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花は患い、恋得らない  作者: 芝森 蛍
桜舞う舞台の上から
4/84

第三輪

 週が明けて高校へ向かえば、昼休みに副会長である菊川(きくかわ)(あい)に呼び出された。呼び出し先は屋上ではなく生徒会室。そのことにある程度のあたりをつけながら向かえば、部屋の中には既に依織(いおり)(こころ)が顔を並べていた。


「遅刻者にはどんな罰がいいかしら?」

「時間指定はなかったと思いますよ」


 開口一番試すような言葉を投げかけられ、咄嗟にまじめな返答をすれば(あい)は面白くなさそうに溜息を吐いた。お願いですから戯れもほどほどにしてください。と言うかわざわざ俺だけ後から連絡してまで仕込みをしないでください。

 喉まで出掛かった言葉をどうにか飲み込んで面子に加われば、今のやり取りがなかったかのように真剣な表情で(あい)が切り出す。


坂城(さかき)君が頑張ってくれたお陰で台本が上がったわ。全員分印刷する前にこの四人だけで一度目を通しておこうと思ったの。いいわよね?」

「構いませんよ。妥当な人選だと思います」


 まだ明確に決まっているわけではないが、総指揮は(あい)が。その補佐と、それから役者の統括を(かける)が。衣装班のまとめを心が。そして当然、脚本責任は依織が受け持つことになる。

 美術面が少し弱い気もするが、とりあえず今回の演劇祭で中核を担う人物達なのは確かだろう。


「まだわたしも読んでないから、その後で意見交換をしましょう」


 言いつつ差し出してきたのは右上に穴を開けて紐で一纏めにされた台本(仮)。規定では上演時間は45分から一時間で収まるようにとの話だ。それに合わせて潤色された紙の束は、ずしりと重く確かな実感を手首にかける。


「とは言っても二人には一昨日プレ版を見せてるからな。途中は殆ど変わってないから最後の感想だけ聞かせてくれ」

「分かった」

「はーい」

「……ずるいわよ」


 (あい)の抗議をスルーしてソファーに腰掛け、手元に視線を落とす。

 依織の言う通り兵士が王女達の秘密を突き止めるまで前に見た通りの流れで、それほど目新しい物はない。強いて言えば、土曜の書き出しより更に台本らしく台詞を並べて色々描写をされている点だろうか。

 説明らしき台詞は殆ど兵士視点の話で、語りのような詩のような旋律は流石依織と言うべきところだろう。同じ文芸部として創作活動が好きな彼は常日頃から色々書き殴っている。その積み重ねが情緒豊かに世界の雰囲気を彩り、きっと初めて読んだ者にも誤解のない世界観を描かせる事ができるだろう。

 台本とは別に個人的な感想を言えば、俺は依織の文体が大好きだ。性格を知っているからこそ読み易いのかもしれない。

 気付けば物語に引き込まれて、読まなくてもいいと言われた部分までしっかり読まされれば、やがて展開が結びに向かう。

 物語の最後は、依織のオリジナルである兵士の優柔不断逃走ルートだった。選択肢が観客に委ねられる、男にとってはある種の理想のような展開。

 そこに至るまでに兵士は煮え切らない態度を見せ、その事に解決策が提示される。曰く、見て決められないなら踊って決めればいいと。そこからは兵士が慣れない様子で代わる代わるに12人の王女たちとダンスに揺られ、けれどもそれでも決められないと嘆いたところで物語は幕を閉じていた。

 個人的な感想としては、兵士のバックグラウンドに戦の日々が見え隠れしていて、キャラクターが掴みやすくなっていた。12人の王女は誰もが遜色ないほどの美人だと語るのも、踊りが不慣れなのも、優柔不断を貫くのも。まるで明確な敵が見つからずに矛先を右往左往させる哀れな雑兵のようで、コミカルにさえ思える。

 ファンタジーであり、ラブコメ。確か依織が好きなジャンル……ライトノベルによく見られる物語の構成展開。だからこそ、依織としてはそれが一番書きやすかったのだろう。


「……なるほどなぁ」

「女の敵だねっ」


 読み終えて小さく納得を落とせば、心からは女性らしい意見。確かに、王女の立場から見れば遅疑逡巡する兵士に対して遣り切れない思いが募り、そう感じてしまうものだろう。

 だからこそ、明確な終わりを決めないことでその先の想像を読者に……観客に委ねる面白さがあるのだ。


「悪くないわね。二人からは何かあるかしら?」

「……やっぱり誰か一人を選ぶ方が格好いいと思うのっ」

「そう言われると思った。から、代替案と言うか、丸投げにはなるんだが、その気があれば兵士役の人の意見を取り入れて結末だけ変えてもいいようにもしてる」


 (あい)の言葉に納得の行かない様子の心が言葉を落とす。それに続いた依織の声に、部屋の中の視線が一気にこちらを向いた。


「…………もしそうするなら、途中兵士が王女を追いかける際にする失敗を削った方が、ギャグよりも恋愛方面にまとまりが出るだろうな」

「けれどそうすると兵士の魅力がなくなるわね。真面目でありながら道化のような兵士。そんな失敗に注目と共感、緊張感が集まる方が、物語としてはとても面白いわ」

「菊川先輩は懸君がヘタレでもいいんですか?」

「おいっ」

「そこが駄目になるか魅力になるかは演者次第ってところね」


 巡った議論が最終的に懸へと向き直ってその中心で少しだけ考える。降りた沈黙は停滞よりは思案。やがて懸が口を開く。


「…………原作通りよりは、俺たちらしい作品に仕上げる方が楽しいと思いますよ」

「……折角懸君の未来の名誉の為に進言してあげたのに」

「だったら否定じゃなく肯定から兵士を主人公らしく仕立て上げてくれよ」

「…………分かった。その代わり見掛け倒しにならないように懸君も頑張ってねっ」

「伊達にこれまで演劇で主役に担ぎ上げられてないっての」


 小学校は三分の二、中学では演劇をやる年には毎回主役級に抜擢されていたのだ。嫌でも演技力はつくと言うものだろう。

 その所為か、滝桜に入った時に少し演劇部にも興味が湧いたのだが……結局のんびり出来る文芸部に腰を落ち着けることになった。

 最早舞台の上の中心にいる事に躊躇いはない。任せてもらえるならば精一杯応えるだけだ。演劇部員には申し訳ない話かもしれないが……。


「坂城君もそれでいいかしら?」

「分かりました。今後何か修正があればその都度と言うことで」

「えぇ。それじゃあ解散にしましょうか。いきなり呼びつけて悪かったわね」

「印刷は先生がやってくれるんでしたっけ?」

「もう昼休みも時間がないわね。帰りに提出しておいて貰えるかしら?」

「はい」


 結論が出れば、その後を手早くまとめて解散とする。ここまでは順調だ。

 この後午後の授業を受けて。その間に先生方が台本の印刷。放課後に縦割り全員で集まって読み合わせと配役決め。時間が余れば通し読みまでが理想だが、それはまた次回になるだろうかと。

