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花は患い、恋得らない  作者: 芝森 蛍
桜舞う舞台の上から
5/84

第四輪

「先輩、もう少しゆっくり……」

「あぁ、悪い」


 掌の暖かさがじわりと広がる。柔らかく小さな女の子の手。重ねた掌から彼女のしなやかな指が手の甲を叩く感触を追いかけながらゆっくりと意識して呼吸を整える。

 回した腕には、力を込めれば壊れてしまうのではないかと錯覚する華奢な腰の感覚。流すような瞳で時折こちらを見る彼女と視線が交わると、その近さに微かな居心地の悪さを感じながら逸らす。

 次いでしなやかにくるりと捻った足捌きについて一歩を踏み出せば、音楽プレーヤーから流れていたワルツがフィナーレを迎えた。


「……形にはなったか?」

「さすが先輩ですっ」

八重梅(やえうめ)の方が筋がいいだろ。藤宮(ふじみや)さんに踊りを教えてもらって一番最初に物にしたのは八重梅だ」

「これでも運動部ですからっ」


 リピートで再び流れ始めたワルツを一旦切ってこちらに振り返る(れん)。仕草に腰に巻いたパレオのような一枚布と括ったポニーテールが軽く翻る。視線に気付いた恋がその布を摘み上げて小さく揺らした。


「これにもやっと慣れましたからね。かける先輩もドレスを着ましょうよっ」

「残念ながら男女逆転じゃないからな。次がないことを切に願う」


 冗談を跳ね除ければ唇を尖らせた恋。そんな彼女に笑えば続いて恋も相好を崩した。

 本格的に演劇の練習が始まって二週間。台本の読み合わせも数え切れないほど繰り返して、振り付けも決まり、本番まで一週間と少しとなった頃。(かける)達は舞台の華の一つであるダンスの練習をしていた。

 講師は正真正銘のお嬢様である(めぐみ)。彼女の指導の下、王女と王子、そして兵士役の懸はステップなどを学び、絶賛練習中だ。

 本番では衣装班の作った舞台栄えのする豪奢な衣装を着て演じるために、ドレスの代用品として女子たちは腰に長い布を巻いて練習をしているのだ。

 中でも恋はダンスの飲み込みが早く、(あい)に続いて第二の講師として引っ張りだこ。今日は空き教室を借りてほぼ付きっきりで懸の相手をしてくれているというわけだ。流石に不恰好な踊りを全員の前で見せるのはまだ抵抗がある。


「しかし悪いな、練習に付き合わせて。台詞覚えたりもしないといけないのに」

「そんなことないですっ。先輩は今回の舞台の主役ですから! ……それに、先輩の力になれるのは、嬉しいですし…………」

「そうか。けど甘えてばかりもいられないからな。直ぐに上達して世話の掛からないように頑張るさ」

「だったらお礼にわたしを選んでくださいっ」

「それは台本だから仕方ない」

「先輩のケチーっ」


 中学からの付き合いで気心の知れたやり取り。懸が高校に入ってから一年の時間はあったけれども、今回の演劇で話すうちに取り戻した距離感だ。

 元気で、快活で、まっすぐで。動物に例えるなら犬のような、懸を慕ってくれる可愛い後輩。そんな朗らかさに懸も元気を貰うこともしばしばで、少なくともいままでに彼女を嫌いになる要素は見たことがないほどだ。


「でも、そんな風に真剣で真面目な先輩も格好いいですよっ」

「そりゃどうも」

「冷えてますね。風邪でも引きましたか? 暖めて看病してあげましょうかっ?」

「ドレスはオフショルダーになるって心に聞いたからな。八重梅こそ練習で体冷やすなよ」

「鍛えてますからっ。……でもそれも少し心配です」


 この話題になる毎にノルマのように口にする恋。体を動かす事が大好きな彼女にとって、体のラインが見える服装は少し苦手らしい。何でも運動でつくられた体を見られるのが恥ずかしいとか。別に試合のユニフォームとそう変わらない気もするけれど……女の子は複雑だ。

 と、そんな話をしていると教室の扉が開かれる。顔を覗かせたのは様子を見に来たらしい(めぐみ)だった。


「どう、順調かな?」

「ん、まぁそれなりに」

「それじゃあ……一曲どうですか?」

「それ俺が言う台詞じゃない?」

「だったら自信持って誘えるくらいになってよね」


 からかうように差し出された手を取れば、恋が踊りに使う曲を流してくれる。

 その瞬間、向かい合った(めぐみ)の表情が透き通ったものに変わり、どこか憂うように視線が遠くを見つめる。

 練習が始まったときに見せてもらった折も思ったが、彼女のお嬢様の部分にスイッチが入るとまるで幻想でも纏ったかのように神秘的な雰囲気で辺りを飲み込んでしまう。これが本物と言うことなのだろう。

 そんなことを考えていると(めぐみ)が出した足。思わず視線を奪われていて遅れて出した足にちらりとこちらへ視線を向けてきた彼女。直ぐに気を引き締めてまだまだ導かれるように必至について行けば、彼女はその先を更に示すように触れたところから本物を伝えてくれる。

 ……情けない話だが、まだ彼女と対等に踊るには程遠い。そう確信してしまうほどに、(めぐみ)の中にある本物は遠く立派だ。

 もちろん、だからと言って諦めたりはしない。いい舞台にするために……。何より彼女たちに恥を掻かせない為に、懸が追いつかなければ。


「……内側の時はそのまま、外の時はもう半歩出して」


 真剣な声に歩幅を意識すれば、何かを踏み越えるように前へ進む感覚。

 どうやら女子相手と言うことで縮こまっていたらしい。普段から心と登下校を共にしていたから、相手の足取りに合わせる事が習慣になってしまっていた。

 けれどもダンスはそれでは駄目なのだ。同じ歩幅ではなく、相手を導くように。そうすれば、ほら────間近で見ていても分かるほどにパートナーの手足が綺麗に遠く伸びていく。

 そうして意識しつつ体に馴染ませれば、ようやく確かなものに手を掛けたところで曲が終わった。……もう少しで完璧に掴めそうだったのに。


「こんな感じ。あとちょっとってところかな?」

「今ので大分。今日中に仕上げて見せるよ」

「頼もしいね、兵士様っ」

「先輩っ、次はあたしと────」


 (あい)の踊りに感化されたらしい恋が意欲を燃やす。続ければ直ぐにでも自分の中に落としこめるだろうと。思って恋の手を取ろうとしたところでノックもなく教室の扉が開かれた。

 音に顔を向ければ、そこに立っていたのは少し慌てた様子の(あい)の姿。


「よかった、二人ともここにいたのね」

「先輩? どうかしましたか」

「緊急の要件よ。来てもらえるかしら」

「…………分かりました。八重梅、また後でな」

「はい」


 彼女には珍しく切迫した表情。そんな(あい)に何かあったのだと納得して後輩に別れを告げ早足に歩き出す。

 やってきたのは被服室。一昨日(こころ)と話した時はもう殆ど完成していて、後は細かいところを仕上げるだけだと言っていたはずだ。これと言ってトラブルが起こるような状況ではなかったはずだが……。

