第三輪
「ん~! おいしーっ!」
「口に合ったようでよかったです」
向かいで愛がカレーを頬張って笑みを零す。
いつもの我が家。いつもの食事風景。その中にあるいつもとは違う景色に、自分の家ながら何故か居心地の悪さを感じる。
藤宮家のお嬢様、愛。雨に降られていたところに偶然現れた彼女に助けられて家まで送ってもらい、そのまま家に泊まりたいと呟いたクラスメイト。
未だその明確な理由を聞いていない異性が、目の前で嬉しそうに家庭の味に舌鼓を打つ。
「藤宮さんって意外と庶民派?」
「何だかよく誤解されるんだけどね、家が大きくて歴史があるからって毎日宮廷みたいな生活してるわけじゃないよ? 学校じゃあ普通の学生だし、家に帰ればただの娘。強いて言えば生活する事に何不自由がないってだけで、日常に必要な事が周りと大きく違うなんて、そんな漫画みたいな事は早々ないんだよ」
疲れたように笑う愛。そう言うレッテルは、藤宮だからと言えば仕方のない事かも知れないが、当人はほとほと呆れている様子。
だからこそなのか、思い返してみればこれまで彼女と交わした言葉は、どれも有り触れた友人としての距離感だった。
特別視される事を諦めて、その上で普通を願う少女。勉強も運動も出来て、容姿が整っていて、優しくて……機械音痴な、女の子。そんな、どこにでもいる普通の…………普通を羨むお嬢様。
確かに漫画に出てくるテンプレートなキャラクターとは違う、けれどもどこかキャラクター然としたお嬢様だ。
「まぁその……あたしの言う普通と長松君が言う普通に認識や程度の差はあるかも知れないけれどね。少なくともご相伴に預かってる席で出てきた食べ物を過分な物言いで否定するような礼儀知らずじゃないつもりだよ。もちろんっ、口に合わないなんて事はないからね! と言うか味としては好みな部類だし……」
別に本気で疑っていた訳ではないのだが……。そこまで必死に否定されるとこちらが居た堪れなくなる。
「そう言ってもらえてよかったです」
「ま、紫がちゃんと食える物作ったってのも一つだな」
「あれ? お兄ちゃんの分だけルーの分量間違えたかな?」
逃げるように話題の着地点をずらせば、愛の前で容赦ない妹が冗談を重ねる。そんなやり取りがお気に召したらしく愛が肩を揺らして笑った。
楽しそうに笑う彼女に少しだけ安堵しつつ、雨の振り続く外の世界を見やる。
「しっかしよく降るな。そろそろ梅雨明けるって天気予報でも言ってるのに」
「今年は特にだね。何か記録的なの更新してるんじゃないかな?」
煩いほどに響く雨音に小さく息を吐いて、それから少しだけ踏み込んだ話題を振る。
「そう言えば家に連絡は?」
「したよ。友達の家に泊まるって。嘘は言ってないよね」
試すように、からかうようにこちらを見つめてくる。
もちろんそこまで愚かではないつもりだ。彼女の信頼の結果が今だと言うならば、その思いを裏切る事は出来ない。
「でもびっくりしたよ。いきなりお兄ちゃんが女の子連れて帰って来るんだもん。しかも付き合ってもない美人さん」
「ごめんね、家族の時間を邪魔して」
「いえっ、悪いのはお兄ちゃんですから」
「……言っとくけど俺から連れ込んだわけじゃないからな?」
男一人と言うただでさえ不利な状況でこの上結託までされたら敵わないと。釘を刺すように先回りすれば、顔を合わせた愛と紫が笑い合う。
お願いだから面倒だけは起こさないで欲しいものだ。
「けど本当にいいのか? 幾ら紫が居るとは言え今日家の親は夜勤で帰ってこない。俺から何かするつもりはないが、年頃の女の子がそんなに簡単に他人の家で寝泊りするなんて余り褒められた事じゃないと思うぞ?」
「心配してくれるのは嬉しいよ。でも大丈夫……大丈夫って胸張って言えるように、そうすればいいだけだよ」
どうやら決意は固い様子。これ以上突いたところで何かが変わる訳ではなさそうだ。
だったら懸も腹を括るとしよう。何、高が一晩だ。そもそも意識する様な感情が俺に湧くわけないしな。
それにきっと、彼女もその事が分かっているからそこに居るのだろう。
「…………分かった。もう何も言わない。藤宮さんは紫の部屋で寝てくれ。布団出しておく」
「ん、ありがと」
「風呂はどうする? 先がいいか、後がいいか」
「んー、後で」
「了解」
「あたし一緒に入りたいっ」
続いた声は紫のもの。
「夢だったんだ、お姉ちゃんと一緒に暮らすの」
「お姉ちゃんかぁ。……うん、よしっ。こんなに可愛い妹のお願いなら聞いてあげないとねっ」
「やったぁ!」
「いいのか?」
「妹が欲しいってのはあたしも一緒だから」
利害は一致しているらしい。ならば懸が口を挟むべき事ではないか。思いつつ、そこから話題を広げる。
「これまで訊いたことがなかったけど、藤宮さんって兄弟や姉妹は?」
「兄が一人いるよ。このままいくと今年大学卒業で就職かな」
「なるほど」
相槌は、少し上の空。そうなったのは、兄の話をした際に少しだけ彼女の瞳が揺れた気がしたからだ。
これ以上踏み込んで荒らしまわる訳ではないけれど、どうやら兄妹で何かあるらしい。あれはそう言う色の目だ。
紫との事があるからそこに関しては余計に勘が働く。我ながら無粋な勘繰りにもほどがあると呆れるほどだ。
「仲は、普通かな。長松君たちみたいに特別仲がいいって訳でもないよ」
「だって、お兄ちゃんっ」
「それでいいのかよ」
まぁ仲が悪いと言われるよりはいいのかも知れない。
しかしながらよく見ていることだ。まだこの空間に入って一時間経つか経たないかなのに……。流石は藤宮のお嬢様。観察眼は人並み以上か。
「あたしよりも色々器用に出来る人だからよく比べられてね。だから上じゃなくて下……それも同性がいたらなって思う事はよくあったんだ」
「もし気に入るようなら持って行ってもいいんだぞ?」
「妹売らないでよー」
また少し曇りかけた話題。意識して明るい方向に逸らせば、寂しそうな笑みを浮かべる愛。
「本当? 貰っちゃうよ?」