 脳裏に大体の流れを描きつつ生徒会室前で(あい)と別れて三人で歩き出す。


「ちょっと意外だったな」

「何がだ?」

萩峰(はぎみね)さんだよ。まさかあそこまで面と向かって反論が出るとは思わなかった」

「だとよ?」

「折角だから私だって本気でやりたいよっ。言いたいことを飲み込んで不完全燃焼って言うのは嫌だから」


 確かに、普段の心の性格から考えれば強気な発言はあまり想像がし辛いかもしれない。温和な雰囲気と影から支える純朴さが周りの思う彼女らしさで、そう言う儚げな部分が彼女の魅力の一つとして少なくない好意を集めている要因だろう。

 けれど彼女の幼馴染として昔から知る懸には別に珍しい事ではない。と言うか、心が意外と頑固なのだ。

 胸の奥に秘めた思いは強く、それが例え他人と衝突するのだとしてもあまり譲る事はない。それはきっと責任感の裏返しでもあり、心を心足らしめる一部だ。


「それよりも私としては懸君だよ。兵士役受ける気満々だね?」

「俺は別に。ただ期待されて悪い気はしないし、その思いに応えたいってのは間違いじゃないだろ?」

「そんなこと言ってぇ……菊川先輩とか藤宮(ふじみや)さんが相手だからって張り切ってるんじゃないのぉ?」

「……そうだな。偶然とは言え一緒に頑張る有名人に恥を掻かせられないからな」

「嫌に素直だね」

「嘘じゃあないからな」


 幾つか重なり合った思いの一つ。そう言葉にすれば、返答がお気に召したのか嬉しそうに笑みを浮かべた心。この様子なら彼女が作り出す衣装にも期待が高まるところだ。


「メイン様がこれなら脚本家としては安泰だな」

「……言っとくがやることないなら大道具班に強制編入だからな」

「うっへぇ、兵士様がか弱き一般市民に向けて剣を抜きやがった……」


 零れた音にまた一つ心が肩を揺らして。そうして順調に、舞台裏が幕を開けて行く。




 放課後の話し合いも思いの他スムーズに運んだ。流石に配役を決めた後の通しは出来なかったが、面倒を押し付け合うこともなく、次回からの本格的な練習に向けて意気高く話し合いを終える事が出来た。

 因みに懸は兵士に。12人の王女役には想像していた通り(あい)(めぐみ)。それから(れん)が名乗りを上げ、その他は推挙と、数人いた演劇部員が。王様は三年生の先輩が演じることとなり、何故か魔女が無駄に人気職となっていた。何、皆ダークサイドに並々ならぬ憧れでもあるの?

 そんな一幕の後、メインキャストは心と亜梨花(ありか)、そして衣装班によって衣装用の採寸をされようやく解放された。これから型紙を切り出して、素材を選び裁断してと彼女たちの手によって舞台を彩る華やかな色が出来上がっていくのだと思うと尊敬が募る。まぁそちらは出来上がってからのお楽しみだ。それまでは衣装に見合う演技を自分の中に落としこむとしよう。

 そう考えつつ今日は部活を無視で家で静かに台本を読み込もうと昇降口へ。と、そこでガラス戸のところに(あい)を見つける。これから部活か、それとも今日はそのまま帰宅か。

 とりあえず挨拶でも……そう思って声を掛けようとしたところで、彼女が誰かと通話している事に気付く。遅れて聞くともなしに聞こえてきた電話口の会話。


「え、これからですか……? …………はい、大丈夫ですけれど。ちゃんとお金は出してくれるんですよね? ……分かりました。その代わりそちらの都合なんですから色はつけてくださいね。……はい……はい。それではまた後で」


 呆れたような、疲れたような口調。思わずしてしまった立ち聞きに、偶然と言う状況が重なって想像が嫌に加速する。

 一体何の話だろうか……。彼女とは中学からの付き合いである懸にはある程度想像がつく。いつもより少しだけ硬いあの口調は、よく先生に向けているようなそれ。電波の向こう側の相手は──男、それも大人だろう。そこに学校終わりで、呼び出しで、金のやりとり……?

 …………いや、立ち聞きをしておいて無粋な詮索なんて愚かにもほどがある。それは彼女の自由で、選択だ。

 けれども、何故だか嫌に胸が騒ぐ。

 (あい)は昔からどこかミステリアスだ。これまでの付き合いで学校では仲良くこそしてきたが、プライベートの彼女に触れた事はなく、そう言った話になれば彼女の方からそれとなく避けられていた感もあった。もちろん無遠慮に踏み込んで迷惑を掛けたくもなかったから、空気を読んでその場をつくろっては来たけれど。けれど────もしも、ならば…………。

 それは止めるべきではないのだろうか? 


「ぁ…………」


 考えていると鞄を肩に掛け直した(あい)が歩いて行く。

 ……資格はない。でも人として。おせっかいかもしれない。けれど男として。そう幾度か葛藤すれば、いつしか拳を握っている事に気がついた。

 …………あぁ、そうだ。迷うからいけないのだ。ならばはっきりさせればいい。何もなければ、それでいい。覚悟を決めて靴を履き替える。

 後をつけるなんて褒められた行為ではないのだろうが、真実の探求のように。

 ────それはまるで、マントを羽織り王女たちの行く先を捜し求める、兵士の如く。

 脳裏に重なった想像に、ならばファンタジーのまやかし……勘違いの嘘であればいいと願望を抱きながら、静かに歩き出した。




 (あい)の後を追ってやってきたのは、枝垂(しだれ)駅の南側。滝桜高校は駅の北口から歩いてしばらくのところにあるが、南側は主に商業施設や住宅街が広がる市街地だ。

 活気があって人の往来は激しく。ちょうど少し早い会社帰りの大人達の流れが感じられる中で、けれども(あい)は迷いなど微塵も感じさせない慣れた足取りで目的地に向かう。

 一体何処へ、何の用事があると言うのだろうか。それほどまでに彼女に馴染んだ目的とは……?

