第三輪
週明けの学校では愛の予想通り高嶺の花の片輪を手折った犯人探しが行われた。当然懸の元にも朝から噂の塊が押しかけ、根負けの体を保ってそれとなく白状しておいた。
昼休みにもなれば全校生徒の殆どの耳に入ったらしく、授業も手につかない様子で手紙が回されていた。
どうでもいいけれど、前に椿野先生が言っていた。先生が黒板に向かって板書をしている後ろで交わされるやり取り。あれのほとんどは空気と気配で分かるそうな。ベテランともなればどこの席で動いたかまで当てる人もいるらしく、ばれていないと思っているのは生徒達だけらしい。
と言う話を聞いてから、少しだけ噂に踊らされる彼らに同情した。内申、下がらないといいな。
放課後になると約束通り自習室に集まって勉強会が行われる。が、揃った面々はそれぞれに思う事があるらしく、配慮からかそちらの話題には殆ど触れてこなかった。分かっていてそうされると何だか変な気分だ。
中でも恋と葉子は言葉以上の視線で訴えていたが、気付かない振り。……この様子だと、懸か愛が言い出すまで我慢比べとなりそうな勢いだ。その内冷めそうな気もするけれど。
少し助けられたのは、慣れた様子の心と依織の存在だ。いつもの如く他人事に、それこそ娯楽のように生暖かい視線。妹の紫のように他人の恋愛を愉しんでいる節のある二人がいつもと変わらない様子は、ある種精神的支えだ。
そして恐らく。一番大人な対応だったのは愛。同情と共感と無関心と。いつ自分にも降りかかるか分からない立場から、友達として必要ならば力になると帰り道に言ってくれた。
藤宮の家を背負うお嬢様。振る舞いに対する周りの視線や、節度ある言動に一番気を使っている人物。あまり巻き込んで迷惑を掛けたくはないが、いざと言うときには最も頼れる相手なのは確かだ。頭の片隅には置いておくとしよう。
そんな風にそれぞれの思いが交錯する日々は、けれど噂止まりで。日が過ぎて中間考査も終わり金曜日にもなると、試験の圧迫感から開放された自由が付き合い始めた事実よりもその先を勘ぐる無粋な空気が視線へと乗るようになった。
とは言え、こちとら驕れるほどに告白されては振られ……勝負より前に負けを繰り返して来た不戦連敗の、恋愛など爪の先ほども自覚出来ない人形と。注目される事に慣れ、信じた物には嘘を吐かない有限実行の決意の塊である副会長だ。
宛ら舞台の上で踊り狂うように、日常の中で決められた台本をなぞり演じる事にかけては演劇部員にも引けを取らない阿吽の呼吸でいつも以上にいつも通りを紡ぎ出す。
そもそもの話……と言うかこれは懸の恋愛に対する価値観ではあるが、睦み合いはそれが許される空間でするべき物だ。例えばカップルだらけの店内で。例えば迷惑の掛からない隔離された空間で。
ともすれば一線さえ越え兼ねない状況下で秘密の逢引のように楽しむものだろう。そうでなくとも、見世物にするつもりは懸にはない。そしてどうやらそれは愛も同意見のようで。
ならば必然、校内で顔を合わせたところで浮ついた話など一切なく。色気など感じない事務的な話題を交わし、漫画のように空き教室や保健室で羽目を外すような事は起こりはしない。
と言うか、学年が違うから基本会わない。会う時は何か用事があるときだけだ。
そのいつも通りを演じる必要さえなく紡いでいれば、必然と興味関心は薄れて行く。だからこそ噂に尾ひれがつく事態にはなるのだろうけれども。
「ちょっとは落ち着いたかな?」
「学生の内の惚れた腫れたなんて一過性の話題だからな。問題はそれが誰かってだけで、何がまで察しがつくほど込み入った話にはならないだろ」
「……大人、って言うか、達観? 諦観?」
「生憎と自分の事さえ分からない道化だからな。それには答えられない」
「やっぱりそう言う事なんだ」
冗談のような自嘲。零れた音に、移動教室で隣を歩く愛が納得のような息を落とす。どうやら今のやり取りでこちらの目的に気がついたらしい。さすがと言うか、酷く冷静で事人間関係には頼り甲斐のあるお嬢様だ。その慧眼は時と場合によれば恐ろしくも感じることだろう。
「いいなぁ。もう少し自由だったらあたしもお願いしてたのに」
「勘弁してくれ。これでもそれほど余裕があるわけじゃないんだから」
「今まさに、だね」
試すように、からかうように。分かっていて笑う愛に小さく息を吐く。
そうでなくとも有名人。恋の話多き顔だけの操り人形に、校内を二分させるほどのお姫様が二人。片や仮の演技をしている最中に、片やクラスメイトと他愛ない雑談。
けれどもそれは、周りから見れば嫉妬と羨望と噂の火種。どこかで爆ぜれば誤解が広まり兼ねない危ない均衡の上の現状だ。お願いだから、そこに油を撒くような真似はしないで欲しいのに。
「……因みに訊くけど、その場合の理由はあの人と同じ?」
「同じ、だと思うよ。でも先輩ほどあたしは甘くないからね」
「どう転んだって俺にとっては地獄以外の何物でもないっての」
「ふふっ。長松君って遊び甲斐あるよねっ」
「本当、やめてくれ…………」
本心から呟けば、また一つ笑った愛。これ以上の板挟みなんて勘弁だ。
……しかし、これ以上と言うと一体どんな方法で周りとの距離を保つと言うのだろうか。きっと身に付けた大人の社交の手練手管で以って、懸の意思など尊重されないほどに酷い景色が待っているに違いない……。そう言う意味では愛の相手でまだよかったのだろうか。
「けどもう少し気を付けた方がいいかもね」
「……そうだな」
心配か。それとも忠告か。後者ならば大事になる前に解決しておきたい話だが。
「あ~あ。これで次の授業内容が観察日記だったらよかったのに」
「……本当に勘弁してくれ…………」
「ふふっ」
愛と一緒の生物の授業。演劇祭以降不必要な距離感はなくなって気楽な授業だ。ある種心の安らぎかもしれない。
