第二輪
演劇祭の打ち上げも終わり、再び勉学の日々が戻ってくる。すると次なる大きな行事は、五月末に行われる中間考査だ。
懸の通う私立滝桜高校はこの辺りでも有数の進学校。当然、その結果も未来の大学受験に大きな割合を占める学生の本分だ。文理選択を経てより具体的に将来の方向性が固まってくる二年生。そろそろ本格的に将来に向けての勉強も平行して行わなければならない時期だ。
しかしながら、懸には明確な目標と言う物が存在しない。いわゆる将来の夢。子供心に何度も移り変わった未来への想像は、けれども年を経る事に向けられる視点がより現実的になってしたい事よりも出来る事への重きが置かれるようになってしまった。
大言壮語を吐いて臆面なく未来を謳えていた幼い頃が羨ましい。高校生にして早くも小さな頃に戻りたいと願うほどに、捻くれた将来設計。
その一端を担っているのだろう問題は、きっと懸自身が抱える病に満たないそれだろう。
愛や恋が分からない。幼い頃に一度だけ受けた母親からの虐待。それまで優しかった彼女が豹変するように叩きつけた感情の嵐に、純真無垢で素直だった子供の懸は、精神に拭えない傷を負ってしまった。
もちろん、納得はしていて、彼女の事を責めていない。例え誰かが懸の所為ではないと言っても、懸自身はあれは己の責任だと感じているから、そこを曲げるつもりはない。
その過去に起因する心の問題と、首筋から肩に掛けて残る火傷の痕。知る者の少ないそのトラウマによって刻まれた価値観の変質は、今も尚懸を普通とは少し違う何かとして懸足らしめている証だ。
解決策も、何となく分かっている。ただそう出来る自由を、高校生の懸はまだ持ち合わせていない。
せめて大学生になって一人暮らしでも始めればその余裕も権利も自分の物として確信出来るのだろう。その時になって、ようやく己の過去と向き合って、この胸に蟠る違和感を取り払う事が出来るのだろうと、夢想している。
それまではきっと、今に精一杯を費やして生き続けるに違いない。己の問題を己で解決したその先に、本当にやりたい事を見つけても遅くはないと、納得しているから。
だから幾ら将来の為の試験と言っても、そこまで重要性の感じない一結果だ。が、それと周りの目は別で。少なくとも事情を知っている家族を安心させるためにはそれなりの結果を残す事を強いられている節がある。
今年17歳になると言う、大人と子供の中間のような存在。精神的な自由と社会的な不自由が同居する曖昧で不確かなその時期に、こんな病を抱えているなんて随分な話に物語かと客観視もしてしまうけれども。だとすればきっと驚天動地の青天の霹靂……なんて言う大作になる予感は、どうにもしない。
何せどう言い繕っても高校生だ。世界は広く、今が大切。流れる日常に特別性など感じない……くらいにはもうこの日々には慣れてしまった。
「んでね、どう見てもずれてるの……。ああ言うのってどうしたらいいと思う?」
「とりあえず自分に無関係なのはスルーだろ? その上で、こうして話のネタにするのが正しいだろうな」
「うわぁ……人の欠点笑うとか坂城君さいてー」
「いやいやっ、聞いてくれって話し始めたのは萩峰さんだろぉ?」
日差しに照らされた窓際で花咲くどうでもいい雑談。今日の議題は昨日と変わらず、何気ない日常の一コマ。今の話題は懸の幼馴染である心の提供した今朝の通学中の出来事だ。
冷やかされる事さえも既に通り越した達観で殆ど毎日一緒に登校している幼馴染。同じ学び舎に通う同級生として、当然ながら同じ景色を違う視点から眺めてきた身からすれば、それほど新鮮味のない話だ。
「責任問題だよっ。議長、これどっちが悪いのっ?」
「……喜々として他人の特徴を論った心被告、申し開きはありますか?」
「ちょっとっ! この議長買収されてるよぉ!」
「いや、貢物を提供したのは俺の方なんだが……」
つい先ほどコンビニおにぎりを貪っていた親友、依織に謙譲された唐揚げ。今や胃袋に収められたそれを考えれば、何よりの被害者は懸だ。後、流し聞きしてただけで勝手に議長にするな。