 考えつつ部屋に入れば、中の空気は痛いほどに静まり返っていた。見渡した中には顔を伏せた心と亜梨花(ありか)、それから依織(いおり)の姿もある。一体何が…………。


「心、何があったんだ?」

「懸君…………。……ごめんなさい、衣装が、駄目になっちゃった…………」

「衣装が…………?」


 思わず聞き返して、壁際に立てられた衣装に目を向ける。と、そこには豪奢でカラフルなドレスと王子服がずらりと並んでいて────そのいつくかに焦げ茶色の模様を描いていた。


「事故で……、運んでたコーヒーが零れて掛かっちゃって…………」

「…………手直しは難しそうか?」

「…………残り一週間じゃ、ちょっと……」


 力なく呟く心。

 思わぬトラブルだ。こんなのは誰にも想像できないし、そうしようと思ってした訳ではないはず。偶然で、きっと誰も悪くはない。

 重く沈んだ部屋の中を見渡して、それから部屋の片隅で泣き崩れる少女の姿を見つけた。彼女がその中心にいたのだろう。

 …………沈黙が痛い。空気が重い。息苦しい。けれど、けれど。止まっていては何も解決しない。


「……先輩、何か案があったりしますか?」

「どうやってもどこかにしわ寄せが集まる。だったらいっそのこと先代が使った物を流用するしかないわね。けど、」

「貸し出し用の衣装はもう残ってないですよね」

「えぇ。だから使える物を探すなり、使えるところを補修するなりでアレンジするしかないわね。統一性とか四の五の言ってられないわ」

「っ……!」


 とても現実的な解決策だ。この際、完成度など文句を言っていられる場合ではない。

 それでも心残りはあるだろう。何せ一からだったのだ。依織が書いた脚本の世界を、自分たちの手で作り上げた。背景も、振り付けも、衣装もだ。それを手放してなあなあで終わらせてしまうのは、そう簡単に納得できることではない。

 しかし、それが最善なのも確かだ。ならば、その最善の中で出来るだけ足掻くのが、今懸達に出来ること。


「何かいい素材が残っていればいいけれど……」

「あのっ……!」


 記憶の中を探すように零した(あい)。そんな彼女の声に重ねるように響いたのは、(めぐみ)の提案だった。


「馬鹿なことだったら、そのまま流してください。劇を、和風には出来ませんか?」

「和風って……例えば?」

「背景設定です。西洋ではなく、日本風に。もし可能であれば、お手伝い出来る事がありますっ」


 舞台を和風に。彼女の提案に思考を回す。

 何処まで変更するのかと言う匙加減も必要だが、既に作ってある背景は西洋風の城をイメージしている。それをシックに……アジアンテイストに手を加えれば、不可能ではないか。


「手伝いって、具体的には?」

「あたしの家に殆ど着ていない和服や反物があります。それを使ってアレンジしてもらえれば、ドレスの代わりになるかと」

「心、男子の分だけなら何とかなるか?」

「……それならどうにか」


 人手は手が空いた者から順に協力すれば増やせるか。


「依織、脚本は?」

「あぁ。台詞を少し変えればいける」

「先輩」

「……決まりね。萩峰(はぎみね)さん、ここを任せてもいいかしら?」

「はい、大丈夫です」


 渡りに舟の提案。その異国の風に舞台の色ががらりと変わって再び人形が糸で吊るされる。

 ……大丈夫。まだ火は消えていない。


「懸君、一緒に行って見てきてくれる? 懸君が選んでくれるなら私は安心だし、その間にフリルとか作り直さないとだから」

「分かった。藤宮さん、これから行っても大丈夫?」

「うん」


 幼馴染の呼吸で必要最低限を交わして互いの道に戻る。廊下に出れば(あい)(めぐみ)と短い言葉を交わして別行動を開始する。


「手の空いてる人を可能な限り集めて来て。校門で会いましょう」

「分かりましたっ。藤宮(ふじみや)さん、ありがとう」

「ううん。こんなところで諦めたくないし、それに約束したからね。いい舞台にしようって」

「そうだったな」


 少しだけ心が軽くなって笑みを浮かべれば、(めぐみ)も笑顔を返してくれた。




 出来る限り声を掛けた結果、集まったのは懸、(あい)(めぐみ)、恋を加えた六人で、男は俺だけだった。どうやら他の余裕のある者達は心の方へと数を回したらしい。合理的な判断だ。

 しばらくしてやってきた藤宮家の大きな送迎車に乗って彼女の家へ向かう。その間に一つの疑問が(めぐみ)から零れた。


「幼馴染ってすごいね。直ぐに話が纏まっちゃったよ。いつもああなの?」

「時と場合によるけどな。俺に任せてくれたのも手が離せない事に加えて、着る本人が選ぶなら安心してそれをアレンジ出来るって意味だろうからな」

「そうね。衣装に関しては手伝うと言っても大分分は彼女達に頼る事になる。本来なら萩峰さんたちが直接行って選べればよかったのだろうけれど、今回はそれが出来ないから。だったら舞台に立つわたし達が選ぶのが今出来る最善でしょう?」

「そっか……。ふふっ、信頼されてるんだね」

「それが幼馴染ってやつだ」

「それだけ?」

「……俺は別に言われ慣れてるけど、心に迷惑は掛けないでくれよ」


 (めぐみ)の探るような問いかけに答えれば、弄り甲斐が無いと諦めたのか笑って流された。

 気が付いたときからずっと一緒だったのだ。冷やかしなら毎年のように受けてきたから磨耗して少し疲れてしまった。そしてその噂が消えた頃に、大抵一人か二人があわよくばを狙ってよく告白しに来る……と言うのが懸の新年度の恒例行事だ。

 このことを他人に言えば贅沢だとか色々言われるのだけれども、そんなのは知った事か。妬んで彼女が出来るなら勝手にしてろ。

 そんなことを考えながらしばらく車に揺られて。やがて辿り着いたのは塀で中が見えないような立派な日本家屋だった。和服が話題に挙がった事とこれまでの噂を総合して考えればある程度予想はついていたが、(めぐみ)は洋ではなく和の家柄のお嬢様だ。


「大きいわね……」

「流石に先輩も初めてですか?」

「何故かよく勘違いされるのだけれど、うちは何処にでもある一般家庭よ」


 (あい)の呟きに疲れが見え隠れしていて、少しだけ親近感を覚える。誤解はきっと普段の振る舞いから来るものだろう。懸だって、何も知らなければ(あい)の事をどこかのお嬢様かと誤解をしても不思議ではない。それくらいに彼女の纏う雰囲気は特別だ。

