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花は患い、恋得らない  作者: 芝森 蛍
恋に酔い、愛を注ぐ
16/84

第一輪

 雨が降る。その音を、ポツポツと言うのか。はたまた、しとしとと言うのかは個人の感性に寄るものだろうが、今日のこれは誰がどう見てもザーザーと言う確かな音だろう。


「土砂降りだねぇ」

「土砂は降らないけどな」

「ラング・ド・シャっ」

「言いたいだけだろ」


 隣から上がった相槌のような何かにほぼ無意識に突っ込む。

 ラング・ド・シャ。確かフランス語で猫の舌と言う意味の洋菓子。……なんて、そんな雑学はどうでもいい訳で。

 益体もない幼馴染の声に机に肘を突いてぼぅっと薄墨色の天幕と、そこから降り注ぐ涙を眺める。


「……ごめん、飴しかなかった。ハッカとサルミアッキ、どっちがいい?」

「オレンジ」

「ん。じゃあ私リンゴー」


 六月の梅雨の季節。時は昼休み。食後の休息を、何をするでもなく怠惰に貪りながら、共に食事をした向かいの女子生徒に視線を向ける。

 彼女は萩峰(はぎみね)(こころ)。よく平均身長に届かないと嘆いている、病の塊だ。

 幼い頃の精神的トラウマが原因で内側に宿したもう一つの人格。医学的には解離性同一性障害と言う病名を付けられる、いわゆる二重人格を(わずら)っている少女だ。

 もっと言うと、内的自己救済者とか、性同一性障害とか色々掘り返す事は出来るのだが、彼女の名誉の為に無粋な事はやめておくとしよう。

 そんな問題を背負ったセミロングの女子高生が、俺こと長松(ながまつ)(かける)の幼馴染だ。

 差し出された飴を受け取って、口の中に放り込みながら言葉を次ぐ。


「今日は部活は?」

「あーちゃんが出ないなら出ないかなぁ」

「なら先に帰っててくれ。生徒会があるらしい」

「あいさー」


 ちらりと時間を確認する。もう少しあるか……。だったら少し眠りたい。眠れなくとも、目を瞑って休みたい。

 これ以上弾む話もないだろうと、雨の所為か湿気た話題の導火線を切り落としつつ、両腕を枕に上体を投げ出す。


「目覚ましいる?」

「……頼む」

「だって、藤宮(ふじみや)さん」


 昨日は声を掛ける代わりに旋毛を思いっきり刺激されたのだったかと。願わくば物理的な方向に進化しないで欲しいと思いつつ答えれば、続いた響きは別方向に向けた言葉。

 聞き馴染みのある名前に顔を上げれば、直ぐそこには藤宮(ふじみや)(めぐみ)お嬢様が立っていた。


「ごめんね、ラブラブなところお邪魔して」

「大歓迎だな」

「照れ屋さんめぇっ」

「で、何の用?」


 心は無視。挨拶代わりの会話を経て直ぐに本題へと移る。すると(めぐみ)は手に持っていた紙の束をこちらへと差し出した。


「これ、椿野(つばきの)先生から。生徒会のだって」

「あぁ、ありがと。あの人またさぼる気か……」

「さぼるって、菊川(きくかわ)先輩?」

()んだ先生。あの人、あれで生徒会顧問なんだよ」

「うわぁ…………」


 椿野(つばきの)(つかさ)。通称、()んだ先生。あだ名の由来はその全身から漲る脱力オーラだ。加えて文芸部だったり生徒会だったりの顧問でありながら、幽霊部員よりも影が薄いと(もっぱ)らの評判で。

 最早そこに生きているのかすら怪しいとさえ囁かれ、果てには滝桜(たきざくら)高校の七不思議の八つ目とも言われている我がクラスの担任だ。文芸部七不思議の一つであり、学校全体の七不思議の八個目……もう誰も疑念さえ抱かない大いなる謎だ。担当教科は現代文。


「それなりに接点のある俺も似顔絵描けるか怪しいし、声に至っては思い出すのも難しい。まさに生きる謎だな」

「……えっと。実はここ廃校だった、とかやめ────ひぅっ!?」


 刹那に閃いて轟いた(いかずち)。微かに青白く染まった世界と肌を震わせる振動に、(めぐみ)が言いかけた言葉が途中で引っ込んだ。教室内も少しだけざわめきが大きくなる。


「今の近かったな」

「うぅぅ……」

「藤宮さん雷苦手?」


 小さく唸る(めぐみ)に心が問う。その声に深呼吸した彼女は軽く目を泳がせながら答える。


「苦手じゃあないけど、いきなりでびっくりしたと言うか、そう言う話をしてたからって言うか……」

「ホラーに寄せたのは藤宮さんじゃ?」

「分かってるけど、怖い物は怖いのっ。長松君だって一つくらいあるでしょ?」


 指摘すれば、返ったのは逆ギレのような矛先転換。(めぐみ)の疑問に、それから少し自分を見つめ返す。


「そう言えば考えた事無かったね。懸君の怖いものって何?」

「なんだろうな。……異性?」

「責任転嫁はギルティだよっ」


 幼馴染が抗議する。何がどう罪なんだ。……いや、俺にとっては罪ではあるのだろうが。

 と、なんとなくの答えに(めぐみ)が愛想笑いを浮かべている事に気がついて直ぐに失敗を悟った。

 きっと懸の抱える問題に繋げて考えてしまったのだろう。その事が答えを迷った時に脳裏を過ぎらなかったといえば嘘になる。

 (めぐみ)は……この場で言えば心もそうだが、二人は懸が一人悩むその問題を知っている。それはこと恋愛に絡む、無自覚の悪意だ。

 懸は、自分の恋愛感情が理解出来ない。自覚できない。幼い頃の体験に起因するその精神的な傷は、他人に恋し、愛すると言う感覚に鍵を掛けてしまっているのだ。だから誰かを好きになる事は出来ないし、好かれても同じ気持ちを相手に返す事は出来ない。その言動は、上辺だけの空っぽだ。