「いや、だって仕方ないじゃんっ。明らかにずれてる鬘が犯罪なんだよっ」
「事情があってつけてるんだからそれこそスルーしてやれよ」
「そりゃあそうだろうねっ。髪の毛盛ってるサラリーマンとか私も嫌だよっ」
いや、そう言う意味じゃなくて……。
そう言い掛けて、それから思考が随分傾いている事に気がついた。主に病の方面に。
「鬘だって思うからじゃないか? ウィッグじゃ駄目なのか?」
「……鬘とウィッグの違いって何?」
依織の視点に返った心のずれた言葉。こうして些細な出来事は直ぐに忘れられてしまうのだろうと思いつつ少しだけ考える。
確かに似たような言葉は幾つかある。バイキングとビュッフェとか。その全てを説明出来たなら、歩く辞書として重畳される事だろう。
「そこに手のひらサイズの辞書があるのが見えないのか?」
「だったら授業中に使うくらい許してくれればいいのにねー」
酷い暴論を聞いた。悲しきは彼女に使われるスマホに同情だな。
「長松君、お客さんだよ?」
と、そんなくだらない話をしていると声を掛けて来たのはクラス委員の藤宮愛。彼女の声に顔を上げて、それから示す方に視線を向けると、教室入り口に知った顔を見つけた。
視線が交わると、彼女……空木葉子は小さく頭を下げる。
次いで直ぐに最後の一口だった弁当を喉の奥にお茶と共に流し込むと、手早く片付けて廊下に出る。
「ごめんなさい、食事中でしたか?」
「いや、丁度食べ終えるところだったから。それで、どうしたの?」
教室の中から心と依織……そして愛までもがこちらに意識を向けている事に気がついて、扉を盾にするように位置取りを変える。すると同じように足を出した葉子。場所を変えるとか、そう言うつもりではなかったのだが……まぁいいか。このまま自販機で何か買ってくるとしよう。
そう考えつつ隣を歩く彼女に問う。
「その、改めてお礼がしたいなぁと、思って……」
「その事か……」
何となくそんな気がしていた話に、答えを探す。
話はどうやらGW明けに開催した演劇祭でのハプニングに連なる解決のお礼。あの時は偶然使えそうな物を知っていたから協力しただけで。別に貸しだとは1ミリも思っていないのだが、助けられた方からすればそのままにしておけない事だったらしい。
「と言うか俺だけ礼を受け取るってのも何かなぁ。あの背景自体は俺が作ったものじゃないし」
「そう言われるとわたしが困るんです。この感謝の気持ちはどこにぶつければいいんですか?」
「そのまま内に秘めておいてくれるのが正直なところありがたいんだけれど……」
飾るのも何か違う気がして、思った事をそのまま口にする。と、納得のいかない様子の彼女が視線だけを返してきた。
愛ほどではないが、彼女も大概頑固らしい。一度決めた事を成し遂げるまでずっと根に持っていそうだ。その真摯さは美徳かもしれないけれど。
やがてなんとなく向けていた足が目的地である校内に設置された自販機の元へとやってくる。どうやら先客はいないらしい。
直後、脳裏に閃いた形の提示。
「だったら一本奢ってくれる?」
「……………………分かりました」
随分な葛藤。断られたらどうしようかと少し考えていたが、苦し紛れの提案に何とか頷いてくれた彼女。
その安心が顔に出たのか、くすりと笑った彼女はそれから何がいいかと尋ねながら続ける。
「それじゃあついでに聞かせてください。今は誰かとお付き合いされてるんですか?」
「え…………?」
脈絡を放り投げたように跳んだ話題。その大きな流れの変化に、思わずついていけずに訊き返してしまう。
「あ、誤解しないでくださいね。別に告白がどうとかって話ではないですから。ただ今、ふと気になったので」
言葉の裏の本心は…………なさそうか。言葉の通りの意味なのだろう。
直ぐに脳裏を過ぎった共犯者……愛の顔に、それから小さく呼吸を整えて答える。
「……付き合ってるよ」
「…………そうですか」
それは、どう言う意味の納得だろうか。今は別として、まだ諦めていない事の強かな表明?