 けれど、それもきっと彼女の努力の賜物なのだろうと。しばらく前に共有した秘密を思い出しつつ(めぐみ)に連れられて敷地の中へ足を踏み入れる。

 落ち着いた雰囲気の和風建築と、広い庭園。格式高い旅館やどこかのお寺のような雰囲気を味わいながら、天井を反射するほどに磨かれた板張りの廊下を進めば、(あらかじ)め連絡をしていたらしく大座敷に既に使えそうな和服が多数運び出されて畳に色とりどりな景色を描いていた。


「あら、いらっしゃい。お出迎え出来なくてごめんなさい。(めぐみ)の母親の瑠璃子(るりこ)です。娘がいつもご迷惑をおかけしてします」


 そんな着物の中から流麗な仕草で立ち上がり一礼をしたのが(めぐみ)の母親だと言う女性。男目線で少し語れば、(めぐみ)と言う娘がいる事が不思議なくらいに若く見える美人。

 纏う雰囲気は少し前に踊ったときに見せた(あい)と同じ、気品に満ちたそれ。まるで住んでいる世界が違うとさえ錯覚するほどの整った出で立ちに少しだけ気圧される。


「滝桜高校の副会長をしています、菊川(きくかわ)(あい)です。今回は急な申し出を快く引き受けていただきありがとうございます」


 直ぐに一歩出たのは(あい)。こういうときの彼女が、先ほど言っていたような誤解を生む要因なのだろうが、率先して前を歩いてくれる彼女には尊敬ばかりだ。直ぐに続いて挨拶をすれば、遅れて現実に戻ってきたらしい恋達も腰を折った。


「お母さん、何枚あった?」

「えっと……今持ってきたので十枚ね。これで全部よ」

「二枚足りない……」


 全て和で揃えようと思うと演劇に使う王女用の服は全部で十二着……いや、十二枚必要だ。となると二枚は反物から作らなければならないか、和と洋の混ざった舞台になるのだが……出来れば後者は避けたい。


「あ、いや。中学の頃のって取ってある? あれもミニスカ風にアレンジすれば」

「小さいわよ?」

「とりあえず出して」

「お手伝いします」


 出来るならば一から作る数を減らしたい。そんな考えに(めぐみ)も至ったらしく提案をしてくれれば、立ち呆けするのも意味がないと足を出す。物腰柔らかく笑った瑠璃子がくるりと踵を返して歩き出し、慌ててそれについていく。と、そこでようやく彼女が洋服を着ている事に気がついた。

 ……まぁ和風な家だからと言って日がな一日和服を着ているわけではないか。変な先入観は勝手な想像で失礼に当たる。


「ふふっ、あの子が楽しそうでよかったわ」

「え……?」


 前を歩く瑠璃子から唐突に零れた声。思わず聞き逃しそうになった彼女の言葉に問い返す。


「あの子、中学になってから友達を一人も連れてこなくなったから。学校で何かあったんじゃないかと心配でね。でも飾らないあの子が受け入れられてるみたいで安心したの」

「……藤宮さんは学校で一二を争うほどの人気者ですよ」

「思春期かしら」


 くすりと笑った瑠璃子。上品な仕草に(めぐみ)を重ねつつ少しだけ考える。

 飾らないあの子。無粋な勘繰りかもしれないが、彼女は藤宮の娘である事を演じているのかも知れない。

 どの彼女がそうなのかと問われれば懸には判別がつかないけれども。母親の彼女から見て先ほど真剣に声を発していた(めぐみ)は、普段の彼女なのだろう。

 と言う事は時折笑顔を見せてくれる事から考えるに、懸達はある程度心を許してもらっているということか。他人の心の動きに実感も何もあったものではないが……。

 考えていると辿り着いたのは敷地の片隅に立てられた立派な蔵。石積みの土台に漆喰の壁。重い色をした瓦屋根と重厚な木製の扉。時代劇で見るようなこれぞ蔵と言う蔵。こんなテンプレートな日本建築が目の前にある事に少しだけ感動を覚える。

 力仕事は自分の仕事だと扉を開ければ、薄暗い蔵の中には沢山の物が納められていた。


「確かあの奥にあったはずよ。桐の、両手で持てるくらいの箱に入ってるわ」


 瑠璃子の声に従って探せば難なく見つけられた目的の桐箱。布、和服と言う事もあって意外とずっしりとした重さのあるそれを落とさないように持って、屋敷と言っても過言ではない母屋へと戻る。その後彼女とは途中で別に保管してある反物を取りに蔵の前で別れて別行動となった。まぁ無理をして運んで汚しても失敗を後悔するだけだ。身の丈にあった事をすればいい。

 しかしながら大きな家だ。一歩踏み込めば迷路にさえなりそうな大家(たいか)。一体どれほどの歴史があるのだろうか。

 と、そんな風に考えながら庭を歩いていると、部屋の襖が一つ開いている事に気がついた。見るとはなしになんとなく向けた視線の先には、着物用のハンガーラック……確か衣桁(いこう)と言うそれに広げてある綺麗な藤の柄の(あわせ)が一枚。春の花である藤の柄と言う事は近々着る予定でもあるのだろうかと邪推をしつつ。

 温かみのある建築様式に飲み込まれながら記憶を頼りに先ほどの部屋へ。襖を目の前にしてどうにか桐箱を片手で抱えつつ開ける。と────


「持ってきた、よ……?」

「……あ…………」


 そこには差し込む日差しの下に白い肌を晒した(めぐみ)と、その傍に膝を突く(あい)の姿があった。

 下着姿の(めぐみ)。白く長い腕が一番最初に目に入り、そこから流れるように肩、首筋、鎖骨、脇、腰、脚と一本の綺麗な線を視界に収める。それはまるで絹で織られた繊細なつくりの人形のような流麗さで。思わず目を逸らすのも忘れてその場に縫い止められた。

 と、次いで巡った思考が直ぐに体を動かし、片足を軸に半転して襖を背に顔を逸らした。


「ご、ごめんっ! その────」

「んー…………まぁ仕方ないから。忘れて?」

「…………分かった」


 返った思いのほか冷静な(めぐみ)の言葉に落ち着いて、少し熱っぽい息を落とす。忘れるなんてそう簡単には出来そうにないほど鮮烈な景色だったが……彼女が言うのだ。出来る限り努力しよう。

