第四輪
愛と付き合い始めて約二週間。暦は六月にも入り校内は衣替えの時期。今年は少し早い梅雨入りを迎えて傘を片手に登校する日々が多くなった。
電車通である懸や心は駅から学校までの距離を自らの足で歩く。その傍らを雨合羽に身を包んだ自転車やバイク通の生徒が少し辛そうに僅かな坂道を登って行く。
こう言う時徒歩は自らの意思で傘の向きを変えられて、且つ理不尽な雨の礫に顔を顰める必要もなくて助かる。が、その分足元では跳ね返りが裾を襲い、少しばかり憂鬱になる。
とは言え懸自身はそこまで梅雨が嫌いなわけでもない。雨にしか見られない景色や空気のにおい。いつもは隠れているその世界は、ある種幻想的に視界を彩る。
桜の季節も終わり、その顔を挿げ替える様に校内を彩るのは花壇に植えられた鮮やかなアジサイ。青、赤、ピンク、紫、白と言う色の違いは、確か地質のpH度数によるものだったと記憶している。一般的に花びらだと言われているあれは花弁ではなく萼で、花言葉はその色によって異なるものの、アジサイとして共通するそれは移り気や冷淡、無情など、冷めた印象の言葉が多い。
個人的にアジサイを漢字で書いた際の『紫陽花』から、紫が代表する色なのだろうと思う。
梅雨に咲く花と言えば、よく聞く名前だとハナショウブ、スイレン、クチナシだろうか。神社やお寺、公園に行くとよく池に咲いていて意外と色々なところで目に出来る。
中でもクチナシは匂いが強く、ジンチョウゲやキンモクセイと並んで語られる花だ。よく化粧関連でも聞く名前だろうか。
まぁ男である懸にとってはあまり縁のない話。……昔学校の行事で舞台をやった時に一度化粧をしたのが一番の記憶か。その時の雑事として、化粧のノリがいいと言われたのをなぜかよく覚えている。女装癖も変身願望もないんだが……さて活用するべき情報か否か。
「そう言えば心は化粧とかしないよな?」
「どしたの急に」
「いや、ちょいと脳裏を過ぎったから」
丁度途切れた話題提供に思った事を口にすれば、眇められた視線で射抜かれた。変な想像をするんじゃない。
「んー……本当に特別なときとかはするかもね。あと女友達と遊ぶ時。ただ学校にはしてこないかなぁ。怒られるのもやだし」
「まぁ普段の心を見慣れてる身からするとあまり想像出来ないんだけどな」
「じゃあ何で訊いたのさぁ」
そう音にする心だが、言葉ほどに退屈そうではない。きっと女子の話題に懸が首を突っ込んだからなのだろう。
例え相手に理解されなくともそう言う話が出来る相手や空間と言う物が好きらしい。
「でもあーちゃんはよくしてるよね。薄ーく、ちょっと香水とかも付けたりして。時々見つかって怒られてるけどっ」
「可能ならしたいと思うか?」
「面倒といえば面倒。でもするだけの価値があるならするよ?」
無邪気で時折破天荒な幼馴染だが、根はやはり女の子。おしゃれに恋にと興味は尽きない様子。
「…………誕生日プレゼント?」
「催促なら気が早すぎるぞ」
「先輩は?」
「8月の末だった気がする……」
勘違いから跳んだ話題に答えて脳内を旅する。
懸の誕生日が12月14日。心が9月24日で、依織が11月の28日。愛が先ほどあげた通り8月の……29だった覚えがある。後で要確認。
他の周囲のところだと妹の紫が3月9日。恋が年明け二週目辺り。愛が…………。
「心、藤宮さんの誕生日知ってるか?」
「いんやぁ? 後で訊いてみよっか」
「色々世話になってるしなぁ。そう言う意味だと勉強を見てもらった空木さんもか」
「うわぁい、女の子ばっかりぃっ」
茶化されて、けれども改めて考えれば確かに異性ばかりかもしれないと。……いや、依織とか、祝おうと思えば蓮辺りだって懸の友好関係の中だ。そこまで偏っているわけではない。
「……覚えてないよりはいいだろ?」
「そだねぇ。そこんところ懸君はマメだよね」
「せめてもの償いだ。それ以上の迷惑を掛けてる自覚はあるからな」
「ネガティブ、イン、ザ、ツユゥ!」
「何で梅雨だけ日本語なんだよ」
「…………プラムレイン?」
「直訳すんな」
しかし梅雨って英語でなんて言うのだろうか。英語の授業があったはずだからその時に訊いてみるか。
因みに梅は『ume』でも通じる。と言うか日本で言う梅は『ume』の方が詳細に伝わるらしい。あっちだと『plum』はスモモに訳されるらしいからな。……少なくともプラムレインではない事は確かだ。
「迷惑なんてね。他人に言われないならそれは自分で思ってるだけだよ」
「俺は心ほど不遜にはなれないからな」
「えっへんっ」
一瞬だけ真面目な顔をした心だったが、シリアスに耐えられなかったらしい彼女はいつもの軽薄さで流した。
まぁ確かに、悩むよりは前向きに生きていた方が幾らか精神衛生上いいのかも知れない。しかも懸と心はその部分に爆弾のようなものを抱えている。懊悩して燻らせるよりは余程賢い気さえしてくる。
その点で言えば、心の図太さは見習うべきかもしれない。とは言え人はそう簡単に変われはしないのだけれども。
そんな事を考えながら他愛ない雑談と共に高校前の坂を登りきって。この頃は雨で朝練に励む生徒達の姿がない事になんだか寂しく思いつつ昇降口へ。下駄箱の戸を開けると、足元に便箋が一つ滑り落ちる。
久しぶりな気がするそれは、そう言えば愛との偽装カップル効果なのかぱったりと鳴りを潜めた思いの綴られたもの。ここ半月ほどそちら方面から離れていたからか、少しだけ新鮮な気分だ。
「……あれ? まだ付き合ってるよね?」
「あぁ」
「ふむ……」
靴を履き替え懸の元にやってきた心は何だか納得がいかない様子。まぁ懸の事を少しでも耳にしていれば現状で告白なんてしようと言うのはどうにも不可解だ。
入れ間違いも過去に数度経験したが、その線だろうか。だとすれば差出人には悪いが中を確認させてもらっていつもの如く知らなかった振りでやり過ごすとしよう。