「そう言えばそろそろ中間ですね」
「……あぁ、そうだな」
考えていると再び逸れた話題。どこか掴みどころのない独特の空気に振り回される。
どうにか遅れてついていけば、それから前に心に聞いた葉子の話が蘇った。
「去年のこの時期は確か学年二位だったっけ?」
「……わたしが言われるまで忘れてた事を何で長松君が覚えてるんですか?」
「いや、変な意味で受け取らないでくれ。心が言ってた事を思い出しただけで……」
「幼馴染なんですっけ? 萩峰さん」
「何の因果かな」
受け取った缶を開けながら続ける。懸とは去年クラス委員としての繋がりだった葉子。その彼女が長を務める教室には、心が随分な世話になっていた。
その頃はよく幼馴染である事を理由に色々な噂が流れたが、恐らくそれが原因で彼女の記憶にも残っていたのだろう。心がある事ない事吹聴して回っていなければ、だが……。
「少し羨ましいです。わたし、高校に合わせてこっちに来たので、幼馴染どころか知った顔もいなかったんです」
「そうだったのか」
「はい。……そんな時に、同じ委員長として長松君に優しくされたんですよ?」
「それ俺が悪いのか? ……と言うか何かしたっけ?」
「本気で惚けてるんだとしたらそれこそ憧れますっ」
痛いところを優しく針で刺される。が、どうにも実感がない。
あの頃は高校入学と言う新しい環境に馴染もうと色々試しつつ、心の事もそれなりに気に掛けていた時期だ。変化する人間関係は彼女の導火線に火を灯し易いものだと、中学の時に学んだから。
多分その流れで、葉子経由の情報網を構築しようとでもしていたのだろう。それが違う方向に噛み合って今年の春に繋がった……と言うのが何とか納得出来る理由だ。
「ただ、意気地のなさと、後から知った競争率に色々拱いている内に時間が過ぎて。ようやくこの春に勇気を出したら情報収集不足で玉砕です。……多分初恋だったんですよ?」
「……もしかして空木さん愉しんでない?」
「さて、どうでしょうか?」
分が悪いどころではない話題に、冷や汗と共にどうにか返答を落とす。すると隣の彼女は意地悪に微笑んで見せた。
……体感だが、これは愛以上のサディスティックかもしれない。女の子怖い……。
楽しそうに笑って友達としての距離でからかってくる彼女に少しだけ安堵する。
恋愛についてはよく分からない。それは変えようのない事実だ。けれどその反面と言うか、相手が好意的に友人としての距離かどうかは、何となく肌で分かる……と言う特殊能力のようなものを持っている。
この感覚の源泉は二つ。一つは恋愛を分かろうと幼い頃からずっとし続けてきた人間観察の賜物。言わば空気を読む力だ。
現代社会において必須の、学校では明確には教えてくれない処世術。それを、どこか客観視したもう一人の自分が、相手が今何を望んでいるのか、と言うのを何となく分かるときがあるのだ。
もちろん便利なパッシブスキルではない。それこそ勘のような物で、頻度で言えば一月に一回あるかどうかだ。先月はなかった。
それからもう一つは……あまり声を大きくすると反感と嫉妬の種となる、経験則から来る物。
恋愛感情の自覚が出来ない。それが懸の抱える問題だが、他人から向けられる好意に関してはそれなりに敏感だ。
これもある種の勘ではあるが、時折女子生徒が向けてくる視線、言葉の端に友情の距離を越えたものが混ざっていると気付く時がある。この勘はほぼ100%で当たり、こちらが好意に気付いたと知った女の子は基本的に告白をしてくる。
……傍から聞けば間違いのない恋愛のスタートがきれる能力、と言う事になるのだろう。世のラブコメに苦悩している主人公たちにあれば、物語など始まらない特異体質だ。
問題は、その二つに由来する女子生徒の気持ちを、恋愛が分からない故に本当の意味で受け止められない懸がいる事。場合によっては、決めた矜持により相手の想いを断らなければならない事。
より個人的に精神的な負担となるのは後者だ。
だって分かってしまうのだ。隣の少女が、何を求めているのか。目の前の相手が、どれだけ本気で、勇気を出して、希望を抱いて、言葉にしているのか。その先に、何を望んでいるのか……。その理想を、夢を、分かっていながら、否定しないといけない事に────胸を痛めないわけないだろう。
幾ら恋愛が分からないと言ったところで懸は良心がない化け物ではないのだ。いや……それこそ、人一倍に理解してしまうほどに優しい、と言うのは前に心が励ましてくれたときに言ってくれた言葉だったか。
人間、落ち込んでいると気に掛けられた優しい言葉ほど胸の奥に深く突き刺さるものらしい。今までも、ふとした拍子に彼女の言葉が蘇った経験が何度もある。
そしてその度に、幼馴染に迷惑を掛けている事に自己嫌悪するのだ。彼女だって病を抱えているのに、と……。
「でも、まぁ、とりあえず今はいいかなって思ったんです。それにですよ」
「それに……?」
「わたしは告白しました。振られはしましたが、思いは伝えました。つまり長松君はわたしの気持ちを既に知っているわけです。その上で、もし恋人になるんだったら、今度は長松君から告白するのが筋だと思うのですよ。勘違いもないですからねっ」