「だとよ。どうする紫?」
「嬉しいけど、今の所お兄ちゃんで手一杯かなぁ」
「おいっ」
遠慮のない悪態は仲が良い事の証明。とは言え心にもない言葉を明確に口にされると傷つくのは仕方のない事だと声を大にしたい。
全く、来客に甘えて迷惑だけはやめてくれよ……。
夕食を食べ終え風呂に入って暇つぶしにテレビを眺めていると、食事時の宣言通り男子禁制な花園を満喫してきたらしい妹がいつもより二割り増しに上機嫌な表情でやってきた。
「いやー、いいねぇ……」
「何がだよ」
下手に突っつくと不利な方向へ話題が転がっていきそうだが、かと言って答えなければ自分の家だと言うのに居場所がなくなってしまいかねない。
一応長男。家主不在だから代理の長は懸のはずなのに……数の暴力って恐ろしい。
「で、結局何だったの?」
「さぁな。幾ら俺でもそこまで考え無しじゃない」
「待ってたらどうするの?」
「それが分かれば苦労しない」
「……ん? それって…………」
いつものペースに心を許して不用意な事を言ったと。さて、どうやってごまかそうかと思考を働かせ始めた直後、今し方の話題の中心人物が姿を現した。
「ふぅ~…………。あ、服ありがとね」
微かに濡れた長い髪。着替えに貸した懸のジャージに身を包んだ愛が、上気した頬で柔らかく微笑む。
居心地の悪さは、見慣れない湯上りの異性だからか。…………そうだな、間違い無い。親の再婚で紫と暮らし始めた時も似たようなのを感じた。
だからって経験が全てを補ってくれるわけでもないらしく。特に美人な彼女が微かに湯気を纏ってそこに居ると言うのはやはり不思議だ。
多分最初から家族として過ごしてきた紫の時とは違い、愛がクラスメイトだからと言う先入観の所為だろう。
「いや。つうか俺のでよかったのか?」
「男の子的には丈の足りない服であっちこっち柔肌晒した方がよかった?」
「悪い、変な事訊いたな」
「分かればよろしいっ」
どうやら既に我が家の空気には慣れたらしいお嬢様。お客様は神様ですか?
「あっと、忘れてた……」
呟いて立ち上がった紫が部屋を出て行く。しばらくしてドライヤーを片手に戻ってきた。
「お兄ちゃんと話してたら忘れてたじゃん……」
「知るか、俺の所為にすんな」
責任転嫁したいならせめてその存在臭わせとけ。脈絡のない丸投げはただの理不尽だ。
「藤宮さん座って!」
「いいの?」
「可愛い妹の頼みだよ?」
「……もぅっ」
傍から見れば本当の姉妹に見えてもおかしくはないやり取り。人懐っこい紫と、どう振舞えばいいかを分かった愛だからこその光景だろう。一人だけ疎外感。
ソファーに座った愛の長く艶やかな髪をどこか嬉しそうに乾かし始める我が妹。その横顔が少し猟奇的に見えたのは目の錯覚か。そこまでいくと最早固執だ。ちょっと怖い。
「藤宮さん何か見たい番組とかある?」
「テレビはあんまり見ないんだ。暇な時は本読んだりとかの方が多いと思う」
「ゲームは?」
「した事ない……」
「やってみる?」
「いいのっ?」
機械には疎いくせに好奇心は人一倍か。まぁ何となく結果は見えてる気もするけれど。
「ジャンルは何がいい? アクション、レース……いや、ファミリー向けの方が簡単か?」
「よく分からないから長松君のおすすめで」
「了解。準備するからちょっと待って」
「お菓子出す?」
「そうだな」
紫の提案に頷きつつ、自室に置いてあるハードを取って来る。基本ゲームは一人か、依織が遊びに来た時。または心や紫と……と言うのが内訳だ。
一緒にやる相手が相手なだけにソフトはメジャーな物が多い。もしかしたら愛でも知っているタイトルがあるかも知れないと。考えながら居間へと下りると既に紫が宴の準備を始めていた。
「選んでいいよ」
「……そう言えばこう言うの初めてかも」
「と言うと?」
「そもそも外泊しないから。家以外だと親戚とか修学旅行とかしか経験ないんだよね」
パッケージを物色しながら零す愛。お嬢様らしく箱入りな彼女はらしくないようで根の分はしっかりと藤宮だと痛感する。
そんなお嬢様が目の前で無防備に……どこか扇情的なほどにラフな湯上り姿なのが未だに信じられない。
流石の懸も本物のお嬢様とこんなに親しくなった経験はない。だからどこかで距離を測りかねていて、それが彼女にとっても心地のよい空気なのだろう。
「なら良い機会だ。藤宮さんが望む事で出来る限りは今日やってみるか」
「本当?」
「出来る範囲で、な?」
「やった!」
純粋無垢なお嬢様を未知の世界へご招待……。なんてそれほど怪しい話ではないのだけれども。
とりあえずその時までは暇つぶしを紡ぎ続けるだけだ。
想像通り初めての経験に最初は戸惑っていた愛。けれども時間が経つにつれて慣れたのか、一時間もするとそれなりの結果を残せるようになった。
苦手は確かにあるのかも知れないが、器用なのは確かだ。基本何をしても平均的にこなす彼女には、特別出来ない事はないのだろう。
その事を疑問にして口にすれば、少しだけ笑った彼女は「逆に言えば得意だって胸を張れる事が特にないだけだよ」と零した。
謙遜を。そう続けようかとも思ったが、どうにも言葉の端に滲んだ感情には本音が聞いて取れる。もしやと思い将来の展望を訊いてみたら、予想通りに「よくわからない」と返ってきた。
一緒にすると彼女は怒るかも知れないが、明確な未来を描けない部分は懸と似ているらしい。将来の夢が明確にない。自分と言うものが薄い。
受動的で、主体性がない。けれども背負った物に必要以上の期待をされて、疲れなんて遠い昔に忘れてしまったと。
まるで余生を過ごす老人のような冷めた態度。どこか虚ろにさえ思える横顔。
彼女は、自分と言うものを見失ったらしい。期待に応えようと演じすぎて、自分が分からなくなったらしい。独り言のようにそう呟いた愛は、ゲームオーバーになった画面を見ながら自嘲するように笑う。
「…………ごめんね」
それは一体何に対しての謝罪だったのか。具体的な答えを追いかけるのさえ億劫な話題の空中分解に懸も小さく息を吐く。