 色々な可能性を……一歩踏み出す毎に渦巻いていく景色を、きっと違うと振り払いながら五分ほど歩いて。やがて(あい)が通りの途中、一つの建物に躊躇う事無く入っていく。

 早足に駆け寄って見上げれば、味のある木製の看板が掲げられており、綴られた文字は──『Jardin de fleurs de le café』と言う読み慣れない名前。ドイツ……いや、フランス語か?

 caféと言う事は喫茶店か何かだろうか。…………うん? この店の名前、どこかで…………。

 そこでふと、ここまで塞がれていた記憶の栓が開いたかのように一つの想像が湧きあがってくる。だとすれば、別に問題はないのかもしれない。

 そうして視線をおろしたところで、店内のカウンターに両肘を突いて店主らしき男性と話をする(あい)の後姿を見つける。それとほぼ同時、(あい)の向こう側にいたその男性と視線がぶつかって、思わず肩が跳ねた。

 流石に視線が合って逃げるのは不審者が過ぎると。そう強迫観念のような何かに退路を断たれて、意を決しドアを開ける。

 鳴った鈴の音色は軽やかに。続いて落ち着いた低い男性の声。


「いらっしゃい。お好きな席へどうぞ」

「ぇ……懸君…………?」

「…………すみません、先輩」


 こうなったらもう逃げることも出来ないと。咄嗟に口を突いた謝罪に、沈黙を挟んだ(あい)がその先を察したのかこちらに向き直ってじっと見つめる。


「……そう言うの、感心しないよ」

「本当にすみません……」


 ただ謝ることしか出来ない。全ての責任はただの誤解から疑念を膨らませて行動に移してしまった俺にあるのだ。

 その上で、彼女は学校では秘密にしていたのだろうここ────カフェでのバイトを暴いてしまった。なんと謗られても全て甘んじて受けよう。


「知り合いかい?」

「中学からの後輩で現生徒会書記の、長松(ながまつ)懸君です」

「なんだ、学友か。それなら安心だね」


 懸から目を逸らさないまま答える(あい)。その瞳の奥には色々な感情が渦巻いているように見えて、次にどんな言葉が飛び出すのか少し怖い。

 一番嫌なのは、諦められること、だろうか。


「…………座って待ってて」

「……はい」


 静かな言葉に、言われるがままカウンター席に腰を下す。そんな懸と(あい)を交互に見やって、それから小さく「ふむ」と零した男性が、背を向けて作業を始める。


「まずは自己紹介といこうか。ぼくは柏木(かしわぎ)涛矢(とうや)。この店……『Jardin(ジャルダン) de() fleurs(フルール) de() le() café(キャフェ)』のしがない店長をしている」

「……長松懸です。お店の事は前に一度、息子さんからお聞きしました」

「あぁ、そうか。そうだね。生徒会では(れん)が迷惑を掛けてすまないね」

「いえ、会長にはいつも助けられてばかりで。尊敬する先輩です」

「そうかい? それならよかったよ」


 『Jardin de fleurs de le café』。前に生徒会長……柏木蓮に話を聞いた覚えのある喫茶店。同じ柏木性で、彼を間に挟んだ会話。そこから想像出来る通りここは生徒会長の実家で、目の前の店長だと名乗った人物は彼の父親だ。

 そう考えれば(あい)がここに来た理由も納得できる。


「サービスだ。よかったら感想を聞かせてくれるかな」

「ありがとうございます。いただきます」


 話している間に作られた一杯のホットコーヒー。深い黒色をした水面に天井でゆっくりと回るシーリングファンライトが映り込み微かに揺れていた。

 こういった店での常識と言うものを詳しく知らないから、失礼に当たるのかもしれない。が、別段気取ったところで何の得にもならないだろうと諦めてミルクと砂糖を入れて飲む。

 広がった甘さの奥にじわりとした苦味や酸味と香り。缶コーヒーや市販のミルクコーヒーとは違う、コーヒーらしいコーヒーの味に胸の奥が少しだけ軽くなる。


「飲みやすくておいしいです」

「そうかい。うちのオリジナルブレンドでね。飲みなれてる人には物足りないかもしれないが、柔らかい口当たりになるように試行錯誤した結果なんだ」


 ブレンドコーヒーと言えば喫茶店の看板。その店独自の味わいが秘められた、創作品。マスターの顔だ。

 視線を上げれば、そこには嬉しそうに笑みを浮かべた温和な顔立ちの男性。彼と言う人物の、想像通りで安心する一杯だ。

 続けてクッキーやチョコレートも出してくれる。……コーヒーだけではない。この喫茶店が暖かい。

 気付けば音にしていた。


「お店の名前、どう言う意味なんですか?」

「そんなに特別なものじゃないよ。フランス語で、コーヒーの花畑。(うち)の嫁がガーデニングが趣味でね。ちょっとくっつけただけさ」


 少し恥ずかしそうに語った涛矢。

 と、ちょうどその時店の奥の扉が開いて、給仕服に着替えた(あい)が姿を表す。

 白いブラウスにチェック柄のミディスカート。落ち着いた雰囲気の店内に合う、簡素ながらもおしゃれな制服。

 学校指定の制服姿しか見た覚えのない記憶と比べれば、整った身なりと喫茶店と言う空間が彼女の魅力と特別性を強く焼き付ける。


「全く……。それで、言い訳を聞こうかしら?」


 マスターと入れ替わりにカウンターの向こう側に立った彼女が、詰問するように問いかける。嘘を吐いても仕方がない。正直に答えるとしよう。


「高校の昇降口のところで、電話を偶然立ち聞きしました。その断片的な言葉に勘違いをして、後をつけました」

「勘違いって……わたし何か変わったこと言った?」

「……急用みたいな口調で、お金がどうとか、色をつけるとか…………」

「……………………呆れた。わたしがそんなことをすると思ってたの?」

「いえ。だからこそ嫌な想像が勝手に湧いて、それで…………ごめんなさい」


 明確な部分を言葉にするのを躊躇えば、その無粋な感繰りを察した彼女は疲れたように頬杖を突く。

 どう言い繕っても、現実は変わらない。全ては俺の早とちりだ。


「もう分かってるだろうけど改めて言っておくわよ? これはただのバイト。会長に頼んで融通してもらった、学校にもちゃんと申請をしてある何の後ろめたさもないただの社会勉強」