 …………しかしびっくりした。まさかクラスメイトの下着姿に遭遇するなんて……。


「菊川先輩に着付けを教えてって頼まれたから。他人を着付ける方が分かりやすいかなって思って練習台になろうとしてたところで」

「あぁ、そっか……着付け」

「全く、ノックくらいしなさいよ」

「……襖でノックってどうやるんですか。俺知りませんよ」

「なら一言断りなさいな」


 開けっ放しだった襖から目を(すが)めた(あい)が顔を覗かせて手を差し出す。そんな彼女に桐の箱を渡しながら(うめ)けば真っ当な返答が零れた。

 ……いや、中で何をしてるかなんて分かるわけない。…………いや、だからこそ断れと言う話か。


「藤宮さんも年頃の女の子なんだからもう少し気をつけなさい」

「でも今回のは事故みたいなものだし。長松(ながまつ)君が忘れてくれるならおあいこって事で」

「それだけは正直に誓うよ。俺も次から気を付けるから」

「なにー? 次を期待してるのぉ?」

「いや、そうじゃなくて…………」

「ふふっ、冗談だよ」


 いいように弄ばれて己の失態を呪う。

 その傍らで微かに聞こえる衣擦れの音をシャットアウトするように何か別の事をと頭を回転させる。


「…………んー、って事はあの噂は嘘かな?」

「噂?」

「長松君がプレイボーイだってやつ」

「……何それ、俺初耳なんだけど」


 そんな懸を気遣ってかどうでもいい話題を提供してくれる(めぐみ)。例えそうではなくても今はその助け舟にのっておくとしよう。と言うか何だその噂は。


「ほら、長松君って女子と付き合っても長続きしないでしょ?」

「……それにどう答えろと?」

「別に、女の子の間の噂だから気にしないで」

「じゃあ言わない方がいいんじゃ…………」

「でね、それだけとっかえひっかえしてるとやっぱり変な話の一つや二つは流れちゃうからさ」


 それは懸と付き合って別れた女子が流した噂だろうか。まぁ、彼女の言う通り色々な女子とはお付き合いして来た。だからそう言う類の話なら、懸自身が受け止めるべき物なのだろうが。


「でも今の慌て振りを見るに、女の子慣れはしてないのかなって」

「…………幼馴染や妹がいるから面と向かって話す事に抵抗は既にないけど、それとさっきのは別問題だって。それともこなれた風に何か言った方がよかった?」

「ううん、そっちの方が長松君の事信じられなくなったかなぁ」

「……少なくとも付き合っていない子に性的に迫るなんてしないよ」


 せめてもの矜持だ。例え向こうから告白されて、その気持ちに応えて付き合うのだとしても。心の伴わない言動をするつもりはない。


「それとは別に、藤宮さんは綺麗だとは思うけど」

「はい減点っ」

「厳しいな」

「ふふっ」


 さっきの今ならきっとそうなるのだろうと思って口にした正直な気持ちに、(めぐみ)が笑って応えてくれる。この様子なら本当に彼女も気にはしていないのだろう。

 ならば後は懸が約束を守るだけだ。


「っと、これでどうかしら?」

「もうちょっと帯を締めても大丈夫ですよ。他は問題ないです」

「なるほど……」


 襖の奥から聞こえる二人の会話。この辺りも(あい)は要領よく教えられた事を簡単にこなしてしまうのだろう。相変わらず酷い格差を感じる。


「先輩? どうかしたんですか、そんなところに座りこんで」

「自省と忘却のプログラムを走らせてる最中だ」

「なんですか、それ……」


 どこかに行っていたらしい恋が懸を見かけて声を掛けてくる。誰かと話をしている方が気が紛れると彼女との雑談に華を咲かせれば、やがて室内から(めぐみ)の声が響いた。


「うん。OKですっ。もう入ってきてもいいよ」

「……失礼します」


 今度こそ断って。それから顔を上げれば、そこには見事に和服を着こなした、お嬢様然とした(めぐみ)が立っていた。

 黒地に赤い椿がよく映える、落ち着いた中に気品を感じる一枚。微かに揺らした仕草に翻る裾から覗く彼女の脚が、女子高生らしからぬ色気を放つ。


「本当は髪を結い上げるんだけど、今回は試着だからね。どうかな?」

「うん、とてもよく似合ってる。そのまま舞台に立ってもいいくらいだ」

「そうじゃなくて、踊りたくなるかどうか聞かせてよ……」

「……和室でなければ誘いたいくらいだ」

「…………37点」


 評価は(あい)の口から。相変わらず辛口評価なことで。

 袖で口元を隠しくすりと笑う様子に彼女生来の育ちのよさを見る。まるで絵画の中の女性がそこに立っているような不思議さだ。

 あと、どうでもいいけど点数が前と同じだった。進歩していないらしい。


「でも長松君がいいって言うなら決まりだね。丈も少し直せば大丈夫だし。後一枚は……どうにか頑張って作ってみようか」

「他の確認は大丈夫? だったら車に運ぶけど」

「うん、お願い」

「お手伝いしますっ」


 恋が続けば、広げた和服を(めぐみ)の指示通りにたたんで箱に収め、順に運び出す。しまえば意外とコンパクトな着物。両手に持てる箱の中にあの世界が広がっているのかと思うとその重さと小ささに不思議な気持ちになる。

 そんな事を考えながら立派な門扉をくぐって車へ物を運ぶ。次の箱を取りに戻る帰り道。気の緩んだらしい恋の足元が疎かになって小門につま先を引っ掛け転び掛ける。


「とぁっ!?」

「……っぶないなぁ。気をつけろよ」

「あ、ありがとうございます、先輩……」


 咄嗟に宙を掻いた腕を取って後ろに引っ張り衝撃的な地面との挨拶を回避する事が間に合った。これから舞台だって時に派手な化粧はやめてくれよ?


「運動神経はいいのに変なところでこけたりするよな、八重梅は」

「うぅ……いつもじゃないですもんっ」

「俺の所為かだってか?」

「だって先輩助けてくれますしっ」


 確かに中学からの付き合いでよく彼女を助けては来たが、変な信頼をされたものだ。と言うか俺の前だけとか何か変な星の下に生まれてないか?

 気を張る方も大変だと胸の内で零しつつ、それから全てを運び終えれば着替えた(めぐみ)達と共に車へ。そのまま高校へ戻れば、被服室には既に騒がしいほどの熱意が満ちていた。