時計を見ればゲームを始めて既に二時間が経っていた。途中休憩も挟んだが、そろそろやめどきだろうか。
「お手洗い借りてもいいかな?」
「階段の下にあるから」
「ありがと」
コンテニューの文字が躍る画面で停止したままコントローラーを置いてソファーに背中を預ける。途中から後ろで観戦モードに移行してスマホを弄っていた紫が小さく音にする。
「高校生ってそんなに大変なの?」
「紫も来年には分かるさ」
ずれた答えを返せば溜め息で答えた妹。それから僅かに考える間を挟んで、立ち上がった紫が居間を出ていく。
「…………部屋にいる。あんまり遅くまで振り回さないでよ?」
「分かってる」
どうやら興味を封印したらしい。と、そんな妹の後姿に思い至った結論。……もしかして紫がいたからか? だとしたらもう少し心構えをしておく必要があるかも知れない。
面倒な雰囲気に傾いた思考を、けれど今はどうにか押しやって。しばらくして戻ってきた愛が、リビングを見渡して問う。
「あれ? 紫ちゃんは?」
「先に部屋に戻った。まぁゲームへの集中力はそれほどじゃないみたいだからな」
「そっか、残念……。もう少しお話したかったのに」
「意外と遅くまで起きてるから話は寝る前にすればいいよ。きっと断らないから」
「ん、そうだね」
随分と紫の事を気に入った様子。紫も愛の事は好きらしく、女の子同士ならきっと話題も弾む事だろうと思いつつ。
「ゲームはどう? 満足できた?」
「うん、ありがと。またしたくなったら声掛けてもいいかな?」
「あんまり入れ込みすぎないようにな」
ゲームなどは特に没入感が激しい遊びだ。距離の取り方を間違えれば道を踏み外しかねない。もちろん適切に扱えればいい息抜きになるし、物によっては知識の虚にもなる。
匙加減一つで何かを壊しかねない。もし純真無垢なお嬢様を電子の沼に嵌めてしまったらどうやって責任を取ればいいのだろうか……。
「何飲む?」
「温かいので。甘ければ最高だね」
遠慮がない……と言うよりは気を許してくれているらしい微笑みを受け取り、ゲームをテレビに変えて冷蔵庫を覗く。目に入ったのは牛乳。直ぐに考えが巡って気分転換にもいいとやる気を出す。
「カプチーノ作ったら飲む?」
「飲めるけど……作れるの?」
「一応な。どうする?」
「じゃあ飲むっ」
興味津々な声に小さく笑いつつ準備。
流石にエスプレッソマシンはないからインスタントのコーヒーで代用。バイト代で買ったミルクフォーマーを使い、牛乳を温めてフォームミルクとスチームミルクを作成。
少しだけ集中して記憶の通りにカップに注げば、どうにか綺麗に形が出来た。
「好きな動物とかは?」
「……うさぎかな」
「それはどうして?」
「特に理由はないけど、今日は雨で月が見えないから」
「なるほど」
月の兎。逸話もある地球の衛星に浮かぶ模様。古くは竹取物語より、異界の象徴とされる事が多かった一番近い別世界だ。
現代ではその気になれば一般人でも向かえるその場所には、懸も子供心に憧れた事だってある。
そんな地球の衛星に思いを馳せるように雨の降りしきる暗い世界を見つめる愛。その横顔が、日本最古の我が儘姫と重なった気がして少し考える。
長い髪、整った容姿、和装姿……。加えて今、本来いるべき居場所から何がしかを求めて友達の家にやってきたお嬢様。偶然にしてはなんとも嵌り役だと思う。
けれど、だとしたら彼女は一体何を望んでいるのだろうかと。考えながら自分の分も作って愛の向かいに腰を下す。
「ありがと……可愛いね」
「今回のは自信作だな。これまでで一番の出来だ」
「こんな特技があるなんて知らなかったよ」
「……あれ、もしかして気付いてない? 俺あのカフェでバイトしてるぞ」
「あ、そうだっけ。忘れてた……」
「忘れてた」。そう小さく笑った愛に違和感以下の確信。
きっといつも通りならそれくらいの事は普通に覚えているだろう。「忘れてた」……その言葉を裏返して考えれば、何か別の事に悩んでいてそこまで思考が至らなかったと解釈出来る。それくらいには周りを見失っていた愛。どうにも今彼女が抱えているのは、そこそこ難題らしい。
「長松君のは?」
「富士山」
「なんで……?」
「ふじの煙」
「……あ、竹取物語か」
「流石に藤宮さんは知ってたか」
「あたしも藤だからね」
ユニークな返答に一本取られたと白旗を振る。
ふじの煙。竹取物語の最後で、かぐや姫から不死の薬を貰った地上の者だったが、彼女のいない世界で永遠に生きる事に意味を見出せなかった人間達は、それを山に持って行き燃やしてしまう。その山が今で言う富士山で、不死と富士を掛けた洒落なのだ。
と、ここまでが懸の思いつき。その先に絶妙な返しを直ぐに思いつく愛は、やはり頭の切れる才女なのだろう。
そんな彼女が、けれど月に何かを焦がれるほどに悩んでいる。
もちろん自惚れている訳ではない。胸の内を明けてくれたところで、彼女の悩みが簡単に解決できるなどとは思っていない。けれど愛には愛との件で助けられた恩があるから。可能ならばそれを返したいと、それだけの事。例え停滞や悩みを打開する直接的な力にはなれなくとも、友人として抱えた思いを聴く事だけは出来るはずだと。
「花を描くのは難しいかもな。桜とかならやり易いかもだけど」
「出来るだけすごい事だと思うよ。……似たようなのだとあたしには押し花くらいしか出来そうにないかな」
「押し花なら小学校の時にやった記憶があるな。栞として幾つか持ってるぞ?」
「……何だか女々しいよ?」
「趣味に貴賎はないだろ?」
どうにかして彼女の恥ずかしい秘密の一つでも暴いてやろうかと。自分から語ってはいるが、一方的なのは何だか癪に障る。……まぁ弱点と言う意味では彼女の苦手な物は幾つか知っているかもしれないが、その全てが愛嬌になってしまいそうな愛には然したるダメージにはならないだろう。
「そう言えば長松君、学校でもよく本読んでるよね」