「……どうして秘密にしてたんですか?」

「なに、開き直ったの?」

「…………すみません」


 どう口を開いても傷口が広がるだけ。ならばせめてこれ以上がないようにと思ったことを口にする。

 返った言葉に謝れば、それから(あい)が少しだけ考えるような間を開けて零す。


「…………別に、バイトなんて珍しくないでしょ」

「そうですね」

「……そんなに恨めしい目で見ないで頂戴。…………口外はしないでよ?」

「はい」

「わたし今一人暮らしをしてるの」

「そうだったんですか。知りませんでした」


 自分のコーヒーを用意した(あい)が、向かいに腰を下して続ける。今は他に客もいないみたいだし、今更懸が何かを言える立場ではない。


「中学卒業まではすぐ隣の福寿(ふくじゅ)に両親と住んでたんだけどね。仕事の都合で転勤になって。けど滝桜への進学は既に決まってたから、親に相談して高校からはこの近くのマンションを借りて一人暮らしを始めたのよ」

「それでバイトを?」

「学費と家賃は親が出してくれてるけど、流石にそれ以上の我が侭は言えないでしょう。だからせめて生活費だけは自分でって。……将来への貯金にもなるから」


 初めて聞く話だ。

 彼女とは中学からの付き合い。その頃に茜ヶ丘(あかねがおか)市の中の福寿と言う場所に住んでいたと言うのは知っている。福寿は懸が住む州浜(すはま)と同じ市内で、少し離れている為にそれぞれに駅がある。

 それを知っていたからてっきり福寿から通っているものだと思っていたが、どうやら違ったらしい。


「大変だけど気楽でいいわよ?」

「少し羨ましいです」


 一人暮らしへの憧れは確かにある。けれどそれと同等に幼馴染の心や妹の(ゆかり)との生活も今は楽しくて。だからもしするとしても大学に入った後の話だとまだ曖昧に考えていた。

 けれど(あい)は既にそこにいて。たった一年しか違わない先輩のはずなのに、自立とか将来とか、色々な事を一人で考えていて、事実以上に彼女のことを大きく感じる。


「……バイトも一人暮らしも、友達にはあまり言ってないの。だからここだけの秘密にして頂戴」

「分かりました」


 昔からあまり内面を見せたがらないのは彼女の性格だ。もちろん、そんなミステリアスさが彼女の魅力に拍車を掛け、中学の頃から噂と好意を向けられる先としての確かな地位を築いていたのだけれども。

 ……少しだけ知っている部分を重ねれば、(あい)はプライドが高いのだ。悪い意味でないのは当然の事。だからこそ責任感と確かな言動で慕われ続ける、今や滝桜の羨望の一翼だ。

 そんな周りからの期待を裏切れないのも彼女の優しいところで、だからこそ今ある物を守ろうと秘密主義に陥っているのかもしれない。


「まぁ見つかったのが懸君でよかったわ。これでも君の事は信頼してるつもりだから。わたしの期待、裏切らないでよ?」

「……前々から思ってましたが、先輩って色々過多ですよね」

「どういう意味かしら?」

「その制服、似合ってますよ」


 逃げるように機を逸していた褒め言葉を口にすれば、突然のことに驚いたらしい(あい)が肩を揺らす。普段あまり顔色を変えないのに、珍しいものが見れた……。


「…………冗談はいいわよ。飲んだらさっさと帰って頂戴」

「嘘じゃないですよ。それから、店員が客を無理やり帰そうとしないでください」

「お客は神様ってのは客が言うものじゃないわよ? 神様が自分からそうだと名乗ったところで胡散臭いだけでしょう?」


 それは確かに。長年その疑問に答えが見つからなかったが、彼女の言葉に納得する。自称ほど哀れなものはない。

 いい回しの一つにストックしながら、折角だからと居座って彼女の話し相手に。偶然か、他のお客も来なかったために結局彼女のあがりの時間まで一緒に雑談に花を咲かせた。

 どうでもいいが、彼女が今日呼ばれたのはシフトに入るはずだった別の子が来られなくなった為に急遽と言う話だったらしい。……この店を悪く言うつもりはないが、結果論こなくてもよかったんじゃないですかね? よかったですね先輩、楽な仕事になって。


「今日以上に大変な日もないわよ」


 そんな風に零した(あい)が、何処となく楽しそうだったのは見間違いだろうかと。

 そうしてしばらく雑談と共に時間を潰し、バイトの終えた彼女と共に店を出る。すると話し込んでいて気付かなかったらしく、外は随分な雨模様だった。


「……降るって言ってたかしら?」

「10%だったと思いますよ。先輩、傘持ってますか?」

「こう言うときは何も言わずに差し出した方がもてるわよ?」

「かと言ってコンビニで買ってきたビニ傘差し出すのはそうじゃない。違いますか?」

「よく分かってるわね」


 ビニ傘を返す、なんて少し間抜けすぎるやり取りだろう。だったら自分の分を買えと言う話だ。

 けれどきっと、彼女はそれを出来るだけ避けたいはずだ。そう思えるのは、彼女の金銭感覚がしっかりしているからと知ってしまったからに違いない。


「……走るわよ」

「風邪引かないでくださいよ」

「違うわよ。家に来なさいって言ってるの。駅に駆け込むよりそっちの方が近いから」


 返った言葉に次ぐべき音を見失う。

 ……いや、うん。確かにそれは状況判断としては正しいのかもしれない。けれども流石に信頼をしすぎではなかろうか。幾ら懸と言えども間違いがないとは言い切れないのだから。


「それともわたしの愛すべき後輩は先輩の提案を断って心配を掛けるような愚か者だったかしら?」

「…………分かりました。その気遣いが原因で王女様に倒れられては兵士の名折れですからね」

「ならしっかり下賎の不浄から守ってくださいまし」


 卑怯な言い回しに諦めれば、予行演習のように気取った返答を。すると大概のノリのいい彼女もそれに応えてくれた。

 前に車の飛沫にでも見舞われたのだろうか。今日はそうならないことを祈るとしよう。

 視線を交わして頷けば、それから天の恵降り注ぐ往来へと足を踏み出す。途中人とぶつかりそうになりながらもどうにか走って、やがて二分もすれば彼女が借りていると言うマンションに辿り着いた。本当に近いですね。

 玄関ロビー前で少しだけ水をきりながら傍らの(あい)を窺う。と、偶然目に入った濡れた肩。張り付いたブラウスの下に覗く白く、けれども健康的な柔らかそうな肌。それから、うっすらと浮かんだ淡い桃色の肩紐……。


