第四輪
週明けの月曜日。高校に向かうと、昇降口のところで愛の姿を見かけた。
「おはよう、藤宮さん」
「え……あ、うん。おはよう……」
「どうかした?」
昨日知った彼女の秘密。低血圧で朝が弱いらしいが、けれどそれ以上にいつも通りとは思えない歯切れの悪い挨拶に声を重ねる。すると愛はじっとこちらを見つめ、小さく息を吐いていつもの飾った笑みを浮かべた。
「……うん、大丈夫。ほら、月曜日って何だか憂鬱になるでしょ?」
「分かる。心も今朝は随分抵抗してたしな」
「なに、呼んだ?」
ずれた話題には気付かない振りをしたままのっかれば、自分の下駄箱で靴を履き換えてきた我が幼馴染がひょこりと顔を覗かせた。
「あれ、藤宮のお嬢様だっ。ここで会うなんて珍しいね」
「そうだね。おはよう、萩峰さん」
「うんっ」
今朝の家の前での攻防はどこへやら。学校まで来てしまえばいつも通りを取り戻したらしい心が挨拶を交わす中で少しだけ考える。
いつも愛はもう少し遅い時間に登校してくる。別に日直でもなかったはずだが、何かあったのだろうか?
無粋な勘繰りは、けれどそれ以上やめて。他愛ない雑談に花咲かせつつ教室へ。相変わらず心は懸達の教室で時間を潰し、亜梨花が登校してくると彼女と一緒にようやく自分の教室に向かった。
朝からそれなりに騒がしかった幼馴染が傍を離れるとようやく一息吐く。恐らくここまでが懸にとっての毎朝のルーチンワークだ。
そしてそろそろ依織が姿を見せる頃だが……。などと考えていたところへ声を掛けられて顔を上げる。
「長松君」
「…………大丈夫。そんなに気になるなら一つ疑問に答えてくれる?」
試すような愛の声。彼女の言いたい事を察して先回りする。
別に信用してくれていない訳ではないのだろう。ただ念のため釘を刺しておこうと言う事だ。
懸にお見合いの事を話してくれた彼女。けれどそれは懸だから……と自惚れて考えれば周りに触れて回る事ではない。それくらいの分別は当然ある。
昨日の出来事は当然秘密にする。その確約の為に、弱みに付け込んで一つ質問。
「なに?」
「今日はどうして早かったんだ?」
「……家に居たくなかっただけだよ」
「今時中々ないよな、学校の方が安心するって」
「長松君ほど悪目立ちしてきてないからね」
逃げるような流れで何故かディスられた事に半眼を向ければ、くすりと笑った愛。
零した小さな声は聞かなかった振りで惚ければ言葉の外からもう一押し念押しされて肩を竦める。
「おいーっす」
「おう、はよう」
「おはよう、坂城君」
そんなやり取りをしていると依織がやってくる。さて、ここから第二ウェーブ。どうにか頑張って、今度は友からの散弾を捌くとしよう。
放課後になると空木葉子先生の特別講習会へ。直前まで忘れていて、彼女から連絡を貰って思い出したのは内緒。
どうあっても高校生である懸にはキャパと言う物が存在する。大変な事に巻き込まれればそれ以外の事が疎かになるし、全てを完璧にはこなせない。
人は忘れる生き物だ。その中で出来る限りを求めるのが最善なのだろう。
そんな懸が今すべき事は、高校生として高校生らしい高校生活だ。
特別な事など殆どない、何処かにあるかもしれない普通の生活。今を生きなければ、空想に浸る事も現実に向き合う事も出来ないのだから。
「今日は少ないですね」
「先輩と藤宮さんは用事があるらしい。依織は先生に呼び出されてたから後から来ると思う」
「お陰で先輩はハーレムですねっ」
「懸君モッテモテだぁっ!」
葉子の声に答えれば、恋と心が示し合わせたように茶化してくれる。
彼女達の言い分を全面的に肯定するつもりはないが、今自習室にいるのは懸以外皆女子ばかりだ。先生である葉子、幼馴染である心、後輩である恋。そして心についてやってきた亜梨花。蓮も家の手伝いで居ないのが寂しい。
亜梨花は見た目こそギャルっぽいが、友情に厚いらしく真面目だ。詳しい成績は懸もよく知らないが、同じ授業を受ける身として少しだけ期待している。常識人枠として。
とは言え彼女と言葉を交わす事はないだろう。そうでなくとも心を挟んでの距離感。加えて愛との偽の恋人の一件で彼女の懸に対する心象は最低だ。
────くっだらない。正義気取って馬鹿みたい
彼女は懸の知る人物でありながら、懸とは対極の場所に位置する存在だ。だからこそ変な柵などなければ友人にはなれそうなのに…………悲しいかな、現実は残酷だ。
一つ思うところがあるとすれば、もし誤解をされているなら解いておきたいと言う事だ。別に亜梨花の事を疑う訳ではないけれど、ある事ない事噂されて今ある地盤が崩れてしまうかもしれない。……後でそれとなく、心を介して伝えて貰うとしようか。
などと勉強とは関係ない事を考えつつ準備を進めて。懸の中では既に出来上がっている勉強に対する姿勢を今一度組み直せば、葉子の声に頷いてテスト勉強を始める。
試験本番と同時に提出予定の課題。各教科のノートだったり副教材だったり、一つ一つは意外とどうにかなりそうなものだが、それが一気にとなると軽く眩暈を覚える数の暴力。
一応こつこつと進めている、アリとキリギリスならばアリの懸にはいつもの延長線上ではあるが、心辺りはいつも苦心している。テストよりも尚厳しい前哨戦だ。
この辺り性格が出る話だろう。夏休みの課題を毎日少しずつやるか、休みの最終週になって急いで始めるか。前に依織が「提出に間に合えばそれがジャスティス!」と叫んでいたか。
……まぁ泣きを見るのも全て自己責任だ。こちらに泣きついてこなければそれでいい。なんて、既に諦めているのだけれども。
今年こそは心に自力で課題をこなしてもらうとしよう。……去年も同じ事を言っていた気がする。
己の甘さを再確認して小さく息を吐けば、それに気付いたらしい件の幼馴染がちらりと視線を向けてきた。
「どしたの?」
「……なんでもない」
「おわったーっ」
と、丁度一つ範囲が終わったらしい恋がシャーペンを転がして一つ伸びをした
そんな様子にくすりと笑った葉子が区切りをつける。
「じゃあ少し休憩にしますか」
「あーちゃんどこ行くの?」
「飲み物買ってくるだけ」
「私も行くー」
空木先生のお許しに弛緩した空気。それと同時、立ち上がった亜梨花が心と共に自習室を出て行く。解放感に押された背中を見送れば、次いで零れたのは葉子の言葉。
「集中、長続きするようになりましたね」
「ん、そうだな。それもこれも空木さんのお陰だ。ありがと」