「心、持って来たぞっ」

「あ、うんっ。その辺りに置いといてくれるかな?」

「分かった。それから一人分足りないからそっちは自作の方向で。その件はまた明日以降に話し合おう」

「りょーかいっ」


 最早一秒でも無駄に出来ない様子。これ以上邪魔をするのは悪いだろう。

 心の言った通りに分かりやすい場所へ纏めて安置し、それから(めぐみ)の下へ。


「藤宮さん、少し時間あるかな。もしよかったらダンスの稽古つけて欲しいんだけど」

「……いいよ。皆を見てたらあたしも体を動かしたくなっちゃった。とことん叩きこんであげるね」

「……望むところだっ」


 お手柔らかに。そう言いそうになって、けれども寸前で引っ込めた。

 彼女が言葉にしたように、懸も意欲が湧き上がったからこそ彼女にこうして頼みこんだのだ。それなのに弱気な態度を見せるわけにはいかない。

 完璧になるまで体に染み込ませて、可能ならば心達の手伝いをする。それが今懸に出来る最大限だ。

 覚悟を決めながら空き教室を目指して(めぐみ)と共に廊下を歩く。その傍ら、時間潰しに彼女の家からずっと燻っていた疑問を零す。


「そう言えばもう一枚和服があったよね。別の部屋に広げてあったやつ」

「もう一枚……?」

「藤の柄の」

「…………あぁ……うん。あれは演劇には使えないかなぁ」


 少し疲れたように返す(めぐみ)。その語調に想像を納得に変える。

 やっぱりあれは別の事に使う用だったか。近々あの袷を着る予定があるのだろう。上流階級も大変そうだ。


「訊かない方がよかった?」

「ん~……。それ以上は秘密にしてくれると助かるかな。長松君も面倒な事に巻き込まれるのは避けたいでしょ?」

「いい経験になるならそれも構わないけれど。もし何か愚痴りたいことがあったら遠慮なく言って。他人事に聞き流してあげるから」

「点数稼ぎ?」

「せめて赤点は回避して起きたいところだな」


 雰囲気で察する。どうやら余り踏み込まれたくないらしい。まぁ大方家の事情。他人の懸に迷惑を掛けるわけにはいかないのだろう。

 冗談で違うところに着地すれば、小さく笑った(めぐみ)。上品な微笑の裏に見え隠れする何かの気配には気付かない振りをしたまま次の一歩を確かに踏み出す。


「ってなわけで、厳しく指導をお願いします、先生」

「よろしいっ。その意気込みを酌んで、あたしが君を立派な男にしてあげましょうっ」


 それは王女ではない気がする。そんな事を考えながら教室に向かえば、(あい)や恋が先に来ていて特別授業の開始を今か今かと待ち構えていたのだった。




 準備の期間はあっという間に過ぎる。集中すれば早く感じる時の流れの中で、一度は止まりかけた流れをどうにか持ち直して元のペースにまで引っ張り上げることが出来た。

 それは(ひとえ)に心や亜梨花たち手芸部の手伝いのお陰で、どうやら手の空いた他の組の手伝いをしていた子達まで協力をしてくれたらしい。困ったときにはお互い様とは言え、先に手を差し伸べてくれた事には感謝だ。後で何かお礼をしなければ。

 そんな衣装班に対抗心を燃やしたのか、当初は修正を加えて使用する予定だった背景の絵も、やるならば本気でと言い出した大道具班のお陰で一から立派な和風の物が仕上がった。お陰で先に描いた西洋風の背景はお蔵入りとなってしまったが、来年以降どこかの組が使って供養してくれればいいと意見が纏まった。

 そんな風に最初の頃よりも数段増した熱気でゴールデンウィークも明け、準備も今日が最後。諸々の仕事は既に終わっていて、今は最後の手直しや細かいブラッシュアップを行っている最中。明日通しでのリハーサルがあって、一日開けて本番だ。

 舞台演技の方ももう完璧。それどころか暇が苦しいと嘆いて、あって欲しくないハプニングに対するアドリブの練習を始めている輩もいる。成功して欲しいのは分かるけれども中々に縁起が悪くないか、それ。

 心達の方も今日はゆっくり時間が取れるとのことで、久しぶりに一緒に帰ろうと先ほど連絡があった。

 彼女を待つ傍ら、文芸部の部室で一人演劇の台本をめくる。途中での世界の変更は、けれど雰囲気だけ。台詞回しに変化はないし、お陰でゼロから覚えなおす事をしなくてよかった。その点は依織の修正力に感謝だ。

 ページの端に指を掛ければ、基本そこばかりを摘まんでいた所為か紙が擦れて薄くなり、微かに破れて欠けている。それだけ使い込んで情熱を注いだ証だと思えば遣り甲斐があったし、成功への期待も強い。

 それはきっと懸達だけのクラスの事ではないだろう。そんな空気が、今学校中に満ちている。

 まるで祭りを前にしたような高揚感と緊張感。焦燥は心地よい実感に変わり、目に見えない確かな物として胸の内に強く渦巻く。

 後はこれを全力で吐き出すだけ。全てを賭して、兵士の思いを貫くだけ。


「結局、誰がよかったんだろうな……」


 小さな呟きは、ともすれば自分自身に対する問いかけ。

 別に王女役の誰かに告白されたわけではない。想いを寄せているわけでもない。ただ、彼の優柔不断さが、懸個人の思いと重なって同じだけの迷いを生み出すのだ。

 遠くからしか見てこなかった憧れが、そう言う対象として見て来なかった彼女達が、目の前にやってきて一人を選べと突き付ける。彼女達の何を知るわけでもないのに、それでも選べと迫られる。

 この主役に、好みはない。この主役に、欲はない。誰も兵士の思いを知らない。

 まるでそれは、誰もが兵士に自分を重ねて理想を描けるような、白紙のキャンバス。全編アドリブさえ許されるような、何ものにも染まらない、蕾。

 …………もし、この兵士が懸と同じ思いに悩まされているのだとしたら。誰よりも辛いのはきっと彼自身なのだろう。

 目の前にもう一人、甲冑姿の自分がいる気がしながら問う。


 ────君に、好きな子はいるのか? 戦場に出向く前に、誓った思いはなかったのか?


 それが懸には分からないから、きっと何処までも嵌り役なのだろう。……主役を演じる身として自分の役柄が分からないと言うのは失格かな……。

 依織に訊けばいいのだろうが、それは何だか反則な気がする。だからきっと、こんな選択をする破目になったのだろう。


「……ん」


 不意に響いたバイブレーション。机に置いていたスマホが揺れて画面を見れば、所用が終わったらしい心からメールが届いていた。直ぐに荷物を纏めて昇降口へと向かえば校庭を眺める心の後姿を見つけた。


「ここ────」


 (こころ)。そう彼女の名前を呼びそうになって、それから気付く。上げかけた手をそのままおろし隣に並ぶ。


「帰るか」

「うん」


 少しだけ悲しそうな横顔。その表情に何があったのかを察しながら校門を出る。そのまま会話もせず無言で歩き、やがて家のある州浜(すはま)まで戻ってくると駅からの短い徒歩の中でようやく重い口を開けた。


「告白されたのか」

「うん」

(こころ)は?」

「もうちょっとかかりそう……」

「そうか」


 返った言葉にそれから目に入ったコンビニ。一つ断って飲み物を二本買い、片方を手渡して近くの公園のベンチへ腰を下す。


「……何回こうなっても申し訳なさしかないね」

「直ぐにどうにかなるとは思ってないさ。気長にいこうぜ、(しん)


 (しん)。それが彼女の──彼の名前だ。

 (こころ)は、病を患っている。名を、解離性同一性障害……いわゆる二重人格と言う奴だ。

 幼稚園の頃、彼女は精神にトラウマを生じさる出来事にあった。その原因は俺にもあって、彼女がそうだと分かったときから、俺は彼女を支え続けてきた。

 精神に大きなショックを受けた末、彼女の心は自分を守るためにもう一人の自分を作り出した。それが(しん)だ。

 (しん)と言う名前は懸が与えたもので、(こころ)と区別するための、ある種の記号だ。当人も受け入れていて、それ以降は(こころ)(しん)をしっかり分けて考えられるようになった。