最早慣れた面持ちで教室に向かい封を開ける。因みに心は自分の教室に行かずについて来た。相変わらず野次馬根性が全開な事で。
さて、ならば中身はと便箋の中の二つ折りにされていた手紙を開くと、そこには機械的な罫線を塗り潰すように書き殴られた太いマジックでの一筆。
「なに、これ…………」
「これまたご丁寧な事で」
見るでもなく跳び込んで来た文字列に息を呑むような心の声が漏れる。
書かれていたのは────愛を中傷する様な苛烈な言葉。その事実に、頭の片隅に残っていたらしい面倒な過去が蘇る。
それは中学の頃。同じように懸が女子と付き合っていたときに受けた、いわゆる嫌がらせだ。具体的には言わないが、内容は今回と同じ……その当時の彼女を咎めるような手紙だった。
それらから分かる事は唯一つ。目的は懸を好きな別の誰かからのメッセージなのだろう。簡単に言えば、別れて欲しいという話の、迂遠で悪質なやり方。
まず中傷先が懸ではなくその彼女である事。もし懸の付き合っている相手が好きなのならばその人物を貶すような事はしないはず。もし噂になって自分が巻いた火種が元でその好きな相手に根拠のない噂が付き纏えば迷惑になってしまう。だったら逆の側を敵にして、不信感から遠ざけようと言うのが恐らくの狙いだ。だからこれは、懸を好きな誰かの犯行。物騒に言えば、脅迫だ。
「…………確か中学の時にも一回似た様な事があったよね」
「あぁ。そこまでするほどの事か、とも思うけど。本人にしてみればこうするほかないくらいに思い詰めているって事だ。特に今回は先輩とだからな。噂の大きさと広がり方は普通以上だ。尾鰭でも足でも、不必要な無駄な物は勝手についていく」
「どうするの?」
「さて、どうしたもんかねぇ…………」
中学の時はその手紙があった翌日に偶然付き合っていた相手から別れ話を切り出されて大きな問題にはならなかった。裏で何かあったのかも知れないが、首を突っ込んで犯人を暴く事もしなかったから分からない。何より彼女と犯人……女の子を傷つけたくはなかったから、ある種の逃げで無視を貫いた。
もしかしたらその後付き合った女の子の中に手紙の差出人がいたのかも知れないが、既に終わった事だ。今更掘り返そうとは思わない。
ただ、今回はそんな偶然は見込めないかもしれない。恋愛感情で繋がっているわけではない愛との関係。互いの利益のために紡いだ偽者が、けれどこうして別の問題を引き寄せてしまった。
完璧な無視は出来ないが、完全な解決策も知っていない。それこそ、初めての経験だ。
「…………とりあえず保留だ。いいな、心」
「……うん。そうだね。分かった」
理解のし難いものを見るように手紙を見つめる心。彼女の精神に負担を掛けるような事はしたくない。例え相談するにしても、別の誰かが候補か。
全く以って想定外の方角からの燻り。正解なんて、あるのだろうか…………?
「おはよう。あれ、萩峰さんがいる……。どうかしたの?」
「あぁ、おはよう、藤宮さん」
「どもーっ」
便箋に戻して鞄に突っ込むのとほぼ同時。丁度登校して来たらしい愛が変わらない様子で挨拶をして来た。
「別に何でも。雑談しながら歩いてたら心がそのままここに居座っただけ」
「なにおうっ。いつも話題纏めてくれるのは懸君の役目でしょっ?」
「そんな役を拝命した覚えはない」
「ふふっ、相変わらず仲いいね。いいなぁ、幼馴染」
「藤宮さんはいないの?」
「幼馴染って言うか、古い付き合いは何人か。でもそれとこれは違うでしょ?」
いつもの調子で話題逸らしにつきあってくれる心。こう言うところは幼馴染として培ってきた呼吸が苦もなく今を紡いでくれてありがたい話だ。
作り出した話題に乗ってくれた愛が言うそれは、きっと家同士の繋がりの事だろう。
親しみ易い彼女だが、藤宮家と言う立派な日本家屋を持つ大きな名前のお嬢様。子供の頃から懸には到底届かない世界での生活をしてきて、その中で得た関係と言うものがあるのだろう。
「幼馴染にはなれなくても友達にはなれるよっ」
「そうだね。長松君とも普通に話せるようになったくらいだし」
「別に何か禍根があったわけじゃないと思うけど」
「こっちにはあったよ? 誰かさんの物分りが良すぎるお陰でね」
空気を読んでの付き合い方だと思っていたのに。それを否定されるとこれまで懸が遣ってきた気の意味がないと言われたようで少し心外だ。
「でもだからこそ、いい理解者となってくれた事には感謝してるかな?」
「それどこの帝王学?」
「ごめんごめんっ。上からに聞こえたなら謝るからっ」
そんな冗談の後に笑えるくらいにはなれた仲。そこに関しては彼女に同意見だ。
「けどね。友達ならば友達として今更ながらに訊きたい事があるわけですよっ」
「なに?」
もったいぶった心の言い回しは……もしかして柄にもなく緊張でもしているのだろうか? 確かに今更な話かもしれないが、その今更を面と向かって突き付けられる幼馴染の胆力には恐れ入る。こ奴はもはやメンタルの化け物だ。何せ他人にはない一面を胸の内に秘めてるからな。
などとどうでもいい事を考えながら、登校中の事を思い出したらしい心が特攻してくれる。頼もしい幼馴染だ。
「藤宮さんの誕生日いつかなーって。ちょっと気になって」
「あー…………」
返ったのは困ったような声。次いでどうしようかと何かを探すように視線を逸らす愛。話したくない、と言う雰囲気ではなさそうだが……。
「んー、うん。えっと、ごめん、ね? 5月の31日……なんだ……」
「嘘っ、もう終わってるっ!?」
これは運が悪かった……。まさかもう過ぎてるとは思わなかった。
「何で言ってくれなかったのっ?」
「だからごめんって。そこまでだとは思わなくて」
「友達だと思ってたのにぃ……」
「思ってるっ。思ってるから!」