「いえ、真面目に取り組む姿勢がなければわたしが教えたところで変わりませんから。わたしのはただきっかけを作っただけで、元々は全部皆さんの中にあった物ですよ」
「せ、せんせぇ~……」
謙遜する葉子に恋が感銘を受けたように打ちひしがれる。このまま放っておくとその内宗教でもできてそうな勢いだな。けれども確かにそう妄信したくなるくらいには彼女の先導してくれるこの場は身になっている。この調子だと範囲は広くとも中間よりいい成績が取れそうだ。
「これっ、この勉強会っ。夏休みも出来ませんか?」
「一番忙しいのは八重梅だろ? 大会だってあるんだから」
「だからですよっ。集中して勉強できる環境って偉大なんだなって思いました。ようやく学校の存在意義が分かった気がしますっ」
「おせーよ」
「ふふっ」
学校は学び舎だ。勉強をするべきところなのだから、その根底はもっと早くに気付いておくべきだろう。何の為の学生なのか、と。
懸が思うに、学校とは教科書の内容を覚えるところ、ではない。もっと根本的な話…………勉強の仕方を勉強するところだ。
人間は馬鹿だ。生まれて直ぐに世界の真理を知っている訳ではない。成功者は努力をしている。……なんて、あり触れた話だけれども。
天才は一握りだ。殆どの人間はその域には辿り着けない。
けれど秀才は努力によってどうとでもなる。勉強を重ね、いい成績を取れば対外的に天才だと持て囃される。そう言う人物は大抵、知らない事を知らないままにしていないだけなのだ。
疑問を抱けば自ら動いて答えを求める。与えられるのではなく、自分で答えを見つける。それが勉強の仕方と言うものだ。
怠惰に享受するだけの獣にならばいつだってなれる。受動的なその生き様から一歩を踏み出すかどうかは個人次第だ。
……とは言え分かっていてもどうにもならない事もあるわけで。特に懸はこれと言った目標や夢がないから、どこか惰性で成績を積んでいるに過ぎないのだろう。
何か一つ、これだと胸を張って打ち込めるものがあれば今ある殻を破れる気がするのに。
そう言う意味ではバドミントンに重きをおいている八重梅は懸にとって生き様の先輩なのかも知れない。
「それに、もう勉強は苦には感じないだろ? だったらバドに向ける熱意と同じものを勉強に向ければいいだけだ」
「家だとやる気が起きないんですよぉ」
「自分の机をそう言う場所だって意識すればいいと思いますよ」
「ほぇ?」
続いた葉子の声に懸も耳を傾ける。
「多分家の中に勉強をする為の決まった場所がないんじゃないですか?」
「…………そうかも……」
「それを自分が集中出来る場所に置くと、自然と今みたいな勉強が出来ますよ」
パブロフの犬、と言う実験を思い出す。
イヌにメトロノームの音を聞かせながら餌を与えると、その内餌がなくともメトロノームの音を聞いただけで涎を垂らしてしまうという条件反射のことだ。
それと同じように、この場所でこれをする、と予め決めておけば、その場所に向かった時に頭が勝手にその方向へ切り切り替わると言う事だろう。
「もちろん勉強をルーチンワークにすると流し作業になっちゃうのでそこは気をつけないといけませんけれど、集中出来る環境っていうのは学校も自分の机も同じですから」
「……授業より余程為になる講義だな」
「あ、いやっ、そこまで偉そうに言うつもりは…………」
納得の音と共に軽くからかえば葉子が慌てる。変なところで遠慮する少女だ。
「先輩、先生になったらどうですか? 教えるのとっても上手だと思いますよ?」
「それは賛成だな。この授業なら幾らでも聴いてたい」
「うえぇえ? ほ、本気……?」
「少なくとも俺と八重梅はな」
「はいっ」
褒められ慣れていないのか、無重量状態で空中に放り出されたように何処かに掴まる場所を求めて視線を彷徨わせる葉子。そんな彼女が少しかわいそうに思えて少し話題をずらす。
「それとも何か明確な将来の夢でもある?」
「これと言って特には……」
「選択肢がありすぎて困ってる?」
「長松君はわたしを嫌味な女にしたいんですか?」
誤解をされてしまった。そんなつもりはなかったのに。日ごろの行いだってそれはそれは清廉潔白な男子生徒がどうして自分を好いてくれる女の子をいじめなければいけないのか。逆に彼女にこそ懸に対する先入観を改善してもらいたいものである。
半眼で軽く睨んでくる意思表示に肩を竦めて謝りつつ。そんな話題で休憩していると依織が心達を引き連れて自習室に入ってきた。
「おっす。遅れてすまん」
「お勤めご苦労様」
「やめろいっ、変な噂が広まったらどうしてくれんだ」
「も、もしかしてその筋の…………」
「萩峰さんまでやめてくれ……」
どうやら三人とも昨日の夜に放送していたドラマの影響を受けているらしい。あれ面白かったな。
「ふふっ。それじゃあ揃いましたし、勉強を再開しましょうか」
「はーいっ」
有耶無耶になった将来の話はとりあえず横に置いておいて。何はなくとも試験勉強。やるべき事を山積みにしたまま、それでも前へと歩み出す。
試験期間中の放課後スケジュールは少し不規則だ。
滝桜では二日に一回部活が休みになる。スポーツ推薦があるとは言え進学校。部活動よりも勉学にこそ力を入れている学校だ。三大放埓地帯である文芸部、美術部、物理部に属する、懸、依織、愛、蓮にとっては普段と変わらない生活リズムだが、部活動にも精を出す愛や恋にとっては少し大変らしい。
一応懸や愛にはバイトと言うある程度不規則な予定もあるが、それはそれだ。特別体を動かす訳ではない分、楽な部類だろう。
そんな時間の流れに振り回されているらしい運動部組みの二人。特に愛は日を追う毎に疲弊が目に見えるようで、少しだけ心配になる。
理由はもちろん察しがつく。……だからといってこちらから首を突っ込むのは彼女に気を遣わせてしまうだろう。
だからと言う訳ではないが、時間がある時は出来る限り彼女の事を意識の端に捉えるようにしている。
その愛と直接言葉を交わす機会があるとすれば、同じ選択教科である生物の授業だろう。特に同じ机で顔を突き合わせるともなれば気にならないわけがない。
同じ空間で過ごし始めて三ヶ月。周りの距離感も落ち着いているところで特別な事をすれば、今は鳴りを潜めている愛と撒いた油に火がついて燃え上がりかねない。だからどうすればと言う明確な物がある訳ではないのだが……やはり心配だ。
今日は実験ではなくただの板書だけでよかったと。終わりを告げるチャイムの音と共に席を立てば、徐々に騒がしくなる校内を教室に向かって歩く。この後は昼休み。……昼食に誘うくらいならば問題はないだろうか?