「一応文芸部員だしな。可能な時は暇潰し用に一冊持ち歩いてる。ゲームに溺れるよりは余程誠実に見えるからな」
「打算なんだ、あれ。古風……って言うと馬鹿にしてるように聞こえるかもだけど、でも、そう言うところは好感持てるかもっ」
「アナログ好きにとっては?」
「別にぜんぜん使えないわけじゃないからっ。全く、世界はいつだってあたしを置いて進むんだもん」
そんな事で拗ねられても。
可愛らしく愚痴を垂れる愛に小さく笑えば、それから彼女は何かを諦めたように視線を伏せて何とはなしに続ける。
「だから────あたしの人生はあたしのものじゃないんだよ」
怒ったような、憂うような……捨てたようなトーンの声。一瞬にして空気を換えるその響きに無駄口を閉ざして耳を傾ける。
言葉にしない雰囲気で彼女もそれを感じたのか、訥々と今を語り始める。
「あたしね、古風なのと古臭いのは違うと思うんだ。伝統って言えば何でも許されるような、方便を言い訳にした押し付け。誰かの都合なんて考えてない、とっても理不尽で独り善がりな強要。もちろん守るべき習慣とかはあると思うけどね。好みと同じで侵害したりするものじゃないと思うんだよ」
愛は藤宮のお嬢様だ。普通に憧れる普通じゃない女の子。持って生まれた物が違う、懸とはどこか別世界の住人。
けれど普通ではないからこそ常人にはない苦悩もあるのだろう。
「覚悟や選択がいつだって正しいわけじゃない。勝者の裏には敗者がいる。ゲームもそうだよね。でも現実はゲームみたいに都合がよくないから……多分それに怒ってるのも、一つ。そんな事に怒ってる自分が馬鹿だって思うのも、一つ。剰えその自己責任に無関係な長松君を巻き込んでる事が、きっと一番の後悔」
自戒するように組んだ手の甲に爪を立てながら零す愛。
何を言ったところでそれは上辺の言葉で、全てを理解して協力するなり同情するなりなんて事は出来ない。それこそゲームや物語の中のように現実は明瞭ではなく、提示される情報が全てではないのだから。
その上でただ出来る事があるとすれば、今この時に真摯に向きあって、他人事だとしても語られる一言一句を逃さず聞き届ける事だろう。もし結論が必要ならば、全て聴き終えた後でいい。
「こんな我が儘に付き合ってくれてる長松君には感謝しかないよ。……それを分かった上で、甘えていいかな?」
「甘えるって何を? 俺は単に遊びに来た友人を家に泊めて睡眠前の暇潰しに雑談してるだけだけど?」
「もぅっ、一体どこまでお人好しなの……?」
確かめるようなやり取りは阿呆らしいほどの着地点を作り出して。
それから思考を整理するような沈黙を挟んだ愛が、小さな息を吐いて紡ぎ出す。
「…………じゃあ雑談。長松君は、政略結婚ってどう思う?」
「全く以って別世界の、縁遠い話だな。まぁ他人事にいい題材だとは思うけど」
どこまでも無関係を装って。ずれた回答のその先に、文芸部での部誌への寄稿はそう言うネタもいいかも知れないと無粋に考える。
「それならお見合いは?」
「ちょっと親近感があるかもな」
「えっと……本当のお母さんがそうなんだっけ?」
「何で知って…………あぁ、紫の奴か。いらんこと話しやがって」
「ごめん、無神経な事言ったね」
「勝手に話した紫が悪いんだ。藤宮さんが気にする事じゃない。ただ出来れば誰かに言うのは避けて欲しい。楽しい話じゃないからな」
「うん…………」
思わぬ方向に広がった話題に奥底にあった記憶の蓋を少しだけ開ける。
懸が紫と会う前の……つまり懸が生まれた時の両親はお見合い結婚だった。二人の間に懸が生まれ、愛や恋を自覚できなくなった原因である生みの親からの虐待を経て離婚。
当時五歳だった懸にとっては殆ど理解の出来ない出来事だったが、高校生になった今なら少しは分かる。
お見合い結婚は互いの家の関係を前提とした家族のあり方だ。個人同士ではなく家同士の繋がり。人の輪が齎す関係だ。だから離婚をすれば……その原因がどちらかに明確にあれば個人の問題では収まらない大きな禍根が残る。
自由恋愛からの結婚ならいざ知らず、お見合いから始める結婚には互いの家族にさえ影響を及ぼす、自由以上の責任が存在するのだ。その責任を背負ってでも、懸の両親は離婚を選んだ。まだ幼い俺を守るため、大人の判断で家族である事をやめた。今になって考えればそれはきっと正しかったのだろう。
けれどその裏側には、俺の小さな気持ちだってあったのだ。
だってそもそもの原因は俺にあるのだから。俺の所為で、二人は離婚してしまったのだから────
幾度か父親に抗議はしたけれども、結局関係が元に戻る事はなかった。それもまた、お見合い結婚だからと言う忖度の結果だと、今は理解しているけれども。
寂しくて、認めたくなくて。きっと母親と言うものに……愛情と言うものに飢えていたのだろう。だから今の母親である彼女との再婚を聞いた時に、小学生ながら他にない喜びを感じたのだ。そうして、今大切な家族となった紫と出会ったのだ。
恐らくそれくらいの話を愛は紫から入浴中に聞いたのだろう。それでいて風呂上りに二人していつも通りを装っていたと考えれば、少し恐ろしささえ感じる……。
「だからまぁ、お見合いに関してはそれなりに理解はあるつもりだ。……で、それは俺の場合と同じなのか? それともこれからって話なのか?」
「これからの方だよ。本当、くだらないよね。時代錯誤も甚だしいよ。……でも、藤宮としては仕方のない事だってのも分かってる」
一般のお見合いと、名家のお見合いでは意味合いが異なる。それこそ、政略結婚なんて言葉が似合うくらいには、様々な思惑が交錯する話だ。
……分かりきった事。懸にはどうする事も出来ない問題だ。
「兄がいるって話をしたよね」
「あぁ」
「藤宮を継ぐって言うのはきっと兄が長男としてやる事だと思うんだ。実際のところ、将来を誓った婚約者もいるしね。そっち方面はあたしが背負う事じゃない」
