいつもの放課後の音に身を委ねて少し待つと、やがて屋上の扉が開いて約束の相手が姿を現した。
「あぁ、どうも。一つどうですか?」
買ってきた缶を片方差し出せば、肩を揺らして笑った彼女──愛。それから彼女は自らも二本の缶を軽く振って見せる。
「こう言う場合どっちが悪いのかしらね?」
「好意は譲るものじゃないと思いますよ」
「なら交換しましょうか」
一度に二本はきついから、一本は帰って紫にでもあげるとしよう。
まったく……と零した愛と肩を並べて欄干に背を預けて座り込む。
「……とりあえずお疲れ様」
「お疲れ様です」
重い音を響かせた缶同士の衝突に思わず中身を零しそうになりながら一口飲む。愛が買ってきてくれたのは少し甘いコーヒー。どうやらバイト先での事を覚えていたらしい。
「と言うか何これ……」
「紫蘇サイダーですよ。飲んだことありませんでしたか?」
「そうね。何で買ったの?」
「弱いですがネタになるかなと。俺が飲むつもりだったんですが先輩が迷いなく選んだので好きなのかと思いました」
「折角後輩が用意してくれたのよ? 面白い方を取るに決まってるじゃない」
先輩も大概チャレンジャーですね。
「お婆ちゃんの家に行くと自家製の紫蘇ジュースを出してくれる事があるんです。癖があるので好き嫌いはあるとは思いますが、時々飲みたくなるんですよ。だから偶然目に入って買ったんです」
「気分転換には丁度いいかもしれないわね……」
どうやら口に合ったらしい。新たな境地の開拓はいつだって好奇心からだ。
「片付けの方はどうでしたか?」
「大方終わったわよ。後、あの子がまたお礼言いたいって話してたわ。背景を貸した組の……」
「空木さんですね。別にそこまでしなくてもいいのに」
けれどもまぁ、感謝をされるのは嫌ではない。度が過ぎると少し遠慮したくなるが、そう突っ撥ねるほど知らない仲でもない。ならばまた今度、時間があるときにでも話をするとしよう。……依織にもそれとなく頼んでおこうか。
と、そんな話で会話の流れを掴みつつ本題を投げかける。
「それで、話ってなんですか?」
「…………まぁ、相談と言うか……謝罪と言うか……」
「俺何かしましたか?」
心当たりは特にない。舞台の事だったらそれこそ暗黙の了解で言葉にするような事ではない筈だが。考えていると、手元で缶を弄んだ愛が自嘲するように声を落とす。
「……折角忠告してもらったのに失敗したから」
「忠告……?」
「確か……あまり無関心すぎると今年も面倒な噂が立ちますよ? だったかしら?」
「…………あぁ……」
懸の過去の言葉をそのまま音にする愛に少しだけ気恥ずかしさを覚える。受け取りようによっては説教にもなるような言い回しだ。あの時の懸は少し何かに酔っていたのかも知れない。
「失敗って……まだ俺の方には噂は来てませんよ?」
「噂じゃなくて直接よ。一応断ったけれど、面倒な流れになりそうな予感がするから」
春は別れと出会いの季節。だから勇気のある者はその気持ちを行動に起こすだろう。懸にも心にもあった出来事だ。有名人で、しかも今回の演劇であれほどに目立った愛。その結果は必然とも言えるかもしれない。……と言う事は裏側で愛辺りもそれ系に巻き込まれていそうだ。
その舞台として、演劇祭の終わった放課後と言うシチュエーションは十分に暖まっている事だろう。
「別に相手の事を悪く言うつもりはないのよ。ただ毎年一人そういう人がいると、フリーだって誤解する人が出てくるから……」
「誤解では無いんじゃないですか? 誰とも付き合って無いのは事実ですし。その上で相談って……一体俺にどうしろって言うんですか?」
「何かいい案無いかしら?」
今先回りして釘を刺したのに、それでも踏み抜いてくれた愛の事情を察する。どうやら今年は去年以上になる予感らしい。
愛は今年三年生。受験の年だ。その為の時間は幾らあっても足りないだろうし、同時に後一年の高校生活を満喫したいと言う思いもあるだろう。そしてそれは他の三年生も同じで、だったらと言う話が今回の彼女が抱えている問題だ。
加えて新入生もいて、愛も肩を並べた舞台で注目された事は間違い無い。相手が三年生であろうとも瞬間的に思いが募れば行動に移す者も出て来る筈だ。
その予感が、今年は特に強いと言う体感。演劇祭の成功と言う楽しい思い出を残せた反面、年度の始まりから全校生徒の記憶に残る結果を引きずりはじめているのだ。人気者は大変ですね。
「期待をされても困ります……。俺だって相手の気持ちを断るのは心苦しいんですから。だから幾らか諦めて誠実に付き合っているんです」
残念ながら相談相手が間違っている。恋も愛も分からない懸に……来るもの拒まず去るもの追わずの優柔不断な不埒者に答えなど導けない。
「それこそ一度会長と付き合ったらどうですか。きっと誰も文句は言いませんよ」
「…………それは駄目よ」
少し投げやりな提案には、何かを抱えたような返答。
ちらりと顔色を伺ったが、本気の色があるようには思えない。と言う事はそれは蓮に対する遠慮のようなものか。