 (しん)は男性人格だ。幼稚園の頃のトラウマが性差に絡むもので、それに起因するかららしい。

 中でも彼は内的自己救済者と呼ばれる存在で、簡単に言い換えれば(こころ)がトラウマを克服するために全面的に協力する人格と言うものだ。つまり(しん)は一人として自律し主人格である(こころ)と言う少女を脅かすような、よくドラマとかで題材にされる宿主から体を奪いたいなどと考える存在ではない。将来的に言えばきっとどこかで消えてしまう、(こころ)の精神的な支えなのだ。

 人格でありながら、主目的は主人格の補助。自身が消える事を望み、元の一人を助けようとする存在。

 だから(しん)には感情と言う物が殆ど存在しない。全ては心の為で、原因を憎んだり、理不尽に怒ったりはしない。強いて言うならば、(こころ)を生かす愛に溢れた存在だ。

 そんな(しん)は男性人格だ。だからか、(こころ)は潜伏的な性同一性障害の可能性がある。

 性同一性障害は簡単な話、肉体と精神の性差に葛藤する疾患だ。女性の体に男性の人格。まだそこまで問題にはなっていないが、いつ併発するとも知れない爆弾のような物。

 そんな精神の病を抱えているのが、(こころ)と言う少女だ。

 普段は普通の女の子として生活している(こころ)。しかし何かが原因で彼女に性差の危機を知らせるような事態に陥った際に、(こころ)の精神が意識をシャットアウトして、代わりに(しん)が表れる。彼女の場合は特に告白やヘビーな性知識に関することがトリガーだ。

 (こころ)個人が内側に認めた異性……懸や依織等の付き合いの長い男に対しては殆ど出ることがない。依織相手に一度も出たことがないのも幸運で、彼はこの事を知らない。きっと彼がオタクで、リアルの異性にそれほど興味がない事がよかったのだろう。お陰で今では普通に会話出来る数少ない異性だ。

 だから基本的に女子と行動を共にする(こころ)。特にずっと仲のいい亜梨花は彼女の良き友だ。


「告白相手はどうしたんだ?」

「いつも通り断っておいたよ。今のところ相手にも恵まれてるみたいで、しつこい男はいないから」

「見た目だけで言えば線の細い女の子だからな。話せばそんな事無いって分かるんだがな」

「普通に恋が出来るようになるためにも、早くどうにかしてあげたいけれどね」


 呟きは平坦に。けれどどこか感情の篭った響きに、こちらの胸の内まで暖かくなる。


「他に何か変わった事は? あいつの抱え込み癖は最早世界の法則の一部だからな」

「…………特には。今一番は演劇の事かな。一時はどうなるかと思ったけど、どうにかうまくいきそうだし。終わったら────っと、これは秘密」

「お前まで隠し事かよ」

「僕は(しん)だけど、(こころ)から生まれた一部だからね。大丈夫、これはいい方に転ぶ秘密だから」

「あいつのいい方は俺の悪い方であることが大概なんだが……」


 (しん)(こころ)の内側の事を全て知っている。何を考え、何を思い、何に悩み、どうしたいのか。だからこそその裏返しに彼女には出来ない事を代わりにやるのが(しん)の役目。

 そんな性質を少しだけ利用して口の固い幼馴染のそれとないお悩み解決が懸に出来る精一杯だ。

 治療もそうだが、荒療治は出来ない。全てはただ、理解して協力する事だけ。鍵は最初から本人が持っていて、その錠前が開く手助け以上の事をしてはいけない。もしそれを越えて無理強いをしてしまえば、不安定な精神にどんな影響が出るか分からない。

 だからゆっくりと、一歩ずつ……進んでいるかどうかも分からないいつかの未来に向けて歩き続けるのが、俺に出来る事。俺の、罪は罰、なのだ。


「と言うかスカート寒いっ……!」

「今日は風があるしな。後少しの辛抱だ、我慢しろ」

「一度履いてみればこの辛さもきっと分かるよ」


 そんな悪態を俺に吐かれても。

 思いつつ(しん)とそうして他愛ない話をしながらしばらく時間を潰す。話の中では、(こころ)が感じた事を彼も自分の事のように認識しているお陰で、心の底から演劇祭を楽しみにしている事が伝わってきた。

 ハプニングにもめげずに最善を尽くし、時間を作っては主人公だからと懸の衣装に愛情を注いでくれた心。そんな彼女のためにも、明日のリハーサルとその後の本番は本気以上で挑むとしよう。

 覚悟以上の戒めのようにそんな事を考えながら、座って十分も経った頃唐突に彼が告げる。


「……ん、起きるっぽいから、また今度」

「今度があっていいのかよ」

「これでも懸の事は信用してるからね」


 答えなのかなんなのか分からない返答を落として、それからふっと糸が切れた人形のようにこちらに凭れ掛かってくる体。咄嗟に受け止めてそのまま膝に寝かせてやれば、しばらくして身動ぎをした後彼女の体が持ち上がった。


「…………ぅんんー……。ぁれ、ここはぁー…………」

「おはよう、心」

「え、あ、うん……。…………そっか、私またやっちゃったのか」


 いつもの微笑み。それから彼女は告ぐ。


「ありがと、懸君っ」

「あぁ」


 この問題に関して謝る事は、随分前に二人で決めてやめた。これは互いの過去だから。謝ったところで何かが変わるわけではないのだから。ならば少しだけポジティブに物事を考えようと言う事で、ありがとう。

 言う度に、きっと心は胸を痛めているのだろう。後悔を重ねているのだろう。

 けれど、だったら他に何があるというのだ。何かいい答えがあるのなら、誰か教えてくれ。


「……ん、もう大丈夫だよ」

「なら帰るか」

「うんっ」


 強がりには気付かない振りで答えて掌を差し出し引っ張り上げる。そのまま歩き出せば、隣に並んだ心がいつもの確認を投げかけてきた。


「あの子、何か言ってなかった?」

「いつも通りだ」


 いつも通り、色々な話が出来た。

 心は笑って「そっか」と零すと、何かを探すように少しだけ俯く。きっと気を失う前の事を思い出しているのだろう。

 (こころ)(しん)の事を知っている。人格の認識においてよく一方通行と言うことがあるが、彼女達の場合は相互認識が出来ている。その影響か、目が覚めた直後は記憶を遡る事で(しん)がした事を少しだけ思い出せるらしい。


「……ちゃんと断れたんだね」

「大丈夫そうか?」

「うん。大丈夫」


 長い付き合いだ。そんな言葉を信用するわけはないけれど。しかし彼女がそう言うなら飲み込むとしよう。その信用が、彼女が一番早く元に戻れる道な気がするから。


「そう言えば肩のところはあれでよかった?」

「……衣装のか?」

「うん」

「あぁ、依織も大丈夫だって言ってた」

「なら安心だね」


 話題の転換に追いつけば、ようやくいつも通りの空気を感じて乗っかる。


「まぁ心が作った衣装だ。俺が文句を言えるわけないだろ?」

「ふふっ、ありがと。それじゃあリハも頑張ってねっ」

「あぁ、任せとけ」


 そう続ければ、いつもの心の笑顔につられて懸も笑みが零れた。




 翌日、一度読み合わせをした後リハーサルが行われた。これまでも通しでは何度かやってきたが、今回は確かな感触。きっと本番(さなが)らの緊張感もあって実感が湧いてきたのだろう。ここまで来ると大なり小なり色々あった問題も懐かしくいい思い出に感じる。