 自分で認めるのは変な話だが、容姿だけは恵まれている。だから余計にそう言う対象になって、その度に自責の念ばかりが募っていく。

 この事を彼女達は知っていて…………心は気付いていながら知らない振りで流そうとしてくれて。けれど(めぐみ)のそれもまた優しさで、デリケートな話だからどう答えていいか分からないと困ったような表情を浮かべているのだろう。

 そして何よりも、その責任は二人にそうさせてしまっている懸の物だ。だから、同情されるよりも、非難してくれた方が余程心が軽くなるのだが。何だかんだ言ってそれぞれに優しい二人はそんな事はしてくれないのだろうと、辛さと嬉しさが同時に込み上げてくる。


「だったらもう少し楽をさせてくれ……」


 少し意地悪にそう告げれば、心と(めぐみ)が視線を交わして黙りこむ。二人に八つ当たりした事に自己嫌悪をしながら、逃げるように顔を伏せればそのまま目を閉じた。

 こんな事なら、過去の事なんて話すんじゃなかった……。




 新年度、新たなる(ともがら)を向かえて行われた演劇祭の終幕から殆ど間を開けずに始まった次の舞台。懸としても初めての経験だった偽者の恋人と言う演劇は、中学の頃からのよく知る相手である現生徒会副会長、菊川(きくかわ)(あい)と紡いだ答えなど曖昧な台本だった。

 特別(うそぶ)く訳ではないが、それぞれに恋愛対象となる事の多い身。春と言う出会いの季節に、これまでとは違うアプローチでその嵐から距離を取ろうとした懸と(あい)は、互いの手を取って足踏みを揃えようとした。けれどもそれは別の導火線を燻らせる行為へと繋がり、想定外の方向へと枝分かれした未来が懸達の足元に絡みついた。

 結果予定よりも酷く悪化した事実に手を(こまね)いて、自分たちだけではどうにもならないところまで陥ってしまった。

 その、敵すらも曖昧な状況を打開してくれたのが、(めぐみ)や心、そして友である依織(いおり)達だった。

 身動きがとれない懸達に代わり、押し付け(はなは)だしい好意で迷いの底から引きずり上げてくれた。その事に関しては、感謝以外の気持ちはない。

 けれどもその方法が、そうさせてしまったと言う後悔は今もまだ胸の奥に(わだかま)っている。何より個人的に重く受け止めている事は、亜梨花(ありか)の存在だ。

 桔梗原(ききょうはら)亜梨花。心の親友でギャルっぽい女子生徒だ。(あい)との事で、一番損な役回りを背負ったのが彼女だった。

 その事に感謝と謝罪を伝えようとしたが、突き返された言葉に己の愚かさを痛感した。


 ────くっだらない。正義気取って馬鹿みたい


 言われて気付いた。俺はきっと、誰よりも自分が傷つく事が嫌だっただけなのだと。その為に周りを利用しようとしたのだと。なにより、殆ど無関係な彼女に助けられて……心のどこかでほっとしている自分が本気で嫌になった。

 亜梨花に言われた惨めで卑怯な自分に、何よりも腹立たしくなった。

 自分の事ですらまともに見られないのに、それでいて他人の心配をしているだなんて、滑稽にもほどがある。

 だから今一度見つめ直す事にしたのだ。自分とは何なのか。何が出来て、何が出来ないのか。どこまで馬鹿なのか……。

 (あい)との仮初の関係も解消し、周りの空気もそれなりに元通りになってフリーな今、丁度いい自己言及だ。

 (あい)と言えば、彼女とは偽者の恋人関係をする前と同じ距離に戻れた。

 互いに引いていた一線。懸の琴線にも触れた、恋や愛とは無縁な打算的な距離感は、見事なまでに前のままを取り戻せた。それは最早(あらかじ)め定められていた事実であり、互いの安堵からくる物だ。

 懸と(あい)は、互いに恋なんてしないと分かっていたから。発展もしない関係が後退する事はない。

 周りから見れば少し不自然なほどにいつも通りなのかもしれないが、だからこそ首を突っ込む隙も無くて落ち着いているのだ。それぞれに確信しているメンタルの強さは、何物にも勝る現実だ。

 お陰で、校内で顔を合わせても特別おかしな事にはならない。……いや、少し違うか。

 互いに隠す事がなくなったから、前より遠慮がなくなったかもしれない。個人的には彼女と演技をする前より心地よい距離感だ。それこそ、ここからもう一度……今度は本当の恋愛が始まりそうなほどに。

 なんて、それは少し夢を見すぎか。第一、(あい)が懸に恋愛感情を抱きその先を求めたところで、懸は彼女の気持ちに本気で応える事が出来ない。だからもしその可能性があるのだとしても、懸の価値観が変化するまでは今までと変わらない風を装うだけだ。

 そんな、ようやく手に入れた気がする日常。四月より随分と(あわただ)しかった気のする日々は、けれど常に焦がれるほど渇求するものでもない。時には休息が……ありふれたいつもがあってもいいだろう。

 高校生らしい時間。過去を憂いたところで大きく変わるはずもない世界の構造には一旦目を瞑り。今を生きるべくと午後の授業に向けて頭の中のスイッチを切り替えた。




 いつまでも停滞の日々を歩んでいても仕方ないと踏み出した一歩は、放課後の社会勉強。

 (あい)と仮初の関係を解消したあの屋上で冗談のように交わした言葉。その場限りだったはずの思いつきは、けれども自分を探すいい機会なのかもしれないと思い立って、ここにいる。


「どうだ? 直ぐに覚えられそうか?」

「これくらいならなんとか」

「まぁ長松君は要領いいからな。直ぐに馴染めるだろ」

「頑張ります」


 枝垂(しだれ)駅から徒歩数分。ともすれば懸達が通う高校、私立滝桜高校が見える場所に構えられた店。『Jardin(ジャルダン) de() fleurs(フルール) de() le() café(キャフェ)』。滝桜高校の現生徒会長、柏木(かしわぎ)(れん)の父親である涛矢(とうや)が経営するおしゃれなカフェだ。

