第二輪
待ち合わせ場所に行くと既に恋が来ていた。懸が彼女を見つけるのとほぼ同時、あちらも気付いて往来の中から手を振ってくる。
「早いな。待たせたか?」
「いえ、大丈夫です」
待ち合わせた時間まではもうちょっとあるが、遅れるよりはましだ。
「私服は二度目だな」
「そうですね。動き易いのでいつもパンツなんですけど……スカートの方が先輩は好きでしたか?」
「特にこだわりはないな。よく似合ってるぞ」
「ありがとうございます」
梅雨の明けが見え始めた週末。昨夜まで降っていた所為かまだ少し水溜りの目に付く駅前で、スポーティな装いの恋が笑顔を浮かべる。
デートと言って憚らない恋の私服姿は、インナーの上に空色のパーカーを羽織った上半身と、腰より下はホットパンツにニーハイで彩る絶対領域は彼女らしい快活さ。休日でも変わらない彼女のチャームポイントであるショートポニーテールが微かに揺れる。
「じゃあいきましょうかっ」
「あぁ」
心なしかいつもより上機嫌な気のする声音に引っ張られて足を出せば、バスに乗って目的の体育館へと移動する。
その間も尽きない話題は、学校の事だったり家での事だったりで様々だ。
男女でありながら気兼ねしない距離感で交わすそれは、余り恋人には見えないかもしれない。が、どぎまぎするよりは慣れ親しんだ空気で弾む呼吸は終わりを遠くに放り投げる。
「あぁそうだ。もし先輩がよかったら今度家に来てください。弟が前に遊んだのが楽しかったみたいなので」
「そうだな、機会があれば伺うとするか」
恋には小学生の弟がいる。中学時代に一度だけ遊んだ事があるのだが、随分なやんちゃ坊主だったように思う。
だから、と言うのが正しいのかは分からないが、姉である恋が物怖じしない元気な性格なのかもしれない。生活環境と言うのは意外と大きくその人物の性格を作る要因になるらしい。
懸には紫と言う、家の中ではだらしのない妹がいて、その所為でしっかりものにならざるを得なかった感がある。加えて体に抱えた問題の所為で大人に心配される事が多かったから、見栄を張る……と言うか一人でどうにかすると言う性格に拍車が掛かったのだろう。その結果に愛との仮の恋人演技の時にも、周りが見兼ねるほどに抱え込んでしまったたのだ。責任感が強いと言い替えればまだ長所に聞こえるだろうか?
因みに心にも弟が二人いて、ぼんやりしているようで意外としっかり者なのはその所為かもしれない。また今度彼らとも遊んでやるとしよう。
「紫ちゃんは元気ですか?」
「相変わらずだな。今日は友達が遊びに来るって言ってた」
「人気者ですからね」
同じ屋根の下では随分とぐうたらな妹だが、学校ではそうでもないらしい。兄弟で同じ学校に通ったところでそれほど顔を合わせる機会があったわけでもない。なにか理由がない限り互いに不干渉を貫いていた。だから彼女の兄でありながらそれほど学校での姿に詳しい訳ではない……と言うか余り語りたがらないから知らないのだが。どうやら恋は紫とそれなりに接点があったらしく、懸が卒業した後も仲良くしてくれていたようで。稀に紫から恋の名前を聞くような事はあった。
「一応先輩の事任されてますので」
言いながらSNSのやり取りを見せてくる恋。変な根回ししやがって。
「あいつの言う事は無視しとけ。どうせ世話するのは俺の方だ」
「わ、わたしももう高校生ですからっ。JKですからっ! いつまでも先輩に頼ってばかりじゃありませんよ」
「ならなんで俺に練習相手頼んだんだよ」
「デートです!」
答えになっていない答えにいつも通りの恋らしさを感じつつ。そうして話をしていると目的地周辺にまでやってくる。バスから降りて肩を並べて最初に向かったのは近場のスポーツ用品店で、昨日話した通りまずは緩んだストリングのテンションの張り直し。それからシャトルを持ってきていないと言う恋のど忘れに一組買って準備を万全に。さらにそこからしばらく歩けば恋が見つけたという体育館に到着した。
直ぐに着替えて準備を整えれば、怪我をしないようにしっかりと体を解す。
「どれくらい取ってるんだ?」
「二時間です。片付けがあるので少し早く終わりますけどその分しっかり頑張りますよっ」
互いの背中を押したりしながら入念に準備運動を終え、軽く走ってからネットを張って、簡単なラリーから始める。
ブランクがある懸に合わせて最初は軽く始めてくれた恋だったが、数分もすれば勘が戻ってきたのか少しずつ動きが激しくなっていく。左右への揺さぶり、カットやドロップ、ハイクリアなどを駆使した前後への移動。中学の頃の記憶を元に基礎練習でよくそうしていたように、順に色々な技術をなぞっていく。
やがて一通り感触を確かめて体が温まると、本格的に打ち合いが始める。
「何か注文はあるか?」
「バックが苦手なのでそっちを中心にお願いしますっ」
「ぅい」
バック……バックハンドと言われる、利き手とは逆を狙われた時に手の甲を相手に向けて打つやり方だ。力や精度は当然フォアハンドが勝る為に、相手のリズムを崩す為に狙われる場所。中にはバックハンドの方が得意と言う者もいるが、そんなのは希少種だ。
誰にだって苦手は存在する。その全てを克服出来る訳ではないが、挑む事は勇気の証だ。実力が問われる世界で努力をしない者は前には進めない。その前進しようとする意志に手を貸す事が出来るのならば、それはきっといい事なのだろうと。
そんな事を考えながら恋の望む相手を請け負う。
……それにだ。バドミントンを続ける事はしなくなったが、スポーツとしては好きな部類。適度に体を動かす楽しみは知っているつもりだし、相手が愛すべき後輩だと言うなら事実以上にやる気も昂ぶる。