駄々を捏ねるように恨み節を零す心。そんな彼女の声に、困ったように笑う愛。ちらりとこちらを伺って助けを求めてくる。
「心」
「うぅぅっ、だってぇ……」
「本当にごめんっ」
……ふむ。このままだと心の気が収まりそうにないし、懸としても何だか消化不良だ。この流れだと互いの誕生日の話にもなるし、それで貰うだけと言うのは気が引ける。となればやるべき事は一つ。ここは強引にでも話をつくるとしよう。
「けれどまぁ、知ったからには何も無しって言うのも薄情な話だとは思わないか?」
「終わった事だからそこまでしなくても……」
「うぅぅうぅううぅぅぅ」
「心がこのまま人じゃなくても友達を貫ける?」
「会話できないのはちょっと…………。もう、分かったよ」
「じゃあいつにするっ?」
心の強情さに押し切られて折れた愛。恨みがましい視線を送ってきたが、気付かない振り。
「今日の放課後は?」
「雨上がるって言ってたっけ?」
「……80%だな」
「だったら部活が休みになるかも」
「きまりぃっ。場所はどこがいいかなぁ。何か食べたいものとかある?」
「そんなに大々的にされてもこっちものれないって。やるなら落ち着いたところでお願い」
まぁ確かに。終わった事を無理やり掘り返そうとしているのだ。プレゼントの準備もないし、テンションだけで押し切るのは彼女にとっても辛いだろう。
そんな愛を主賓に落ち着いた誕生日会。さて、それに見合った会場は……と思考をそっちに移しかけたところでふと妙案が思いつく。これならば一石二鳥だ。
「……場所は一つ心当たりが。けどいいかどうかは訊いてみないと」
「いきなりで都合がつくの?」
「多分大丈夫だと思う」
「ならそっちは懸君に任せたっ」
「そっちって……心は何をするつもりなんだよ」
「面子集めっ。三人だけは寂しいよ」
「だからあんまり大事にされても困るよ」
「えぇぇ?」
「ほどほどにしとけ」
「……はぁい」
彼女は賑やかなのが得意ではないのかも知れない。ならばこそ、場所は脳裏に浮かんでいるそこが丁度いいはずだ。
「あ、プレゼントっ!」
「お祝いしてくれるだけで十分だから。ね?」
「心、落ち着け。主賓を困らせてまで祝ったところでどうなる」
「懸君はどっちの味方なんだよっ?」
「少なくともエゴに味方する気はない」
「ケチぃ」
口を尖らせた心。だが、どうやら二人に窘められてどうにか平静を取り戻したのか、一呼吸の後どうにか折れてくれた。
そもそも最初から知っていれば色々準備も出来たのだ。その情報収集を怠ったのはこちらの落ち度。己の失敗の償いを相手に求めるのは筋違いと言うものだろう。
「と言うか心は一度荷物置いてこい。いつまで俺の机に供えておく気だ」
「おっと失敬。んじゃちょっち待ってて」
そう言い残して廊下へと跳び出した心。相も変わらず落ち着きのない幼馴染だ。
「ごめん、藤宮さん」
「大丈夫。あのテンションにはもうちょっと慣れが必要みたいだけどね」
「何かあれば遠慮なく否定してやればいいから。幼馴染の俺が許可する」
「いっつもお疲れ様だね」
同情をされて。けれども少しだけ救われた気分になりながら二人して肩を揺らす。
しばらくしたら心が戻ってくるだろうが、彼女のお陰で随分と気分が持ち直した。とりあえず今は、面倒な事は横に置いておくとしよう。
愛に事情を話せば快くバイト先である『Jardin de fleurs de le café』に許可を取り付けてくれた。いきなりの申し出だったのに今日は貸しきりにしてくれるそうだ。その分注文で貢献するとしよう。
そうと決まれば各方面の動きは早く。心と依織を中心にメンバー集め。サプライズを企画したのは蓮で、それにのった愛が懸まで巻き込んで話を進めてくれた。
放課後は天気予報通り生憎の雨模様だったが、ならば丁度いいと理由を増やして愛と共に駅の中で時間を潰す。
あまり気取られないように。その上で、懸がやりたい事も同時進行する。
愛と共に向かった先は彼女に任せた目的地。可愛らしい小物が沢山売っている店で、主なターゲットは女性客の……懸にとっては少し居心地の悪い場所。が、そんな外からの視線は意識して除外。外面を飾れば、きっと高校生カップルにでも見える事だろうと、それ以上深く考える事を投げ捨てた。
「こんな店あったんだな。縁がないから知らなかった……」
「本当? 常連だったりしない?」
「……誤解なら解いておきたいんだけど、そこまで仲良くなるほどの付き合いを俺がして来たと思う?」
「威張って言う事じゃないと思うけど」
呆れるような愛の声。けれどもどうにか噂の否定は出来たようで、殆ど信じていなかったらしい話が嘘だと分かって納得した様子だ。
言葉にした通り、今まで付き合ってきたのは事実だが、後に残る大きな贈り物をした記憶が余りない。基本はそれまでに別れてしまうのだ。
短いスパンで相手が代わってしまうから、当然誕生日を共にすると言う機会も減るわけで。必然贈り物をするチャンスもなくなってしまう。
そう言う意味ではこの前の愛とのデートはやはり特別だったかもしれない。あれで本当の恋人だったなら懸にとっても何かのきっかけにはなったのだろうか……。
「まぁいいや。……それで今日はプレゼントしてくれるんだよね?」
「もちろん。そこまで遠慮がないのも逆に不思議には思うけど……」
「友達に貰う贈り物に深い意味はないでしょ? 貰えるなら貰って嬉しいし、今貰う事にきっと意味もあると思うから」
一線を引いた愛の言葉に安心する。
今愛と付き合っていると言う事実も重なって、彼女は懸に友達以上を求めていない。そうでなくとも藤宮家のお嬢様として相手に懸を選ぶというのは経験をするにしても悪戯が過ぎると言う物だ。特別意識するような事でも起きない限り、懸としても今のままの距離感が過ごし易くてありがたい話だ。
そして言葉の端に、先に仄めかした未来。恐らく懸の性格を分かった上でのプレゼントの話。