似たような話は蓮と夢の事があるか。あの二人は、子供心の延長線上でありながら、許婚と言う今を認めている。まぁ互いに了承している話で、懸に語って聞かせてくれたくらいには重くも無い納得している事なのだろう。
少なくとも不幸を願って呪うような話ではないはずだ。それと懸の身の事は別問題。
加えてそこに愛のお見合いの話と、彼女の兄の結婚さえ視野に入っている婚約者の事。高校生なんてまだまだ結婚とは縁遠いと思っていたのに、どうにも懸の周りは大人の時間で進んでいるらしい。
……法的には愛は既に結婚出来ると考えれば生々しくも現実味のない話だ。それはきっと懸にとって結婚や婚約よりも、勉学や恋愛の方に重きが置かれているからだろう。そしてそれは、愛も一緒なのだ。
青春真っ盛りの高校二年生に、新しい家族の話は荷が重すぎる。
「でもだからってあたしは藤宮である事をやめられないし、例え藤宮じゃなくなっても全部がなかった事になるわけじゃない。それにあたしに求められてるのは、藤宮じゃなくなる事で藤宮の為になる事だから…………」
政略結婚とは、そう言う物だ。打算があって、利害があって。その末に取り入ったり招き入れたりする事で意味を成す。
愛の身に今降りかかっているのは、別の名家との橋渡しと言う話だ。
「とは言え今特別何かに困ってるわけでもないから、本当に意味が分からなくて……って、こんな込み入ったこと話されても困っちゃうよね」
「まぁ悩みは人それぞれだからな。で、客観的に聴いて一つ思ったのは純粋に好意なんじゃないかって事」
「好意?」
「意味がない。つまりは……言い方はが悪いかもだけど、藤宮さんがそう理由を見つけたいんじゃないかって。瑠璃子さん、だっけ……。藤宮さんのお母さんが、純粋に藤宮さんの事を考えていい相手を選んだ末のお見合い話って言う可能性」
外からの視点は主観よりも広い事が多い。彼女が懸にこの話をしたのだって、同情なり解決策の手掛かりなり、そう言う類の自分にはない何かを求め、無関係でいてくれる他人に愚痴を零したいからだろう。
ならば何も出来ない事を分かった上で、彼女が許してくれる限界まで近付いて他人事に意見を言う事が、きっと懸に出来る事。愛の許す線引きだけは慎重に見極めて判断しなければ。
「俺の家族の事を聞いた藤宮さんに、こんな話をするのはもしかしたら図に乗ってると思われるかも知れないけれど。親が子に幸せを願うのは何よりの愛情表現だろ? 家の事は藤宮さんのお兄さんがするから、藤宮さんには自由に幸せになって欲しい。その為に信頼出来る相手を選んだ。そう言う見方も出来るんじゃないか?」
「………………そう、だね。確かにそれもあるかも。ありがとね、長松君。調子に乗ってるなんて思わないよ。頭に血が昇ってたのがあたしなのは間違いじゃないから」
別に説き伏せたかった訳じゃない。そう言う可能性を提示しただけだ。
だからこそ逆に少し怖くなる。
「クラスメイトの家に転がり込んで、思いつきの可能性を真に受けて。信頼してくれる事は嬉しいけど、あまり妄信されると藤宮さんが心配になると言うか……」
「えぇぇ? 今更怖気づいたの?」
「俺の一言で藤宮さんに何かあったらと思うと、」
「責任が取れない?」
先周りされた言葉に続ける言葉が見つからなくてカプチーノを一口飲む。すると彼女はくすりと笑って、更にからかうように告げた。
「責任、取ってくれる?」
「……一体何の話をしてるんだよ」
「逃げたー。ヘタレぇっ」
心みたいな事を言わないで欲しい。あと自分がヘタレなのはよく知っている。今更面と向かって言われたところで特になんとも思わないけれども。だからってそう言われ続けるのは風評被害だ。そうでなくとも目の前の彼女は発言力が強いのに……。
「……でも、だからこんな話を長松君にしちゃうんだろうね。…………あーあ、失敗したなぁ」
「失敗?」
「こんな事なら遠慮なんてせずに菊川先輩より先に手を出しておけばよかった」
「勘弁してくれ…………」
前にも同じ事を言われたが、どうやらそこそこ本気だったらしい。偽の恋人なんてもう二度とやりたくない。
そんな胸の内が顔に出たのか、夜も更けてきたリビングに愛の笑い声が響いた。
…………まぁ笑ってくれるならそれでいいか。
「とりあえず、薄情かもしれないけど俺にはどうする事も出来ない。どうあってもこの話は藤宮さん個人の、家の事だ。だからって話を聞いた以上知らなかった振りも酷いからな。また何かあれば愚痴くらいは付き合うぞ」
「ざーんねんっ、ちょっと期待してたのになぁ、王子様」
「俺は矮小な兵士だからな。しかも剣を持ってるわけでも鎧を着込んでるわけでもない。自分を重ねる事は出来ても、どこかの主人公みたいに馬鹿にはなれない」
「……それで、いいんだよ。それがいいんだよ。長松君がこっち側に来ると、こんな話すら出来なくなっちゃうからね」
俺と彼女は、住む世界が違う。違うからこそ、互いに不可侵で遠慮なく友達でいられるのだ。
寂しい笑顔を浮かべた愛に、それからついでのお願い。
「なら無責任な友達ついでに改めて一つ」
「なに?」
「俺の過去とか、火傷とか、恋愛観とか……。今更だけど、その辺りの事全部ひっくるめて藤宮さんの胸の内に留めておいて」
「菊川先輩は?」
「了承済み」
「んー、頷きかねるかな……」
「どうして」
思わぬ返答に咄嗟に素の声が漏れる。それにはきっと気付いていながら、けれども聞いてない振りで友達らしく装ってくれた。
「長松君だってそうでしょ? 聞いたのに無関係じゃいられない。もちろん嫌がる事をするつもりはないよ。ただ、友達が困ってたら助けるのが普通だからねっ」
「だったら大丈夫だ。少なくとも高校在学中にどうにかなるほど浅い問題じゃないからな」
「余計心配だよ、それっ」
どうにか冗談めかした着地点を見つければ、それから二人して小さく笑う。
やっぱり懸にはどうする事も出来ないけれど、話をして気が楽になったのならきっとよかったのだろう。そう二人で確認するように、視線を交わしてどちらからともなく問題を投げ捨てる。