考えていると前を歩く愛が少しふらついている事に気付いた。さすがにそれは見過ごせないと……声を掛けようとしたところで、彼女の体が糸の切れた人形のように崩れ落ちる。
咄嗟に駆け寄って体を受け止め廊下に座り込めば、一瞬気を失っていたらしい愛が揺れる視界で瞼を開いた。
「……ぁれ……。ながまつ、君……?」
「よかった。怪我はなかったな……」
驚きはしたが、特別彼女の身が危険に陥らなくてよかったと安堵をする。
それから辺りを見渡して、他の生徒がいない事を確認するとやるべき事を思い起こして行動に移す。
「ごめん、少し触るよ……」
服の上から伝わる微かな体温。それに違和感を覚えて彼女の額に手を当てれば、案の定平熱より温かかった。
「だ、大丈夫だよ……。ちょっと躓いただけで…………」
「藤宮さんの大丈夫を信用できるほど俺だって馬鹿じゃない」
熱にか、それとも恥ずかしさにか。微かに頬を染めた愛が立ち上がろうとするが、それを遮って背中を差し出す。
「……もう、だから平気だって…………」
「目の前で倒れたのを見て、平気じゃないのは俺の方だ。迷惑だって思うなら今は素直になってくれ。じゃないとお姫様抱っこで校内練り歩くぞ?」
「………………ごめん。ありがと……」
脅しなのか辱めなのか分からない言葉に、ようやく観念してくれたらしい愛が体を預けてくる。女の子とは言え人一人。それも体に余り力の入らない少女を、日頃体育くらいでしか運動をしていない高校生が長距離を運ぶのは無理がある。もちろん彼女が重いと言う訳ではなく、それは全て懸のキャパの問題だ。
だから最短で、できるだけ人目につかずに。脳内に描いた保健室までのルートを歩き出しながら背中のクラスメイトに声を掛ける。
「何かあったら話聞くって言ったのに。そんなに俺は信用ならなかった?」
「……そうじゃ、なくて…………」
もちろん彼女の言いたい事も分かる。これ以上迷惑を掛けたくなかったのだろう。巻き込みたくなかったのだろう。
その優しさは嬉しい。けれど、だからってその結果に我慢をして倒れたのでは余計心配になるのは当然だ。
「気付いては、いたんだよ。気に掛けてくれてるなって。たよったら、助けてくれるなって……。でも、出来ないよ……。これ以上は、ほんとうに…………」
ふと、肩に何かが重く圧し掛かる。見れば直ぐそこに愛の顔があった。微かに開いた唇からは熱っぽい吐息。閉じた瞼には震える睫毛が長く、さらりと零れ落ちたのはきれいな長い髪。
こんな時でさえ、藤宮愛と言う少女はどこまでも絵になる事だと一人ごちながら。
香る彼女の匂いや背中に感じる優しさの塊を思考の外に追いやって保健室までやってくる。と、丁度中から出て来るところだったらしい養護教諭と鉢合わせした。
「先生、ベッド空いてますか?」
「えぇ、早く中へ」
直ぐに懸の背にいる愛に気付いたらしい彼女が対応してくれる。
愛の荷物を持ってきて欲しいと言うので教室から取ってくれば、軽い往診を終えて待っていた。
「先生、藤宮さんは……」
「熱があったから今は寝てる。それより詳しい事を聞かせてもらえる?」
「はい」
声に頷いて、廊下での出来事を掻い摘んで説明する。
その間に彼女の鞄を軽く見る養護教諭。やがて少し安堵したような表情を見せた彼女は話を聞き終えてもう一つ質問を零す。
「最近彼女の周りで環境の変化とか、何かそういう事とか知ってるかしら?」
「……一応。ただ俺の口からって言うのは、その…………」
「分かった、言わなくていいわ。……なるほどね、巡り合わせが悪かったのね」
そう呟いて愛の方へと視線を向ける先生。それからふと脳裏を巡った可能性に居心地の悪さを覚える。
それは男の懸には共感の出来ない類の話だろう。これ以上深くは突っ込まないのが愛の尊厳のためだ。
「五限目の授業は何?」
「椿野先生の現代文です」
「…………あぁ、分かったわ。多分休む事になるからこっちから伝えておくわね」
「お願いします」
……今の間は、もしかして師んだの事を忘れていたのだろうか。流石幽霊教員だ。
「後はこっちで見ておくからもう戻っていいわよ。ありがとね」
「いいえ。それでは失礼します」
これ以上懸に出来る事はない。彼女の言う通り教室に戻って弁当を取り出す。すると懸を探していたらしい心と依織が声を掛けてきた。
「やっと見つけた。どこ行ってたんだよ」
「ちょっとな。もう食べたのか?」
「まだに決まってんだろ、友達甲斐のない奴だな」
「んじゃあ早速……いっただきまーす」
いつも通りな二人に救われて、とりあえず思考をリセットする。悩んでも仕方ない。時間があれば後で愛の様子を見に行くとしよう。
結局その日、愛は午後の授業に出る事はなかった。放課後になって保健室へと向かえば、養護教諭はおらず、代わりに愛がベッドの上に座って校庭の方を眺めていた。
と、扉の開く音に顔を向けた愛と視線が交わって、こちらに気付いた彼女が微かに笑う。どうやら顔色もよくなったみたいだ。
「具合はどう?」
「うん、寝たら熱も引いたみたい。助けてくれたんだよね、ありがと」
「あの状況で助けないとか、さすがにそんなに薄情じゃないつもりだ」
「でもごめん。熱でぼぅっとしてた所為か、あんまり覚えてないや。……あたし何か変な事言ってなかった?」
「……いや、特には」
彼女が眠る直前に言い掛けていた言葉。あれがなんだったのかは少しだけ気になるが、尋ねたところで彼女は覚えていない。ならばそれで十分だ。
「もう放課後だよね? 授業出たかったけど、無理だったね」
「帰れそうか?」
「迎え呼んでもらったから大丈夫」
部活に出る、なんて言い出したらどうしようかと思ったが、正常な判断が出来て安心した。変なところで律儀だからな、このお嬢様は。
「あぁ、後これ。午後の授業のノート。俺のコピーで悪いけど」