 店員として蓮と幼い頃からの付き合いである(あい)が、一人暮らしの生活資金にとここでバイトをしていて、今回懸も勉強の一環として申請し働き始めたのだ。

 やはり知っている顔がある方が安心もすると言う物だ。


「菊川君とはその後は?」

「何もないですよ。……まぁここを選んだ事に関して一悶着はありましたけれどね」

「分かってて首を突っ込む長松君も大概だろう?」

「同じ条件で顔なじみならそっちを選ぶでしょう、普通。俺は何よりも安全策が好きなんです」

「その結果に(こじ)れてたんじゃあ世話ないがな」


 楽しそうに笑う蓮に恨めしい視線を向けるのと同時、来店の鈴が鳴って女性客が二人やってくる。直ぐに笑顔で飾って席まで案内すれば、注文を取って蓮へ届ける。その最中にも向けられる視線に、脳裏に(あい)が詐欺だと告げる様子が浮かんだ。

 因みに(あい)は今日はシフトに入っていない。嬉しいやら寂しいやらだ。


「なんだ、もう口説いてきたのか?」

「先輩は俺の事なんだと思ってるんですか……」

「……歩くラブレター?」

「ちょっといいですね、それ」


 外面だけなら女性受けする容姿に助けられてあまり苦のない仕事環境に身を委ねつつ、蓮が淹れたカフェ・ラッテを二つ、お客様にお届けして「ごゆっくり」と一言添える。

 カウンターに戻れば、「似合うな」と蓮に茶化された。


「そう言えばここではラテ・アートとかしないんですか?」

「注文があればの裏メニューだな。俺は余り得意じゃないが、やりたいなら練習してみるか?」

「いいんですか?」

「何事も経験、だろ?」


 そう言って手早く準備を始める蓮。得意ではないと言った蓮だが、涛矢の手伝いはしているのか、慣れた手つきで用意を進めてくれる。

 ミルクピッチャーと呼ばれる銀色の容器に注いだミルクに、エスプレッソマシンから伸びるノズルを使って作業を始める蓮。


「それは何を?」

「ミルクスチーム。蒸気でミルクを撹拌(かくはん)して、空気を含ませて温めるんだよ。絵を描くよりもこっちの方が重要なんだ。お陰でこれだけは散々練習させられた」


 答えている間にも、ミルクの嵩がどんどんと増えていく。まるでホイップを作っているようだ。


「これで出来たミルクにも種類があるんだが、細かい事はいいか。これらを混ぜ合わせる割合でカプチーノだったりラテに変化するんだ。人肌より温かい……目安は65度だな。慣れれば指先の温度と音で分かる」


 きっと幼い頃から涛矢の隣で知らずの内に学んできたのだろう。そんな風に真剣な蓮は同じ男から見ても十分に格好いい。


「長松君はラテ・アートでいいんだよな?」

「……えっと、他にあるんですか?」

「大まかには二種類。長松君の言うラテ・アートって言うのは、道具を使うやつのことかな?」

「はい。あの針みたいなので絵を描くんですよね?」

「ピックだな。ああいう道具を使って作るアートを、デザインカプチーノ。逆に、道具を使わずにミルクの注ぎ方だけで絵を描くやり方を、ラテ・アートって言うんだ」

「へぇぇ……」


 初めて知った。そんな違いがあったのか。


「で、どっちがやりたい?」

「どっちが簡単ですか?」

「デザインカプチーノだな。ラテ・アートはミルクの注ぎ方一つで絵を描くんだ。初心者には難しい」


 言いつつ蓮が出来上がったミルクをエスプレッソの入ったカップに注いで楕円を描く。それから直ぐにピックと呼ばれる棒を用意してくれた。

 ミルクを注ぐそれ一つを取っても、長年の経験が無ければ綺麗な下地は出来ないのだろう。


「ミルクを温める機械……ミルクフローサーさえあればインスタントコーヒーを使って家庭でも作れる。ピックは爪楊枝でいいしな。後は練習あるのみだ。……俺も作ってみるかな」


 乗り気になったらしい蓮が呟く横で、少しだけ悩んで描き始める。流石に描き方くらいは知っている。今回の問題は絵心があるかどうかだ。


「一応注意として、家庭でやる時もミルクはミルクフローサーで作らないといけないって事だ。普通のミルクをレンジや鍋で温めただけだとコーヒーと混ざって境界線のないただのカフェ・オ・レになるからな。デザインカプチーノやラテ・アートをしようと思うと、泡を含んだミルクじゃないと綺麗に層にならない」

「……今更ですけどカフェ・オ・レやカフェ・ラッテの違いってなんですか?」

「そこからかぁ…………」


 自分の分を用意しながら笑う蓮。しかしながら、普段飲んでいてもそこまで気にしないのが一般市民と言うものだろう。


「カフェ・オ・レのレが牛乳の事だな。オは気にするな。コーヒーと牛乳が混ざった物がカフェ・オ・レ。一般的には5対5の比率で混ぜられてる物がそうだな」

「あぁなるほど、比率ですか」

「で、他のだが……まずミルクの種類として、スチームミルクとフォームミルクがある。どっちもミルクスチームで出来るミルクだが、スチームは蒸気で温めた(・・・)もの。フォームは蒸気で泡立てた(・・・・)ミルクだ。それからカフェ・オ・レに使うのはコーヒー。カフェ・ラッテやカプチーノに使うのはエスプレッソだ。エスプレッソは圧力を掛けて一気に抽出したコーヒーの事だな」


 ミルクが二種類。コーヒーも二種類。それらの組み合わせと比率によって出来上がる物の名前が異なると言う事だろう。


「カフェ・ラッテはさっき使ったスチームミルクをエスプレッソと8対2で混ぜたもの。カプチーノはフォームミルクを4、スチームミルクを3、エスプレッソを3で混ぜたもの。それからカフェモカは、エスプレッソに温めたミルク、それからチョコレートシロップを入れたものだ」