「ゲームする?」
「今度は協力するやつがいいな」
「ん、りょーかいっ」
「あと飲み物おかわりっ」
お嬢様のお口に合ったようで何よりだ。そんな事を考えながら、どこかにあるかも知れない夜が更けていく。
翌朝、無意識下に緊張が残っていたのかいつもより早く目が覚めた。日曜日とは言え、二度寝するのも何だか勿体無い気がして階下のリビングへ。途中玄関に視線を向けたがまだ両親は帰ってきていない様子。
まぁ事情を話していない親と愛が鉢合わせをする事を考えたらよかったのかも知れない。紫も夜遅くまで彼女に甘えていたみたいだったしな。
と、脳裏に浮かんだクラスメイトのお嬢様の顔に、少しだけ思考を巡らせて。台所で冷たい水を喉の奥に流し込み息を吐くと頭を切り替える。
時間は、誰にだって平等だ。何があったって止まってはくれない。時の流れはその最中に、生理的欲求だって押し付けてくる。
だからこそ、何はなくとも朝食だ。三人……いや、帰ってくる両親も含めて五人分。早起きには丁度いい時間潰しだ。
やるべき事を見つければ体が動き始める。主食は簡単にパンで。卵をスクランブルエッグにして、サラダと一緒にかりっと焼いたベーコン辺りを並べるとしよう。
そうして自分以外の音が響き始めるとようやく世界が動き出したような気がした。
一人だと意外と忙しいキッチン周りの小移動。するべき事に駆られながら、けれども頭の片隅は嫌に冷静に昨夜の愛の話を思い返す。
一番寝てリセットされた思考で考えても、やはり懸にはどうする事も出来ない。出来ないなりに、何が起こりそうなのか、その予想を列挙する。
漫画ならきっと主人公が無理を通して解決するのだろう。その事にヒロインが心を揺らして、きっかけと共にラブコメが始まっていく。
けれど、やっぱりそれは、漫画の出来事だ。何より懸はどこかの主人公のように無鉄砲な事は出来ない。現代社会で名家に楯突く一般市民など、耳元で煩い蚊と同等だ。
そうでなくとも異性。クラスメイトと言う接点しかない懸に、彼女を救う正当性はない。
そもそもだ。愛がそれを望んでいるのかと言う話。大人な彼女の事だ、愚痴を吐くだけ吐いて、自分を納得させて、きっと周りにとっての都合のいい何かを受け入れるのだろう。リアルってのはそれくらいに理不尽で、どうしようもない。
もし、仮に……別の誰かが今の俺と同じ状況に立たされたとして、その者が漫画の中の主人公のように蛮行を英断に変える事が出来るだろうか?
端整なつくりの物語ではない。バグも、ノイズもそこら中に存在する現実に、一体どれだけの確信と勇気を握り締めるというのだろうか。
誰もがきっと主人公になりたい。幼い頃に憧れたヒーローのように、ヒロインのように。はたまた青春に転げ回る誰かのように。
友達に囲まれ、言動が成功を掴み取り、恋人に、家族に恵まれる、何に困る事もない理想の人生。そんな理想は────けれど現実にはあり得ない。
だからこそ願うのだ。空想に理想を重ねて妄想が満たされる事を。どこかにあったかもしれない理想郷を求めるのだ。
現実がそうでないと知っているから。
夢を叶えるなんて、夢を夢と思っていない愚か者だけだ。そんな馬鹿に、懸はなれない。
自分が可愛いから。小さいと知っているから。他人に何かをする前に、自分をどうにかしないといけないから。
だからほら、ありふれた事には対処できてきても、物語の出来事が現実になると途端に何も出来なくなる。愛との偽の恋人関係がいい証拠だ。あの時だって、懸が何かをする前に周りがどうにかしてしまった。主人公なら、自分で解決出来ている。
俺は、俺の人生の主人公ですらない。愛も恋も分からない、まともな人間以下の……何かだ。
せめて、誰か一人でも俺の事を人だと言ってくれれば、救われる気がするのに。
「おはよう、お兄ちゃん…………」
「ん、おはよう。藤宮さんも」
「んー…………」
「大丈夫か?」
「……てい血圧、だから……朝、弱くて…………」
分かりきった結末に至る思考の迷路から浮上する。声に答えれば、リビングの入り口に凭れ掛かった愛が振り子のように揺れていた。
「朝食作ったけど食べられる?」
「……かお洗ってくる…………」
昨夜あれだけ思い詰めていた人物とは似ても似つかないほどに不安定な彼女。まるで夢であったかとさえ錯覚しながら出来上がった皿を食卓に並べば、半分ほど目が覚めたらしい愛が戻ってきた。
最後に野菜ジュースをコップに注いで差し出せば、まだ少し寝惚け眼なお嬢様が零した。
「あれ……パンだ……」
「もしかしていつもはご飯?」
「んー……和食がほとんど、かなぁ。だいじょうぶ、食べるよ。めずらしいから」
「ならよかった。じゃあいただきます」
いつもの藤宮愛が起動しきっていないらしい彼女が、ゆったりとした動作でパンを齧り始める。愛の隣に座る紫が子供の食事を心配するように目端で伺うのが少しだけ面白くて、食べながら思う。
変わらない朝食に客人の姿があるのも新鮮だが、普段しっかりとしている愛が朝はこんなにも芯の不安定な事が何よりの衝撃だ。その内再起動されたしっかりものが取って変わると思うと、目の前の姿に特別を感じる。
……いや、今更な話か。そもそもお嬢様な彼女は懸とは全く違う階層の人物だ。どうにも毒されて感覚が麻痺していたらしいと。
「お兄ちゃん今日の予定は?」
「特になし。紫は?」
「藤宮さん次第ってところかな」
「んぇ? あたし……?」
どうやら昨日寝る前に随分と仲よくなったらしい。まぁこの二人なら当然のコミュニケーション能力か。
「時間があれば遊びたいとさ。嫌なら断ってくれていいから」
「……うん、大丈夫、だよ」
「やったぁっ! どこ行きますかっ?」
朝から妹のテンションが急上昇する。沈んでるよりはいいけどな。
そうして少しずついつも通りを取り戻していく愛と共に予定を詰め始める紫。ともすればやはり本当の姉妹のように仲のいい二人を眺めながら、それなりな出来の朝食を腹に収めていると八割方いつも通りを取り戻したらしい愛が不意にこちらに視線を向ける。