「少しだったのに随分濡れたわね。大丈夫……?」

「……はい」


 振り返った際にちらりと見えた、長い髪の一房貼り付いた首筋。それから雨に濡れて透けた胸元。

 掛けられた声に答えつつ咄嗟に視線を逸らして胸の内に秘める。……彼女は俺にそんなものを望んでなどいない。

 そう自分に言い聞かせつつ、(あい)に続いてエレベーターへ。狭い室内で彼女の存在を認識しながら嫌に長く感じた上昇を越えて彼女の部屋へ。


「入って、直ぐにお風呂沸かすから」

「いいですよ。タオルと傘だけ貸してもらえれば」

「…………入って」

「……分かりました」


 昔から変なところで強引な先輩だ。こうなった彼女に論理的に言い合って勝てた(ためし)がない。

 けれど、譲れないものもある。


「けど風呂には先輩が先に入ってください」

「客より先に入る家主が何処にいるのよ」

「……ドライヤー借りますね」

「ちょっとっ……!」


 少し強引に言い切って選択肢を断つ。流石に女性を水に濡れたままそのままには出来ない。低血圧が多いとも聞くし。自分を理由に彼女が風邪を引いたらそれこそ遣り切れない。


「話が違────」

「俺の事を心配してくれるなら先輩も自分を大切にしてくださいっ」


 感情的に彼女の言い分を無視した事を胸の家で謝りながら、脱衣所よりいつも彼女が使っているのだろうドライヤーを手に取って奥の部屋へ。

 遅れて強い視線を注ぐ(あい)が入ってきて、怒ったようにふかふかなタオルを投げつけてくる。それから手早く部屋義を準備した彼女は、無言を貫いたまま踵を返してお風呂へと向かった。

 ……この我が儘が間違っているとは思わない。例え彼女と本気で仲違いするのだとしても、後悔はしない。

 そんなことを考えながら水分をふき取ってある程度をドライヤーで乾かす。そうしていると思いのほか早く風呂からあがってきた(あい)が姿を見せる。……早かったのはわざとか。


「しっかり温まれましたか?」

「セクハラよ。早く入ってきなさい」


 声には棘。だが言葉以上に怒っている風には感じない。

 とりあえず分かる事は、これ以上無駄口を叩く前に彼女の願いを叶える事だ。


「乾燥機は使う?」

「いえ、そこまで濡れてないので」

「そう」


 すれ違い様にそう告げれば、鼻先を掠めた暖かな匂い。……出来るだけいらぬことを考えないようにしながら風呂へ向かい、一通りシャワーで流して湯船へ体を預ける。

 そこまできて、ようやくここが(あい)の部屋なのだと言う実感が湧いてきた。

 長松家とは少し異なる色合いの照明、形の違う浴槽。テレビのCMで時折見る商品名のシャンプーやコンディショナーにボディーソープ。微かに香るのはいつも彼女が使っているそれらの芳香か。少しだけ思い出せば、いつも彼女から覚える匂いに似ている気がする。……いや、だから変なことを考えるなって…………。もしかして俺って匂いフェチか何かか? 今まで気にしたことがなかったが、どうなのだろうか。

 まぁ、どうにかそんなことを考えられるくらいには落ち着いたらしい。後は、風呂から上がった後か。

 少しだけ想像を巡らせながら、彼女にここへ突き返されない程度に体を温めて風呂から上がる。と、考え事をしていて気付かなかったらしく、脱衣所には入っている間に着替えが用意されていた。

 これ女物だけど、着て出なかったらまた何か言われるんだろうなぁ……。妹がいる身である程度耐性があってよかった。


「お風呂ありがとうございました」

「そこへ直る」


 問答無用の指定。声で答えるのも不必要な気がして素直に腰を下せば、ドライヤーと櫛を持った(あい)が背後へと座り込む。


「あの……」

「うるさい。こっち向いたら禿げるわよ」

「やめてください」


 根拠の分からない脅し文句に諦めれば、やがて(あい)が手ずから懸の髪を梳き、乾かし始めた。

 視界の端に映る白いマグカップには深い色をしたホットココアが一杯。どうやら風呂に入っている間に彼女が用意したらしい。湯気の立ち昇るところを見るに入れたての、懸の為のものだろう。

 悪口のつもりはないけれど、(あい)は一度決めたらそれを貫き通す決意を持っている。それはきっと信頼の裏返しで、心配の表れで。だから彼女の言動はどこか強制力のようなものを持って紡がれる。

 もちろん、それは全て彼女の善意から生まれた言動だ。だからその一杯も懸の事を考えて準備してくれたに違いない。

 もとよりその好意を跳ね除けるつもりはないが、もしそうすればどこかの芸人みたいに火傷必至のやり取りが始まって再び風呂へと突き飛ばされるだろう。

 まぁありがたく貰っておくとしよう。

 マグカップを手に取り、揺れる自分の顔を少しだけ見つめて一口。その傍らにまるで独り言のように零れる音。


「……そうじゃないならそう言う気遣いはしないで。勘違いでも起こしたらどうするつもり?」

「恋人でも友達でも、俺は同じ選択をしますよ。俺よりも先輩が抜ける方が演劇には致命的ですから」

「演劇には、ね。そう言うことにしておいてあげる」


 それとなく考えていた方便を口にすれば、どうやら(あい)もそれで手打ちにしてくれる様子。ならばもうこの話題はなし。それが彼女との間に紡いで来た関係だ。納得しつつ、流れを汲んで話題を少しだけずらす。


「先輩でも勘違いはするんですか?」

「今のところした覚えがないわね。と言うか興味ないわ」

「あまり無関心すぎると今年も面倒な噂が立ちますよ?」

「もう慣れたわよ」


 呟きは諦め。その感情は懸も理解が出来る。他人の恋愛に一喜一憂している暇があったら自分の気持ちと向き合うのが先ではなかろうかと。

 持論を脳裏に巡らせつつ、だからこその安堵を覚える。

 恋愛を感情として認識は出来る。けれどそれに興味がない。だから彼女の隣は懸も安心するのだ。互いに、そうならないと嘘を吐かなくていいから。


「興味がないと言う事は他に何か夢中になることでも?」

「別に。……強いて言えばそれなりに忙しいってだけよ。勉強して、バイトして、生活して、寝て、起きて……。それに今年は受験だもの。色恋に(うつつ)を抜かす余裕はきっとないわ。これまでと同じよ」