「ありがと。……字綺麗だね」
「昔……小学生の時に習字をやってた事があるからな」
ホームルームで配られたプリントと共に差し出せば、どこか嬉しそうに微笑む愛。俺に出来る事なんてこれくらいだ。
「愛、いるかしら?」
響いた扉を開ける音と、上品な大人の女性の声。振り返ればそこには愛の母親である瑠璃子が立っていた。あちらも直ぐに気付いてどちらからともなく頭を下げる。
「お久しぶりです」
「確か長松君、だったかしら。愛を助けてくれたそうね。ありがとう」
「偶然その場にいて、当然の事をしたまでですから」
挨拶を交わせば、ベッドの上の愛が立ちあがって荷物を纏める。
「色々ありがと、長松君。また明日」
「あぁ、無理すんなよ?」
「うん」
簡素に別れを告げて見送る。
とりあえずこれで一安心。そんな事を考えながら一つ息を吐いて、懸も自習室へと足を向けた。
別にそこまで……とも思ったが、愛は結局翌日からも普通に学校に来た。ただ一度倒れた事で反省はしたのか、その事を知っている懸を少し頼るようになった。
倒れた事を他の人に言っていないかと脅迫紛いの確認もされたが、そこは当然彼女の名誉の為に黙っていた。クラスのマドンナが倒れたとなれば学年中から注目の的で騒がしくなる。ともすれば愛を運んだこちらにまで跳び火しかねなかった為に下手な事は言えなかっただけだ。
そんな学校生活をしばらく過ごせば、一学期の最大の山場、期末テストがやってくる。
学生の本分。進学校である滝桜では誰にとっても油断出来ない重要事項。
試験直前のぴりぴりとした空気が教室を支配する中、懸は一人トイレを済ませる。これもまたルーチンワーク。気付いたらそうしていた習慣だ。
と、手を洗っているとポケットに入れた携帯が震える。取り出して画面を見れば心からのメールで、内容は『今日だよね?』と言う確認の文字だった。
文面に、それから懸も思い出す。そうだ、それがあった……。休日を跨ぐとは言えテスト期間中とは巡り合わせがいいのか悪いのか……。
しかしながらすっぽかすわけにもいかない用事に、メールの返信として下校を一緒に出来ないかと打てば、直ぐに了承の答えが返ってきた。
本当は早く帰って休憩したかったが仕方ない……。毎月の事だ。諦めよう。
溜め息一つ。それからふと目に入ったスマホ上の時計に、少し慌てて教室へと戻る。まだ少し騒がしさの残る室内で、席に向かう数歩の間に愛と視線がぶつかった。顔色は……よさそうか。って、他人を気にする暇があったら今は目の前に集中だ。
気持ちを切り替えて席につけば、チャイムが鳴って試験が始まる。とりあえず今日は三教科。日頃の成果をぶつけてストレスから解放されるとしよう。
午前中で終わった試験と共に、にわかに騒がしくなった教室を逸早く出て心の元へ。すると彼女は教室の外で壁に凭れて懸を待っていた。
「じゃあいくか」
「あぁ」
続いた返答。その言葉に思わず足を止めて視線を向ければ、彼女は────いや、彼は困ったように頬を掻く。
「三つ目が保健だったんだ。範囲が丁度性知識だったから入れ替わった」
「そうか……」
そう答えるのは心ではなく心。こんな人目につくところで人知れず人格交替が起きているなど、気付く者はいないのだろうと思いながら。その場から逃げるように出した足で高校を後にする。
「どれくらいで戻ってきそうだ?」
「……駅につく頃だと思う」
「分かった」
歩いている途中に再び入れ替わると、体の命令が一時的に遮断されてその場へ倒れてしまう。だから出来る限り座っている状態で元に戻るのが望ましいのだが、いい場所があるだろうかと。なければ仕方ない……懸が支えるだけだ。
見慣れた景色を歩きながらテストの話。更にその傍らに手元でスマホを操作する。
「解けたのか?」
「知識は共有してるから問題ない。それ以上は心の名誉の為に伏せさせてもらうとするよ」
下手な人間より余程人間らしい気がする感情のない第二人格に相槌を打ちながら歩みを進めて。
駅構内まで辿り着くと、改札を抜ける前にそろそろ入れ替わるとの事で椅子を見つけて腰をおろす。しばらく傍に付き添えば、隣の首が舟を漕ぐようにかくんと揺れて。支えを失った体がこちらに倒れて来きた。
直ぐに支えれば、次いで目を開けた心が繋がらない記憶を手繰り寄せるように辺りを見渡して。それから懸の顔を間近で見つめて困ったように笑った。
「……えへ……ありがと、懸君」
「テストなら終わったぞ」
「やったーっ」
体感では一つ試験をパスしたらしい心。そう言う便利な存在じゃないんだがな……。
「立てるか?」
「……うん、大丈夫。じゃ行こっか」
「あぁ」
殊更明るく告げる心の気持ちを酌んで、それ以上終わった事には触れずに前を向く。その向いた先に、今し方スルーした元凶がある事に気付きつつホームへと上がる。
やってきた電車に乗り込んでいつも通りに州浜まで揺られれば、家には向かわずにそのままバスに乗り込んだ。行き先は──州浜市民病院。
懸と心。それぞれに胸の内に抱えた問題は、どちらも精神的な病だ。何かのきっかけを経て快復するまでの道筋も終着点も分からず、ともすれば一生付き合いかねない自分の一部。
その経過観察と、あわよくば快癒を目指して。月に一回病院に世話になって検診を受けているのだ。
とは言え懸の問題はなんとくなく解決方法が分かっている。だから意味合いとしては懸が心に付き合っていると言うのが正しいかも知れない。
途中から数える事をやめた通院回数。恐らく百回は越えているのだろう、最早特別性を抱かない外観に安堵さえしながら。それぞれに違う担当医に診断を受ければ、いつもとほぼ同じ時間で診察が終わった。
「何か言われたか?」
「特には。来る前に入れ替わったって言ったら少し驚いてたみたいだったけど」
「それが普通だ。麻痺していい感覚じゃないんだがな……」