そんな授業にリアルの都合を持ち出そうとする彼女に辟易すれば、目的地たる生物室がすぐそこだった。
愛と幾度か連絡を取り合って決めた日付。緊急会議をしたあの日から一週間後の日曜日。
彼女のバイトが休みのその日に、有限実行をモットーとする彼女と滝桜の駅前で落ち合う。
「ふむ、時間通りね。面白くない」
「開口一番がそれですか……」
変わらない先輩に会って早々溜息を吐けば、それからようやく目の前の彼女を今一度視界に収める。
全体的にスポーティなファッション。動き易そうなスニーカー。いつもの制服姿より数段脚の長く見える紺色のスラックスに、チェック柄のシャツの上へパーカーを羽織った姿。ニットキャップを被った頭からはいつもの妖艶ささえ漂わせる長い髪が綺麗に流れていた。
「今日は髪括ってないんですね」
「あれはバイトの時だけよ。一応ヘアゴムはもって来てるけれどね。それに今日は少し風が強いって予報で言ってたから。意外と暖かいものよ?」
前は重いだとか手入れが大変だとかぼやいていたが、こう言うときは天然の風除けになって便利な事だ。
「寒いのは苦手ですか?」
「強いて言えば、そうね。冬より夏派よ。……へんたい」
「今のどこにその要素があったんですか……」
それをミステリアスの元と言うならば責任転嫁にもほどがある。
「と言うかそれよりまず言う事があるんじゃなくて? デートよ?」
言って服装を示すように両手を軽く広げる愛。デートと言っても、演技の恋人がその具体性を探す為のもの。……が、きっとこれは俗に言う女の子の気持ち、と言うものなのだろうと納得しながら。
「……そうですね。まぁ、当たり前に似合ってますよ」
「そうじゃないし……当たり前って何?」
「だってきっと何着ても似合うじゃないですか、先輩は」
本当の恋人が熱に浮かされたならこんな事を言うのかもしれないと。どこかで読んだ記憶のある少女マンガの台詞を借りれば、愛は心底うんざりした様子で踵を返した。どうやら選択肢を間違ったらしい。
歩き出した愛に追いついて並び立てば、少し楽しそうに彼女が零す。
「…………いいわ。目的追加。懸君はもう少し女の子の扱い方を身につける事。その一、褒めるときは何がどう似合ってるのか、こっちの気持ちになって具体的に答えるっ」
「そんな特別実習、履修した覚えはありませんよ…………」
他人の気持ちを分かれなんてそんな無茶。一体どうやって性別の垣根を越えろと言うのだろうか。それは最早世界にとっての難題だ。
「で? どこに連れて行ってくれるのかしら?」
悩むのも愚かな気がする課題にどう取り組もうかと思案。その間にも二問目が懸を待たずに出題される。
今回、行き先は懸に一任されている。無粋に訊いた話ではどこでもいいから勝手に決めてと言う丸投げだったが、さっきの今でその言葉をまともに受け取るほど懸だって馬鹿ではない。
とは言えその質問を先にした時点で、評価は既にマイナスだろう。答えがよければようやく振り出しに戻せるだろうか。
さて、では一体どこがいいのかと言う話。逆に、何が駄目なのかと言う話。
「動物園です」
「理由は?」
「先輩、ペット飼ってませんよね?」
「……そこは合格ね」
ふぅ、一安心。今までの経験上……なんて答えたら思い切り蹴飛ばされていた事だろう。
比べる物ではない。仮とは言え、今付き合っているのは隣の彼女なのだ。それが答え。
もちろんそれだけではない。これは前に……懸が滝桜に入って彼女に再会して直ぐの頃に聞いた話。曰く、動物が好きらしいのだ。
基本的に種別は問わず、可能であればペットを買いたいくらいには好きらしい。前に部屋に行った時にそれ関連の本が棚に入っているのも見ている。しかし実際には異種族の家族はいなかった。
それらを総合して考えれば、少なくとも彼女の好みからは外れていないと言うのが選定基準だったが……どうやら向こうの用意していた答えにぴったりだったらしい。その事実は、少し驚いたような愛の表情を見れば分かる。これでも長年追い駆け続けた背中だ。ちょっとした矜持はある。
「あぁ……別に懸君がペットになってくれてもいいのよ?」
「彼氏じゃなくなるので遠慮しておきます」
誤解されそうな事を人の往来があるところでさも当然のように口にしないでください。肝が冷えた……。
「さて、それじゃあエスコートしてもらおうかしら?」
「随分楽しみみたいですね。少し意外でした」
「失礼ね。恋に興味ないとは言え女の子ですもの。理想や夢くらいはそれなりにあるわよ……」
少女的な胸の内を知られるのが恥ずかしいのか、尻すぼみになる声。恋愛に興味がないと言う割には、恋に恋するお年頃と言う事か。複雑な、矛盾ですらありそうなその思いに、けれど野暮な事は言うつもりはない。
「それに提案したのはわたしだし。折角の時間を無為に過ごすのは嫌だもの。だったら楽しむ方が幾らか有意義でしょう?」
「そうですね。では先輩も、何かあれば遠慮なく言ってくださいね。彼女の思いに答えるのは彼氏の務めですから」
「…………だったら早速お願いするわ。それ、やめてくれる?」
「はーい」
どうやら畏まった……と言うか飾った振る舞いはお気に召さなかったらしい。……いや、お気に召し過ぎて嫌だったらしい。証拠に、顔を背けた愛が深呼吸をしている。意外と乙女ですね、先輩。
体感、良い事と悪い事は表裏一体だ。その一線を踏み間違える事だけはしたく無いものだ。改めて肝に銘じておくとしよう。
枝垂駅から電車に乗って数駅。そこから出ているバスに揺られて辿り着いたのが、目的地である動物園だ。
サファリパークのような大きい施設ではないが、ふれあい広場や檻の中の様々な動物を見る事が出来る、一般的なもの。動物好きにとっては楽園の様な場所で、園によって様々な特色があり、二度と同じ景色を見られない生きる世界だ。