「よく覚えてますね」

「ここに立つ以上基礎知識だ。菊川君も当然暗記してるぞ?」


 彼女の名前を出されると懸も……となってしまうのは蓮の策略か。新人いびりを研修内容に加えないでください。

 そんな事を思いつつ蓮の説明を知識として溜め込みつつ。どうにか描きあがったデザインカプチーノを見下ろして小さく息を吐く。


「お、パンダか」

「ネコとかだと簡単すぎる気がしたので」

「初めてにしては上手いな」

「先輩は……クマですか?」

「……ネズミだ」


 残念、鑑定に失敗した。…………いや、ちょっと待って欲しい。


「先輩、もしかして……」

「それ以上言うなっ。分かってる、分かってるんだ……」


 生徒会長で、文武両道で、顔も良くて、話が分かって、駄目押しの許婚持ち。だと言うのに、絵を描く事が苦手らしい。


「せめて髭は描きましょうよ」

「うるせぇ。やる事成す事器用にこなしやがって」

「先輩のそれは俺の所為じゃないです。押し付けないでください」

「くっそぉ……」


 どうやら本気で悔しがっている様子。しかしまぁ、誰しも苦手や不得意はあると言うもの。彼のそれは、見方によってはいい愛嬌だ。


「菊川先輩に教えてもらったらどうですか? あの人美術部でしたよね」

「それだけは死んでも嫌だねっ。あいつ俺に対しては容赦しないからな。自ら死地に赴くつもりはないっ」


 反応から察するに、一度痛い目を見た様子だ。遠慮がないからこそ彼女にとってはいい仕返しなのだろう。


「……よし決めた。長松君、今度から注文があったらこっちは君の担当だ」

「別にいいですよ。一芸にもなりますしね」


 憂さ晴らしに押し付けられたが、出来る事を認められるのは悪くない。任されたならしっかりと答えるとしよう。とりあえず時間がある時に練習でもするとしようか。


「因みにミルクフローサー、でしたっけ。買うとどれくらいですか?」

「物にもよるが、二千円で買える物もある。趣味程度ならそれで十分だろ」


 別に金に困ってバイトを始めた訳ではない。給料は貯金が主目的になりそうだから、買ってみるのもいいかもしれない。

 蓮も言っていたが、何事も経験だ。始めてがこうして上手くいったその波に乗って、また一歩踏み出してみるのも面白いだろう。

 そんな事を考えながら接客の合間に蓮と話をしていると、再び入店を知らせる鐘がなる。直ぐに姿勢を正して向き直れば、扉の前に立っていた顔に少しだけ驚いた。


「来ちゃいました、先輩っ」


 楽しそうに笑みを浮かべたのは八重梅(やえうめ)(れん)。懸の中学からの後輩にして、バドミントンの実力者だ。

 この前校内で彼女と話をした時にバイトの事を零して、ここで働いている事を吐かされた。その時に絶対にひやかしに来ると念押ししていたのだ。


「……律儀だな。社交辞令のままでもよかったんだぞ?」

「何でですかっ。せっかくいつもとは違う先輩が見られるのに、それを逃すなんてあり得ませんからっ」


 一体何がそこまで彼女を急き立てるのか……出来れば知らないままでいたいものだ。


「ったく。……いらっしゃいませ、お客様。お好きな席へどうぞ」

「はぁいっ」


 にこにこと微笑む恋は、それから当たり前と言った様子でカウンター正面の席へと腰を下す。楽しそうで何よりだ。


「いらっしゃい、八重梅君。注文はどうするかね?」

「トゥーゴーパーソナルリストレットベンティツーパーセントアドエクストラソイエクストラチョコレートエクストラホワイトモカエクストラバニラエクストラキャラメルエクストラヘーゼルナッツエクストラクラシックエクストラチャイエクストラチョコレートソースエクストラキャラメルソースエクストラパウダーエクストラチョコレートチップエクストラローストエクストラアイスエクストラホイップエクストラトッピングダークモカチップクリームフラペチーノぉっ」

「お客様、ここは復活の神殿ではございません」

「頑張って覚えてきたのにぃ……」


 無駄な努力だったな。


「カプチーノでいいか?」

「じゃあそれでっ」


 注文に意思が感じられない辺り本当にひやかしに来ただけらしい。そんな意固地さ捨ててしまえばいいのに。

 けれどもまぁ、彼女に執着がないと言うのならこちらにも応える準備はある。恋には練習台になってもらうとしよう。

 どうでもいいが恋は甘党だ。だからミルクの多い物が口に合うはず。


「八重梅、好きな動物は?」

「え、なんですか、急に」

「いいから答えてみろ」

「……犬とかは普通に好きですよ?」

「飼ってみたいとかは?」

「んー……お世話が大変そうなのでそこまではまだ」


 質問をそのまま話題に広げつつ蓮が用意してくれたカプチーノに絵を描いていく。こう言う技術は数をこなしてこそだ。

 そんな風に考えながら動物の話題で時間を潰して。カウンターの向こうで何をしているのか気になるらしい恋に、それから出来上がった一杯を菓子と共に出す。すると彼女は注文以上のサービスに目を丸くした。


「あっ、これ! ラテ・アートですかっ?」

「正確にはデザインカプチーノって言うらしいけどな」

「うぅぅ、先輩意地悪ですよぉ。こんなの飲めないじゃないですかっ」

「知るか」


 文句を垂れつつしっかりと写真で保存して楽しむ恋。こう言うところはちゃっかりしていて女の子らしい事だ。


「拡散していいですか?」

「やめろ、俺の仕事が増える」

「そうですか、分かりました。ではわたしだけって事ですね?」

「何だその三段論法のなりそこないは」

「いいじゃないですかー」

「別に珍しいものでもないだろうに」

「先輩が作るから意味があるんですっ」

「もてる男は辛いねぇ」


 蓮の茶化しに溜息を吐けば恋が楽しそうに小さく笑って。そんな風に賑やかな客と共に一時を過ごす。

 …………まぁこんなのんびりした時間も悪くはないか。




 初めての社会勉強から数日が立ち、バイトが生活サイクルに加わった時間の流れに馴染んだ頃。そろそろ六月も終わりが見え始め、長かった静かな雨景色もようやく明ける兆しを見せ始める。