愛と初めて学校以外であった日。金銭的な部分で少しだけ衝突があったが、あれは彼女の性格にも通ずる話だ。言ってしまえば何事に対しても平等と対等を求めようとする姿勢。八方美人、と言えば悪く聞こえてしまうかもしれないが、彼女のそれは真摯さの表れだ。貸し借りは出来るだけなし。助けられれば助け返す。だからこそ、今日の誕生日プレゼントだって貰うだけでは終わらないと。
そこまで長い付き合いを想定してくれているのは素直に嬉しい事だ。その期待には、同じく友人として応えるべきだろう。何より、彼女ほど言葉の外で理解し合える異性を懸は他に知らない。
「ってなわけで、これとこれ、どっちがいいと思う?」
「左かな」
「じゃあこっちを……」
「あぁごめん。俺から見てって話。だから右手の方」
「ややこしいよ、もうっ」
傍から見ればデートそのものかもしれないなどと過ぎった客観視を、けれど余計な事を言って困らせまいと飲み込んで彼女の提示した髪留めを選ぶ。
愛も長い髪の持ち主だ。校則ではその辺りは緩く厳しい決め事がないからか、普段の学校生活ではストレートに流している事が多い後ろ髪。時々体育終わりに解き忘れなのかポニーテールのまま授業を受けている事があって、男子の間では茶柱のように見られたらレア物の象徴として噂されているとか。髪型一つで一喜一憂とは男子高校生盛りだな。
恐らくそれほど頓着はないのだろう髪型。だがよく前髪はピンなどで留めているのを見かけるから、別に全く以って無関心と言うほどでもないのかもしれない。
「あー、でもこれだと学校に着けていくと注意されるかも……」
「なら普段使いでいいんじゃないか?」
「……長松君の前でだけ着けて欲しいって?」
「藤宮さんが着けたい、の間違いじゃないの?」
売り言葉に買い言葉。喧嘩とまではいかないが、からかうような言葉に声を返せば、くすりと笑う愛。
「流石は連戦連敗の王子様だね。一体その口で何人の女の子を騙してきたのかな?」
「冗談も通じない相手に言ったりはしない分別くらいはあるっての」
「…………あれ? 口説かれてる? 菊川先輩にたれ込んでいいよね、これ?」
「それだともれなく藤宮さんも巻き込まれるけどいいのか?」
「責められるのは長松君で、あたしは被害者だよ」
「被害者の前に今日の主賓だろ?」
これ以上は負け込む未来しか見えなかったために戦略的方向転換。そんな姑息な手段に気付いた様子の愛だったが、他愛ない雑談に答えなど求めていないのか見逃してくれた。負け以上に負けた気がして少し悔しい。いつか仕返しをしてやろう……。
そんな事を考えていると震えたスマホ。画面を見れば打ち合わせより少し早い時間ながらも準備完了の連絡が届いていた。
「じゃあお客様らしくおねだりしてもいい?」
「……それ素?」
「少し浮かれてるかもね」
軽く上目遣いにこちらを見つめる整った顔立ちに疑問を返しつつ選んだヘアピンを購入して渡す。笑顔で受け取った愛は、それから少し悩むような間を開けて鞄に入れた。
やるべき事も終えて次なる目的地に足を向けながら零す。
「別に直ぐ付けてもいいのに」
「彼女の嫉妬に巻き込まれたくないからね」
「俺はどうなってもいいのか……」
「冗談だったのに。そんなに先輩って嫉妬深いの?」
「さぁな。独占欲らしい物はあまり感じないけど」
それとは別に決めたら譲らない頑固さは一級品だ。その対象が懸にならない事を願うとしよう。
「それこそ藤宮さんも経験の一つに誰かと付き合ってみたら分かるんじゃない?」
「残念ながら浮気をするつもりはないよ」
「だからどうして相手が俺想定なんだよ……」
冗談が過ぎる友人だ。そうならないと分かっていてもひやりとする。肩を揺らす愛に勘弁してくれと笑みを零せば、楽しそうな彼女。
……懸の精神力が少し犠牲にはなったがお膳立ては十分か。さて、そろそろ本日のメインコンテンツの始まりだ。
時間稼ぎを終えて『Jardin de fleurs de le café』にやってくると、主賓をたてて扉を開けて中へ促す。愛が店内に入ると、出入り口の横に隠れていた心と依織がクラッカーを弾けさせて騒がしく彼女の誕生日パーティが始まった。落ち着いた雰囲気がいいと言ってたのに……。
店内は急いで作ったにしては意外と賑やかな仕上がりの飾りつけ。デリバリーのピザやフライドポテトなど、盛り上がる会には欠かせないような物から、主賓を標的にしかねないロシアンなルーレットの食べ物まで意外と多種多様。
そして当然、それ無しには始まらない愛の生誕を祝うホールケーキは、昼前に連絡をした時にこの店のマスターである涛矢が作ると言ってくれた、今回限りの特別メニュー。どうやら貸し切りに際してパフェなどに使う予定だった果物を余らせるのももったいないとの事でふんだんに飾ったそれは、洋菓子店に負けるとも劣らない一品としてテーブルの中央に鎮座する。
それから懸とは別口で用意してくれたプレゼント。流石に時間がなくて個別にとはいかなかったが、込められた想いは本物。
そんなもてなしに、外の雨模様でさえ跳ね除ける様なお嬢様の笑顔が晴れて、贅沢の限りを尽くして盛り上がる。
急な思いつきに手を貸してくれた全員に感謝を。何より愛とこうして仲良くなれた事に感謝を。
今はただ、小難しい事は忘れてたった一度の今を全力でお祝いする。
しばらくして尽きない話題と共に騒がしくも賑やかに繰り広げられる祝いの席の中心で笑う愛を少し外から休憩がてらに眺めていると、どうやらお手洗いに立っていたらしい愛が返り際に懸を見つけて傍までやってきた。
「どうかしたの?」
「いえ。心と依織のアクセル全開についていけなくなったので少しクールダウンです」
「貴方の幼馴染と友人でしょうが」
「せめて片方リセットさせて欲しいですよ。互いに別方向に向かう暴走車両を一度に制御出来る程の胆力は持ち合わせてないです」