反面、苦手な人は駄目だろうし、においと言うちょっとしたハードルもある。が、基本的に誰もが喜ぶ公共施設の定番だ。
あと運動が出来る。自らの足で知らず歩けば、それもまた醍醐味だろう。
そんな様々な面を持った定番とも言うべき敷地内を、パンフレット兼園内マップ片手に二人で歩き回る。
メジャーなゾウやキリンと言った大型の哺乳類から鳥類、爬虫類、そして小動物まで。多種多様な動物を見て回る中で、隣の愛の更なる好みを知る。どうやら大型よりも小型……ペットになるような生物の方がより好きらしい。大きさ的にはサルやフクロウくらいの、約50センチほどがボーダーライン。それより小さければ、手の触れないところから見るという事もあって、ヘビ等の女性受けはあまりしない爬虫類系でも大丈夫のようだ。触るとなれば当然別問題だろうが。
ならばとマップを広げて場所を確認し、大体見て回った後にやってきたのはヒヨコやウサギなどを抱けるエリア。特に子連れが多い一角だが、既に彼女の興味の針はメーターを振りきれているようで。いつもの冷静な彼女からは考えられないほどに楽しそうな微笑みで大きなお友達が一人増えた。
慣れた様子でヒヨコを掬い上げ膝に乗せる愛。そんな彼女の後ろから、人に慣れているらしいウサギが彼女の長い髪先に興味を示す。
「先輩、髪気をつけてくださいね」
「え、あぁ……そうね。ありがとう」
指摘に、手早くヘアゴムでまとめてニットの中にしまい込む愛。そのちょっとした外見の変化と、最中に見せた迷いなく髪を掻き揚げる早業に少しだけ見蕩れながら。
じっと見ているのはさすがに遠慮して、ワンコインで買ってきたウサギ用の餌一袋から葉野菜を取り出す。と、そろそろ昼時と言う事もあってか、競うように数匹の長耳が懸の周りを囲んだ。
後で懸達も食事にするとしよう。
「ちょっと、それはずるいんじゃないの?」
「一体何に抗議してるんですか……。先輩もどうぞ」
「言っておくけどわたしは餌付けなんてされないから」
もうちょっと人間寄りの世界に帰ってきてください。男よりも獣な女の子ってどうなんですか、それ。
胸の内でぼやきつつ袋からニンジンを取り出した愛がウサギにあげようとする。が、それより早く懸の手元に集まっていた毛玉達は、一心不乱と言った様子で愛の差し出したニンジンに見向きもしない。
そうなれば当然、矛先は懸に向くわけで……。
「……それ、餌付けって言いませんか?」
「言わないわよっ」
じっとこちらを睨むような愛に冗談を零せば、少し拗ねたように別のウサギを見つけて至福の時間に浸り始める。どうでもいいですけれど、あまり体幹が溶けると服汚れますよ?
もし彼女に耳や尻尾があったなら、一体今どうなっている事だろうかと想像しながら少しだけ客観視。……彼女様にお願いです。他のお客様の迷惑になる行為はやめましょう。それから、自身が見世物になる行為もやめましょう。ここはサーカスではありません。
「せんぱーい……」
さて、どうやって人の世界に連れて帰ろうか。そんな事を思案しながら掛けた声。
丁度その時、広場の一角から子供達の大きな笑い声が響く。思わず視線を向ければ、そこには奈良公園の鹿の群れの如く、ヒヨコの大群に往生している男性の姿を見つける。どうやら誤って餌箱をひっくり返してしまったらしい。
慌てて踏鞴を踏む、踊るような様相になってしまった男性に向けて周りの子供達が声を上げる。傍には、口元を隠して上品に笑う彼女らしき女性の姿。どうやらカップルらしい。少し親近感。
と、そうして見た姿に、遅れて覚えがある事に気がつく。
逡巡。それから小さく息を吐いて半獣化している先輩の肩を叩く。
「先輩」
「なによぉ、もきゅもきゅしてて可愛いところなのに……」
確かにウサギの口元は可愛いとは思うけれども。個人的にはそれより更なる重要な話題。
少しだけ機嫌の傾いだ愛に謝りつつ指で示せば、そちらを見た彼女が現実を認識する間を開けて立ち上がる。
「どうしますか?」
「邪魔をするのは無粋でしょう?」
問いかけには良識的な返答。ならば彼女の意見に従うとしよう。
そう考えてまだこちらに気付いていないのだろう二人に譲ろうと足を出す。それとほぼ同時、向こうが周りの子供から頭一つ抜けた影に意識が向いたらしく、気遣いが無駄に終わった。
「あっ、ととぉ! ゆ、夢っ!」
「はいはい……」
夢。そう呼ばれた女性が、くすりと笑って男性の傍を離れてこちらまでやってくる。近くに来て気付いた。左の口元に小さなホクロ……いわゆる艶ボクロと言う、色香を匂わせる特徴だ。歩く仕草からしても育ちのよさそうな女性。女性らしい女性、と言う言葉がよく似合う人物だ。
と、そんな事を考えていると足を止めた彼女は会釈を一つ。次いで懸の隣にいた愛に向けて声を掛けた。
「久しぶりだね、愛ちゃん」
「えぇ、元気かしら、夢」
「うん。それとごめんね。ちょっとだけいいかな?」
凛とした愛とは対象的な、柔らかく包み込むような優しい声の女性。そんな彼女と愛が言葉を交わして、こちらに視線を向けて来る。
まだ上手く事態が飲み込めていないが……ならばその説明も彼に求めてみるとしようか。
「構いませんよ。丁度昼ですし」
「決まりね」
「ありがとうっ。直ぐに連れてくるから待ってて」
そう言い残して踵を返した女性が、今だ雛の檻に捕らわれている男性の方へと向かう。その背中と、彼女の向かう先にいる彼の姿を見つめながら、ようやく見つけた答えのようなものの確認を零す。
「……もしかして知ってましたか?」
「別に話にするほどでもなかったでしょう? わたし達にはほとんど関係のない事だもの」
あっけらかんとした愛の言葉に、彼女らしい事だと納得して。
触れ合い広場を出ると遅れてやってきた先ほどの二人と共に、確認していたフードコートへと腰を下して休憩がてらに顔を突き合わせる。