本気で相手はするが、楽しむ事も忘れないように精一杯頑張るとしよう。
まだ耳の奥にシャトルの跳ねる音が聞こえている気がしながら、予定の時間より少し早く体育館を後にする。
体のだるさは確かな運動の証。そこに降り注ぐ太陽の熱に少しだけ鬱陶しさを感じながら足を出す。
「昼前だな。これからどうするんだ?」
「ご飯……も食べたいですが、その前にお風呂入りたいです」
隣を歩く恋は、懸から少し距離を取るようにしながら答える。この辺りは女の子と言うところか。確かに少しゆっくり休憩したい気分ではある。
「銭湯でもいくか?」
「いいですねっ。近くにありませんかね?」
思い浮かんだ提案には二つ返事で笑みを浮かべる恋。すぐさまスマホで検索して探し始める。すると数箇所見つかって、普段気にはしないが意外とそこら辺にある物なんだと一人納得する。
「あ、ここどうですか? 近くに食べるところもありますよっ」
「俺はどこでも」
「それじゃあレッツゴーです!」
元気よく拳を突き上げる恋について歩き出せば、しばらくして目的地に辿り着いた。
出先で風呂に浸かるのも悪くないと思いながらそれぞれにゆっくりと体の疲れを癒し。時間の掛かるらしい女の子の入浴をロビーで待てば、少しの後恋が姿を現した。
「お待たせしました」
「いや、大丈夫だが……なんだ、髪下したのか」
声に振り返って言葉を返せば、いつもと違う彼女に気付いて口にする。
学校でも部活でも、基本ショートポニーにしている後ろ髪。彼女のトレードマークである犬の尻尾のようなそれが、今は解かれセミロングとなって揺れていた。
「あ、はい。もう激しい運動もしないですからね。いつもお風呂上りはこうですよ」
「……何だか新鮮だな。少し大人に見える」
「えへへ、そうですか? ……って、それじゃあ普段子供っぽいって事ですよねっ?」
「普段は普段で恋らしいだろ。どっちもよく似合ってる」
「むぅぅ……何だかいいようにあしらわれてる気がします」
小さくむくれる恋。どう受け取ろうが彼女の勝手だが、懸は基本的に嘘を吐くつもりはない。今この状況で嘘を吐く意味も感じない。言葉にしたのは全て本心だ。
見慣れた彼女とは少し違う、少し小悪魔っぽい大人な雰囲気の恋。私服で、湯上りと言う事もあって、想像以上の特別さで彼女がそこに立つ。心なしか少しいい匂いもするような……って、それは流石にセクハラになるだろうか?
「さて、食べにいくか」
「高層階のホテルのラウンジでおしゃれなディナーがいいですっ」
「生憎と手ごろなファミレスだ。あとディナーは夜だろうが」
「予約ですよっ」
「ならもう少しドレスコードを調べて来い」
大人でも厳しいかもしれない理想をのたまう後輩に現実を突きつけつつ再び町へと繰り出す。車の多い通りに出てまた少し歩けば、馴染みでお手軽なファミレスを見つけて入る。
運動後で空腹感が否めない体に応えてボリューム重視でハンバーグセットを注文。向かいに座る恋は少し悩んだようだったがデミグラスのチーズ入りオムライスを頼んで、ドリンクバーを加えると彼女の分まで用意してようやく腰を落ち着ける。
「何だかコーヒーづいてますね」
「ん……そうだな。それだけあの店が気に入ってる証拠だ」
恋に言われて気付く。二人ともソフトドリンクではなくコーヒーを注いでいた。
「そう言えば今日はバイトなかったんですか?」
「今日は休みだ。明日は入ってるけどな」
「じゃあまた遊びに行きますっ」
「テスト期間だろうが、勉強しろ」
「こんな時まで学校の話しないでくださいよぉ……」
机に項垂れた恋が恨めしそうにこちらを見上げてくる。そうしているといつもの彼女なのに、少しだけ違う髪形が記憶の中の後輩と重なってはぶれる。意外と髪型の印象って強いものなんだな。
そんな事を確認するでも無く思いながらどうでもいい雑談で時間を潰して。やがてやってきた注文を目の前に食前の挨拶を挟んで食べ始める。
「それで。午後からはどうするんだ? 何か予定でもあるのか」
「先輩優しいですね。まだなにも言ってないのに付き合ってくれるつもりなんですか?」
「あれだけデートだって言っておいてこれで終わりだとは思わないだろ、普通」
「つまり先輩も期待していた、と」
「期待じゃなくて諦めだけどな」
「素直じゃないですねぇ……」
諦めなのは事実。諦めた上で、折角の時間なら彼女の希望に応えようと言うのが今回の懸の中にあるプランだ。
だから特別恋愛感情がある訳ではない。それを不誠実だと言うのならそうなのだろう。それこそ彼女に期待をさせているだけなのかも知れない。
けれど理由もなく断る方が個人的に許せないから、特に差し迫っていない現状、慕ってくれる後輩の期待に応えたいと言うだけの事だ。
……もし恋愛感情を自覚出来たなら、きっと断ってただろうよ。
「でも、だったら遠慮はしませんよ。ここなら知ってる目も殆どないでしょうからね」
「そもそも遠慮する奴は人目を気にしてまでデートに誘わないだろ?」
「乗り気なのかそうじゃないのかはっきりしてくださいっ」
真実が曖昧なのは懸の感情が定まっていないからだ。と言う事にしておいてくれ。
「まぁ八重梅の気遣いには感謝してる」
「当然ですっ。先輩を困らせてまでわたし本位な独りよがりを押し付けるつもりはありませんからっ」
考えていないようで誰よりも懸の事を考えてくれている恋。これで恋愛なんて言うものがちらつかなければ大事にしたい関係なんだけどな……。男と女の間に友情が存在しない、ってのを否定するつもりはないが、時と場合と相手によると言う不確定な条件を付け加えさせてもらうとしよう。
「ってな訳で、町をぶらりとしながらお散歩デートでどうですかっ?」