「情けないわね。それでもわたしの恋人かしら?」
そこはイコールにならないだろう。それとも認めていいのだろうか? その場合、愛が二人分厄介と言う事になるのだが。
「そんな懸君にこれ以上背負わせるのも考え物なのだけれども……後で少しいいかしら?」
次いだ言葉は一つトーンの落ちた、真剣な色の声。中学の頃から聞いて来たその音に、事の重大さをある程度察する。
「……いいですよ。丁度俺の方も報告したい事があったので」
「変な偶然がないことを祈ってるわ……」
ある種答え合わせをして互いに覚悟への準備を進めていく。全く、退屈しないのは嬉しいが、あまり重い面倒事はやめて欲しいものだ。
「懸くーんっ」
「はいはい。それじゃあ先輩、また後で」
「えぇ」
心に呼ばれて輪に戻る。愛とのやり取りに気付いていたらしい愛が何やら言いたそうに視線を向けては来たが、この場には関係ないと白を切り通す。
ここに来る前に少しだけ恋愛観の談義もしたが、その気のない人物を振り回すほど懸だって非道ではない。何よりこれは懸と愛の問題。他人に迷惑をかけるわけにはいかないだろう。
「懸、歌えっ」
「何をだよ……」
依織の無茶振りに疲れたような笑み。そうして再び盛り上がっていく愛の遅い誕生日に、一時の平穏を求めて溺れていく。
宴も酣、後ろ髪を引かれつつ。空の機嫌がこれ以上傾いで足元も覚束無くなる前にと解散の運びになると、愛の両脇を抱えるように心と依織が一足先に店を出た。
懸は今回の発起人だと責任を背負って後片付けの手伝い。バイトとして店を知り尽くしている愛と一緒に、主に二人の暴走エンジンの走り去った後を中心に一つずつ手をつけていく。
途中、少し用があると店を開けたマスターの涛矢がいなくなると、手を動かしながらどちらからともなく口にする。
「それで、話ってなんですか?」
「学校の事よ。……きっと懸君も同じでしょう?」
「認めたくないですけどね」
出来る事なら知らなかった振りで通したいが、事が事だけにそうも言ってられない。腹を括って小さな息と共に音にする。
「少しやり過ぎましたかね……」
「そうかしら?」
「……先輩、無自覚だったんですか、あれ…………」
分かってやっているのだと思っていたのだが、どうやら天然だったらしい。相変わらず危なっかしい人だ。
愛との共通認識として、学校ではあまり目立った事はしないと決めていた。が、どうやらその程度に二人の間で差があったようなのだ。言ってしまえば愛の方からは度々懸を指名する事があったのだ。
別に付き合っているのだからそうする事はいいのだが…………問題はその頻度だ。
懸は経験則からなんとなくの距離感を演じていたが、愛は異性と付き合うのはこれが初めてだと言っていた。つまりそこに対しての経験値が不足していたのだ。
恐らく愛の考える目立った事と言うのは、有体に言えばキスのような男女の接触の事を指していたのだろう。だから動物園でのデートの最後に言った最低限……それ以下には登下校や昼食の同席に始まり、小さな私事が含まれていて。当然のようにそれへ懸を巻き込むと言った、キスに満たなければ隙あらばという言動が、高校生としての距離感を少し踏み越えてしまったのだ。
そしてそれを、懸は注意しなかった。と言うかし忘れていた。
……言い訳はやめよう。中学からの付き合いだ。懸にとっても愛の隣はやり易くて心地がいい。だから自分の箍がいつもより緩んでいる事に気がつかなかった。
抑止力もなく、それが普通だとどこかで思い込んでいた。愛も知らない経験を埋めようと、どこか乙女な思考回路で恋人らしさを少し過剰に演じようとしてしまった。愛は無意識だったに違いない。
が、その行いを他の生徒の目に……記憶に留めてしまった。それが積もり積もって今回へと繋がった、と言うのが懸の想像するところだ。
「まぁ俺にも甘えがあった事は事実ですから先輩を責めたりはしませんけど……どう考えてもやり過ぎました」
「どこがよ。恋人なら傍にいたいと思って行動するのは当たり前じゃないの?」
「節度があります。それから、これまでの俺と言う比較対象もあります。……先輩、思い出してください。俺が付き合ってきたこれまで、相手の女の子と、それこそ休み時間の度に会ってましたか? 他の用事を投げ出してまでそちらに注力してましたか?」
「………………………………」
今までは恋愛に意味を見出せないから、プラトニック以上に気持ちの篭らない事をしていた。一応特別扱いはしていたが、表面上それほど差はなかったはずだ。
が、昔からの付き合いと愛の言動がその軛に皹を入れてしまった。いつも以上を演じてしまった。
…………言い訳が許されるのならば、懸にとっても偽の恋人と言うのは初めての経験だ。だから距離感を間違ったのかも知れない。
「俺自身も、いつもより少し特別が過ぎたようには感じます。だからこの話はこれで終わりにしましょう。原因を掘り返したところで、今更過去は変わりません」
「…………そうね」
ようやく冷静さを取り戻したらしい愛が小さく息を吐く。改めてみれば、不自然以上に真実味があった。……だからこそ今回のこの現実を招いた。
「一応確認ですが先輩の方にもありましたか?」
「えぇ。今朝下駄箱に入ってたわ」
「内容は俺を中傷するような物ですか?」
「そうね。わたしの事は書かれていなかったわ」
「……なるほど。偶然にしては出来すぎてますね」
「出来すぎてる?」
「はい。俺の方も同じ内容なんです。だからこそ考えてみてください。同日に、互いを批判する内容の手紙が、互いに干渉する事なく入っていたんです。さすがに不自然が過ぎるでしょう」
「意図的だって言いたいの?」
「逆に、偶然同じような内容が、同じ日に、同じやり口で……なんて、そんな馬鹿げた話ありますか?」