「たまには息抜きしてくださいね。話を聞いて秘密を知った以上、他人事に心配にはなりますから」

「大きなお世話よ」


 (あい)の細い指が髪の間をするりと抜けていく。その暖かさが、優しさが。そのまま頭を預けてしまいたい安堵を過ぎらせる。


「……先輩、夢ってありますか?」

「さぁ、どうかしらね。これといって就きたい職が思いつかないわ」

「中学の卒業文集はどうしたんですか?」

「仄めかすだけ仄めかせて学校生活だけ振り返っておいたわよ?」

「流石ですね」


 優秀な生徒がどうあるべきか。どうすれば先生たちからの印象がよくなるか。それを打算的に考えてさも当然のように行動に移すのが中学の彼女だった。だからそれとなくを重ねた結果、それとなくな卒業を得たのだろう。

 その慢性的な流れが変化したのが、両親の転勤に起因する高校からの一人暮らし。それもきっと既に彼女の中では確かなリズムが出来ているのだろうが、だからこそ今を崩したくないのだ。


「そう言う懸君はどうなのかしら?」

「希望が一杯詰まってますよ」

「人のこと言えないじゃない」


 特別興味がある事柄が思いつかない。中学でバドミントンを……それから戯れで幾つかのスポーツにも手を出してみたが、これと言って胸を打たれる物はなかった。

 高校で文芸部に入って、昔からよく読んでいた本を、書く方にも手を伸ばしてみたがどうにもピンとこない。どちらかと言えば依織の書く話を読んでいる方が好きだ。そう言う意味では校正や編集者のようなものがいいのかもしれないが、実感が湧かない。

 本が好きと言う意味では司書なども候補か。


「……そう言えば医学の話を藤宮さんと少ししましたね」

「それまたなんで?」

「書店で出会って、流れで」


 詳細に語るのも少し面倒で省けば、背後から興味の色。けれどそれ以上追求してこないのは判断を委ねてくれているからだろう。

 必要であれば話す。話してもらえるなら聞く。そんな暗黙の了解が、彼女との関係の一面だ。

 だからこそ大きく踏み込んだ話をこれまでしてこなくて、今回みたいな誤解を生んでしまったのだろう。


「懸君は文系よね?」

「はい。先輩は理系でしたっけ?」

「理論立てて答えが明確なのが好きなのよ。別に文系の点数がそれほど悪いつもりはないけれどね」


 彼女の性格らしい話だ。理知的で、論理的で、冷静で。これまでに(あい)が大きく取り乱しているところを見たことがない。不測の事態にも直ぐに解決策を提示できる頭の回転の早さは尊敬するべき点だ。その自信に裏打ちされた判断と決断にこれまでどれだけ助けられたか。


「受験どうするんですか?」

「さぁ?」


 本心から零す(あい)。けれども彼女の気持ちも分かる。

 なまじ器用に色々なことがそれなりに出来るから、何に対して一所懸命になれるのかが分からない。だから夢や将来と言うのものが明確化されないのだ。


「……前に読んだ本に書いてありましたよ。未来が分からなくなったら子供の頃のことを思い出すといいって」

「…………ピアニストだったわね」

「弾けるんですか?」

「いいえ?」


 残念。参考にならなかった。

 因みに懸の子供の頃の夢はサッカー選手だった。その頃楽しかったのだろう。


「子供の頃と言えば面白い……と言うかくだらない話はあったわね」

「どんなのですか?」

「とある子がタクシー運転手になりたいって言ってたのよ。それである日、将来の夢を習字で書きましょう、みたいな時間があって……その子が書いたのが『タクシー』だったのよ」

「言葉足らずですね」

「えぇ。次の日からかわいそうに、あだ名がタクシーになったわ」


 タクシー運転手になりたいのか。タクシーになりたいのか。言葉とは難しい話で、それを子供が完璧に使いこなせるはずもなく。似たような失敗は誰だって経験しているだろう。


「子供は純粋でいいわね。自分と相談もせずに大きな夢を語れるんだもの。羨ましいわ」


 年を経るにつれて現実的な方法論を探し始め、それに必要な知識や技量を問われる。自分で選択して生きる事に関しては子供は不自由だったのに、その反面願望の器だけは何処までも大きく広がって。ならば一体、自分で決められる大人と、夢想の出来る子供のどちらがより生き易いと言うのだろうか。


「……それで、先輩は俺の髪で何をしてるんですか?」

「短くても何かアレンジできないかと思って」


 益体もなく哲学のような何かを巡らせながら話を今へ。しばらく前に髪を乾かし終えた(あい)が、それからずっと手慰みに懸の髪の毛を弄り回していたのだ。


「男の子の髪って硬いわね」

「個人差がありますよ」

「三つ編みもままならないわ」

「先輩は髪を切る予定でも?」

「切ってもいいかもしれないわね。手入れ大変だし、重くて肩や首が痛くなるし、目障りだし、食事の時に邪魔だし……いいことなんてそれほどないわよ」


 随分と連ねられた不満の言葉。

 男からすれば長い髪は女性の特徴の一つで、好みや憧れにも繋がる要因ではあるけれども。当人からすればそれほどいいこともないらしい。伸ばしてみれば少しは理解できるだろうか。


「なのに男の子は勝手よね」

「総意ではありませんから偏見はやめてください」

「なら懸君の好みは?」


 言われて少しだけ考える。……が、曖昧な将来のようにこれと言った好みがないことに今更に気が付いた。


「……好きになった相手によるんじゃないですか?」

「37点」


 逃げるように答えをはぐらかせば、御気に召さなかったらしい王女様が不満を零し遊ばされた。何でそんなに中途半端な点数なんですか?