 梅雨が終われば直ぐに夏。学生の本分である学業とは今しばらくおさらばできる長期休暇、世間一般様が待望する夏休みの到来だ。

 が、それに先んじて学徒が修めるべき集大成は皆に平等に降り注ぐ。学期を締め括るは、それほど待ち望まれる事のない期末考査だ。

 今回も中間の時と同じく、学年の成績を牽引する空木(うつぎ)葉子(ようこ)と共に勉強をする。その空間に、誘蛾灯の如く群れてきたのは前と同じ面子。一度蜜の味を知ったらしい彼女達は、当たり前のように名乗りを上げた。

 葉子としてはあわよくばを期待して個人授業が良かったのだろうが、それはそれ。頼られて悪い気はしないのだからと、二つ返事で頷いていた。……どうでもいいが、先輩たちはいる意味あるのだろうか? 流石に学年上位を根城にする葉子と言えども、上級生の範囲まではカバーしきれないだろうに。

 まぁ勉強のできる空間と言うのは大切か。

 ただ一つ……一つだけ問題があるとすれば、それは────


「懸君おかわりっ」

「会長、ドリンクバー置きましょうよ」

「曲がりなりにもカフェだぞ、ここ」


 何故か会場が『Jardin de fleurs de le café』に決まったという事だ。

 きっかけは恋の一言だった。あれ以降ちょくちょく遊びに来る彼女はここを気に入ったらしく、懸がいるのを確かめてはやってきてカプチーノを注文する事が恒例になっていた。その居心地の良さから、だったら勉強場所に出来ないかと言い出して、断る理由も見つからなければそのまま押し切られたのだ。

 当然、なし崩し的に全員に懸のバイトが露見し、(あまつさ)えデザインカプチーノを作る機械にさせられた。勉強させろ。何の為の集まりだよ、これ。

 胸中でぼやきつつ心の注文を作り終えて腰を下せば、休憩中に懸の分の採点までしてくれたらしい葉子が用紙を差し出してきた。


「流石に勉強したばかりだから問題ないね」

「厳しいな」

「テストでいい点取れなきゃ今結果出しても仕方ないからね」


 随分とシビアな彼女の評価に笑いながら、けれども確かな手応えと共に回答に目を通す。


「ここまでくるとあとは反復して、ケアレスミスを潰すだけだよ」

「スミスさんの倒し方教えてぇ~……」


 自覚はあるらしく唸る心。懸が見ても、彼女は小さなミスが多い。多分集中力の問題なのだろう。

 あとスミスさん、直角三角形のフレーム眼鏡してそうだな。


「何が正しいかなんてのはわたしにも分からないですけど、気をつける事は幾つかありますよ?」

「たとえばっ?」

「解ける解けないよりも時間配分を気にする事とか。思い込みをなくす事ですかね。ミスって言うのは本調子じゃないから起きるんです。余裕を持つ事、客観視する事で意外と気付く事はありますよ」

「客観視って?」

「深呼吸でもいいですし、時間があるなら別の事を考える、とかですね。見直す前にちょっとだけテストに関係ないこと考えて頭を切り替えるんです」


 何よりもペースを見失わない事、だろう。その為にも、普段から勉強の癖を体感に刻み込んだりする事で本番に落ち着いて望む、と言うわけだ。


「前の席の人の後頭部見つめるとかいいですよ。顔を上げると呼吸が楽になりますから」

「ふへぇ……」


 スポーツ選手がモチベーション維持に自分だけのルーティンワークを持つのと同じ。何事も自分との勝負だ。


「因みに空木さんはどうしてるの?」

「終わったところから設問にチェック入れてますよ。解いたところを一度切り捨てて考えられるので頭がすっきりするんです。自分にあった方法を見つけるのがいいですよ」


 自分にあった方法。それが直ぐに分かれば苦労しないのだが……。

 そんな事を考えていると依織が零す。


「だったら懸は深呼吸だろうな」

「え……?」

「よくやってるじゃねぇか」

「そうか?」

「そうだね」


 心の肯定が重なって、そんなものかと納得する。多分それも癖なのだろう。

 しかし深呼吸か、それならば簡単に出来ていいかもしれない。

 心の病の問題で心理学の本を読んだ事もあるが、深呼吸はストレス解消にもいいと言われていた。気持ちの切り替えと言う意味ではお手軽な方法だろう。


「癖って言うなら依織はよくペン回してるよな。ほら、今も」

「んぇ? ……あぁ、ほんとだ」


 時々目障りに感じる事もあるが、意識すればスイッチにはいいかもしれない。


「懸君、私はっ?」

「何で俺に訊くんだよ」

「だってこの中だと懸君が一番私に詳しいだろうからね」

「俺はお前の取り説か何かか」


 そう言う認識のされ方は不本意だ。幾ら幼馴染だからって一から十まで全てを知っている訳ではない。まぁ癖の一つや二つは挙げられるだろうが。


「匂いとかはどうかな? アロマとか、落ち着く匂いでリラックスできればいつも通りの実力が出せるんじゃないかな?」

「教室でそれは流石に……」

「匂いつきの文房具でいいんじゃない?」


 コーヒーを飲みつつ(めぐみ)が提案する。真に受けようとした心に(あい)が手ごろな手段を付け加える。

 別に偏見で何かを言うつもりはないけれど、女子ってそう言うの好きだよな。


「テスト中に消しゴムの匂い嗅ぐとか傍から見たらただの変態だよっ」

「何でそう極端なんだよ……」

「だったらどうすればいいのさっ」

「……桔梗原にでも借りて軽くコロンとかすればいいんじゃないか?」

「懸君の口からコロンとか聞く日が来るとは思わなかったよぉ……」


 折角アドバイスしてやったのになんなんだよ……。男がそういう話しちゃ悪いのかっ。いや、別に普段からそんな話をしてるわけじゃないんだがな。


「でもそっかぁ。あーちゃんならシトラスとかシプレー系沢山持ってるからそれ借りよっかなぁ」

「目立つと注意されるからグリーンの方がよくないですか?」

「個人的にはオゾンとか好きですよ」


 心の言葉に恋と葉子が乗って直ぐに手の届かないところまで広がっていく女子トーク。数少ない男子としてはこういう会話は居心地が悪く感じる。

 そんな懸に気付いたのか、恋が話題を振ってくる。


「先輩もフゼア系のとかつけたらどうですか?」

「そっちには全然詳しくないんだが……そのフゼアってのは何なんだ?」

「メンズ系の香水に多い香りです。樹木とかハーブとかの匂いですよ」

「制汗剤みたいなもんか?」


 答えたのは依織。だが曖昧な相槌しか返らず、微かに沈黙が流れる。

 流石の俺でもそこは区別するべきものだと分かるぞ?