「エスコート出来るほどこの辺は詳しくないぞ」
「わたしもなので大丈夫ですっ」
さて、この目的地のないこの提案を不安に感じるか楽しみに感じるかはその人次第と言うところ。懸的には少し不安も付き纏うが、それ以上の期待もしていると言うのが本音だ。
何より恋と一緒と言うのが大きい。彼女となら基本どうにかなると考えてしまうのが、これまで重ねてきた関係の証だろう。
「あ、ハンバーグ一口くださいっ」
「言いながら取るなよ」
「じゃあお返しですっ」
懸が答えるより先に一切れ掻っ攫った恋が、お返しにとスプーンに乗ったオムライスを差し出してくる。
互いにあーんをする、なんて事を思いつかない辺り恋らしい事だと思いつつ、懸も自分で一口掬って口に運ぶ。
「何でですかっ」
「恋人でもないのにするかよ。それに俺だけしてもらったら不公平だろうが」
「それで良かったのに……」
……と言う事は一方的に楽しみたいだけと言う事か。変な一線の引き方だな。だったらそもそもそう言う事をしなければいいのに。
恐らくだが友達以上恋人未満。その距離を今は楽しんでいると言ったところか。相手をする方の身にもなって欲しいところだ。
そんな事を考えつつ話をしながら食事をして。食べ終えた後にデザートを注文した恋を眺めつつ有り触れた話題に花を咲かせれば、英気を養ってファミレスを出た。因みに支払いは割り勘。高校生のうちから大人な駆け引きなんて分不相応な事だ。互いに納得しているしそれでいい。
「どっちに行く?」
「近くにゲームセンターがあるみたいなので最初はそこでどうですか?」
「知らなかったんじゃなかったのか?」
「先輩がお手洗いに行ってる間に調べたんですっ」
卒のない後輩な事だ。一応懸もそのトイレの間に少し調べはしたんだがな。考える事が同じな辺り似た者同士と言う事だろう。
「とは言ってもそこまでゲームは得意じゃないので。先輩っ、教えてくださいね!」
「八重梅なら直ぐにコツを掴みそうなもんだがな」
「大物とか狙いたいですっ」
「何で荷物になるようなところから行くんだよ……」
どこまでが本気かわからない後輩の提案に突っ込みつつ町を歩き始める。
休日と言う事もあって恋人のような男女や家族連れが目立つ中、きっと懸達もそう見られているのだろうと思いつつ人の間をすり抜けていく。途中スニーカーだと言うのにこけそうになった恋をどうにか支えつつやってきたゲーセン。店の前ですら十分に煩く感じる建物に入る直前、中に併設された幾つかの遊戯施設を見ておく。
あるのは映画館とボウリング場とカラオケ。とは言え運動系はバドミントンで消費した。カラオケは前にそんな話をしたが、懸が覚えているのだから彼女もきっと覚えているのだろう。もし彼女の方から言い出したら考慮の余地ありか。
映画館は……そう言えば余り縁がない話かも知れない。別に全く見ないと言う訳ではないが、よほどでない限り見に行くと言う事はない。何と言うか、同じ場所に時間を拘束される感じがして苦手なのだ。半年もすればパッケージで出るし、ネットの動画サイト等で配信もされる。そちらなら一時停止し放題で自由に見る時間を選べて懸の性格上楽しめるのだ。
もちろん複数人で見てその感想を共有するのも楽しいとは思う。恋がそれを望むのならば何か観てみるのもいいかもしれない。
頭の片隅に幾つかの選択肢を描きつつ最初に向かったのは……普通女子が楽しむはずの、写真を取るそれだった。
「……一応訊くが、本気か?」
「本気ですよ。先輩でも恥ずかしいですか?」
「……いや、撮る事自体は別に。ただ物として残ると何かあった時に面倒と言うか……」
「大丈夫ですよ。わたしこう言うのどこかに貼ったりしませんから。思い出って事です。……駄目ですか?」
他意はない、か。純粋に言葉通りなのだろう。彼女が悪用するとも思えないし、いいか。
思い出と言う便利な言い訳でもっと高価な物を強請られるよりは余程いいと覚悟を決め写真を撮る。女子とよく付き合ってきた懸だが、こう言う事からは何故か縁遠かったお陰で初体験だ。
それから、どうでもいい事をよく思うのだが……恋人で撮って、別れた時に躊躇無く捨てられる思い出とは中々に寂しい物ではなかろうか。そう言う意味では、捨てられる予定のない思い出の形と言うのは意味がある気がする。
写真を撮ると落書きタイム。特に記念写真以上の意味を感じない懸からすれば過度な装飾は必要ないとは思うのだが、彼女が必要だと言うのならそうなのだろう。
「先輩、犬と猫どっちが好きですか?」
「強いて言うなら亀だな」
「真面目に答えてくださいよ……」
「八重梅のイメージでいいぞ」
「……亀ですね」
「だろ?」
誇る事でもないと思うが、懸は十分にマイペースだ。基本的に他人の言動に左右されない……と言うか、しっかりと自分の意見は持つようにしている。孤高、と言う意味では猫なのかもしれないが、そこまで気まぐれなつもりもない。こつこつと、着々とが性にあっているだけの事。
「八重梅は犬だろうな」
「えぇ、そうですか? 猫っぽく先輩振り回してませんか?」
「……今度友達に訊いてみろ」
これだけ尻尾を振るような言動を元気よくしておいて猫だと言うのは中々に信じ難い話。まぁこう言うのは全くその通りか正反対かの両極端だ。恋の場合自覚と客観に大いなる差異があると言う事だ。
文句の音を零しつつ、けれども素直に先輩の言う事を聞く恋は可愛い後輩なのは確かだと思いながら。そうして出来上がったのは、犬のデコレーションをされた恋と結局猫になった懸のツーショットを含むデコ写真だった。
「先輩要りますか?」
「折角だからな」