「ねー」
何が楽しいのか笑って首を傾げる心と共に飲み物を買って帰路につく。
「懸君も進展無し?」
「俺のは解決策分かってるからな。その気になればどうにかなる」
「いいなー」
「心は分からないのか? 自分の問題だろ?」
「私だって色々考えてるんだよ」
ま、分かっていればこんな事にはなっていないか。
結局は自分の事。きっと最後は己がどうにかする問題だ。少なくとも心がそれを諦めている訳ではない事を、懸はよく知っている。
「……でも、きっと大丈夫だよ」
「そうかい」
「で、テストどうだったっ?」
思い切り脈絡を無視した話題に、心らしい事だとついてく。
さて、残り三日。明日から休日を挟むがしっかり準備して臨むとしよう。
「先輩の方はその後どうですか?」
皿を洗って隣の愛に渡す。
試験期間中とは言え、世界はいつも通りに回っている。その歯車の一部として、社会勉強の一貫たるバイトは当然のように存在する。
今日は愛と一緒のシフト。彼女と一緒の時は基本蓮がいない時で、彼は今日許婚である風輳夢とデートらしい。試験期間中にいいご身分だな。
「変わらないわよ。試験で忙しいから特別ちょっかい掛けてくる輩はいないし平和その物よ。テスト終わったらどうかは知らないけど……」
「直ぐに夏休みですからね」
「補習があるでしょうが。それにわたしは受験生よ? 遊びに現を抜かしてる余裕はないの」
受験生は大変だ。が、もし根の詰めすぎで愛のように倒れられてはこちらが心配する。バイトも彼女の分まで忙しくなるかもしれないし……。
「逆に言えば高校最後の夏休みですよ? 息抜きは必要じゃないですか?」
「息抜きねぇ……」
特にこれと言って遊ぶプランはない様子。彼女と一緒の時間を過ごせるのも今年が最後かも知れないのに、寂しい話だ。
「もし何処かに誘ったら先輩はどうしますか?」
「ない甲斐性を無理に出さなくていいわよ」
「仮にの話ですよ。どこか行きたいところとかないんですか?」
「…………南の島?」
「これまたアバウトな」
真夏に南の島なんて、溶けたらどうするのだろうか。
「白い砂浜、光りを反射する波打ち際……。恰も青春の一ページっぽいでしょう?」
「乙女が過ぎま……ぃてっ」
流石にからかい過ぎたか。
「戯言吐き出してる暇があるなら勉強してなさい。なんなら見てあげるわよ?」
「持って来てるの日本史ですけどいいですか?」
「なんでよ。理数はないの?」
「俺文系ですから」
そんな事で不平を言われても……。文理選択とはそう言うものだろう。
「と言うか懸君こそ夏は忙しいんじゃないの? 烏賊みたいに手足があっても足りないんじゃない?」
「今年は先輩のお陰でそういう事にはなりませんよ。俺の場合は多分二学期がピークです」
文化祭、修学旅行、クリスマス。学生の恋人が熱に浮かされる行事が満載だ。
「だったら断ればいいのに」
「……逆に教えてくださいよ。先輩いつも何て言って断ってるんですか?」
「恋愛に興味ない。それでも引き下がるなら、貴方に興味ない。これで九割は折れるわ」
「残りの一割は?」
「生徒会とか受験とか……その時々の理由をでっち上げてる」
「…………相手に同情しますよ」
付け入る余地がないとはこの事だ。加えて本当に恐ろしいのは告白程度では揺るがない彼女の精神力だろう。
好かれて嬉しくないわけはない。それこそ懸は彼女の逆で、告白をしてくれた相手の事はある程度意識している。……意識と言っても、恋愛感情が芽生えると言う事ではなく、気持ちに応えられない事に対する後悔のようなものなのだが。
「わたしだって色々考えてるわよ。その一つに、他に好きな人がいるとか、そういう断り方をした事は無いもの。例えその場限りの言い訳だとしても、わたしは相手に嘘を吐いた事は一度もないわ」
「もうやめてあげてください。これまで玉砕してきた相手がかわいそうです……」
聞いているこちらが辛くなる。だって言葉の通りに、愛には本心しかないから。
「そもそもその程度の覚悟しかない相手に靡くほどわたしだって軽い女じゃないの」
「……何よりも恋愛に飢えてるのは先輩なんじゃないですか?」
「それならそれでいいわよ。今はただ、恋愛なんて意味を見出せないだけ」
彼女らしい物言いに諦めて、最後の皿を愛に手渡す。
「…………分かりました。この話題は終わりでいいです。丁度休憩時間なので勉強してきます」
「はいはい、いってらっしゃい」
平行線な話題に彼女も諦めたのか、少しぞんざいに見送ってくれた。店の奥の休憩室に腰を下して少しだけ考える。
愛との距離感は普通だ。彼女にも懸にも、あれ以降恋愛絡みの面倒事は起きていない。それはきっと懸達の思惑を先回りして解決した心達のお陰なのだろう。特に悪役を買って出たらしい亜梨花には感謝しかないが、それを伝えたところで彼女はきっと素直に受け取らない。
いつか何らかの形でお返しをしたいが……それはその時がやってきたらだ。
同じくあの一件で考えるなら愛にも感謝をするべきだろう。彼女は関わる事で注目されるリスクがありながら、それでも手を貸してくれた。そのお返しが出来ているとは思わない。
とは言え今彼女が抱えているお見合いの話に首を突っ込むのは、彼女にとって余計迷惑な話だ。懸を巻き込まないようにと一線を引いた彼女。その溝を不躾に踏み越えれば、きっと感謝よりも後悔が先に立つはずだ。
何よりな話、懸にはやっぱりそんなどこかの物語の主人公みたいな事は出来ない。ただ出来るのは、友人として見守って、その距離から味方でいるだけだ。
誰だって我が身可愛さ。柵以上に社会の目がある現代で、そう簡単に英雄にはなれないのだ。
頭の片隅に愛の様子を置きながら試験が終わる。最終日はそのまま通常授業に移り、夏休みまでのカウントダウンが始まる。