 いつの間にか随分とずれた話題。それは(あい)とのやり取りが懸にとっても心地よいからだろう。

 振った話題には確かな返答があって。会話の端から更にどうでもいいところへと跳び移って。他愛なく意味のないほどに磨耗した、けれども何かを求めるようなその場限りの会話。

 中学の頃から彼女と築いてきた関係が、男女だとか価値観を越えてそこにあるものを手繰り寄せる。

 きっと、懸が話しやすい異性のトップスリーは、心、紫、(あい)だろう。


「全く、本当に面白くない」

「……その話題は終わりじゃなかったんですか?」

「だって考えてみなさいよ。幾ら信頼している後輩と言えどバイトの秘密を知られた上に家にまで上げたのよ? なのにいつもと何も変わったことがないなんてつまらないじゃない」

「俺に一体何を求めてるんですか……」

「求めてないからこうして部屋に上げたんでしょう?」


 分かってますよ、それくらい。

 だからって求めてない以上の何かを求めると言うのはハードルが高すぎると言うものだ。懸はそこにいるだでけでハプニングが起きるような漫画の主人公ではないのだから。

 と言うか誰だって好き好んでハプニングを起こそうとしないだろう。そう言う意味では物語のキャラクターたちには尊敬しかない。よくもあんな混沌とした世界で自分を保ったまま生きていられるものだ。平穏無事の現実万歳。


「刺激を求めているならこれからですよ。毎年色々あるじゃないですか」

「……そうね。忘れられない一年になるといいわね」


 死に至る病とは絶望である、と言うのは哲学だったか。確か新約聖書から引用されたものだったと記憶している。前に何かの本に出てきた。絶望とは罪である、と続いたはずの言葉は、ならば罪とは人にとって何也やと言う話。

 (あい)にとってのそれは恐らく退屈なのだろう。

 同じような景色を過ごし、前に進んでいるのか分からない日々。日常と化してしまった過去の出会いと、新たな扉に焦がれる、それこそ恋のような話。そう言う意味では彼女は人生に恋をして、己を愛しているのだろう。

 ……確かに、全く、本当に面白くない。そんな彼女の事が、とても痛いほどに理解できる。

 俺の罪は罰である。なんかドストエフスキーみたいになったけれど、それとは少し違う。

 俺は、俺の所為ではない俺のお陰で、過去を失敗した事がある。あの子を、今もまだ引きずりまわしている。その後悔が、罰が、今も尚俺を縛りつけて離さない。……いや、離れたくない。それは俺の失敗だから。俺が償うべき過去だから。

 だから俺は、その許されるときまで、自分を戒めて尽くし続ける。それこそ、『罪と罰』に出てくるソーニャのように。


「何か力になれる事があれば言ってください。俺は先輩の味方……共犯者ですから」

「懸君に出来ることがあればね」


 結局髪形を弄ることが出来なかったらしい(あい)が立ち上がり、それから乾かしてくれていたシャツと制服を確かめて差し出してくれる。


「ほら、乾いたわよ」

「外まだ降ってますか?」

「…………えぇ、傘を貸すわ」

「ありがとうございます」


 答えつつ、ホットココアの最後の一口を飲んで片付けようと立ち上がる。と、それより数瞬早く懸の手からマグカップを取った(あい)

 その一瞬の触れ合いに、彼女の指が冷たくなっている事に気が付きながら零す。


「今日はきっと冷えますから、暖かくして寝てくださいね」

「セクハラよ」


 今日二度目の理不尽な不名誉授与。先輩はもう少し好意を素直に受け取ったらどうですかね?

 と、そんな会話をしつつ制服に着替えて傘を借り外へ出れば、別れを告げて雨雲の所為か時間よりも尚暗く染まった世界の天井を見上げながら足を出す。

 ……しかしながら今日は意外が次いだ一日だった。得、と言うと彼女に怒られるかもしれないが、(あい)の事を知れたのは何だか嬉しい。何せあれだけ隙のない彼女も、当たり前に一人の少女だと知れたから。

 だからこそ心の底から、彼女が困ったときには後輩として忠実に協力をしたいものだ。それがきっとこれまで助けてもらったことに対する、僅かながらの恩返しになるはずだから。


「ん……?」


 そんなことを考えつつ駅までやってきたところで、鞄の中のスマホが震えていることに気が付く。いつの間にか奥の方まで入り込んでいたそれを取り出して画面を見れば、ゲームのプッシュ通知と一緒にSNSの物が一件あった。内容は短く要領の得ない『1』と言う数字だけ。

 その事実に足を止めて少しだけ迷うと電話を掛けた。数コールの後、相手が出る。


『懸君? どしたの?』

「まだ学校か?」

『うん。今部活が終わったとこだよ』


 電波の向こう側はいつもの幼馴染の心。そう言えば時間的に最終下校か。普段部活等で残ったりしないから忘れていた。

 どうにも時間ぎりぎりまで演劇に使う衣装の作業をしていたらしい。


「傘は持ってるか?」

『え……あぁっ、降ってる! 降るって言ってなかったのにぃ……。あーちゃーん、助けてぇ?』

『折りたたみ持って来てるからそれでね』

『やったぁっ』


 小さく聞こえた声。傍に親友の亜梨花もいるらしい。ならばあまり心配は要らないか。


「駅までは来られるな?」

『あ、うん。って、もしかして懸君待ってたの?』

「いや、ちょっとした偶然でな。家までは俺が連れて行ってやる」

『ありがと。直ぐに出るねっ。じゃまた後でっ』


 切れた通話。連絡してよかったと安堵と共に画面を見つめれば、それとほぼ同時通知が一件。SNSのそれを覗けば、『。』と言う入力だけが送られて来ていた。用があるならちゃんと入力してくれ……。




 しばらくして心と亜梨花が肩を並べてやってくる。姿を見つけると安堵したように微笑んだ心と、その隣からじっとこちらを見つめる亜梨花。そう言えば依織が少し気にしてたな。

 ……とは言え懸と亜梨花には直接の接点のような物は殆ど存在しない。それは心を挟んだ関係で、友達の友達……でもない。

 曖昧で、不確定。ただ今日みたいに心がいる時に言葉も交わさず一緒の電車で同じ方向に帰る事はある。因みに亜梨花は懸達が住む町、州浜。その駅の南側。懸達は北側に住んでいる。心伝てでそれだけは知っている。

 ……中学の修学旅行は一緒の班だったけれど、今は関係ないか。


「……お待たせっ」

「心、濡れてる」

「別にいいのに」

「よくない。風邪引いたらどうするのっ」

「は~い……」


 一瞬懸の持った傘を見た心。一応女性物は遠慮して借りては来たが、付き合いの長い彼女なら見抜くだろうかと。

 そんなことを考えながら改札を抜け、丁度ホームにやってきた電車に乗り込む。中は仕事帰りのサラリーマンが沢山いて、座れるところは見当たらない。

 どうにか詰めて入り、ドアが閉まると人の盾になって支えに腕を突く。と、その気はなかったが二人まとめて壁ドンぽくなって少しだけ失敗を悟った。


「……無事か?」

「うん。ありがと、懸君」

「……………………」


 首元から心の返答。そして隣からは無言の視線が刺さる。

 いや、色々折衝のある電車内で流石に女の子を守らないのはどうかと。だからそんなに睨まないでよ……。


「作業は順調か?」

「今年は特に数が多いから大変だよ。明日からは早速人手が欲しいところだね」

「可能なら手伝うから。期待してるぞ」

「まかせてよっ」


 まぁうちのところだけでも王子と王女で24種類だ。特に舞踏会に使うような豪奢な洋服ともなれば時間と手間が掛かる。こんなことならもう少し彼女達の負担も考えて話を進めるんだったと。