シェアするのが当然とばかりに押し付けてこない辺り、引いた一線は根深く慎重なようで。だからこそきっと未だに一歩を踏み出してこないのだろうと納得する。
関係を変えるのが怖い、と言うよりは今にそれとなく満足しているから継続している、と言う感じだろうか。何にせよ、ずっとこのままと言うのは多分ないのだろうが、今はそれで懸もやり易い距離感だ。何を腹の中に抱えているにせよ、楽しい時間を共に出来る相手と言うのはいて嬉しい話。それが仲のいい後輩だと言うのならば、異性だろうが同性だろうが関係ない話だ。
「じゃあ次は……あれがいいです」
目的を一つ達して次の標的を探しぐるりと回した視界。その中で見つけたらしい興味の矛先は、昨今ゲーセンに限らず色々なところで目に出来るゲーム……。
「未確認飛行物体型景品簒奪機……通称、貯金箱だな」
「なんですか、それ……」
「依織が言ってた」
クレーンを操り景品をゲットするプライズゲーム。幾つかの種類があるが、餌を鼻先に吊られて足元すら疎かになりながら底なし沼に向かって全力疾走する気分の味わえる遊戯だ。……いや、特別過去に嫌な経験がある訳ではないんだがな。前に依織がそんな事を言ってたのが脳裏にこびりついて離れないのだ。いらん擦り込みをしてくれやがって。
「坂城先輩とはよく遊ぶんですか?」
「互いに暇で余裕があれば放課後や休日に、ってくらいだな。格ゲーが妙に強いから俺がカモにされてるだけだ。そう言う八重梅はどうなんだ? ゲームは苦手って言ってたけど……」
「あんまり来ませんね。来てもさっきみたいに写真撮ったりとかばっかりです。そう言う友達が少ないって言うのもありますけど」
続いた言葉に少し気になって視線を向ければ、彼女は慌てて訂正する。
「あ、友達が少ないってそう言う意味じゃないですよ? 休日毎に外に出るような相手がって事です。学校で普通に話をする友達くらいはいますからっ」
「いや、そう言う意味での心配はしてねぇよ。八重梅の社交性は俺以上だろうしな。そうじゃなくて、だったら休日何してるのかと思ってな」
「わ、わたしのプライベートですか!?」
「誤解を招く言い方するな」
照れたのか、どこか本気の恥ずかしさが混じった声音で驚く恋。向こうがこちらに興味以上の気持ちで尻尾を振ってくるからお返しに一つくらい私生活を覗き見てやろうとも思ったのだが、踏み込みすぎただろうか?
「単純に気になっただけだ。俺ばっかり話すのも不公平だろ?」
「つまりわたしに興味があると……!」
「今日は一段と感情の浮き沈みが忙しないな……」
どうやらこちらから興味を持った事に混乱しているらしい。そんなに意外だっただろうか? だとしたならいい傾向かもしれないと少しだけ考える。
恋愛感情は、やっぱりない。けれどもそこに至る道が少しでも開拓されたと言うのならば、何かしらの変化なのだろう。
それが恋とのデートに端を発するのか、もっと別のところに火種があるのかは分からないけれども。少なくとも今までにない一歩なのかもしれない。
「で、どうなんだ?」
「そう、ですね……。何もなければ家でごろごろしてたりしますね。休日だと弟の面倒とか見てますよ」
「いいお姉ちゃんだな」
「えっへへぇ……。あ、そうだ」
照れた恋が唐突に自分のスマホを取り出して画面を操作する。次いで鳴動したのは懸の端末で、見れば隣の恋からだった。中を開けば、書いてあったのは住所。
「先輩が家に来る時用にです。悪用はしないでくださいね」
「何で今なんだよ」
「何か思いついたので」
気付けば逸れた話題。もしかして褒め殺されるのを避けたのだろうか? 別にそんなつもりはなかったのだが、苦手だと言うならここぞと言う時まで取っておくとしよう。
突飛押しのない後輩の言動に少しだけ振り回されつつ、それからゲーセンを巡る。
景品を狙い、レースをして、敵を撃つ。生来の運動神経のお陰か器用に色々こなす恋と、依織とでは味わえない時間を楽しんで。結局プライズゲームで手に入れたのはキーホルダーだけだったが、彼女はそれなりに喜んでいたのでいいとしようか。息抜きとしては十分に楽しめたしな。
一通り遊びつくして飲み物片手に一息つく。どれほど時間が経っただろうかと腕時計を見れば、まだ外の陽は高そうだった。
「さて……まだ二時だな。どうする? 何か食べに行くか?」
「ここ食べられるところってありましたっけ?」
「さぁ。けど映画館は入ってくる時に書いてあったぞ」
「映画っ、いいですね!」
そう言えばの記憶を思い返して言葉にすれば、恋が前のめりに食いついてきた。
「好きなのか?」
「普通です。けど丁度今見たい映画がやってて、時間があればって思ってたんですっ」
「どんなのだ?」
「学生恋愛物……って先輩苦手ですか?」
「ジャンルの好き嫌いはないな。ホラーでもスプラッタでもいけるぞ?」
「スプラッタはわたしが駄目なのでパスでお願いします」
似たような物なのにホラーは大丈夫なのか。変な感性だな。
「よし、なら見に行くか」
「いいんですか? 先輩映画館苦手なんじゃ……」
「何で知って…………。あぁそうか、紫か…………」
妹からのリークに辟易しつつ、帰ったらそろそろお灸を据えてやらねばならぬだろうかと考えながら。
「確かに時間拘束されるのが嫌なんだがな、別に絶対ではないし……それに今回は一人じゃない」
「……その答えでわたしだからって喜ぶほどちょろくありませんよ?」
「そりゃあ残念だ」
流石にそれくらいは分かるか。伊達に後輩していないと言う事だろう。
恋の言う通り相手によると言う側面もあるが、彼女ならば一緒に楽しく見られると分かっているからこその一歩なのだ。
「けど八重梅こそいいのか? 恋愛映画観て試験前試合前のこの時期に影響出ないか?」