「長松君はどうするの?」
「……遠慮する。まともに課題が終わってないからな」
「嫌な事思い出させないでよ…………」
「学生の本分だろ?」
誘いは嬉しいが高校生である事を疎かには出来ない。そうでなくとも金曜日からは期末テストが始まるのに。
「藤宮さんこそ余裕そうで羨ましいな」
「経験上こういう時の方が成績がいいんだよ。変でしょ」
こういう時、と言うのは何かに悩んでいる時と言う事だろうか。
今回は特にお見合い話と言う彼女の人生さえ左右しかねない大問題だ。追い詰められて実力を発揮する……のとは少し違うのかも知れないが、確かに変な話だ。
「多分ね、問題を解く事で何か答えを探してるんだと思う。だから妙に頭が冴えるんだよ」
「そりゃまた苦労人な人生歩みそうだな」
「分かってる分便利だけど、そうでないならない方が嬉しいよっ」
自慢なのか愚痴なのか分からない返答に小さく笑みを浮かべて。それから雑談交じりに朝食を終えれば、せめてものお礼に洗い物はさせて欲しいと愛が申し出た。断る理由もなく頷いて彼女に任せる。
片手間に雑談のような何か。
「一つ質問いいかな」
「何?」
「長松君は、あたしと同じ立場だったらどうする?」
問いかけは昨日の延長線上。愛とのお出掛けにはしゃいでいる紫が自室に篭っているから、今の内に最後の問答をと言うことなのだろう。
少しだけ考える間を開けて、BGM代わりの朝のニュースを上の空で眺めながら答えを纏める。
「…………するべき事を、したい事をする。後悔は、後になれば教訓になるけど、失敗したその時にはただの停滞にしかならない。だから今すべき事、これからしたい事を追い駆ける、かな」
「長松君のしたい事って何?」
「それこそ立場や環境によって変わるだろうけど、今に限るなら、そうだな……………………藤宮さんの味方でいたいかな」
「なにそれ。もしかして口説かれてる?」
「そこまでの責任は背負えないけどな」
「相変わらずヘタレだねー」
返答は、御気に召したのか。肩を揺らして柔らかく微笑んだ愛に少しだけ安堵する。
一応他にもやりたい事はある。けれどどれも一番にはなり得ない懸の自己満足ばかりで、大義名分には満たない。
恐らく懸は愛以上に不安定で曖昧で臆病だ。だからほら、今も逃げている。
「藤宮さんは?」
「したいことかぁ…………」
考えるような呟きは、けれどその後の答えを音にはしなかった。
「それじゃあ、ありがとう」
「あぁ、また学校で」
「うん」
荷物も殆どなく準備をし終えた愛を送り出す。彼女の隣にはこれから一緒に遊びにいく紫が楽しそうに笑っていた。
結局具体的な答えなどなく。あるのはただ浮き彫りになった明確な線引きだけ。
けれどこれ以上なんて懸には出来ないし、愛もそれでいいと言ったのだ。例え言葉にした以外の気持ちが彼女に燻っているのだとしても、方々に迷惑を掛けてまで無茶をする事は……やはり懸には荷が重い。
それを理解した上で友達の距離感でいてくれる愛には感謝しかない。彼女も、本気で懸を巻き込もうとしている訳ではないのだ。
薄情だというならそれでもいい。自ら前後も曖昧な危地に跳び込むほど愚かではないと言うだけだ。
「じゃ、行ってくるねっ」
「遅くなるなよ」
「だーいじょーぶっ」
そうして、二人を見送り一息吐いて思考を切り変える。
今悩んでも仕方ない。何かあったらその時はその時だ。
踵を返し、家へと戻る。さぁ、涼しいうちに溜まった課題を片付けるとしようか。
* * *
「どこか行きたいところはある?」
「藤宮さんにお任せで」
友人の妹を借りて町を歩く。駅までやってくれば行き交う人々はいつも通りで。世界はこんなにも当たり前に流れている事を実感する。
きっと皆何がしかの問題や憂鬱を抱えていると言うのに。自分が一番不幸だと思い込んでいる。
もちろんあたしもその一人だろう。殆どの人には理解されない立場で、他人事にしか共感もされない身の上。お見合いなんて、ありふれているのにどこか違う。そんな、自分でもよく分かっていない曖昧な迷いの中に立っている。
出口のない迷路を彷徨い。いつか何処かに全てを恙無く解決してくれる未来が転がっている事を願っている。
そんな自分がとても嫌になる。
あたしは、卑怯だ。藤宮である事を理由に、周りに何かを求めている。……助けてもらいたいと、願っている。
これではまるで悲劇のヒロインを気取ったただの嫌な奴だ。
誰でもいい。あたしは助けないから、あたしを助けて。そんな、悪魔のような、まさにお姫様だろう。
竹取物語。その名前が脳裏に浮かんで、自嘲する。
月のお姫様であるかぐや姫。人の世界で様々な傍若無人を働いて、色々な人物を引っ掻き回した挙句月に帰り。自分はその記憶を忘れ、かぐや姫のいなくなった後も人の世に禍根を残した……日本最古の我が儘姫の物語。
もし叶う事なら、彼女のように記憶をなくせたらどれだけ救われる事だろうか。罪の意識から逃れ、後悔を消し去り、盲目に前だけを向き続ける事が出来たなら……。
忘れてしまえば、何も怖い事などない。例え謗られようと、その理由を忘れているのだから、なんとも思わない。きっとそう出来るくらいには、心を殺す事には慣れている。
あたしにとって藤宮家が月で…………彼の家が地上だったのだろう。
そこでふと考える。かぐや姫は育ててくれた老夫婦と別れ、月に帰るまでの間、一体何を考えていたのだろうかと。
振り回した事への罪悪感だろうか。だから人の世に不死の薬なんてものを残したのだろうか。はたまた証を残したかったのだろうか。記憶に、記録に残る、天上人となりたかったのだろうか。
そもそもどうして地上にやってきたのだろうか。
実を言うとかぐや姫の事は大好きだ。誰も手の届かない高嶺の花で、身形は大和撫子そのもの。客観的に見れば、あたしはきっとかぐや姫とよく似ているのだろう。