「……坂城(さかき)君、消臭剤と芳香剤の違いって分かる?」

「…………すまん、考え無しに発言して悪かった……」


 (めぐみ)の言葉にようやく失敗を悟ったらしい依織が、それから助けを求めるような視線をこちらに向けてくる。無理に特攻するからそうなるんだよ。こう言う場合は上手く距離を取るか、分からない事を分からないと割り切って正直になるしかないのだ。認めれば楽になるのだから、こうして恥を掻くよりは覚悟を決めた方が幾らかましだろう。


「そもそも制汗剤は発汗を抑えるものだろうが。香水とは別物だ」

「敵しかいねぇっ……!」


 最後に追撃すれば、頭を抱えた依織に小さく笑いが起こって、どうにか道化を作り出せたかと安堵する。


「因みにシトラスが柑橘、シプレーがオークモス……樹木苔をベースに柑橘とかを混ぜたもの。グリーンは植物系で、オゾンってのは、そうね……石鹸とか洗剤みたいな清潔感のある香りのことよ」

「グリーンとフゼアの違いってなんですか?」

「どっちも男性向けではあるわね。フゼアはシプレーと同じでベースがオークモスね。グリーンはウッディー……香木(こうぼく)の匂いだったりだったりハーブが一般的かしら? ちょっと甘い匂いもあるわね」

「へぇぇー」


 細かい説明は(あい)の口から。これまで余りそう言った話は彼女とはしてこなかったが、(あい)も女の子らしくおしゃれ等にはそれなりに詳しいと言う事だろう。


「ついでにもう一つ付け加えるとすれば香水の種類ね。匂いとは別に、四種類……濃い順にパルファム、オードパルファム、オードトワレ、オーデコロンよ。匂いや持続時間が違うの。オードやオーデは水を意味していて、濃度が薄い事からその名がついてるの」


 匂いの種類にその濃淡。香水一つをとって見ても意外と奥が深い。それらを自在に操って自らを演出する彼女達には、尊敬の念が浮かぶ。

 そんな横から、少し言い難そうに(めぐみ)が零す。


「あたしはあまり男性の香水って好きじゃないかなぁ」

「それはどうして?」

「何だか男らしさが減る気がして……。あ、別ににおいフェチとかそう言うのじゃないよっ? 勘違いしないでね?」

「まぁ分からんでもないな。あんまり匂いが強すぎると倦厭(けんえん)しがちっつうか」


 依織の言い分もよく分かる。度が過ぎると雰囲気を壊しかねないだろう。


「懸君は?」

「服もそうだが、似合ってればいいってのは多分男の言い分だろうな。それ一つで心が動いたりするくらいならそれだけだしな」

「さすが言う事が違うわね」

「どう言う意味ですか……?」


 (あい)の挑発にくらいつけば小さく笑みを零した彼女。いい感じに悪役に陥れてくれたところで、葉子が手のひらをうって仕切りなおす。


「雑談も楽しいですけれど続きは次の休憩にしましょう」

「ん、そうだな」


 随分と道が逸れてしまったが、元々は勉強会。やるべき事はきっちりとして、その上で有り触れた時間を楽しむとしよう。




 それから適度に休憩を挟みつつテスト勉強をして。そろそろ飲みすぎかもしれないと言うところまで時間を使えば、降っていた雨も上がって茜色の光が雲間から注いでいた。この様子なら明日は久しぶりに晴れるだろうか。

 梅雨の時期の特別ささえ感じる空模様に、ならば何か外に出てみようかと考えながら荷物を片付ければ、今日はこれで店を閉めると言う涛矢に礼を告げて帰路につく。

 足元には大きな水溜り。もう少しすれば陽も落ちる世界の中で宝石でも反射するように輝く景色が少しだけ幻想的に目に映る。雨上がり、と言う事で少しだけ空を探したが、条件が整わなかったか虹は見えなかった。

 紅に染まる世界の中を話の尽きない集団で歩く。『Jardin de fleurs de le café』から家が近い(あい)が最初に抜けて別れを告げる最中。ふと少し後ろでスマホを弄る(めぐみ)の気配に振り返る。

 なんとはなしのその視界に、画面を見つめる彼女の表情が少しだけ陰っている気がして声をかけた。


「……藤宮さん? どうかした?」

「ん? ううん。何でもない。家族に連絡するの忘れてて、早く帰って来いって催促」

「何か用事でもあった? だったら遅くまで付き合わせてごめん」

「いやいや大丈夫。連絡しなかったあたしが悪いだけだからっ」


 笑みを浮かべる(めぐみ)。その笑顔が、どこか飾っているように感じて少し悩む。

 何かあったのだろうか? さっきまではそういった雰囲気は感じなかったのだけれども……。


「懸君どしたの?」


 悩んでいるのだとすれば、話を聞くくらいならいいかもしれないと。そう音にしようとしたところで、それよりも数瞬はやく心が声を掛けて来る。


「…………いや、何でもない」

「そう? ねぇ、帰り何か食べて帰らない?」

「まだ食うのかよ」

「それセクハラだよー?」

「最早それがセクハラだろ」


 飛躍する幼馴染の文脈に呆れれば、鞄で軽く背中を叩いて駆けていく彼女。相変わらず落ち着きのない奴だと背中を視線で追えば、最中に(めぐみ)と視線がぶつかって小さく笑みを零された。