「……………………」
あまり悪い方へと話を大きく広げたくはないが、どうにも一筋縄ではいかなさそうな問題だ。
「けど、そうなると問題は二つね。予想出来る今後の騒動と対応。それからその故意犯の正体」
「犯人探しするんですか?」
「しないでどうやって治めるのよ」
「見せしめは悪化を招くだけです。こちらにとっての害はまだないんですから、別の理由を振りかざしてなかった事にすればいいですよ。先輩、これは勝負じゃないんです」
恋愛に勝ちも負けもない。あるのは関係と気持ちだけだ。その片方が欠けている懸が尤もらしく語ったところで説得力はないのだけれども。だからこそ愚か者の振りをしたまま、馬鹿正直に提案出来る。何も感じない懸が今まで通りを貫けば、愛の安全は保障出来るのだ。
「……で? 貴方はそうやって尻拭いを引き受けようってこと?」
「男の責任、で許してください」
「先輩の面子はどうしてくれるのかしら?」
……しかし、だからこそ愛はそれを許容出来ないだろう。
恋愛が分からない事を利用してある種の平穏を手繰り寄せ、それが崩壊しそうになれば道化に全てを預けて自らは安全圏に。そんなの、責任感の強い彼女が認められるわけがない。
懸だからと信頼して偽の恋人役に選んでくれたのだ。それを一方的に投げ捨てるなんてこと、言動以上に純粋で誠実な彼女には耐えがたい事なのだろう。
「生憎と、中学の頃から刷り込んで可愛がって来た便利な後輩を手放すほど愛着が薄いわけじゃないの。ずっと傍で見て来たなら分かるでしょう? わたし物持ちだけはいいの」
「だったら加えて身持ちも固くしてくれると彼氏として嬉しい話なんですがね」
「……女の子に理想を求めすぎると痛い目を見るわよ?」
「そう言う話じゃないです」
体を盾にしないで欲しい。そうでなくとも出来る限り異性には優しくしようと思っているのに。
それともわざと挑発しているのだろうか? まさか本当に想いが芽生えたなんて、全てを台無しにするような事は言わないで欲しいものだ。
「そもそも互いに利があっての関係でしょう? それが満たされないのは約束に反するわ。だったらこれだって既に二人の問題。違う?」
論点を摩り替えられた。……けれど、それだけ必死に否定してまで守りたいものがあると言う事だろう。全く、頑固な王女様だ。
「それともお願いした方がいいかしら?」
「心の篭ってないお願いを人形にしてどうなるんですか。…………分かりました。お付き合いしますよ」
「もう付き合ってるものね」
満足そうに笑う愛に溜息を吐けば、それから止まっていた片付けの手を再び動かし始めながら話題を戻す。
「……それで、傾向と対策はなんですか? 出題者の意図は?」
「論理的に考えて感情論ね」
「心当たりでも?」
「いいえ。けれど実害をわたし達が出した覚えは無いもの。となれば必然何か気に食わない事があって、その思いが募った結果と考えるのが普通でしょう?」
「問題はその火種ですね。そこが分かれば何かしらの先手も取れると言うものです」
理詰めにロジックを解いた愛。彼女らしい思考回路に、長い付き合いでいつもの空気を感じながら思考を反転させる。
彼女が論理的に事を暴くなら、懸は感情的に。事恋愛と言う苦手教科ではあるが、別に思いから生じる言動までが分からないわけではない。
「まずもって向こうはわたし達を別れさせたい。ならば結果によって生じる彼らの利益はなに?」
「感情的な発露であれば感情的な収束です。心の平穏……特に関係性の解消によって得る事の出来るのは、他に見出す自己の欲求ですかね。付き合ってそれ以上の進展が望ましくない。または可能性の渇求」
「独占に対する反感と、権利の公平な再分配?」
「人間、自分本位な生き物ですからね。幾ら飾ったところでその衝動の発端は自らの願望に他なりませんから」
「つまり有体に言えば────嫉妬ね」
二人が付き合っているのを許容出来ない。もし別れるのならば自分にもチャンスがある。
その最初の種を蒔いたのは愛との紡いだ関係で、それは今更かたるべくもない失敗だ。だからそもそも論はもういい。
問題は、その思いが何かに束ねられて矛先が研がれたと言う事……。
「けどそれだとあまり長くは続かない気がするんですよね」
「どうして?」
「定まらないんですよ、仮想敵が。あわよくばと言う打算、かも知れないと言う仮説がその先を描き、今を確定させないんです。だからこちらが先に折れてしまえば的を失って空中分解する、とは思うんですが……」
「にしてはこれまでが静か過ぎたわね」
愛の言う通りなのだ。
もし一時的で不安定な協定の元に懸と愛の関係を壊そうとしているのであれば、どこからかその不協和音が聞こえてきていたはずだ。少なくともそこに関してのアンテナは二人してずっと張っていた。周りの反応こそがこの仮初の恋人関係の得るべき答えだったからだ。
加えて葉子と、恐らく心辺りは最初から愛との事を知っていたはずだ。何かあれば彼女達からそれとなく話があってもよかったはずだが、それもなかった。
だからこそ不自然なのだ。普通にしていれば聞こえてくる以上の声が聞こえてこなかった。その先に手紙が届いた事を考えるに、どうにも何か明確な軸が一本ある気がする。
「……わたし達が別れるってのがそれじゃないの?」
「そうなんですが、それ以外にも何か理由がある気がします……」
相手の明確な目的が分からない。だから何が起こるか想像がつかない。
ただ削れる想像としては、偽者の関係を暴こうとするようなそれではないと言う事だ。付き合っている事に関してはもはや全校生徒が知るところだが、偽者の関係だと気付けるような餌は蒔いていない。
蓮だけは一歩外の当事者として知っているが、恋人である夢を巻き込む事を避けて首を突っ込んでは来ないはずだ。
だからこそ、理由が弱いのだ。