目の前には男性…………懸のよく知る、柏木蓮の顔。
「紹介するよ。俺の恋人の、風輳夢だ」
「はじめまして。蓮君の許婚ですっ」
短い言葉に秘められた情報の奔流。一体どこから紐解こうかと考えていると、隣の愛が口を開いた。
「つけて来たんじゃないでしょうね?」
「まさかっ。偶然だよ」
「知ってたら多分外しましたからね」
重なる言葉に情報。その流れに一人取り残された懸が、やがてどうにか取っ掛かりを見つけて音にする。
「会長、恋人いたんですか」
「あぁ」
「だったら早く言ってくださいよ。どれだけ俺が悩んだと思ってるんですか……」
「そこに怒られても…………。と言うか菊川君から聞いてるものとばかり」
「秘密主義の先輩が固い口を開くわけ無いじゃないですか」
「ちょっと、どさくさに紛れて彼女のこと非難しないでくれるかしら?」
一気にずれた話題。風呂敷を広げたように転がり重なった音に、一人外から傍観していた夢がころころと鈴の音のような笑い声を零した。
視線を向ければ、にこりと微笑んだ夢が告ぐ。
「面倒な子だと思うけど、愛ちゃんの事よろしくね?」
「ちょっと、夢っ」
「えぇー? だって折角出来た恋人さんでしょ?」
「それは…………!」
否定しようとしたらしい愛。が、既のところでそれを引っ込めた愛が、蓮に睨むような視線を向ける。
「それこそ言うべき事じゃないし、幾ら菊川君でも夢を巻き込んだら俺だって怒るからね?」
「はぁぁ…………分かった」
秘密はあって然るべき。それに、蓮の言う通り無関係な人をこちらの問題に巻き込むわけにはいかないのも事実だ。
「変わらないね、愛ちゃんは」
「夢こそ。よくこんなのと長々と付き合いきれるもんだわ」
「それが人を好きになるって事だよ、愛ちゃんっ」
微笑みを浮かべた夢。そんな彼女に苦手意識……とまではいかないが、いつもの鋭さが発揮されない愛を見て珍しく思う。彼女がここまで振り回されているのは初めて見たかもしれない。
「ってなわけで……改めまして風輳夢です。よろしくね」
「長松懸です」
差し出された手を取れば、彼女は続けて自己紹介をしてくれた。
「えっと、蓮君の許婚でね。その縁で愛ちゃんとは昔から仲がいいんだ。幼馴染ってことです」
「縁……?」
話の繋がりが分からなくて愛に視線を向ければ、夢の視線も集まる。その事にか顔を背けた愛に対して、夢が怒ったように口を開いた。
「秘密主義にもほどがあるよ、愛ちゃんっ!」
「こうでも無ければ話す必要なんて感じないじゃない」
「バイトの事を考えれば機会はあったんじゃないかな?」
「柏木君は黙ってて」
「えぇぇ……」
追撃には逆ギレ、のようななにか。それから愛は、諦めたように答える。
「……わたしと会長の父親が幼馴染なのよ」
「あぁ、なるほど」
「その縁で菊川君のバイト先の面倒を家の父親が買って出てね」
「だから黙っててって……あぁ、もうっ」
まぁ分からないではない。バイトの事と言えば、彼女が秘密にする筆頭だ。加えて父親同士が昔からの付き合いだと知られれば、学校でも今以上の噂の種になってしまう。だから秘密にしていたのだろう。
「蓮君の家が近所で、両親共働きの私がよく預けられてて。それで小さい頃は一緒に遊んだんだ」
「許婚ってのは?」
「それは夢が勝手に言ってるだけだ」
「親は公認だよ? 蓮君も大概恥ずかしがり屋さんだからねぇ」
なんだか愛と蓮がいいように振り回されている気がする。おっとりしているように感じるのに、恐るべき人物だ……。
「ちょっと詳しく話をするとね、」
「夢、言わなくていいからな?」
「いいわよ、夢。この際だから言ってやんなさい」
「ちょっ、愛ちゃん……!」
愛ちゃん。焦ったようにそう呼んだのは蓮で、どうやら学校では他人を演じるために呼び方を飾っていたらしい。いつもは菊川君、だったはずだ。
恐らく動揺による会長の素の部分だろう。今日だけで随分と珍しい事に出会えた気がするのに、まだ何かあるらしいと。
既に抑えきれない興味を視線に宿せば、肩を揺らした夢が話を次ぐ。
「昔三人で遊んでるときにね、涛矢さん……って言っても分からないかな?」
「会長のお父さんですよね?」
「うん。その目の前で、子供ながらの将来の話になってね。高校生にもなって自分で言うのは少し恥ずかしいんだけれど……蓮君のお嫁さんになるって言ったんだよね」
「もちろんわたしは丁重にお断りさせていただいたけれどもね」
……すみません、先輩。そっちまで聞いてる余裕無いです。
「そしたら涛矢さんが、だったら蓮君の隣を予約しておいてくれるって。きっと涛矢さんも冗談で、私も子供としての感情をごちゃ混ぜにしてたんだと思うんだけどね。でも、嬉しかったのも本当で」
「それで許婚ってことですか」
「夢ー、そろそろやめてくれないと俺が死ぬんだがぁ……」
「気にしないで続けなさい、夢」
隣で仕返しとばかりに楽しそうな愛と、机に突っ伏した蓮の姿。本当、仲いいですね。
「で、中学に入ってから蓮君が女の子にモテるようになって。そんな姿見てたら自分の気持ちにも気付いてね。勇気を出して告白したらその……両想い、だったらしくって……」
「と言う事はそれからずっとですか?」
「うん。もう四年? 五年になるかな? 高校は私が女子高に入ったから別になっちゃったけど、私の自慢の彼氏さんですよっ」
「…………何で最後まで話すんだよぉ……」
ぐったりと芯が抜けたような蓮の姿。学校ではいつも生徒の長として立派な姿をしている、そんな彼の、彼のファンには見せられない醜態に渇いた笑い声が漏れた。
その向かいで、愛は今日一番の様子で楽しそうに頬杖を突いている。熱烈な視線を注がれている蓮に……彼氏として少し負けた気がするのはさてどうしてくれようか?