「そこまで馬鹿じゃないですっ。それに、そんな事言ったらそもそもこうしてデートしてるのが間違いじゃないですか」
それを言われたらおしまいだ。と言うかこんな議論をするような話でもない、と言うのがそもそも論かもしれない。
「まぁ難しい話考えたところで映画の内容が変わるわけじゃないしな」
「ってなわけで観にいきましょう!」
百聞は一見に如かず。何よりこんなところで足踏みしていても時間の無駄だ。
恋に背中を押されて上のフロアへと向かい上映スケジュールを眺めれば、丁度これから始まると言う時間だった。チケットを買って席を選べば、いつの間にか傍を離れていた恋がアイスクリームを手に戻ってきた。
「そこはポップコーンじゃないのかよ」
「確かにおいしいですけど、今日の気分に合う味がなかったんです」
気分は大事だ。映画鑑賞で気分も乗らないのに流し観したところで時間と金の無駄遣いだ。
「先輩も食べますか?」
「何味だ?」
「自分で買ってきてくださいよっ」
可愛くない後輩だ。
とは言え館内は飲食禁止。これから買っていたのでは間に合わない。
変なところで要領のいい後輩に小さな恨めしさを送りつつ、恋が食べ終わるのを待って席につく。恥じらう様子なく隣に座った彼女は、それから何かに気付いたように小さく身動ぎをする。
「どうした?」
「いえ、映画館の座席って思ったより近いなと思って……」
「暗がりだしな」
「やめてください」
本気の拒否を零す恋。そこまで否定されると流石の懸も傷つく。特にそれが仲のいい後輩からの手のひら返しだとするのならば余計にだ。
そんなやり取りをしていると予告編から本編が始まって雑談をやめた。
恋愛物の映画と言う事もあって絶叫飛び交うような館内にはなる事はない。3Dや4DXのような特別な臨場感が味わえる作品と言う事でもない。本当に、言葉の通りに邦画の恋愛物だ。
ドラマでも主演をするような女優が今の懸達と似たような環境で物語が進んでいく。
恋愛の自覚できない懸だが、しかしそれは自覚が出来ないだけで理解は出来るのだ。自分の恋愛感情が掴めないだけ。だから他人の恋愛に対して思う事はあるし、こう言う映画にも一般的な感想を抱くことは出来る。
ただやっぱり、自覚が出来ないから共感は出来ないのは少し残念だとは思う。その醍醐味を味わえないと言う意味では、恋愛物は懸にとってまだ早いジャンルと言う事だろう。一つ勉強になった。
そんな事をふと考えたからか、画面に集中していた意識がふっと浮上して映画を観ている自分を客観視する。するとそれまで遮断されていた周りの気配が近くに感じられて、その中でも一番近い隣の恋に意識を向けた。
彼女は懸が視線を向けた事にも気付かないようで物語に没入している。
思えば彼女は恋愛事に関してのアンテナが強いように思う。中学の頃からそうだったが、懸が知るよりも先に誰と誰が付き合っているだとか、誰が誰の事を好きだとかと言う噂を持っていたのだ。無自覚なのかどうかは分からないが、恋愛に対して重きを置いているのだろう。
そのくせ自分はしっかりと距離を測れると言うか……恋愛にしか自分の居場所を見出せないほどに溺れているわけでもなく。娯楽として楽しみながら女の子らしいと言うのが、懸の思う恋の姿の一面だ。
まぁ恋愛に重きを置くと言う意味では懸も大概かも知れないが、彼女とは求める方向性が違うから一緒にするつもりはない。
別に恋愛を否定する訳ではないが、叶う事なら少し距離を起きたいというのが懸のスタンスだ。相手に迷惑をかけるから……と言うよりも、今は単純に愛との一連の事で少し小食気味になっていると言うのが正直なところか。そう言う意味では結果的に平穏な今や、デートと言いつつそれ以上にならないようにと気に掛けてくれている恋には感謝をしている。
このまま何事もなく様々な事が恙無く解決して、全うな恋愛が出来るようになればいいのに…………。
青春はそんなに甘くない。フィクションである目の前の物語にそう言われている気がしながら、とりあえず今は今を楽しむとしようと再び流れる映像に意識を傾けた。
「ん~~~っ! 太陽が…………出てないですね……」
「眩しいって言いたかったんだろうが残念だったな」
「曇りは曇りで涼しくて好きですよ?」
映画を観終わり外に出ると開口一番伸びをした恋。どうでもいいが映画館は暗闇の中で光の明滅する映像を長々と見るのだ。目に悪いのではなかろうか。
愚痴を垂れる恋の言葉を拾えば、彼女の好みがまた一つ露見した。
「それで、どうだった?」
「そう言うのは何か食べながらって言うのが定番じゃないですか?」
「定番を俺として楽しいのか?」
「……そう言われると反論したくなりますね。先輩とは特別な事がしたいですっ」
ここまでさもデートらしい事を続けておいて今更な話だ。後含みを持たせるような事は言うな。幾ら懸でも反応に困る。絶対に正しい返答をいつも返せると思ったら大間違いだ。そこまで異性との会話に胸は張れない。
「先輩はどうでした? 退屈じゃありませんでした?」
「まぁ普通に面白かったな。八重梅の集中してる横顔も見れたしな」
「なっ……!? 何でわたし見てるんですかっ、ずるいです!」
「ずるいのか」
「わたしだって先輩の間抜け面見たかったです!」
先輩に向かって間抜け面とはいい度胸してるな。それから恋に関する雑学。彼女は集中すると口が半開きになる。自覚はしていないのだろうが、間抜けなのは確かだ。
「もうっ、女の子を辱めるのはどうかと思いますよっ」
「デートで相手を見ないのもどうかと思うがな」
「それは大前提ですからっ。……強いて言うなら別の女の子の話さえしないでいてくれたら合格点です」
「妹はそれに入るか?」