「いこ?」

「ん」


 今度のそれは完璧なほどの微笑みで。言葉の裏から感じる無言の圧力に追究を諦める。

 ……まぁ言葉の通りかも知れないしな。杞憂ならそれでいい。

 それに、無闇に首を突っ込んで(めぐみ)を困らせるような事になれば、それこそ迷惑をかけてしまう。彼女の事だ、何か用事があれば向こうから話題に出してくれるだろう。

 納得のように自分に言い聞かせてそれ以上の思考を切り捨てる。再び歩き出した道行きで、まだまだ多い女子の比率に咲く花に、男として肩身の狭い思いをしながら相槌程度の返事をしつつ。

 やがて枝垂駅構内までやってくると、そこで(めぐみ)を見送る。どうやら迎えが来ているらしい。いいな、お嬢様。

 口にすれば機嫌を損ねてしまうかもしれないとどうにか飲み込み、週明けの再会を交わして別れる。その後姿が、やはり少しだけ気になったが馬鹿な事はやめろと己を(いさ)めて小さく息を吐いた。


「先輩、これ持っててもらってもいいですか?」

「ん、あぁ。どうした?」

「お手洗いです」


 そんな横から恋が声をかけてくる。先輩を荷物番にするなんて、と言う返答は、けれども既に恋が傍を去っていて気を逸した。

 咄嗟にそんな受け答えも出来ないくらいに周りが見えなくなっていたかと。ただ、それだけ(めぐみ)が懸の興味を引く様子だったと言えば、中々簡単には忘れる事の出来ない雰囲気だったと思いながら。


「懸君どしたの?」

「いや、何でもない。八重梅と合流してから追いつくから先にホームに上がってろ」

「分かった。遅れたら置いてくからっ」


 薄情な幼馴染だ。が、今はその頓着の無さが逆にありがたかった。

 恋を待つ傍ら、暇潰しに売店を見て回ったが、特に何を買うでもなくひやかしで終わった。直近で何かに困ってるわけでもないしな。

 仕方なくゲームでもしていようかと柱により掛かって画面に目を落とせば、構内の喧騒で気付かなかったらしく、SNSの通知が一件入っていた。見ればそれは蓮からの連絡で、七月分のシフト表だった。

 月の後半にかけて頻度が増しているのは、夏休みだからと言う事なのだろう。まぁ別に特別用事があるわけでもないから構わない。それに言えば都合をつけてくれるホワイトな職場だ。叶う事なら長く続けたいものだ。接客もそれなりに楽しいし得る物も多いのだ。

 と、そんな事を考えていると聞き慣れない通知音。何事かと思えば、どうやら鞄の中の恋の端末らしい。

 幾ら仲のいい後輩と言えど他人の、それも異性のプライベートを覗くわけはいかないだろう。流石にそこまで外道ではない。

 恋人なら許されるのかも知れないが、個人的にはその一線は何かを測れる大事なラインな気がする。

 別に懸は見られて困る、やましい事はないのだけれども。それでも理由もなく疑われるのは少し気分を害するかもしれないと。

 益体も無くそんな事を考えながら、それから恋人と言う繋がりで脳裏を過ぎった(あい)の顔に、シフトを見比べて彼女と一緒の日を探し始める。


「すみません、お待たせしましたっ」


 そうこうしていると恋が帰ってきた。


「携帯鳴ってたぞ」

「見てませんよねっ?」

「俺はそんなに信用ならないか?」

「一応の確認です。先輩だって男の人ですからね。可愛い後輩のプライベートが気になってつい魔が差すとかあったりなかったり……」

「あって堪るか」

「それはそれで何だか傷つきますっ」


 流石にそれは理不尽だろう。だったらどう答えるのが正しいんだよ。心にもない世辞を言ったところで、どうせ似たような反応するくせに。


「むぅ……」


 と、自分のスマホを取り出した恋が、画面を見つめて唸る。


「どうした?」

「明日遊ぶ約束してたのがなくなったんです」

「テスト期間中に余裕だな」

「息抜きは必要ですよ。それに、目一杯遊んでおいて相手よりいい点が取れたらラッキーじゃないですかっ」

「友達に同情するな。遊ばなくて正解だ」

「何でですかぁ」


 嫌味にもほどがあるだろう。友達なくすぞ。

 まぁ彼女の性格ならそれも愛嬌になってしまいそうで恐ろしいのだが……。

 恐らく無自覚なその性格に、高校生になっても変わらないと安堵をしながら話を弾ませて。改札を抜けホームに向かえば、丁度心達の乗っただろう電車が動き出すのが見えた。


「……やった」

「なにがだ」

「そういえば先輩、副会長とはもう別れたんですか?」


 心ばりの文脈無視で話題が飛ぶ。何となく面倒臭さを肌で感じながら、けれども嘘を吐く必要もないと素直に答える。


「だったらどうした?」

「約束、覚えてますか?」

「約束?」

「デートです」

「…………あぁ……」


 言われて思い出す。前に偶然休日に会った時、恥ずかしげも無くそんな事を言っていた。冗談だったら良かったのに。


「忘れてたんですか?」

「本気にはしてなかった」

「わたし先輩に嘘なんて吐きませんよ。だから全部本当です」


 そう臆面も無く言いきれる恋の強さは……きっと尊敬するべきなのだろうが、時に厄介だ。変に純粋だから、断り辛い……。


「……んで? 友達に振られたからって俺を(なぐさ)みものにするのか?」

「違います。いつだってわたしは本気ですっ」


 あぁもう、質が悪い。

 そうでなくとも今はそう言う事から距離を置くべきだと言うのに。(あい)と作った恋愛への壁が意味ないだろうが。


「もちろん先輩に迷惑はかけませんよ。理由もちゃんと用意してます」

「理由?」

「先輩、バドの練習に付き合ってください」


 続いた言葉に、それから彼女なりの気遣いを見つける。

 懸が恋愛から距離を置こうとしている事には気付いていたのだろう。だから練習という言い訳を用意したのだ。そうしてまで、後輩と言う立場をこれ以上ないほどに有効活用しているのだ。

 駆け引きとは縁遠い、実直な性格。その真っ直ぐさは眩しいほどだ。


「テストが終わったら直ぐに大会があります。頑張るって先輩に約束しましたから、少しだけ勇気と力をわたしにくださいっ」

「だったらテスト終わった後で良かったんじゃないか?」

「それって明日でもいいってことですか?」

「……………………」


 しまった。墓穴を掘った……。いや、今の話の流れならどう考えてもそうだろう。もしかして計算ずくか?