「そんなこんなが私と蓮君の事で、愛ちゃんは幼馴染としてよく学校での事をリークしてくれてるんだ」
「は……? ちょっと待て夢、それ俺聞いて無いぞっ?」
「だって今初めて言ったからねぇ」
「なぁっ!? ……って、愛ちゃんも同罪だからなっ?」
「わたし、秘密主義の女ですから」
愛と夢。二人に翻弄されて、人間が崩折れる瞬間を見てしまう。酷い精神攻撃だ……。
「なるほど……。いや、少し不思議だったんですよね。会長だってモテるのに、そう言えば恋人の話を聞かないなぁと」
「……こんな彼女がいて浮気なんて出来ないだろぉ?」
「こんなってどういう事かな、蓮君?」
「あぁそうそう。この前の演劇祭でね────」
「待っ……! それはさすがにやめてくれっ!」
「…………いいわよ。わたしは、言わない」
「だってー。よかったね、蓮君っ」
「……お疲れ様です、会長」
「うへぇ…………」
とどめになったらしい秘密の暴露寸前で意気消沈した蓮。きっとこの後尋問されるのだろう彼を同じ男として同情しつつ、次いで向いた夢の興味は懸に向けて。
「それで、長松君は?」
「懸でいいですよ」
「だったら私も夢でいいよ。それで、懸君は愛ちゃんの彼女……じゃなかった、彼氏でいいんだよね?」
怖い間違いをしないでください。
「はい。一応は」
「どっちからっ? どっちから告白したのっ?」
随分とぐいぐい迫る夢。この火の点き方はどこか心を思わせる。彼女を上品にしたのが夢、と言う感じだ。
しかし、さてどう答えようかと。思い返して見れば、告白らしい告白は愛との間に交わしていない。全て演技の、嘘ありきと言う話だ。だから明確な答えなどないのだが……ここは同じ嘘でも男らしくしておくべきだろう。それがきっと、彼氏の務めだ。
そう決めて答えようとした刹那、割って入ったのは愛の声だった。
「懸君、お腹が空いたわ」
「……そうですね。何か食べたい物はありますか?」
「任せるわ」
助け舟と撤退と。二つの意味での愛の提案に頷いて席を立てば、何を言うでもなく夢が続く。
「言ってもらえれば買ってきますよ?」
「ううん、いいよ。それに私がいると蓮君の身が持たなさそうだから」
「何か飲み物ー……」
「はぁい」
悪態一つ吐かず笑顔で答える夢に、尊敬するほどに出来た女性だと少しだけ羨みながら肩を並べて列に並ぶ。その間にも、興味関心の尽き無い話題が転がる。
初めて話をしてまだ少ししか経っていないというのに、彼女との距離感は心地いい。冗談が冗談として機能して。他人と言う距離のまま友人を兼ねられる。
気兼ねしない……あまり飾らないあり方が、様々な問題に囲まれた懸にとって癒しとも言うべきポジションに収まっている。
「風輳ってかわった苗字ですね」
「よく言われるよ。母方の家名でね。風車が奏でるって綺麗だよね」
「風車……クレマチスですか?」
「うわぁっ、初めてだよ! いきなりそれに気付いた人! 花とか詳しいのかなっ?」
「この前ちょっと調べ物をした時に偶然目にしたのを覚えてただけですけど」
クレマチス。日本名だと鉄線だったり風車と呼ばれる花で、あの本に書いてあった花言葉は確か『精神の美』や『旅人の喜び』だったか。風車のように大きな花弁をつける花で、丁度五月のこの時期が見頃を迎える品種だ。
「花って言うと懸君も松だよね。邪気を払うとか神様に縁のある木で、松竹梅の最上級。あとはぁ……男は松女は藤、とかかな?」
「あー、何か聞き覚えが……。諺でしたっけ?」
「うん。男の人は女の頼りになるって意味ですよっ」
藤。そう聞くと愛の事が脳裏を過ぎる。
そうしてふと考えてみると、懸の周りは花や樹木に溢れている。松、菊、藤、萩、梅、桔梗、榊、柏、空木、風車……あぁ、先生は椿か。蓮辺りは木蓮も兼ねていそうだ。
不思議な縁だ。また今度、改めて花言葉なども調べてみるとしようか。
「愛ちゃんは藤じゃないけど、ああ見えて危なっかしい所があるから、そこは彼氏君にお任せしようかなっ」
「……もし何かあったら相談してもいいですか?」
「その時はお互い様、ね?」
言いつつスマホを取り出す夢。愛に続いて懸までもを蓮に対するアンテナにしようと言う魂胆らしい。柔らかく女性らしい人かと思えば、中々どうして強かな根を張り巡らせる花だ。
これまでの事を思い返してみても特に恋愛方面には興味が強い様子。その点で考えれば、懸とは正反対の人物かもしれないと。
連絡先を交換すれば、それから並んでいた順番がやってきてとりあえず簡単に摘まめるものと飲み物を買って二人の所へと戻る。すると席では、どうにか復活したらしい蓮が愛と言葉で殴りあっていた。
「お待たせしました」
「あぁ、お帰りなさい」
「蓮君喧嘩ー? 女の子いじめちゃ駄目なんだよー?」
「違うって。そもそも吹っ掛けてきたのは愛ちゃんの方だから」
「責任転嫁よ。どう思う、懸君?」
「俺まで舞台に引っ張りあげないでください……」
仲裁役兼最終的な仮想敵になりそうだったのでどうにか断りながら。広げた食べ物を四人で摘まみながら他愛ない雑談を再び始める。
そうして客観視してみれば、この場では懸以外全員先輩なのだと遅ればせながら気付いた。
しかし愛は中学からの付き合いで気心が知れているし、蓮の飾らない剽軽さは傍にいて学年の隔たりなど感じさせない楽しさ。そして夢は持ち前の明るさと親しみ易さで既にこの空気を受け入れてくれていて。そんな中にいれば疎外感など覚えることはない。
もちろん、性格や体裁上敬語染みた言葉回しにはなるが、それで感じる距離は無い。
それに、個人的な話。懸は同年代より大人を相手にしている方が落ち着くのだ。自分を預けられる事、年上である安心感。荒事があまり好みではない事も相俟って、こういった空間は懸が懸らしくいられて心地よい。特に聡明であればなおよし。
葉子ほどに勉強の虫と言うわけではないが、年上から学ぶ事は沢山ある。人生の先達は……その振る舞いはいつだって立派な教科書だ。
そんな彼女達との楽しい時間を過ごして。腹ごしらえも終えれば息を吐いてこれからに話題が向く。
「二人はどうする? このまま別行動がいいか? それともWデートに変更するか?」
「俺は構いませんが、先輩はどうですかね?」
「その流れで拒否出来ると思ってるなら随分意地悪な事ね」
「決定だねっ。水棲動物の方はもう見に行った?」
「まだですね」
「じゃあそこ行きましょう!」
午後からの予定としてはまだ見て回ってないところをと考えていたが、夢の提案先が丁度それと合致したために乗っかる。
振る舞いこそお嬢様然とした、柔らかい印象を受ける夢だが、話してみると気さくで行動的。その活力は、一緒にいて楽しい賑やかさだ。
別に蓮との時間が退屈だったわけではないのだろうが、新たな出会いと偶然を楽しんでいるのは強く伝わってくる。その元気に溢れた姿は……こう言うと少し失礼かもしれないが、年上に思えないほどに溌剌としている。それもまた彼女のよさの一つだろう。