「…………時と場合によります」
また随分と曖昧な判断基準な事で。深く追求すると薮蛇になりそうな予感がしたので直ぐに手を引く。余計な事を言って彼女を調子付かせると面倒を背負い込むのはこっちだからな。
「で、何か食べるか?」
「そうですね…………」
提案に辺りを見渡した恋。見つけたのは移動販売車が提供するクレープ店だった。
「先輩甘いもの大丈夫でしたよね」
「そうだが、断定されると何か複雑だな」
「好みくらいは把握してますよ」
「八重梅も甘党だしな」
「ですねー」
クレープに甘党が関係あるかと言われれば疑問だが……。
特に断る理由もなく並んで購入したのは、懸がチョコバナナで恋がクリームチーズミックスベリーだった。
「そっちも美味そうだな」
「一口食べますか?」
「アイスは駄目なのにクレープはいいのかよ」
「何ででしょうね。わたしも分かりません」
変な基準を持つ後輩だ。思いつつ恋のそれを一口貰えば、ベリーのさわやかな酸味とチーズの滑らかな甘さが絶妙に混ざり合ってスイーツらしさを主張してくれた。お返しの一口は……軽く指を食べられた。
「美味いか、指」
「事故です。スルーしてください」
どうやら流石に恥ずかしかったらしい。意識すると唇の感触を思い出しそうで、どうにか思考の外に追いやる。
「雨降りそうだな」
「そうですねー。少しもったいないですけど早めに帰りますか」
「いいのか?」
「その内次のデートが出来ますからっ」
空を見上げて零す。提案に確認すれば、彼女は笑って答えた。そのポジティブさは彼女らしさだろう。
と、次いで何かに気付いたように恋が続ける。
「それとも……濡れ透け見たいですか?」
「言ったら見せてくれるのか?」
「嫌ですけどねっ」
今いくらかの淡い希望が潰えた音がした気がした。
しかし、今の言動で納得がいった。恋はきっと、懸が知る中で随分と身持ちが固い。恐らく異性間の問題を忌避しがちな心と同等だろう。
言動こそ試すような挑発が多いけれども、本気でそれを望んでいる風には感じないのだ。
アピールはする。けれど好きだとは決して言わない。一線を引き、どこか計算された答えに辿り着く……。ともすれば悪女にも似た狡猾さ。
意識的か無意識かは分かりかねるが、潔癖の気がある気がする。スプラッタが苦手と言うのもその所為かも知れない。
「それじゃあ先輩が狼になる前に帰りましょうかね!」
「今夜は新月だがな」
どうでもいい会話と共に目的地を設定。脳内でナビを起動……したところで隣の恋が最後の抵抗を見せた。
「でもこのままと言うのも味気ないので、何か最後に思い出をくださいっ」
「物がいいか、記憶がいいか。どっちだ?」
「物で。記憶にして記憶違いって言うのは悲しいですから」
即物的なのか現実主義なのか。少なくとも少女マンガに出てくるようなヒロインとは違い、地に足のついたそこにいる八重梅恋だと言う事はよく分かった。
遠慮のない後輩の面倒は先輩の責任。もしこれが本当にデートなら、彼女の隣を歩く者として最後までその役目を全うするとしよう。
そんな事を思いつつしばらく歩いて。やがて恋が興味を引かれたのはスポーツ用品店だった。……何でそこで素に戻るかな。
「物ってまさか消耗品か?」
「そんなわけないじゃないですか。意外とあるんですよ、バッグとかキャップとか。もちろん今日の服はちゃんと買ったものですけどね」
小出しなアピールはお手の物。今日一日で彼女に関する膨大な情報の波に晒された気がするが、さて一体どれが記憶に値する事柄だろうか。
とは言え情報の整理は帰ってからで十分だ。今は隣の彼女の期待に応えるとしよう。
「リストバンドはどうだ?」
「いいですね。可愛いです。でもどうしてですか?」
「応援も込めてだ。こうして付き合ったんだから、いい成績残して欲しいしな」
試合中にも身に付けられるファッション。実用性としては汗による事故を防ぐ為の物だが、きっとそんなのは二の次だ。
「じゃあ先輩も買ってください」
「次に使えってか?」
「はい、次ですっ!」
最早逃れられない未来の約束。けれどもまぁ、運動する事は悪い事ではない。付き合うのは吝かではないか。
「なら俺のは選んでくれ」
「はーいっ」
さて、ならば何色がいいだろうか。イメージカラーでもあれば分かり易いのだが、生憎と現実は戦隊物のように決まった色が個人にある訳ではない。一応独断と偏見で決める事は出来るが…………いや、それでいいか。
デートの贈り物だ。相手の事を考えて選んだそれに、押し付けがましい以上の感情は今の懸には抱けない。だったらせめて心の底から彼女の事を応援して不確定な気持ちでも込めるとしよう。
「先輩、決めましたか?」
「あぁ」
どうやら一足先に即決で買ってきたらしい恋が尋ねてくる。彼女も買い物は手早く済ませるタイプか。らしいかもしれない。
そんな彼女に選んだ色は白。店を出て交換すれば、恋が選んだのも同じ白だった。
「……あれ、ペアルックになっちゃいましたね」
「何で白なんだ?」
「よほどでない限り組み合わせに問題はないですから」
どうやらファッション方面での選択だったらしい。
「先輩はどうしてですか?」
「八重梅は梅だからな。梅の花の色だ」
「ピンクとかじゃないんですか?」
「それが一番合ってると思ったんだよ」
白梅の花言葉は澄んだ心。いつも真っ直ぐな彼女にこれ以上ぴったりな言葉はないだろう。とは言えそれを口に出すといい感じに調子に乗ってくれそうな気がしたので喉の奥にしまい込む。
「……松の花って何色ですか?」
「何種類かあった気がするけど……赤系が多かったような」
「むぅ、失敗しました……。ちょっと悔しいです」
勝負か、これ?