 ……いや、全ては本番を終えてからか。それまでは出来る限り最高を目指して詰めなければ。

 そう考えながら一通りの演技を終えて予め撮っておいた映像を確認し、小さな修正箇所を洗い出す。とは言っても殆ど粗探しのようないちゃもんばかり。特に懸に対しては男子生徒からの熱いかわいがりが熾烈だった。だったら兵士役に立候補すればよかったんじゃないですかね。

 音楽や照明等の裏側の打ち合わせも全て終えれば、(あい)の一言で時間内に解散になる。この辺りの彼女の采配には尊敬をするばかりだ。彼女がいなければもう少し一体感が欠けていたかもしれない。演劇祭が終わったら改めて御礼をするとしよう。

 そうして各々に片付けをしながら教室へと戻っていく。そんな彼らを見送って、リハの順番が最後と言うこともあって講堂の戸締りを任された懸は舞台の裏で一人制服に着替える。

 流石に人がいない広い空間は肌寒い。……が、少しだけ妙な気分で開放感に浸れるのは役得かもしれない。もちろん変な性癖を持っているわけではないが。


「長松君、ちょっといいかな?」

「ん……あ…………」


 不意に掛けられた声。上半身裸のまま振り返ってそこに立っていたのは(めぐみ)

 交わった視線と共に彼女の頬に少しだけ朱が差す。が、悲鳴より先に視線を逸らした彼女が身を隠した。


「……事故だな」

「うん、そうだね」


 互いに見て見られたのだ。それ以上は必要ない。判決、両成敗。

 ……しかし少し面倒なものを見られたかな。


「えっと、それでどうしたの?」

「うん、ちょっと相談があって」

「少し待ってくれる?」

「分かった」


 手早く着替えて荷物を纏めれば、既に冷静に戻った彼女と向き合う。……少しだけ開いた物理的な間は生理的なものか。それはきっと正しいだろう。


「ごめんね。相談って?」

「一箇所踊りのステップ変えたいんだけどいいかな?」

「どこ?」

「最後一個前の──あ、台本持って来てない……」


 とりあえず目の前のこと、と、(めぐみ)の話を聞こうとしたところでいきなり腰を折られる。

 既に台詞も覚えて体に染み込ませた演技。台本無しで演じるのが当たり前になっていたからこそ、携帯する事をいつしか忘れてしまった依織の集大成。

 そんな彼女の小さな愛嬌に笑って、確認をするからと(あい)に言われて持ってきていた自分の分を取り出し、広げて覗き込む。

 一つの台本を二人で。ともすればこれまでも何度かあったその行為に(めぐみ)が驚いたように肩を跳ねさせた。


「……汗臭い?」

「いや、その……そうじゃなくて」

「踊りの場面ならもっと近いと思うけど?」

「そうだけどそうじゃないよっ」


 珍しく意識したような言動。先ほど上半身裸を見たことが原因だろうか。

 考えていると顔を背けて深呼吸一つ。それからいつもの顔つきに戻った彼女と一緒に台本を見つめて彼女の提案を聞く。その傍らで脳裏を過ぎる納得。

 ……あぁ、そうか。きっとこの広い空間に役と言う仮面もなく二人きりだからだろう。そう言えば素の彼女と二人きりと言うのは初めてかもしれない。


「────で、そのまま元の踊りに繋げて……。聞いてる?」

「聞いてるよ」


 傍で囁かれる(めぐみ)の少し怒ったような声。こちらを覗き込むような視線に笑みを浮かべて答えると、立ち上がって掌を差し出す。


「……一曲わたしと踊ってくださいませんか、王女様」

「そんな台詞ないでしょっ」


 被った仮面にくすりと笑った(めぐみ)が手を取って、それから二人で踊り出す。

 先ほど彼女から聞いたイメージを追い掛けて足を運べば、初めてだがすんなりと派生できたアレンジ。これもきっと練習で培われた基礎のお陰だろうと、スパルタだった目の前の先生の指導を思い出しつつまた一歩を踏み出して。最後に一礼すれば飾らない感想が貰えた。


「うん、いいねこれ。本番はこれでいこうっ」

「分かった」


 師からの了承も得て演技に組み込む。後で(あい)や依織に言っておくとしよう。

 そう考えた直後、響いた一つの拍手の音に(めぐみ)と一緒に振り向く。するとそこに立っていたのは(あい)だった。


「帰ってくるのが遅いから何をしてるのかと思えば。いや、そのまま帰っておくべきだったかしら?」

「そう言うのじゃないです。長松君と付き合ったって泣かされる気しかしませんから」

「それは酷くない?」


 冗談ならよかったのに……悲しいかな、今のは多分本音だ。けれどまぁ、そうならないのだと分かっていればこちらも気兼ねしなくて助かる。今はまだ、色恋よりも友情の方が楽しい。華の高校生としては少し間違っているのかもしれないが……。


「早くしないと先生に蹴り飛ばされるわよ」

「分かってますよ」


 (あい)の言葉にこそ蹴り飛ばされながら荷物を纏めて講堂を後にすれば、三人で肩を並べて歩き出す。合間に紡がれるのは先ほどの踊りのこと。話をすれば頷いてくれた(あい)だったが、何の対抗心か彼女も新しいステップがしたいと言い出した。

 しかしこれ以上となると懸の許容量を越えてしまうために今回は却下。早い者勝ちで(めぐみ)だけだ。……もう少し余裕があれば別だったんだけれど。次があれば出来る限り我が儘を聞きますから今は許してください。

 そんな風に談笑をしつつ気付けば渡り廊下へ。校庭では既に早い部活が準備を始めていて、そろそろ吹奏楽の調律が聞こえてくるだろうかと想像を馳せる。

 と、そこで(めぐみ)が立ち止まった事に気が付き振り返る。すると彼女は、どこか真剣な色を灯して真っ直ぐに懸を見つめ口にする。


「……長松君、さっきの…………肩の事、訊いていい?」

「肩…………?」


 そう言えば心なしか雑談にいつもの調子がなかったか。どうやらずっとそれを考えていたらしい。

 彼女の優しさなら見なかったことで逃してくれるかと思ったが、それ以上に見逃したくない案件だったらしい。

 …………別に隠すことではない。訊かれたならば答えようか。


「いいけど、ここだと少し場所が悪いから移動しようか。先輩も、気になるのでしたら一緒に来てください」

「そんなに仄めかされて無関心を貫けるほど後輩に厳しいつもりはないわよ」

「ではご自由に」


 そういい残して空き教室を見つけて飛び込めば、念のためにカーテンを閉めて外からの目を遮る。それから二人に向き直ると、小さく呼吸を挟んで覚悟を決め、告げる。


「……訊かれたから答えるけど、出来れば口外はしないでね」

「うん」


 短い中に確かな音を聞いて、次いで制服を脱ぐ。話が見えていなかったらしい(あい)が突然の事に驚いた様子だったが、シャツを脱いで上半身裸になると僅かにあった躊躇いも吹き飛んだようだった。