「偽の恋人だと言う大義名分があれば彼らの言い分も理解出来無いものではないですけれどね。そうでないなら単純に人の恋路を複数人で邪魔しようとしてる事になります」
「ちょっと動機が過ぎてるわね」
「事によっては実力行使に、なんて想像も出来ますよ」
付き合っている男女を別れさせる。そこまで恋に貪欲ならば危ない話だ。そう考えれば、何かが起こる前に今の関係を解消した方が互いにいい気がする……。
「何にせよ、このまま手を拱いているとろくな事にはならなさそうね」
「とは言え別れれば元の木阿弥……。どうしますかねぇ」
どこに答えがあるのか分からない。何が起こるのか分からない。敵でさえない相手の姿も掴めない。けれど確かな現実が目の前に迫っている。
仮想敵が定まっていないのはこちらだ。
「因みに先輩は、何事もなければどんな風にけりを付けるつもりだったんですか?」
「恋愛慣れしてる懸君に頼んで恋人になって欲しいと頼んだけど、結局恋愛に興味が湧かなかったからその意識が変わるまで誰とも付き合うつもりはない……って感じかしらね?」
さらっと懸が利用されていたが、なんとも思わない。それでこそ懸が尊敬する愛だ。
「懸君こそわたしを隠れ蓑だけで終わらせるつもりはなかったんでしょう?」
「そうですね。その時になって理由でもつくろうかと思ってましたが、今の話を聞いて思いついたのは先輩にのっかる方法ですかね。先輩に気付かされた、とでもつけ加えて安全圏確保です」
最早恋愛感情を通り越した諦観。この関係が終わってもただの先輩後輩に戻れると確信しているからこそ、嘘と本心を混ぜて利用し返す。
そうすれば恋人関係がなくとも互いを気遣いながら今まで通りを紡げるはずだ。
「救えないわね…………。でもお陰で、一つ思いついた事がある」
「なんですか?」
今の会話の一体どこにそのきっかけがあったのか。こう言うときよく飛躍する彼女の思考は、けれど理解さえ出来れば納得のいく発言である事が多い。
考えて、思考を彼女に重ねる。
「悪者を作る必要は無いってことよ」
「……犯人探しはしないと?」
「逆。犯人を探して、けれど罰は与えない」
「…………あぁ、なるほど。加害者を作らないわけですか」
「これなら被害者も生まれない」
個人の問題だから対応が面倒なのだ。だから個人のまま、集団の問題にしてしまえばいい。その土台は、既に存在している。
「上手くうやむやにしながら煙に撒く。折りを見て話をつける」
「男女の問題ではなく学校の問題へ。解決策を生徒会へ、ですか」
もちろん実際に事を大きくするつもりはない。ただ生徒会と言う虎の威を利用して牽制し、個人の問題を解決しようと言うのだ。
「生徒会は生徒の為の組織よ。校内に悪者なんて作らせない」
「何よりの悪人は民選の椅子を乱用する先輩ですよ」
「共犯者に言われたところで痛くも痒くもないわね」
とりあえずの方針が見えて安堵したらしい愛がいつもの調子を取り戻し始める。
と、そうして彼女の描く流れに腰掛け始めたところで、裏の仕事を任されていた蓮が顔を覗かせる。懸達を一瞥した彼は、言うより早く片付けに手を貸しながら零す。
「ちょっと目を離した隙に何があったんだ?」
「生徒会の話をしてたのよ」
「会長の俺抜きで?」
「任期ももう少しだもの。そろそろ引継ぎを考え始める頃よ」
「そんなもんかねぇ」
どこか安心する幼馴染の呼吸で当然のように言い飾る愛と蓮。きっと取って付けた言い訳には気付いているのだろう彼は、けれど無関係なら面倒は背負いたくないと他人を貫いてくれた。
もちろん彼に迷惑を掛けるつもりはない。蓮を巻き込めば、次第によっては彼の自称許婚である夢にまで影響が及ぶ。さすがにそれは避けるべきだろう。
…………ん? あ、もしかしてそれが理由か?
「しかし、そう言う話だったら長松君には少し話があるんだが」
「あ、はい。なんですか?」
脳裏を掠めた想像を片隅に留めつつ、呼ばれた名前に反射的に答える。すると蓮は片付けの手を止めて制服のポケットに入れていたらしい銀色の鍵を取り出した。
「生徒会の裏の伝統なんだがな、これを────」
「残念ね。わたしが先に渡したわ」
「そうか……まぁ優秀な後輩だしな。考える事は同じかっ」
蓮の言葉を遮って愛が告げる。彼女の言う通り、後継者として愛に鍵を託された。明確に頷いてはいないが、別に断る理由はないからきっと立候補するのだろう。内申点のちょっとした足しにもなるだろうしな。
だが会長と副会長、二人揃っての指名とは嬉しい反面恐ろしい話だ。期待をするだけの二人は無責任でいいご身分なことだ。
「てな訳で送辞はよろしく頼む」
「まだまだ未来の話ですよ。それより先に掃除を終わらせましょう。……そう言うのじゃないです。言って気付きました、ごめんなさい」
「まだ何も言ってないじゃない」
「まだって……言うつもりではあったんですよね?」
「当たり前じゃない」
駄洒落に厳しい彼女だ。もうちょっと肩の緊張を解してくれればいいのに。……それとも後輩としての献身が足りなかっただろうか? だったらそんな未熟者に未来を委ねないで欲しい。
「ふむ、しかしそうなると俺は会計の子に渡す事になるのか……」
「何か問題でも?」
「問題と言うか何と言うか……人間誰しも悩みは抱えてるって事だ」
あまり気乗りしない様子で零す蓮。その声音にある程度の察しをつけながらその話題はスルー。最早生徒会内部で恋愛絡みの話題はタブーだ。こんなに様々な人間模様を描く生徒会なんて滝桜の歴代でも有数だろう。変な意味で記憶に残りそうだ。
もちろんその記憶には同時に楽しいこれまでも深く刻まれている。生徒会役員としては残り数ヶ月の付き合いだが、最後まで悔いのない付き合いを続けていきたいところだ。