まぁ懸も彼女達の間にある物を全て知っているわけではない。懸が知っているのは生徒会と、バイト先の息子と言う関係だけだ。……もしかしたらそれ以上の何かがあって、それが理由で頑なに関係を紡ごうとはしていないのかもしれない。
とは言え首を突っ込めば面倒に振り回される事は間違い無いだろうし、無粋な事をするべきではない。もしそちら方面の相談を受けるならば協力はするだろうが、今はスルーだ。
「……はぁ、どうしよう…………」
随分と弱気な声。余り聞き覚えの無い語調に少しだけ心配になる。
と、そうして向けた視線が真っ直ぐに交わった。立てた膝に頭を乗せて横向きの視界でこちらをじっと見つめる愛。整った顔立ちに、もしなにも知らないままに青春を謳歌出来たなら勘違いでもしそうな気さえしてくる。
こちらを見つめたまま考え事に落ちているのか、普通の少女たる彼女も視線を逸らそうとしない。暇潰しにこのまま睨めっこでもして、意識が浮上して来た後にどんな表情をするのか見てみるのも面白いかもしれない……などと考えて。
「あ…………」
そんなこちらの思考を裂くような小さな声が漏れる。
あ、駄目だ。このパターンは知ってる……。面倒が降りかかるやつだ。
咄嗟に逃げようと逸らした視線。先に何か別の話題を……と探した思考が、次いで発せられた愛の言葉に上書きされる。
「懸君、今誰かと付き合ってる?」
「…………先輩、節操なしはやめておいた方がいいですよ」
「答えなさい、先輩命令よ」
じっと強い色を灯した彼女の瞳。こうなった愛の糾弾から逃れる術を、懸は残念ながら持ち合わせてはいない。
「………………今は、いないです」
「ならわたしと付き合って」
逃げられない音に、息が詰まる。
今まで、そんな空気になった事は一度も無かった。愛は恋愛に興味が無かったし、懸は理解が出来なかったから。
そして今回も、世間一般で言う甘酸っぱい青春イベントのそれではないと分かっている。だからこそ、余計に頷くのが重く感じる。
「もちろん、言葉通りの意味じゃないわ。噂が落ち着くまででいい。わたしの心に整理が付いて、自分で解決出来る目処が立ったらそこで終わりにするわ。お礼もする。強要は……出来る限りしない。懸君には、これまでと同じように後輩として過ごしてもらっても構わない」
そんな事を、言葉にされなくても分かってる。分かっているからこそ、言葉にされて逃げ道が断たれて行く。
「ただ必要なときだけ、わたしの恋人を演じて欲しいの」
「…………どうして、俺なんですか?」
「懸君がわたしに恋なんてしないから」
「っ…………!」
当然のように音にする愛。それ以外に理由なんて無いだろう。
「懸君の弱い部分に付け込んでる事は自覚してる。その事について謝るわ。ごめんなさい。けれどこの提案は、懸君にも利のある話よ」
「……それくらい分かってます」
もし頷けば、その間は別の誰かから告白されるなんて事が極端に減るだろう。なにせこの高校の人気の一翼を担う女子生徒との交際だ。話の流れからして、ある程度噂は流して抑止力にするつもりなのだ。
そんな人物と付き合っていると知れば、懸の方にあわよくばを期待する告白は少なくなるだろうし、愛にとっても顔だけはよく、一応生徒会役員と言う肩書きを持つ懸は仮初には相応しい。周りも、きっと納得するだろう。
「……もう一つ、失礼を承知で言うわ。もし可能なら、懸君の力にもならせて欲しいの」
「俺の…………?」
「解決したいのよね、その体質みたいな心の問題。もし許してもらえるのなら、代わりにその協力を────」
「……幾ら先輩でも怒りますよ」
少し強く言葉の先を遮る。
ずっと傍で手伝ってきたから分かる。彼女の優しさは、凶器と紙一重だ。真っ直ぐで、正しいからこそ、誤解を招く。
もちろん、彼女の提案は魅力的だ。もしかしたらその先に愛や恋を知る手がかりがあるのかもしれない。分かっている。分かっては、いるのだが…………。
「…………ごめんなさい」
違う。そうじゃない。
愛は、尊敬する先輩だ。困らせたいわけじゃないっ。
「でも、可能性があるなら、答えて頂戴。わたしの、恋人になってくれないかしら」
いつしか立ちあがって目の前からこちらを見つめていた愛。そんな彼女をじっと見上げて、何度も自分に問う。そして、小さく息を吐いた。
同じように立ち上がって、真っ直ぐに言葉にする。
「先輩、少しだけ時間をください。もっと真剣に考えたいんです。答えは……打ち上げの時に返します」
「…………えぇ、分かったわ。ごめんなさい、無理を言って。待ってるわ」
「失礼します」
愛と擦れ違って屋上を後にする。その足取りのまま昇降口へ向かう。途中、廊下で亜梨花と擦れ違ったが、それだけだった。
次いで心と一緒に帰る約束をしていたと思い出したが、流石にそんな気分にはなれなくて。スマホで謝罪と連絡……それから亜梨花を生贄にささげつつ小さく息を吐く。
辿り着いた昇降口で靴を履き替えて校門に向かって帰路につく。屋上には、まだ彼女がいる気がして、振り向けなかった。
それは、桜も散った、五月の始まりの事だった。