「でもおそろいなのは、それはそれでありなのでOKですっ」
「なら良かった」
「はいっ」
元気よく笑う恋に同じ笑みを返して、それからようやく帰路につく。時間としてはもう少し遊べるが、やはり空模様が心配だ。大事な時期に雨に降られて風邪でも引くと大変だ。
「まだ要望はあるか?」
「んー…………。今日は特にはないです」
「よし、なら帰るかっ」
「はい!」
「今日は」……相変わらず擦り込みには余念がない事で。どこまでもポジティブな後輩の笑顔に足を出す。
久しぶりの恋との時間。やり易いその空気に、精神的な休息は出来ただろか。
* * *
「ただいま」
少しだるい体をどうにか動かして帰ってきた我が家。自分の家と言う安堵を越えた何かを覚えるにおいに靴を脱いで上がれば、声に顔を見せたのは母親だった。
「あら、おかえり愛。早かったわね。何かあったの?」
「雨が降りそうだから部活が早く終わったの」
「そうだったの。直ぐにお風呂沸かすわね」
「ありがと、お母さん」
母親の言葉に笑顔で答えて自室へ。荷物を置いて時間潰しにスマホをいじり、しばらくして風呂場へと向かう。
重く感じるジャージを脱ぎ捨て、そのまま浴室へ。頭からシャワーをかぶりながら考える。
お風呂上がったら何しよう……。読みかけの本でも読もうかな…………。
流れる水音に思考まで整理して無駄な物を洗い落として、湯を張った浴槽に身を預ける。長い髪が湯船に放蕩い、それをしばらく眺めたところで髪を結い上げるのを忘れていたと思い出す。
長い髪。友達には綺麗だとか羨ましいだとか言われるけれど、重くて暑くて手入れが面倒なあたしの一部。運動をするにも時折鬱陶しく感じる、五年物の共存体だ。
これまでに何度切りたいと思った事か。けれども思うだけで行動に移してこなかったのは、きっとあたしに主体性がなさ過ぎた所為なのだろう。
周りからの期待、決めつけるようなレッテル。大人の、子供の、同級生の。様々な方向からの目に見えない重圧。
あたしは、藤宮だ。藤宮と言う家の、愛と言うお嬢様だ。
物心ついた時からそれが普通で、知らずの内に身に付いていた所作。そうすれば周りが褒めてくれたから、嬉しくて続けてきた惰性。
けれども、この頃それに意味を感じなくなってきた。目的を見出せなくなってきた。
期待されて、押し付けられて…………。多分わたしには、もうあたしとの境界線が殆どない。
藤宮としてのわたし。愛としてのあたし。その二つの、なにか。藤宮愛は、一体何者なのだろうか。湯船から出て鏡の前に立つ。
そこに映るのは、わたしだろうか。あたしだろうか。
…………あぁ、いや。境界はあるのか。
外にいる時はあたしで、家にいる時はわたしだ。……逆だろうか? うん、逆だ。一体いつからそうだったのだろう。
今更ながらに取り返しのつかない事に気がついて自嘲する。その微笑みは、誰だろう。
「つかれたぁ……」
誰に言うでもなく吐き出して。そうして渦巻き蟠ったそれをその場に手放す。
これもきっと贅沢なのだろう──慣れてしまった木製の……檜の風呂を一瞥して脱衣所へ。肌を撫でた冷たい風に小さく身を震わせて手早く体を拭くとラフな部屋着に着替える。
水分を含んで重く首の痛い長髪を面倒に思いながら自室へ。愛用のドライヤーを全力で稼動させて音と共に様々なものを吹き飛ばす。
どうにか重いのを我慢して髪を乾かし終えれば、何をするでもなく寝具にダイブした。朝の内に干したのだろう、あの特有のにおいが鼻先を掠める。
……何だっけ、前に坂城君が言ってた気がするなぁ…………。
「…………そうだ、汗とか皮脂とかが分解された、アルコールだっけ……」
一昔前にはダニの死臭なんて言われてたけれど、あれは間違いらしい。
新説だとか常識だとか。常に同じであり続けるものなんてそれほど沢山ない。まぁ今が今しかないのだから当然か。
なんて、益体もない事を考えながら。
ふとスマホに手が伸びれば、お風呂に入る前に送ったそれに返事があった。
一年経ってようやく操作に慣れてきた得体の知れない電気の板を眺めれば、ログには天気の話題。そこでようやく外の景色が梅雨を主張している事に気がついた。今年もそろそろ終わりかな。庭の紫陽花ももう見納めだろう。
過ぎった考えにのそりと立ち上がり、窓から見える鮮やかな紫と緑のコントラストをデータの中に閉じ込める。
藤も紫陽花も同じ紫色の花。雨は余り好きではないが、その色には何となく親近感を覚える。
改めて自室を見回せば、紫色の私物が多いように感じる。鞄、ペンケース、服……。もちろんそれ以外もあるし、今着ているのはグレーのパーカーだけれども。今更ながらに愛と言う少女は紫色が好きらしい。
「愛、少しいいかしら?」
「……どうしたの、お母さん」
掛けられた声に揺れていた意識が一本芯を通したように形を持つ。
部屋に入ってきた、上品なたおやかさの中に強い光を持つ女性。藤宮瑠璃子と言う、名前でさえ綺麗な音と色をした彼女が、あたしの母親だ。
「一週間前の話だけれど……」
「…………うん」
一週間前。その言葉に浮かんだ想像が、嫌な雰囲気を纏って目の前に突き立てられる。
「話が纏まったわ。先方はこちらに予定を合わせてくれるらしいわ。いつがいいかしら?」
「…………いつでもいい」
「そう。…………分かったわ。なら私が決めておくわね」
「……外行ってくる」
「雨降ってるわよ?」
「知ってる」
視線を合わせる事も出来なくて、逃げるように立ち上がる。そのまま言葉の通りに靴を履き、壁に立てかけてあった赤い唐傘を掴むと天の雫の降り注ぐ外へと踏み出した。
こんな……こんな衝動的な事をしたところで、現実なんて変わらないのに。それでも遣り切れなさは堆く積もって居心地悪く手の届かない胸の裏側をざらざらと撫でる。
行く宛てなんて、ないのに────
木製の門扉をくぐり、振り返って零す。
「家出、しようかな」
* * *
「うわ、降ってるし……」
スーパーから出ると外は生憎の雨模様だった。
少し早く切り上げたお出掛けの末恋と別れ、つい先ほど州浜駅についたところで妹の紫から連絡があり、今日はカレーにするから足りない材料を買ってきて欲しいといいように使われた。
両親が仕事で今夜は紫と二人。別に弁当やコンビニのおにぎりでも良かったのだが、作ると頑なに言い張る彼女に根負けして買い足しを了承したのだ。
まぁ作って貰える事に対して不満がある訳ではない。料理は好きなのか、昔から母親と一緒に台所に立っていたから、少なくとも食べられないものを作るような不安はない。
ならば折角の機会。彼女にはその腕を存分に奮ってもてなして貰うとしよう。
そんな事を考えながら帰路に戻ろうとしたところで遭ってしまった雨。残念ながら傘はなく、かと言ってただ家に帰るだけの数分の道のりに買うのも勿体無い気がして少し悩む。
やがて思いついたのは迎え。どうせ今買った材料がなければ作れないのだから暇をしているのだろう妹に傘を持ってきてもらおうとスマホを取り出す。すると画面に一件の通知。見れば恋からで、無事に雨に降られずに家に帰れたと言う報告だった。
彼女が風邪を引くような原因を作らなくて良かったと思いつつ、それから紫に連絡をと操作をする。と、ほぼ同時────
「あれ、長松君…………」
「え……あ、藤宮さん」
声に顔を上げれば、そこには愛が立っていた。
雨の中のラフな装いでも彼女らしさは衰える事無く、曇天を背景にしてもその存在感は一際強い。中でも差した赤い唐傘が鮮烈な色合いを放って、そこにいると言う実感と、絵画のような幻想的な雰囲気が同居していた。
「買い物?」
「食材の買い足し。藤宮さんこそどうしたんだ?」
「……どう、したんだろうね」
要領を得ない返答と、疲れたような微笑み。微かに感じた不安定さに、昨日の帰り道に彼女に感じた違和感が再び募る。
彼女の家は滝桜だろうに。どうして二駅も隣の州浜に彼女がいるのだろうか?