そんな事を考えながらの道中、話は互いの学校生活の事へ。中でも夢は会話が好きなのか、率先して自分の通う高校……女子高と言う懸にして見れば未知の空間の事を楽しそうに話してくれた。
女子同士だからこそ、と言うものから共学でもあまり変わらない部分まで。男子校として置き換えてみればある程度想像がつく話もあれば、かけ離れた価値観の世界も同居していて。ところによっては秘密の花園などと言われるその片鱗を感じながら楽しく話題を交換した。……依織辺りは思い切り食い尽きそうだったが、逆にいなくてよかったかもしれない。あれを男の代表として刷り込まれるのは遺憾な話だからな。
「あ、シロクマだ。ご飯中……ってあれ? 遅いんだね」
「人の昼時に合わせるとこう言う場面を見逃す事になるから、あえて時間をずらしてるんじゃないですかね」
「なるほどぉ」
動物園のホームページなどを見ればよく書いてあるタイムスケジュールでは、基本的に昼食時は外してある。見世物と言う意味では正しいのかも知れないが、動物の生活サイクルから考えればいい迷惑かもしれない。それとも動物達も管理された正しい生活リズムによる生活習慣病予防という健康志向なのだろうか? ……自己管理の出来ない人間より余程健康的かもしれない。
因みにシロクマは俗称。生物としての正式名称はホッキョクグマだ。加えて更なる雑学として、シロクマの体毛は夏になるとコケや藻が発生する事があるらしく、その姿からミドリグマとも呼ばれる事があるそうだ。
「幾らそう言う物とは言え、こんな温かい国で育てられて少しかわいそうね」
「まぁエゴだよなぁ。とは言えお陰で珍しい生物をこうして間近で見られるんだ。感謝しないとな」
風刺的な会話を後ろでする愛と蓮。そんな事言ったら普段懸達が食べている食事だって数多もの命の上に成り立っているのだ。考え出したらきりがないだろう。
とは言えそれに無神経になるのも何か違う気がするのも事実。日常的に感じている物を改めて見返せば、世界は随分歪に見える事だろう。その事を胸に留める……とまでは言わないが、するべき感謝はしっかりしておくべきか。手始めに、挨拶なんて簡単な部類だ。
「先輩、向こうにペンギンがいるそうですよ」
「……なんで動物園って哺乳類が多いのかしらね」
「ペンギンは鳥類の卵生ですよ。魚類は水族館に任せてるからじゃないですか?」
「ややこしい……統合すればいいのに」
元も子もない事を……。理論的なところは男性的で話し易くて結構ですが、もう少しロマンとかをください。疑心が過ぎたり現実的過ぎると鬱陶しがられますよ?
と言うか理系の先輩より俺の方が詳しいってどう言うことですか。先輩ちゃんと勉強してますか?
……しかしまぁ、ペンギンは確かに特別だ。動物園にも、水族館にもいる。あと飼育している種類が異常に多い。何でですか、飼育員さん。
益体もなく考えながら順路を進めば、やがてペンギン達の一角へとやってくる。流石は人気者。人の視線を集めていて、そのことに少しだけ考える。
多分だが、鳥なのに飛べなくて。鳥なのに泳げて。そして鳥なのにフォルムが人間ぽいからなのだろう。……なるほど。考えるほどに不思議な生物だな、ペンギン。
「ここの子達は散歩とかしたりしないのかな?」
「それはないみたいですけれど、代わりに餌をあげられる機会はあるみたいですよ」
それは昨日の夜インターネットで調べた時に流し見た情報。この動物園では数は限られるが、直接目の前で餌やりを楽しむ事が出来るらしい。
「ペンギンは、魚だったか?」
「そうですね。確か鰭が引っかからないように頭からあげるのが正しかった気がします」
「生魚かぁ、あんまり触りたくないかも……」
「その割には生きてる蛙触れるわよね?」
「え? 可愛くない?」
死んだ魚が駄目で生きている蛙がOKとは……料理はどうするのだろう?
夢の変わった部分を知りつつ、そうして動物園を堪能しながら。四人で他愛ない話を転がしながら園内を一巡して入退場ゲートまで戻ってくると、その足取りのまま土産屋に向かう。
売られているのは動物のぬいぐるみやキーホルダー。動物を模したクッキーや、日常でも使えそうな小物類。物にしては少し値が張るが、思い出の証と言うのならば買うのもいいかもしれない。
「へぇー、色々なグッズがあるわね。何か買う?」
「先輩は欲しい物ありますか? 記念にプレゼントしますよ」
どうでもいいが、グッツではなくグッズ。より言及すれば、表記的、発音的にはグッヅが正しい。ベッドとベット、バッグとバック。いわゆる静音化と呼ばれる日本人に多く見られる省略現象。
どちらか分からなくなったら、一度英単語に戻して考えればいいとこの前気付いた。goods、bed、bet、bag、back……。因みにgoodに複数形のsがついてグッヅだ。
「当たり障りないところだとキーホルダーかしら。バッジもいいわね」
バッジはbadge。愛は特別気にしている様子はないが、正しい言葉が身にしみているのだろう。ちょっと好感が持てる。
愛と並んで回転するラックに陳列された様々な動物のデフォルメを物色する。やがてしばらく悩んだ末に愛が呟く。
「水族館なら迷わずタツノオトシゴなのだけれども……」
「好きなんですか?」
「干支が辰だからその縁でね。懸君は一つ下だから……巳よね?」
「はい」
巳は蛇。死と再生、神の使い、医療の象徴だったりと、病や魂に関わるところで逸話が多い動物。
精神的トラウマから恋愛が分からない懸にしてみればいい皮肉にも聞こえる話だが、脱皮をするヘビのようにいつかはこの問題ともおさらば出来るのだと希望を抱きつつ。
頷けば愛はヘビのキーホルダーを取ってこちらに差し出す。受け取って、ならばと思考をフル回転。こじつけ甚だしい理由を揃えて、トカゲの物を返す。
「なんでよ……」
「西洋だとドラゴンと言うと竜……ワイバーンのような四肢を持つ姿を指すそうです。その姿が、羽を生やした蜥蜴に似ているからと、ドラゴンとの類似性が語られるらしいですよ」
「日本の干支に西洋絡めてどうするのよ。それに羽って……まさに蛇足ね」
「変に上手い事言わないでください……」
少し無理が過ぎたかと。的確な反論にどうにか声を零せば、しかし愛はどこか楽しそうに指先からキーホルダーを掻っ攫う。
「まぁでもありがたく貰っておくわ。御守り然り、こう言うのは自分で買うより贈られる方が意味があるものね」
信心深い事で。
しかしながら、干支と言うのであればもっと話を膨らませて雑学を披露できたかもしれないと失った機会と共に愛の背中を追いかける。
干支の順番の由来や、そこから生まれた言葉。各動物の関係性……。一つ参考を引っ張ってくれば、先輩が辰で後輩が巳と言うのは面白くも何だか悔しい気がする話だ。
などとどうでもいい事を考えつつ。記念を買って店内で別行動を取っていた蓮と夢の二人と出入り口で合流する。
「何か良いのあったか?」
「互いの干支に近い物を選びましたよ」
「なんだ。おそろいにしなかったのか……」
蓮に言われて遅まきながらに思い出す。そう言えばデートだった…………。