暦は既に七月。梅雨前線も発表では日本近海を離れ、ようやく今年も夏らしい夏がやってくるとの話だ。そんな、ロスタイムとも言うべき惰性の学業の中で、随分と久しぶりに部活動に顔を出す。今日は依織も一緒だ。
「ふぃー。なんか一気に暑くなったな」
「梅雨明けの湿気に夏の日差しだからな。しかもこの部屋の風通しが悪いときたもんだ」
「もうちょっと本のこと考えてくれればいいのにな」
文芸部員らしいことを宣う親友の声に小さく笑いつつ、椅子に腰を下して溜め息と共に天上を仰ぐ。
「そういやぁ結果どうだったよ、テスト」
「まぁまぁだな。どうにか同じくらいを維持してる」
「まじかー」
「依織は?」
「二次元に三次元のあれこれは無関係だからなっ」
この様子だと赤点は回避したのだろうか。因みに滝桜の赤点は平均点の半分がラインだ。だから場合によっては棒高跳びを悠々と歩いて潜るなんて事もあるのだが……まぁそんなのは個人の問題。平均の半分なら単純計算で下から四分の一にさえ入らなければいい。
「それより休みはどうするよ」
「いつも通りに……今年はちょっと予定が増えてるな」
「予定?」
「八重梅の試合の応援。確か八月の頭って言ってたな」
「もうレギュラーとったのか?」
「一年だけの大会だ。まぁいいとこまではいくと思うけどな」
彼女の実力はよく知っている。不測の事態さえなければ入賞は間違い無いだろう。
「後はお盆に父方の実家に行くくらいだ。依織も前に一度行っただろ?」
「あーっと……岡山だっけ?」
「渋川だ。海水浴場もあるし夏にはもってこいだ」
瀬戸内海を望む白浜。確か白砂青松の百選に選ばれてた気がする、日本の渚の一つだ。
「んー……わりぃ、今年は無理そうだ」
「今年も、だろ? 有明だっけか」
「おうよっ。何か欲しい物あれば買ってくるぜ?」
「後で調べて、あればまとめて送っとく」
「あいよー」
有明の祭典。画面の向こう側……最近では現実にまでその影響範囲を拡充しつつある日本の文化の一端。その広大な沼にどっぷりと浸かる我が友人は、人の熱気で雲さえ作るとさえ言われる夏の一大イベントに今年も身を投じるらしい。
まぁ他人の趣味だ。懸がとやかく言うつもりはないし、それで周りに迷惑を掛けないなら自由の極み。
前に一度行った事があるが、あれは最早軍隊だった。人間、その気になればあれだけ統制の取れた動きが出来るらしい。学校の避難訓練より余程練習になるほどだ。
「懸がその気なら冬に応募とかしてみてもいいんだがな」
「やるなら委託で十分だろ。そもそも恥を晒したくない」
「全国の同人作家に謝れいっ!」
何故か火の点いた友人の導火線を、さてどうやって消そうかと考えながら雑談に溺れて。文芸部らしい事など殆どせずに時間が来れば、鞄を持って昇降口へ。
しばらく待つとあちらは正しく部活動を終えたらしい心と亜梨花が合流した。
「結局待ってたんだ」
「勉強は捗ったぞ?」
「部活しようよ……」
半眼で呻く幼馴染の言葉をスルーしつつ帰路へ着く。
相も変わらず話題は懸、心、依織の三人で交わされ、亜梨花の方から入ってくる事はない。しかし参加はしないだけでしっかりと聞いているらしく、話を振れば一言二言返事は零す。
去年はこれが普通の光景だった。今年は愛や葉子、恋の参入で不規則になりがちな下校風景だが、原点ともいうべきこの組み合わせはどこか安心する。
きっと中学からの付き合いで築かれた雰囲気が根強くそこにあるからだろう。
願わくばこんな有り触れた日常がずっと続けばいいのに…………と願えばもしかして物語のような怒涛の展開がこの先の未来に待ち構えているのだろうかと考えつつ。
州浜まで戻ってくれば駅の北と南で別れて徒歩の道のりへ。
「そう言えば心、今年はどうする?」
「何を?」
「渋川。また来るか?」
「あ、うんっ! お邪魔していいなら是非にっ」
部室での会話から思い出した母親の話。
心の祖父や祖母は、どちらも既に亡くなっている。墓参り等はあるが、それさえ済ませてしまえばお盆周りは暇になってしまう。だから数年前より心も一緒に懸の実家へ遊びに来ているのだ。
今年も例に漏れず、心に確認しておいてくれと親から頼まれていた。
「そっかぁ、もう夏休みだもんね……」
「補習とかまだ残ってるけどな」
「でも休みは休みだよっ。運動部じゃないから忙しくもないし」
「二学期は文化祭があるからな。演劇するクラスにはまた衣装作成の助っ人に行くんだろ?」
「うん。文芸部は去年と同じ?」
「そうだな、何か特別な事をする予定もないだろうし、部誌の展覧会するだけだな」
部誌に寄稿する文章の準備も始めないといけないか。依織のようにちょこちょこ書いていればそんなに慌てなくてもいいのだが、年に一、二回の機会にそれほど情熱はわかない。そもそも部活に青春を賭けるなら別のところに入ってる。
「ちょっと楽しみなんだよね、あの冊子」
「あんな素人丸出しの文章でもか?」
「普段書かない人が書いたのをこれでもかってくらい晒し上げて後悔処刑できるでしょ?」
「やめろっ。なんつう悪魔だ……」
「にひひっ」
何でこういらん事ばかり思いつくのだろうかこの幼馴染は……現代っ子怖い。
なんて、どうでもいい会話をしつつ帰宅すれば、玄関にダンボールが置いてあった。宛名は懸宛て。どうやらネットで注文していたゲームが届いたらしい。
「あ、おかえりー」
と、丁度二階から降りてきたらしい妹の紫。その手には盆に乗ったコップが三つ……。
「友達来てたのか?」
「さっき帰ったよ。それ受け取っておいたから」
「さんきゅ」
「何? ゲーム?」
「あぁ」
「そのうちやらせて?」
「あいよ」
そこまで上手くないくせに……。まぁ娯楽なんて楽しんだ者勝ちか。
「っていうか帰るならもう少し早く帰ってきてよ。桃と若菜が久しぶりに会いたがってたよ?」
「そりゃあ悪かったな。部活に出てたんだよ」