……などと思いながら。三人で協力して片付けを終え、愛を送り届けて懸もようやく家路につく。流石に心が待っていると言う事もなく随分と久しぶりな気がする一人での帰路。雨も上がり微かな夕日の光と夜の帳の端が交じり合う色彩を眺めながら駅のホームで電車を待つ。
いつもとは違う時間の、人の数も違う景色に。別に並んで待つほどでもないかと考えながら回した視界。その中で目に付いた自販機に、何か珍しい商品でも入っていないだろうかと少しだけ期待しながら財布を鞄から取り出す。
すると丁度自販機の前についたところで目の前に人の気配。譲ろうと顔を上げて口を開きかけた次の瞬間、そこに立っていた顔に思わず喉の蓋を閉じてしまった。
軽く着崩した滝桜の女子制服。微かにのった化粧と共にこちらを見つめる強い視線。手入れされながらも軽く遊んだロングヘア。そんな、懸にとって距離感の測り辛い相手────桔梗原亜梨花が目の前にいた。
「……………………」
「……………………」
何を言うでもなく、逸らし損ねた視線で互いに睨み合う様に交わす無言。話題など遠に忘れたような汗の滲むような沈黙が嫌に重く流れる。
と、まるで空気でも読んだ様に駅のホームへ鳴り響いた電車の接近メロディ。スピーカによって空気を揺らすその音が、まるでフラッシュモブの合図だったように止まっていた気がする世界の流れを知覚させる。
気付けば先に自販機へと向いた亜梨花がレモンティーのペットボトルを買って踵を返していた。そんな彼女の後姿を少しだけ眺めた後、視界の奥からホームに入ってくる電車を見つけて、ミネラルウォーターを買い電車に乗り込む。
別に狙ったわけではないが、偶然亜梨花と同じ車両に入った事に気付いた。が、だからと言って別の車両に移る理由もなければ、変な誤解の種を生んでも仕方ないと。
何かを諦めて小さく息を吐き、彼女を見つめていても仕方ないと背中を向けて無心を貫く。
しばらくして震えたスマホ。何事かと画面を見れば、どうやら家に無事ついたらしい愛から誕生日会についてのお礼の言葉がSNSでとんできていた。
他愛ない雑談を重ねて電子上のやり取りをしていると話題がプレゼントの事へ。すると次いで愛から送られていたのは自撮りらしい画像ファイルで、懸がプレゼントした髪留めを身につけた姿だった。感想を求められる前にこちらからセンスを自画自賛すればスタンプが帰ってくる。
そう言えば愛が言っていたか。褒めるときは何がどう似合っているのか、相手の気持ちになって答える事、と。……しかし彼女がいる身で別の異性を特別扱い出来ないのは懸の性分。もし愛が女の子らしくそう言った答えを望んでいるのであったなら、彼女には悪いが期待に応えられそうにない。
画面越しだと相手の表情が見えない分意図が伝わりにくい。真顔で『飲み物吹いた』なんてコメントが残せるのだ。特に機会に疎い愛が相手だと誤解が生まれ易いかもしれない。……出来れば曲解や勘違いをしないで欲しいものだ。
そんな事を考えながら音のない言葉を交わして電車に揺られ。やがて州浜に着くのとほぼ同時、愛とのやり取りが一旦終わる。冗談交じりの会話は意味がなくて楽しい限りだ。
恋人でもないのにどこか分かりあって紡がれるそれは数少ない癒しの場。恋愛に発展しない付き合いはいいなぁ……。
だからこそ彼女を巻き込みたくはないのだと一線を引きつつ階段を下りて。改札を抜ければ目端に捉えていた亜梨花と逆の出口に向けて足を出す。
挨拶など存在しない。最早そこに互いがいる事さえ忘れそうなほどの無関心。けれどそれが彼女との関係だ。
人との輪にある程度恵まれている懸だって、話をしない相手くらいいる。そして直接話をしなくても、他人経由で噂などは流れ込んでくる。あの幼馴染にはプライバシーと言う物が殆どないからな。きっと懸の色々も勝手に流出している事だろう。知らぬが仏だ。
その歩く非公認広告塔の家を一瞥しつつ我が家へと戻ってくる。愛の誕生日パーティで遅くなった所為か、両親が既に帰っていて。靴を確認すると忘れないうちにと玄関の鍵を掛けてリビングへ。すると丁度夕食の皿を妹の紫が並べているところだった。
「あ、おかえりー。お腹はどう? 何か食べる?」
「いや、いい」
「わかった」
少し前まで騒いで飲み食いしていたのだ。茶碗一杯のご飯も食べきれないだろう。そう思って予めパーティで遅くなる旨と、夕食はいらない事を告げてはいたのだ。
それでも小腹が空いていないかと尋ねてくる紫は、気遣いの出来る可愛い家族だ。
料理もそれなりで言動も落ち着いている。加えて初めて再婚相手の連れ子として彼女に逢った時から思っていた事だが、見た目にも恵まれている。我が妹ながら中々のものだろう。
けれども彼氏はいないらしく、付き合うつもりもないのかこれまでそういった相手を作った事はないらしい。中学生で恋愛なんて、今のご時勢だと下手すると遅いなんて言われる盛りの一つ。その真っ只中の紫は、しかしこれまでも……そしてこれからも何も変わらないのだと告げるようにいつもの調子を崩さない。
「あぁそうだ。お兄ちゃん、後で数学教えて?」
「どこだ?」
「二次方程式、の応用問題」
「懐かしいな……。分かった。風呂入った後でな」
「うん」
数学や英語は積み重ねの教科だ。足し算が分からないと掛け算が分からないように、前の単元が理解出来ていないと問題が解けなくなる。だから授業に取り残されるとそこから先理解が追いつかなくなっていくのだ。
その点で言えば、平安時代が分からなくても戦国時代が理解出来る歴史や、知識よりも技術が問われる実技は点数が取り易い教科だろうか。
そこを分かっているのか、それとも単に理解出来ない事をなくそうとしているだけか。何にせよ勉強に意欲的なその姿勢を否定するものではないだろうと兄として頼み事を引き受ける。
現役高校生で出身校だ。少し教科書が変わったくらいで早々大きく問題が変わるわけじゃない。ここは兄としての点数稼ぎをさせてもらうとしよう。