面子がいつも通り過ぎてすっかり抜け落ちてしまっていた。
「……別にいいわよ。これ以上目立って敵を増やしたら面倒だもの」
「プラトニックすぎるのもどうかと思うよ?」
「一途で重すぎるよりは余程ましよ」
隣で愛と夢が火花を散らす。個人的にブーメランな気がしますよ、先輩。
「……なに?」
「いえ、楽しんでもらえたのならここを選んでよかったと思いまして」
「確かに、いい息抜きにはなったな。ヒットポイントは減った気がするけど」
「日頃の行いの所為でしょう」
幼馴染らしく容赦のない言いように疲れたような笑みを浮かべる蓮。
そんな彼を夢がころころと笑って、そうして動物園の目の前で彼らと別行動を取る。どうやらこれから二人は別の予定があるらしい。それを聞いたのがつい先ほど。知っていれば邪魔をする事は避けたのに、優しい人たちだ。
尊敬するに足る先輩だと。彼らの背中を見送って隣に声を向ける。
「さて、俺達はどうしますか? 先輩が寄りたいところがあればお付き合いしますよ?」
「……想定以上に疲れたわ」
「では少し早いですが帰りますか」
「えぇ」
一つ落ちた声のトーン。休日の偶然の出会いに随分と体力を使ったらしい。その一因にはきっと、これが心の底から楽しめるデートではなかった事が関係しているのだろう。
「それで、距離感は掴めましたか?」
「何となくはね。そう言う意味だとあの二人がいたのは僥倖だったわ。気を張るのがこんなに疲れるとは思わなかったもの」
「そうですか? 要所要所では演技してるようには思えませんでしたが」
「懸君ほど無関心なら生き易かったのでしょうね。けれど生憎と、演技だとしても異性と付き合うなんてこれが初めてだもの。緊張くらい許しなさい」
「責めてるつもりはありませんよ」
顔を逸らして、少しだけ悔しそうに零す愛。そんなところで譲られても、恋愛の分からない懸にとっては実感のない勝利だ。……そもそも勝負か、これ?
「……全く、尊敬するわ」
「せめて褒める体裁くらいは整えてください」
皮肉に傷を抉られながら言葉を返せば、ようやく愛が心の底から笑った気がした。
「とりあえず最低限でいいわね?」
「はい、分かりました。心の平穏のために体が悲鳴を上げてては元も子もないですからね」
「はぁぁ……恋愛ってこんなに疲れるのね」
懸が何かを言えた義理ではないのだが、その誤解は彼女のいつかの未来の為に解いておきたい気がした懸だった。
どうやら言葉以上に疲労が溜まっていたらしい。電車に乗ると会話もそこそこに愛の意識が眠りの縁に落ちて舟を漕いだ。余り首を突っ込むと痛い目を見そうだからやめておくが、可能な限りは目を配っておくとしよう。
精神的ストレスに弱いらしい先輩を頭の片隅に留めつつしばらく電車に揺られて。滝桜まで戻ってくると愛を起こす。
少しだけ寝惚け眼で辺りを見渡した愛が、それから懸と視線を交わらせると珍しく頬を染めて慌てた。
凭れ掛かられるのも気を許されている証と思えば特別怒る事でもない。が、素を見せた事にか彼女自身は納得がいかない様子で。マンションまでは送ったが、ロビーで学校での再会を告げられてそのまま引き下がった。別に送り狼になる気もないしな。と言うか、なれない、が正しいかもしれない。
別に、愛に魅力がないわけではないのだ。魅力がなければ告白されて、悩んだ末にこんなところまで話は転がってこなかったはずだから。
問題は、懸の心の事。
懸は恋愛が分からない。実感が出来ない。その延長線上の話…………つまるところ男女の致すそれを欲求として覚えないのだ。
より正確に言えば、これまで付き合ってきたどんな相手にも、付き合う以上の事を意識した例はない。精々が手を繋ぐ止まり。
愛に噂を聞いた程度には浮名を流しているらしい懸だが、実のところキスさえまだの……それこそヘタレだ。
しかしながら、だからこそと思う事もある。もし懸が誰かに恋愛感情や、それ以上の男としての使命のような何かを望むような事があれば、きっとそれが実感出来る恋愛と言う物なのだろう。論理的に。はたまた感情的に。異性にときめいて、思いが昂ぶる事が出来るかどうかこそが、懸にとっての恋愛の境界線。我ながら面倒くさい事だとは思う。が、そんな納得が自分の中でもしっくり来ているのだ。だからそれがきっと判断基準。
……もちろんだが、同性愛でもなければ、生理的な性欲くらいはある。ただ、リアルに触れ合ってそれを感じられないと言うだけの事。二次元やら人ではない物に性的興奮を覚えた例もないので、そっち方面の潜在的欲求が燻っているわけでもないだろう。
逆に、そうだと分かっていればどれほど安心出来る事か……。
自分で自分が分からないと言うのは解決策さえも曖昧で、何に悩んでいるのかさえ不確定な自己の喪失に近いかも知れない。恋愛観やそれに連なる性的欲求以外は普通の男子高校生だ。歪が過ぎて諦めもつくかもしれない。
けれど、叶う事なら今以上に普通になりたい。そうすれば、誰かを愛すると言う免罪符で誰かを悲しませる後悔に苛まれなくても済むのだから。
はぁ…………早く俺を生んでくれた母親を探しに行って、しっかり話とけりをつけたいものだ。高校生と言う軛はなんと不便な事か。根が真面目で周囲の期待を裏切れないこの性格が恨めしい。普通なら誠実で美徳なのに、今はただこの身を縛る鎖にしか感じない。
「ただいまー」
「あぁ、おかえり、お兄ちゃん。デートどうだった?」
「…………だから何で分かるんだよ……」
「文句言うなら早く当ててよ、お兄ちゃん」
家に戻れば、今日は友達との約束がなかったのか家でのんびりしていたらしい妹の紫がお手洗いから丁度出てきたところだった。次いで容赦なくいつもの勘以上の何かが発動して懸の身の上を言い当ててくる。
今のところ分かっているのは、告白をされたとき、振られた時、デートに行く時にそれを指摘される。それ以外は分からないのか、それとも興味がないのか口出しをしてくる事はない。一体何を根拠にしているのだろうか。不思議を通り越して最早恐怖の域だ。
「土産にクッキー買ってきたが食うか?」
「うん。お兄ちゃん何飲む?」
「紫と同じので」
「おっけぃ」
と、そんな会話の端に気付いて反撃。
「紫、何かいい事でもあったのか?」
「ぅん? んー……まぁ、うん。けどお兄ちゃんには内緒っ」
「そうかい」
残念。……だが、推理は当たっていたようで何よりだ。
紫がこちらの身に起きた事を言い当てられるように、懸にだって似たような事が出来る。
特にそれは彼女の機嫌がいい時に限定される話だが、会話に『お兄ちゃん』が頻繁に登場するのだ。その兆候が見られたときは、何がしか彼女の気分が上向いた証拠。ゲームでレア物がゲットできたとか、テストの点数がよかったとか。些細ではあるが中学生らしい感情の上下は、家族として険悪な雰囲気に巻き込まれるよりは余程嬉しい話だ。
しかし、さて。今日は休日で友達と遊んでいたわけでもなさそうだ。となるとその上機嫌の種は一体なんだろうか?