 思いながら演劇や課題などの話をしつつ二駅。ようやく人の圧から開放されてホームに転がり出れば、運動もしていないのに熱い吐息が零れた。雨プラス会社帰りは色々やばい……。


「じゃあ私はここで。心、また明日」

「またねー」


 駅の外で亜梨花と別れる結局最初から最後まで人ことも交わす事がなかった。が、これが彼女との関係だから仕方ない。今更どうにかなるようなら、既にどうにかなっている。

 考えつつ亜梨花を見送って、それから踵を返し家に向かって歩き始める。


「……何か変わった事はあったか?」

「…………ううん。大丈夫だよっ」


 心がそう言うならいいだろう。彼女を信じずに誰を信じて幼馴染だと胸を張れるのか。


「で? この傘どうしたの? 買ったにしては少しおしゃれだけど」

「……菊川先輩と少しね。そしたら雨が降って来て、家が近いからって貸してもらった」

「…………狼さんだぁ」

「先輩がな。俺はか弱い羊だ。お陰で心も濡れずに済んだんだから感謝しとけ」

「ありがたやー」


 結局スルーしてくれなかった話題が全く違うところに着地した。が、これもまた彼女とのいつものやり取りだ。今更結論がうやむやになる会話など気にも留めない。

 と、そうして話題が途切れる。別に無言が嫌なわけではないが、いつも騒がしい心との間に会話のない空間は珍しい。そしてそんなときに限って、間の悪い質問が心から飛んでくるのだ。


「先輩とどんな話してたの?」


 天然の鋭さ。

 (あい)に関する今日あった出来事はきつく口止めされている。彼女の信頼を裏切るわけには行かないし、かと言って嘘を吐くのも違う。……さて、どうかわしたものか…………。


「…………昔の、子供の頃の話とかだな。幼稚園の頃の他愛ない笑い話だ」

「幼稚園かぁ……」


 呟きはどこか傷を撫でるように痛く優しい響き。隣を見れば、寂しい微笑を落とした心が続ける。


「…………懸君の幼稚園頃の夢はサッカー選手だったっけ?」

「心は宇宙飛行士だったな」

「それやめてよ、もぅ……。気の迷いだったんだよっ。ほら、教育番組で宇宙についてのドキュメンタリーみたいなのを見て、子供心に無重力の宇宙に憧れを抱いただけ。今はそんな夢抱いてないからっ」

「なら今は?」

「ん~……特に。……ただ部活は楽しいから、服飾とかデザイン関係は面白そうかなって考えてるかなぁ」


 心の将来の夢は昔からよくころころと変わっている。基本その時に興味が湧いている事柄を追いかけるようなその場限りなものだが、少なくとも何も描けず何処へ向かっているかも分かっていない懸よりかはよほど生産的だろう。

 前に訊いた時はスキーのジャンパーだった覚えがある。そんなに雪山研修が楽しかったか。


「懸君は相変わらず?」

「……柄にないことを言えば心理学とかか?」

「小説とか好きだもんね」


 これは前に心に話をしたことがある。懸は物語にストーリーと同等に、キャラの心の動きの鮮やかさを求めている。どういう状況で、どんな心境になるのか……。人の心など曖昧で不確定で、だからこそ予想がつかなくて面白い。

 そう言う意味ではフィクションの娯楽であり、ある種の教材だ。


「心理学って文系?」

「大学だと大体そうだな。精神医学とかだと理系だろうけど。……そう言えば流し読みした時に理系から心理学に転向する人も多いってのを見かけたな」

「なんで?」

「データや統計学が関わってくるからだな。だから文系からそのまま心理学学んだ奴は数字に翻弄されて苦労するらしい」

「ほへぇ~……」


 電子の海を彷徨っているときに偶然目にした話だから一概にそうとも言えず鵜呑みにするのは危険だが、確かに納得も出来る理由だ。


「と言うか何もやってないようで懸君って色々なこと調べてるよね」

「せめて何か引っかかれば将来の可能性の一つになるからな。暇な時は記事から気になった単語を調べては流し読みしてる程度だ」


 スマホ一つで手軽に色々な情報が手に入る世の中だ。ソースの真偽は別として、それをうまく活用しない手はないだろう。


「ネットとかパソコンにも強いよね?」

「強くはないな。心が弱いからそう感じるんだろ? 出来る奴はプログラムで一からからゲームやソフト、アプリまで作れるんだ。俺はそんなこと出来ない」

「強い弱いが分かってるだけ強いと思うよ」

「……だから弱いとも言ってないだろ?」

「なにその自慢、むかぁつくぅー!」


 言って頬を膨らませる心。……とりあえず、今はまだ目の前を、足元を踏み均して次の一歩を確かに踏み出すだけだ。特に今回の演劇祭は少しだけ意欲が高い。

 それが主人公っぽい兵士役を宛がわれたからなのか、懸のよく知る誰かと一緒にやるからなのかは判別がつかないところだけれども。王女を追いかける兵士のように、どこか知らない世界へ導かれるような感慨が胸の奥から湧いてくるのだ。


「……ま、いいや。そう言うことで困ったら懸君に訊けばいいってことだしね。期待してるからっ」

「俺にだって知らない事はあるからな。それよりもまず自分で調べろよ」

「責任放棄だーっ」


 よほどでない限り検索機能が使えないなんてことはないのだから。自分のが駄目なら家族のを使わせてもらえばいいだろう。せめてそれくらいの知恵は回して欲しい。

 などと本当にどうでもいい、明日には忘れているだろう会話で道中の時間を埋めて歩けば、やがて隣同士に建った懸と心の家に辿り着く。


「それじゃあまた明日。……は、これから少しの間は難しいかもね」

「何かあれば連絡してくれ。出来るだけ手を貸しに行く」

「ん、分かった。ばいばいっ」


 玄関先まで幼馴染を送り届けて、それから懸も家に戻る。と、丁度玄関で靴を履いている紫に出会った。


「……お兄ちゃんに帰りに買って来て貰えばよかった」

「何がだ?」

「臨時収入分のゲーム資金っ」

「……もう少し金に関して計画性を持とうな?」


 中学生から課金街道なんてお兄ちゃん怖い。

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