「って、よくよく考えたらお金もろくに持って来てないや。ほんと、何してるんだろうね…………」
「……………………」
今にも泣き出しそうに笑う愛。そんな、いつもとは何かが決定的に違う彼女に尋ねる。
「……何かあった?」
「なにも…………って言って、信じてくれる?」
「信じなきゃいけない話? それとも、知らない振りをして欲しい話?」
「…………知らないままなら、きっとそれが一番いい話、かな」
試すような、縋るような答え。らしくない彼女に、微かな雨音の世界を挟んで────踏み込む。
「そう言えばまだ礼をしてなかったな」
「礼?」
「先輩との事」
「礼なの? 仕返しの間違いじゃない?」
愛には一度助けられた。懸の望まないやり方で、勝手に解決してくれた。その礼であり、仕返し。
「だったら仕返しでいいよ。仕返しだから、勝手な自己判断で、藤宮さんの都合なんて考えずに首を突っ込む。……何があったんだ?」
これは彼女との対等なやり取り。そんな建前と共に尋ねれば、愛は浮かべていた微笑みを消して唐傘を突き出した。
「……意外と馬鹿だね、長松君って」
愛と二人、肩を並べて歩く。空から降り注ぐ雫が幾度も唐傘に当たっては弾け、小気味いい音を響かせる。
「そう言えば唐傘って初めてかも」
「相合傘は?」
「朝から降ってない限り心は傘持っていかないからな。それでよくやってる」
「……幼馴染かぁ」
「頼られる方はいい迷惑だけどな」
くすりと肩を揺らした愛。ようやく笑った彼女は、どうやら相変わらず幼馴染と言う存在に並々ならぬ憧れがあるようで。
実際問題腐れ縁以上の関係なんて懸と心の間には存在しない。それはきっと互いが抱える問題があるからと言う事もあるのだろうが、今の所相手の事を異性として認識している感じはない。
そうでなければ、紡いできた時間が作る信頼関係に夢を見ているのだろうか。だと言うならば確かにそれは魅力的かもしれない。とは言え、相手が心と言うのはどうにも面倒しか想像できないのだけれども。
そんな懸の想像をよそに、愛が逃げるような話題の提案を続ける。
「何買ったの?」
「カレーの材料」
「ラーメンとかカレーってどうして名前聞くと食べたくなるんだろうね」
「あと唐揚げな」
あの魔力はなんなのだろうか。本当に不思議だ……なんて。そんな話題はどうでもいい訳で。
一向に本題に入る様子のない愛は、けれどもとても楽しそうだ。先ほどの沈んでいた表情が錯覚だったのではとさえ思えてくる。
けれども間違いではない。その証拠に、そこに愛がいる。何かを秘めた、理由がある。
きっと今一度こちらから尋ねれば彼女は答えてくれるのだろう。けれどもそうはしたくない。無理やりみたいで、嫌なのだ。
せめて彼女が話す気になったなら、その時に面と向かって真剣に聞く。何が出来るのか考えるのはそれからでもいい。
などと思っていると我が家に辿り着く。それとほぼ同時、一つトーンの落ちた声で愛が口を開いた。
「……長松君」
「何?」
「今日泊めて、って言ったら、困る…………?」
していた想像とは随分違う言葉に考える。が、答えはきっと始めから一つだった。
「多分藤宮さんが今困ってる事以上に困るなんて事はないと思う」
「……うん、ありがと」
遠回しな肯定には、笑みではなく後悔するような表情。そんなに悩むなら言葉にしなければいいのに…………そうするしかないほどに今は家に帰りたくないと言う事だろうか。
無粋に勘繰りつつ玄関を開ければ、音に迎えに出てきた紫が驚いて声を上げる。
「おか…………って、えぇっ!?」
「ただいま」
「お邪魔します」
そう言えば懸関連で心以外の異性が家にくるのは初めてだ。今更ながらに気付きつつ、いつも冷静な妹が情報処理で固まっている光景に助け舟を出す。
「クラスメイトの藤宮さん。帰り道に出会ってそのまま来てもらった」
「えっ…………と。初めまして、長松紫です。兄がいつもお世話になってます」
「藤宮愛です。お兄さんには助けられてばっかりで、今日もこうしてお邪魔して……」
平然と社交辞令を口にする愛。この辺りはさすがと言うべきか。
「立ち話も疲れるでしょ。上がって。紫、何か温かい飲み物」
「そ、そうだね。直ぐに用意するよ」
「あと、出来たらだけどカレー三人分作れるか?」
「それは……うん、大丈夫っ」
どうにか戻った意識で繋がった会話。彼女でもここまであからさまに驚く事があるのだと、家族に新鮮さを感じつつ愛を案内する。
「可愛い妹さんだね」
「良かったら仲よくしてあげて」
「もちろん」
とりあえず話は落ち着いてからでいいか。まずはやるべき事を終えて、だ。