考えつつ手を洗って買ってきた動物型のクッキーを出して、特に面白味もないテレビをBGM代わりにしながら休憩する。
「……リボンの長さっ!」
「残念」
「まぁた外れたぁ…………」
これは勝負。紫が言い出した事で、機嫌の良さを当てられた腹癒せに何故か始まった恒例行事だ。
回答権は一度に一回だけ。これまでにも服装やら足音やら根拠になりそうなものを挙げては来たが今の所は当たっていない。癖と言うのは自分で気付かないからこそ癖なのだ。
「むぅぅ……。で、お兄ちゃんは?」
「まだ思案中だ」
もちろん逆の事もしている。が、懸の場合は数打てば当たる散弾方式ではなく、情報収集からの狙撃一発勝負。普段の行いを省みて、何を根拠に紫が言い当てているのか。過去と言う客観視から予測を付けているのだ。試行回数か、統計学かと言う話。
その為必然、こちらの弾は少ない。それでも撃ち抜けたなら報酬も何もない勝負に勝てた喜びを得られるのだろう。
「と言うかお兄ちゃん弱いよね。あたしは機嫌がいいかどうかの一点集中。なのにお兄ちゃんは告白、振られる、デートの的が三つ。当たる確率はどう考えてもそっちの方が多いのに。今からでも遅くないから数撃てば?」
「それは負けた気がするから嫌だ。それに卑怯はしたくないからな」
「変なポリシーだねー……」
個人的な価値観。的を絞らずに引き金を引いて、当たったら勝ちと言うのは釈然としない。だからこれが理由だと決めた時は、どれの根拠だと指定をしっかり添えている。
つまりは、かも知れないと言う偶然に頼りたくないのだ。
「それにしたって外しすぎな気がするけど」
「うっせぇ。んなこと言ったらこんな不毛な勝負、する意味すらないだろうが」
「勝っても何もないしねぇ」
だったら一体何を求めてそんな事をしているのか。
それを問えば、答えはとても曖昧に楽しいから、なのだろう。そしてそれ以上に、必要だからだろう。
紫とは血が繋がっていない。家族なったのも途中から。仲良くし始めたのだって懸が中学一年生の、夏休み明けからだ。
そんな年にもなれば既に自分と言うものが出来上がっていて。他人は他人と言う認識が互いに芽生えていた。有体に言えば、嫌だったのだ。認められなかったのだ。同じ屋根の下で暮らしていても……心の底から、純粋に、兄妹だとは思えなかった。
だから二人で決めたのだ。他人なら他人で構わない。けれど家族らしくは居たいから。だったら互いを理解しようと。
何が好きで。何が嫌いで。何が出来て。何が出来なくて。より家族らしく。より兄妹らしく。血の繋がりなど程遠いほどに、仲のいい他人になりたくて。
そんな試行錯誤の結果生まれたのが、この勝負……のような何か。
お陰か、近所では仲のいい兄妹としてそれなりに有名で。家族の空間も安泰で。けれどもまだ満足出来ていないから、こうして互いを知り続けている。
間違いなく懸が知る中で一番理解の深い異性は紫だろう。
「あぁそうだ。夜あたしが作るけどお兄ちゃん何か食べたいのある?」
「何が出来る?」
「ハンバーグと、カレーはチキンと……鰆があったから塩か西京か、照りにしてもいいかもね」
「その中だと鰆だな。今日は和風な気分だ。どれにするかは紫に任せる」
「ん、りょーかい」
冷蔵庫の中身を脳内検索する紫。出てくるメニューの後半は、中学生女子が挙げるには中々にこなれた味。普段から料理をしていないと難しいラインナップだろう。
下手をすると切り身で出されたら魚の種類ですら分からない高校生が直ぐ隣に住んでいるかもしれないのに、なんともまぁ頼りになる妹様だ。
因みな話、何がいいと言われて何でもいいと答える事は極力控えている。基本は何か提案するか、今回みたいに作ってもらえるなら献立を提示してもらい、その中から選ぶ。何でもいいはその後の流れが不毛なやり取りだと気付いてから、何となくで続けていることだ。
その所為か、よく何かを相談される事が多い。訊かれたら答えるのは当然だが、あまり歩く辞書のような扱いを受けるのは答えられなかったときに期待を裏切るようで複雑なのだ。だから普段から色々なものに手を出しては雑食に知識を摘まんでいるのだろうけれども。
考えているとコップの中身が空になっていて。休憩から頭を切り替える。
「宿題終わらせてくる。何かあったら呼んでくれ」
「はーい。んじゃぁあたしも準備しようかなぁ~」
立った仕草に揺れた小さなツインテール。その事に今更ながらに気付きつつ部屋に向かう。
家で髪を括る事は殆どない紫。そんな彼女がツインテールにしていると言う事は、懸が出ている間に一人でどこか外に行っていたのだろう。機嫌が良かったのはそれに関係する事か……?
などとどうでもいい事を考えながら自室で勉強を始める。
さて、日常とは暇な用で忙しい。今日も今日とて高校生の本分を全うしますかな。