 息を呑んだ(あい)が壊れ物にでも触れるように尋ねてくる。


「…………懸君、それ……」

「簡単に言えば火傷の痕です。幼い頃の物がずっと残ってるんですよ」


 それは、赤黒く爛れた左肩の皮膚。正確には、肩と首筋の低い辺りまで広がった火傷痕。

 簡単な説明に黙り込む二人。けれど視線はそれ以上を求めて離れない。……あまり語りたくない過去だが、話せるところまで話すとしようか。


「……僕に妹がいるのは知ってますよね」

「えぇ」

「彼女……(ゆかり)は、俺の父さんの再婚相手の連れ子……血の繋がらない義妹なんです」

「そうだったんだ……」


 呟きは(めぐみ)のもの。恐らくは再婚と言う部分に対するものだろう。

 言ってしまえばデリケートな問題。他人の家族のことだ。懸が(あい)(めぐみ)の家の事情に口出しできないのと同じで、覚悟以上の物がなければ簡単に踏み込めない領域。その淵に足を掛けた事に気がついたらしい二人が微かに迷いを滲ませる。

 ……けれども、毒を食らわば皿までと。話してくれるのならば最後まで聞き届けると。全てを飲み込んで目の前の茨に足を出す。その音を聞いて、懸も覚悟を決める。


「その再婚の理由……と言うか元々の離婚の原因で。この火傷、俺を生んだ母親につけられた物なんだ」

「え…………」

「…………児童虐待ってこと?」

「ちゃんと理由あっての事ですけれどね。そこは今回は省かせてもらいますよ」


 詳細な理由を話せば、彼女達を巻き込んでしまう。その危惧を想像して必要最低限で収める。


「そのことが起こるまでは普通の家族だったんです。けれど、一時の感情の高ぶりと言えど子供に消えない傷を残すような親とは一緒に暮らせないって事で、両親は離婚。俺は父方に引き取られて、その後今の母親と、紫に出会ったんです」


 客観的に見ればどこかにあるかもしれないとても現実的な理由だ。


「ただ、あったのはその一回だけですし、俺の中でもしっかり納得はついてます。だから今更憎んでも怨んでもいません。そこだけはしっかり言っておきます」


 明確な線引き。許す、と言うのは傲慢な話かもしれないが。行為は別として俺も責任を感じているのだ。だから、そう整理をつけている。

 告げた事実に、しっかりと噛み砕いて咀嚼した二人。その上で、(めぐみ)の視線が問う。……藤宮さん、随分アグレッシブだね。


「火傷の原因はやかんだった。丁度沸騰したお湯を、やかんごと投げつけられたんだ」

「っ……!」


 言葉にしない疑問に答えれば、想像をしたらしい彼女の肩を震えるのが見えた。だったら訊かなければよかったのに。好奇心は猫を殺す、だな。


「それがこの火傷と、僕の身の上のあらましだよ」


 話の途中から着始めた制服を全て元に戻せば、それから最後の事実を告げる。

 ……これを言うのは二人を含めると六人目かな。きっと、もうこれ以上話さないだろう。


「だからかな。僕は愛されるとか、恋をするとか……そう言うことがよく分からないんだ。怖くは無いんだけどね、理解が出来ない。自分の感情が分からない……。火傷とは別に、僕の心に負った傷。……誰か一人を選べない兵士と同じだよ」


 振り返って飾った笑顔を向ければ、後悔と共に二人は視線を逸らしてくれた。……うん、それが多分、正解だよ。

 この心の傷は、愛されていた母親に拒絶された事によるもの。もしこの傷を癒そうと思うのならば、今もこの空の下のどこかにいる彼女と面と向かって話をする事が一番の解決策だと確信している。

 因みに、彼女には離婚して以降一度も会ってはいない。父さんも、必要最低限の連絡しか取っていないようだ。

 だから、その機会なんて何処に転がっているのか皆目見当もつかないのだけれども。……そのうち…………それこそ大学にでも進学して、色々余裕が出来たら探してみようかなと言うのが個人的な目標だ。

 それが解決するまでは、他の将来の事なんてよく分からないままだろうし、ましてや誰かと付き合って本気で恋をし、愛するなんて出来ないだろう。それくらいには懸個人にとって大きな心の問題なのだ。

 それでも向けられる好意には誠実でありたいから、フリーであれば付き合うようにはしている。でも、返すことが出来ないから、その事に違和感を覚えたり感づかれたりして、相手の方から別れ話を切り出される、と言うのがいつものパターンだ。

 ……薄情だろうか? けれど、既に納得したことだ。なにより、こんな不完全な人間に恋をし続けて青春を棒に振るより、想いが冷め、断ち切って別の誰かに心変わりをした方がその子の為だろう。と言うのが俺個人の言い分。

 どう言い飾っても現実は変わらない。だからその償いとして、今まで付き合ってきた子の名前と、その時間だけはしっかりと覚えるようにしている。……もし何かの拍子に気持ちが芽生えたなら、今度はこちらから声を掛けることが出来るだろうから。


「依織はこの事を知ってるからこんな脚本にしたんだろうけどな。ほんと、いい性格してる友達だよっ」


 茶化すようにそう続ければ、やがて全てを秘め終えたのか二人の視線が懸を射抜く。


「……話してくれてありがとう」

「何かあれば力になるから言ってね?」


 二人の優しさに笑みを浮かべれば、それから直ぐに思いついた最初の我が儘。


「だったら一つお願い。演劇、絶対に成功させよう」

「えぇ、もちろん」

「大丈夫だよ」


 どうにか取り戻したいつもの空気。のってくれた二人の気遣いに感謝をしながら、それぞれに用があるらしい二人と別れる。

 演劇祭が始まってから色々なものが転がり出てきた気がするが、まぁそれは追々。何かあればその都度解決するとしよう。


「浮気ものーっ」

「何の誤解だ……」


 廊下を歩き出すと唐突に背中に走った衝撃。前につんのめりながら振り向けば、そこには腕をクロスさせてわきわきと動かす心の姿。……依織が告げ口しやがったか? 相変わらずいい性格してる親友だ。


「だったら言い訳を聞きましょうじゃあーりませんかぁ」

「元気だな。……帰りながらでいいか?」

「おっけいっ」


 いつもの心の明るさに支えられながら足を出す。さぁ、もう一度過去を抉り返すとしよう♪

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