周りを振り回して、希望だけ抱かせて、全てを否定してきた。安全策だけ取って渡り歩き、誰かの特別になる事は避けてきた。それが最低限、周りに対しての誠実な付き合い方だと思っていたから。
藤宮と言う家に関わって面倒を掛けるくらいなら、最初から親密な間柄にはならなければいい。
だからかぐや姫も求婚を断ったのかも知れないと。
けれども同時に、あたしにも望みはある。ここは月ではないから。人の住まう地上だから。人の世に生きる為に、人らしく────普通になりたいのだ。
周りの誰かがそうしているように、ただ普通に。
だから想像してしまうのだ。子供の頃読んだ絵本でも、そんな未来を幾度か描いたのだ。
かぐや姫は、人の世界に残ってはいけなかったのだろうか、と。天人ではなく、ただの人にはなれなかったのだろうかと。
不死の薬があるなら、人になる薬くらいあってもいいのに。そんな二次創作に、どこか悔しさを感じていた。
あたしはきっと、人ではない。周りに面倒を振りまく災厄で、人の皮を被った化け物だ。美女と野獣の野獣にも、オペラ座の怪人のエリックにも。ましてやロミオとジュリエットのジュリエットにすら及ばない。
一番近いのは人魚姫で。そもそもがかぐや姫なのだ。
なんと醜く、なんと哀れなお姫様。
だからきっと、誰かにこの手を取って欲しいのだろう。あたしの手は、伸ばされもせずただそこに垂れているだけなのに。
都合のいい話だ。こんなあたしには、お似合いの人生だろう。
「映画でも、見に行こうか」
「やったっ」
無邪気に笑う長松君の血の繋がっていない妹……紫ちゃんと手を繋いで、まるで本当の姉妹のように歩き出す。
あぁ、あたしは、シンデレラにすらなれないのか。こんなに王子様に憧れているのに、誰もここにはこられはしない。
仏の御石の鉢も、蓬莱の玉の枝も、火鼠の皮衣も、龍の頸の玉も、燕の子安貝も、何もいらないから。何よりもあたしを奪い去って欲しい。
────なんて、普通の女の子は諦めてしまう事を今でも駄々を捏ねるように願っているあたしは、本当に愚か者だ。
「どれにしますか?」
気付けば辿り着いていた映画館。幾つかあるタイトルを眺め、そう言えばクラスの女子が泣ける話だと言っていた映画を選ぶ。偶然か、紫ちゃんも気になっていた話らしく、笑顔で頷いてくれた。
中に入って体を預けしばらくすると始まった本編。内容は単純に、青春恋愛物。あたしには、縁遠い……縁の無い空想だ。
クラスの子が回し読みしている雑誌で軽く見た覚えのあるイケメンの俳優と可愛い女優が青春を賭ける。と、偶然か女の子がお嬢様の役のようで、漫画原作の誇大表現らしくどんな事でも許される理事長の孫娘とちょっとしたきっかけから関わりを持つ主人公とのラブストーリーが展開されていく。
……あぁ、きっと、世の女の子はこう言う話に憧れるのだろうと。似たような境遇で育ったあたしには、身近すぎて共感以上に諦めが湧いて来る。
彼女のように家を捨てる覚悟が固められたらどれだけ自由を満喫出来るのだろうか。彼のように本気で恋をして軽薄に将来を誓えたらどれだけ救われるだろうか。
けれども、残念かな。現実はそんなに甘くない。
柵は物分りのいい解決をする訳ではないし、例え解決したところで何処かに禍根が残って時間は紡がれていく。
周りの視線を伺って生きてきた……今も尚生きているあたしには、到底無理な選択だ。
やがて物語りは佳境に差し掛かり、どうにか希望の見えるエンディングを迎えた。周りからはすすり泣くような声が聞こえるが…………やっぱりあたしはそこまで純粋になれない。
やっぱり、物語は物語止まりだ。
そんな事を考えながら、せめてもの誠意としてスタッフロールを最後まで見終わって。館内がぼんやりと明るくなっていくのを感じ立ち上がる。
映画館を出ると隣の紫ちゃんが一つ伸びをした。その事に今更ながらに気付く。
「あれ、泣かなかったの?」
「え、あ……はい。ちょっと変かも知れませんけど、途中台詞のイントネーションが気になる箇所があって。それが頭にこびりついて考えてたら泣くタイミングを逃しちゃいましたっ」
「なにそれ、変なの」
「き、気になったんですよっ。しょうがないじゃないですか……」
「ごめんごめんっ」
二人してまともに映画を見ていないとは……ともすれば先ほどの物語のどのギャグシーンよりも面白いかも知れないと一人ごちながら。
「藤宮さんも泣かなかったんですか?」
「……いい話だったとは思うけどね。もうちょっと足りなかったかな」
「変ですね、あたしたち」
「そうだね」
そうして小さく笑い合って、上っ面の感想を交換しながら時間を潰す。彼女が泣かなかったのは、多分あたしが泣かなかったからなのだろう。こんな事でさえ気を遣わせている事が年上として情けなく思いながら。
昼は軽食で済ませ、そのほか興味が湧いた所にぶらりと立ち寄ったり。そんな風に……まるでデートのように有り触れた時間を過ごして、陽が半分ほど傾いた頃に彼女と別れた。
休日の過ごし方としては有意義だったかも知れないと。また機会があれば一緒に遊ぼうと約束を交わして帰路につく。
電車に揺られ、見慣れた町並みまで戻ってくると、空気が重くなったように感じた。どこかいつもとは違う雰囲気の通学路を散策するように歩いて家にまで戻ってくる。
門の前で、僅かに止まった足をどうにか前に出して玄関を開けた。
「……ただいま」
「おかえりなさい」
まるでずっとそうしていたように。目の前には母親である瑠璃子が立っていた。
胸の奥が冷たく引き絞られる。けれどそれ以上居ても立ってもいられなくて、逃げるように彼女の傍を早足で通り過ぎた。
「課題あるから」
言い訳には、けれど返る言葉は無くて。視線だけが背中に突き刺さっている事を感じながら自室に駆け込む。後ろ手に襖を閉めれば、そのままふらふらと歩いて枕に顔を埋めた。
鼻を擽ったいつもの香り。その事に安堵を……安堵をした事に遣り切れなさを感じて、枕を引き裂かんばかりに強く握り締め歯を食いしばったのだった。