「うへぇ……」
何だそのリアクション。そんなにおかしいかよ。
因みに名前が上がった二人は紫の小学校からの友達だ。確か山川桃江と、岩杜若菜と言う名前だったか。何を気に入ってくれたのか昔から遊ぶ機会があって、その度にお兄さんと慕ってくれる妹よりも尚妹らしい気がする女の子達だ。
「あと漫画何冊か貸したけどよかったよね」
「ん、あぁ」
多分それが目的なのだろうけれども……。
「代わりにお菓子があるよ。お兄ちゃんにだってさ。直ぐ食べる?」
「そうだな。着替えてくる」
「んー」
ダンボールを抱えて自室に入り、軽装に着替えて制服をハンガーに掛けるとポケットに入っていたスマホに通知が一件。見れば愛からで、明日話があるらしいとの事。
なにやら一波乱ありそうな予感。帰り道に願った平穏無事な日常が早くも音を立てて崩れていくような気がしながら、それ以上深く考える事をやめる。
幾ら想像したところでそれは空想に過ぎない。真実は明日になれば分かる。答えは、その時に出せばいい。そう問題を先送りにして、目下の楽しみである階下のお菓子へと足を向けたのだった。
翌日。相も変わらず学徒足らんと登校する。向けられる視線はいつも通り、どうやら愛の時にように噂のような何かが懸の身に及んでいる様子ではなさそうな事に一安心。流石にあれと同じ事をそう何度も経験したくない。そうでなくとも目立つのだから残り数日の一学期くらい無害な一生徒として過ごしたいのだ。
一緒だった心が朝の時間を殆ど掻っ攫って。昼も何故か幼馴染の特権を振り回した彼女の所為か、機会を伺っていたらしい愛とは放課後になるまでまともに話を出来なかった。
当然、夏の大会を控える彼女には部活があって。放課後になると、下校する時に話をしたいと言い残して彼女はソフトテニスへと向かった。
二日続けて部活に出るとか入学当初以来ではなかろうかと思いつつ廊下を歩いていると、角を曲がったところで偶然葉子に出会った。
「あれ、長松君。今帰りですか?」
「いや、ちょっと用事があって暇潰し。空木さんは?」
「部活で使うエプロンを教室に忘れて取りに戻ってきたんです」
「部活……家庭科部だっけ?」
「はい。今日はフロランタンを作るんです」
フロランタン。確かクッキーの上にナッツをのせて焼くお菓子だったか。
頭の片隅にあった知識を思い出していると何かが繋がったのか葉子が提案する。
「そうだっ、もしお暇でしたら見学に来ませんか? お菓子も食べられますよ?」
「いいのか?」
「はいっ。きっと皆も喜ぶと思いますよ」
「……そうだな。暇なら有意義に過ごした方が得だしな」
折角の機会だ。未体験に踏み込んでみるのも面白いかもしれない。
「ではいきましょうっ」
不屈の精神で目に見えないアタックを仕掛けてくる彼女には尊敬をするばかりだ。ここまで強かに懸の事を想ってくれる女の子は初めてな気がする。懸に恋愛が分かれば、彼女を選んでいた未来も……と想像してしまうほどだ。
そんな魅力的な彼女が懸と言う不良債権に振り回されている事実に罪悪感を覚えながら。やってきたのは調理室で、現代の家庭科部には男子部員がいないらしく花園の様相を呈していた。
「ゲスト拾ってきたよ」
「長松君だーっ」
歓迎ムードは嬉しいが、素直に喜べない性格は如何ともし難い個人的問題で。けれども顔だけの懸にこれだけ喜んでくれる相手に無碍に応対するのも失礼だと覚悟を決めて体裁の仮面を被る。
「よかったら何か手伝おうか」
「お客さんは座っててください」
「ん、分かった」
好意を断るのも悪いと素直に受け取って、椅子に腰掛け鞄から本を取り出し読み始める。しばらくすると工程の確認が終わったのか、調理に取りかかる女の子達が微かにスカートとエプロンの裾を揺らしながら動き始める。
と、人の気配に顔を上げれば目の前には葉子が立っていた。
「今更ですけど甘い物とかアーモンドとか大丈夫ですか?」
「もちろん。楽しみにしてる」
笑顔で答えれば調理の輪に戻った葉子と共に作成が進む。
菓子作りに置いて欠かせないバターの甘い匂いがゆっくりと広がり鼻先を擽る。そうこうしていると手馴れた様子の彼女達は生地を寝かせる段階に入り、その間に生地の上に掛けるヌガーと呼ばれる、それ単体で菓子でもある物を作り始める。日本で言うところのおこしの親戚のような物で、蜂蜜を入れるヌガーはその量によって品質の度合いを分けるらしい……と、ネットに書いてあった。
そんな事を益体もなく考えているとローストしたアーモンドの香ばしい匂いと共にヌガーが完成し、寝かせておいた生地を型に入れ、その上からヌガーを掛けてオーブンへ。後は十分から十五分焼くだけらしい。
その間に手早く片付けを済ませた彼女達は、お菓子の恋人である紅茶を用意して懸を招いてくれた。
「傍から見てて思ったけど皆慣れてるな」
「週一で作ってますからね。慣れもしますよ」
前に依織が言っていた事を思い出す。勉強が出来て、優しくて、料理もこなす。当人談では球技が苦手らしいが、それは愛嬌の一つ。確かに女の子の理想の一角かも知れない。
そんな彼女がこんな懸の事を好いてくれている事に申し訳なさが浮かぶ。もしこれ以上彼女を縛ってしまうようなら、恋愛感情が自覚出来ない事を打ち明けた方がいいかも知れない。
不誠実なほどに平等な距離感しか描けないこの身は、彼女達にはただの毒だ。その責任感が、男一人と言う環境以上に懸の肩に重く圧し掛かる。
「あ、焼けたっ。美味しく出来てるといいけど……」
向けられる他愛ない話題に答えていると、焼き上がりを知らせるオーブンの音が響く。キャラメルは冷えて固まると失敗の元になる。その為ある程度スピード勝負で切り分けられたフロランタンが皿に並べられて差し出された。
「よーし、完成っ。それじゃあいただきますっ」