 全く、変なところで懸と相性が悪い。


「…………はぁ。分かった」

「……! ありがとうございます、先輩っ」


 そこで好きとは言わない辺り、今はまだこのままだと言う事だろうか。

 慎重以上に警戒してそんな事を考えつつ、折れて約束を詰める。


「朝からでもいいですか?」

「場所は大丈夫なのか?」

「穴場見つけたんです」

「ん、分かった。けど一年のブランクがあるからな。期待するなよ?」

「先輩には期待以上の信頼しかありませんからっ」


 買いかぶり過ぎだ。既に彼女は懸の実力を通り越している。その点は素直に評価すべきだ。

 それでも尚謙遜しながら先輩を慕い立ててくれる恋は後輩の(かがみ)かもしれない。能天気なようで意外と色々考えてるしな。ともすれば精神的に一番大人かもしれないと思うほどだ。


「ラケットはまだ持ってますか?」

「これでも物もちはいい方なんでな。ただストリングのテンションが低くなってるかもしれないけど」

「だったらそれ直すのも込みでデートですっ」

「……そんなにデートデート連呼するな。恥ずかしくないのか?」

「なんでですか?」


 この辺の感性は子供っぽい気がする……などと考えながら。ストリング……テニスで言うところのガットの、テンション……張力(LBS)の強弱を思い出す。確か21だった気がする。

 テニス然りバドミントン然り。そして卓球でもそうだが、ああ言う類の球を捉える場所のコンディションは実力に大きく影響する。一応緩んでいても打てない事はないが、上位を目指す恋の練習相手として手を抜けば彼女にだって悪影響を及ぼしかねない。

 何より万全な準備は安全な運動に繋がるのだ。試合前の大事な時期に彼女の調子を狂わせるわけにはいかないと。


「まぁ久しぶりだからな、お手柔らかに頼む」

「そんな事言って……先に本気になるのはいつも先輩じゃないですか」

「勝負に手を抜く方が失礼だろ?」

「でも先輩のそう言うところは嫌いじゃないです。明日、よろしくお願いしますねっ」


 トレードマークであるショートポニーテールを小さく揺らす恋。個人的にコート内であの尻尾が跳ね回るのを後ろから眺めているのが楽しみの一つなのだが、まぁいいか。

 とりあえず、恋に迷惑をかけないように。それから、慕ってくれるのならばそれに見合った先輩としての威厳をどうにか飾るとしよう。




 そんなこんなで久しぶりに恋とバドミントンの話題に花を咲かせつつ、一つ前の駅で降りる彼女を見送って懸も家に戻る。

 薄情な幼馴染は駅で待ってくれていると言う事もなく。久しぶりに一人の帰路を満喫して我が家の玄関をくぐれば、珍しく両親が早く帰ってきていた。

 懸の父親は工場勤務。大量生産が必要な金属部品を製造する会社に務める一会社員で、一応課長の任を担っているらしい。

 母親は介護福祉士の資格を持っていて、忙しく仕事をしている。

 二人ともそれなりに立場があるらしく、中々早くに帰ってくる事が少ないのだが、今日は偶然か懸よりも早かったようだ。

 まぁどこにでもある家庭だろう。強いて言えば互いが子連れの再婚同士であることが少し特別なくらいか。別に不便は感じていない……と言うか、母親の職種が介護関係だからか、懸の心の問題にも理解があって助かっている。


「あ、おかえり。今日グラタンだって」

「ん」


 そんな事を考えていると、再婚相手の子にして懸とは血の繋がらない妹……世間一般で言うところの義妹である(ゆかり)が、ソファーに寝転がりながらスマホを弄りつつ雑な出迎えをしてくれた。


「あぁ、そうだ。明日友達来るんだけどお兄ちゃんは?」

「八重梅に付き合ってバドしに行ってくる」

「遅くなる?」

「さぁな。どうしてだ?」

「明日二人とも仕事だって。夜二人だから」


 あぁ、なるほど。明日当直だから今日早かったのか。


「何かリクエストある?」

「ボリュームがある方が嬉しいな」

「あーい」


 夜は作ってくれるらしい。早く帰れたら手伝うとしよう。


「もしかしたら買い物頼むかも」

「了解」

「あと漫画借りるよ? 友達読みたいって言ってたから」

「あぁ」


 有り触れた家族の会話。ともすれば近所では(うち)以上に仲のいい家族を知らないほどに円満な家庭だ。これで懸の過去に根差す個人的な問題が無ければ本当に理想的な関係なのに。悲しいかな、きっと一番乱しているのは懸なのだ。

 とは言え迷惑を掛け合う事もまた家族の証。そうして助けて助けられてを積み重ねて紡いでいければ、それ以上に平和な事はないのだろうと。


「あと…………」

「まだあんのか」

「また数学教えて?」

「少しは自分でどうにかしろ」

「それが出来ないからお兄ちゃんに頼ってるのに……」


 妹が悪女に成長したらお兄ちゃんの所為ですか?


「言っとくけどテストなのは俺も一緒だからな」

「あたし受験生だよ?」

「今更だろ。と言うか本当に危機感覚えてるならゲームしてないで勉強しろ」

「その勉強が、お兄ちゃんと一緒の方が効率的だから言ってんの」


 分かりきった答えに着地して溜め息を吐く。

 空間認識に伴う記憶能力。紫の類稀なるその記憶方法には、慣れ親しんだ空間で想起し易い環境での勉強がいいらしいのだ。その環境と言うのが懸が一緒の空間らしく、いいように使われている気がしてならない。


「……ブラコン」

「ブラコンのお願いを断れないシスコン」


 互いに悪態を吐き合って。それから先に勉強を済ませてきて正解だったと甘い自分に嘆息しながら自室に向かう。

 また今度見返りに何か要求するとしよう。さて、なにがいいだろうか……。

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