部長らしい三年生の女子生徒の声に続いて手を合わせれば、まだ温かいそれを口に運ぶ。視線が集まっている事に気付きながら口の中に広がる味と食感に思わず口角を上げて感想を音にする。
「うん、おいしい」
「よかったです!」
目に見えて彼女達が安堵する。まぁ招いた客人に口に合わない物を出すわけにはいかない。緊張は尤もか。
安心して笑った花園に少しだけ自分の居場所を見失いつつ、賑やかに雑談を始める彼女達に付き合って。美味しく食べ終えると掃除を手伝って調理室を後にした。
手土産にと余ったフロランタンを受け取って彼女達に見送られれば、そろそろ下校時間も近かった。
思いのほか有意義な時間が過ごせたと、胸の内の温かさに感謝をしつつ少しだけ時間を潰して。やがて最終下校のチャイムと共に校門で待てば、部活終わりの愛と合流できた。
「こんな時間まで待たせてごめんね」
「いや、お陰で楽しい時間を過ごせたから」
答えつつ歩き出せば、少しだけ周りの視線が集まる。お嬢様な愛と顔だけはいい懸のツーショットだ。ない噂が立つのはもはや仕方がない。願わくば変な風に燻って燃え上がらない事だけを祈っておきながら。
隣を歩く愛は運動終わりだからか少し距離を空けて歩調を合わせる。
「それで、その……話があって。まずは直ぐに話せなくてごめんなさい」
「まぁそう言う誰かに聞かれたくない類の話なんだろうなって覚悟は出来たからそれは別に。話ってのは?」
問えば、躊躇いなのか口を噤んだ彼女。しばらく足音だけが響いて、それから意を決したように口を開く。
「…………本当に、ごめんなさい。謝ってばかりだけど、謝らせて。ごめんなさい」
「うん」
「お母さんに、ばれちゃった……」
「ばれたって、何が?」
「長松君の家に泊まったの……」
幾つか想像はしていた。多分家の事だろうと覚悟していた。が、少しだけ違う角度からの言葉に緊張が競りあがってくる。
「なんかね、調べてたみたいで。どこからか分からないけどそこに辿り着いたみたいで。そしたら、長松君と話がしたいって」
それは、試験よりも余程心臓に悪い招待状。大変な事になった……と纏まらない思考の片隅で、何処かに参考を求める記憶が似たような話を少女漫画から引っ張り出してくる。
お見合い問題とか許婚問題とか。恋愛を主軸に物語を展開する少女漫画にとっては王道の一角とさえ言われる展開。その、空想だからと高を括っていた娯楽が、楽しむ余地など微塵もない現実として目の前に突きつけられる。
「だから、その……うちに来てくれないかな? お母さんと話をして、多分してるだろう誤解を解いて欲しいの」
「…………いつ?」
「……土曜日とか空いてる?」
「あぁ」
幸か不幸か、バイトも用事も入っていない。
色々いきなり過ぎて頭が追いつかないが、少なくとも逃げられる話ではないのは確かだ。
「元はと言えばあたしの所為なのに、ごめん。とりあえず、話だけ。そうすればお母さんも分かってくれると思うから。ただ何もなかったって言ってくれればいいよ」
「…………あぁ」
そう。多分それで終わりだ。
だから遣る瀬無くて、苦しいのだ。
誤解なんて直ぐに解ける。その解けた後に、彼女には試練が待っている。それが分かっているから、懸に対する申し訳なさと定まらない覚悟に揺れてそんなにも辛そうな表情をしているのだろう。
……やっぱり懸は主人公になんてなれない。事ここに及んでも気持ちと行動が一致しないのだから。
それを素直に音にすれば、きっと愛は笑って許してくれるはずだ。現実は物語ではないと。これ以上巻き込めないと。その景色が嫌に鮮明に想像出来るから……どうにかするのが格好いいのに、出来ないでいる。
全く、現実とはなんとも歯がゆい物だ。だから物語に憧れるのだろうけれども……。
「朝からで大丈夫かな」
「分かった」
「家までの道は分かる?」
「……うろ覚えだな。細かいとこまではなんとも」
「だったら枝垂駅の南口にいて。迎えに行くから」
「分かった」
少しだけ気になったが、これ以上首を突っ込んで彼女を困らせても仕方ない。懸に出来るのはただ、彼女の名誉を守る事だけだ。
「それじゃあ、また明日学校で」
「あぁ、また」
いつの間にかやってきていた枝垂駅。改札前まで付き合ってくれた愛に飾った笑みで答えて彼女と別れれば、仮面を取るのと同時小さく息が漏れた。
「あ、フロランタン、あげればよかった……」
次いで零れたのは、己の愚かさを再確認する一言だった。
* * *
「ただいま」
玄関を開けて靴を脱げば、声に顔を見に来たお母さんが出迎えてくれた。
「お帰りなさい」
「長松君には伝えてきたよ。土曜日なら大丈夫だって言ってた」
「そう、仕方ないわね」
「忙しいのはうちだけじゃないよ」
答えて部屋に篭り、寝具にダイブして枕を抱き込む。
土曜日にしたのは……微かな何かが胸の奥に芽生えたから。本当は放課後にと言われていたけれど、あえてその日を指定した。
理由なのか分からないが、その日はお見合い当日だ。
あたしは……彼にどうして欲しいのだろう。面倒になる事は分かりきっているのに、それでも何かがあたしをそうさせた。
……期待、しているのだろうか。事ここに至っても明確に一線を引き続ける優しい彼に、どうしようもないこの結末の終わりを押し付けようとしているのだろうか。
だったらやっぱり、あたしは卑怯な女だ。無理難題を突き付けて嗤う魔女だ。かぐや姫だ。……彼女のように果断に全てを否定出来たなら…………あった事を全て忘れられたなら、卑怯なほどに楽になれるのに。
ロミオを失ったジュリエット。声を失った人魚姫。記憶を失ったかぐや姫。あたしは、何を失うのだろう。……いいや、失う物なんてない。失うきっかけなんてない。
愛も恋も、あたしには過ぎたる果実だ。
だからそれでいいのだ。
普通の恋愛なんて手に入らないのだから。