彼女は、知らない。茶化すように、その可能性を仄めかす彼女に、謝りたくなる。
駄目なのだと。出来ないのだと。恋愛が分からないから……感情が自覚出来ないから。想いの篭らない告白を出来ないと。
あぁ、そうだ。今更に気がついた。今まで両手の指では数え切れないほど付き合って来たのに────俺は、俺から告白した事が一度もないのだ。
これは、彼女達にとって酷い侮辱かもしれない。
「……先に空木さんが心変わりしてるかも知れないのに?」
「その時は一番に長松君に報告して、経験則からアドバイスを貰うので大丈夫ですっ」
「…………空木さんが思うほど俺は大した男じゃないよ」
無邪気な冗談が……冗談の奥に微かに潜む本音が痛い。恋愛相談なんて、懸には最も縁遠い話なのに。
「もしそうだとしたら、参考に留めます」
「参考は、いいけど……絶対数の少ないその意見を男の総意にされるのは責任に押し潰される気がする」
「だったら話よりも分かり易い経験を教えてくれますか?」
「…………話が戻ってるよ、空木さん」
どうにか笑顔を浮かべて声を返せば、また一つくすりと笑った葉子。今の彼女に、言葉ほどの本気度は感じない。それこそ他人の恋バナを転がして遊ぶように、話題の種として割り切っているだけだ。……割り切って、そうして紡ぐ関係で、記憶と言う時間を刻んでいるだけ。
そんな事まで何となく分かってしまうから、彼女の強かさが少しだけ魅力に感じる。こうまで真っ直ぐに想われていて、けれどそれに返せない事にただただ自責が募るばかりだ。
「とは言え諦めるまでには少し時間が掛かりそうなので、それまでは少しご迷惑を掛けるかもしれませんが……」
「別に、それは空木さんの気持ちだから」
「ではお言葉に甘えますね」
諦める気が、あるのだろうか? そんな事を頭の片隅で考えながら、もう一つの話題へと逃げる。
「それで、空木さんはどうしたら納得できそう?」
「お礼のことですか?」
「あぁ」
「……わたしから何か言うと我が儘みたいで何か違うと思うんですが」
それは確かに。と言う事は懸が何かしら彼女を頼るのが道理に適っているのだろうか。しかし、彼女に頼る事となると……さて、どこまで許されたものか。
「………………あ」
「何か思いつきましたか?」
「勉強。中間に向けての特別指導をお願い、とかは?」
唐突に脳裏に過ぎった閃き。少し前に仄めかした会話が上手く繋がって、その未来を描き始める。
「別にいいですけれど……あんまり期待しないでくださいね?」
「学年二位に期待するなって方が難しいと思うけど」
「去年と今年を比べないでください」
「因みにこれまでの成績で一番よかったのは?」
「…………秘密ですっ」
うん、これは恐らく一位だな。後で心にでも確認してみるとしよう。
「これ以上その事に触れないのであれば引き受けますっ」
「分かった」
「試験期間中でいいですか?」
「そこは任せるよ」
「ふむ…………分かりました」
何か考え込むように視線を外した葉子。何か失言をしただろうか?
「でも一つ条件をお願いします」
「何?」
「二人きりは駄目です」
「ん、了解」
「人選は長松君にお任せします」
まぁ当然か。だからこそ、その慎重な線の引き方に好感が持てる。彼女に頼んで正解かもしれない。
「放課後からでいい?」
「はい。場所は……自習室にしますか?」
「迷惑になるようなら誰かの家とか図書館とかに随時変更ってことで」
「迷惑って……一体何人集めるつもりなんですか?」
とりあえず今のところ脳裏に浮かんでいるのは三人。そこより先は幾つかの壁があって、どうなるかはその時次第な感じだ。そしてそれ以上に、まず最初に話を通すべき相手がいるのだが。
「決まったら連絡する。っと、そう言えば連絡先……」
「これは随分と自然な流れですね。さすがは長松君ですっ」
「それ褒めてないよな」
連絡先の交換一つでそれだけ盛り上がれる彼女は紛れもなく恋する女の子だと笑いながら。連絡先を交換して登録すると、丁度昼休みの終わりを告げる放送が鳴り響いた。
「ではまた放課後に」
「あぁ」
小さく下げた頭に声を返して、それからスマホの画面を少しだけ見つめる。
あの桜の下から、気付けばこんなところまで関係と距離が紡がれてきたと。人生、いつ何がどう転ぶか分からない物だと思いつつ、まずは最初に仮初の彼女へと確認を飛ばしたのだった。
放課後になると同じクラスの愛と依織が懸の所までやってきた。
「依織はともかく、藤宮さんは部活いいの?」
「テスト期間だよ」
「あぁ、そっか……」
「普段部活に出てないからってそれすらも忘れたのか?」
「出てないのは依織も同じだろうが」
慣れた距離感で返せば肩を揺らした愛。そんな彼女達と共に並んで自習室へと歩き出す。
「他には誰に声を掛けたの?」
「先輩と、心。あと八重梅だな。想像だと心について桔梗原さんも来ると思う」
「ってことは八人? 結構な数だね」
「もちろん空木さんに押し付けるつもりはないよ。基本ただの勉強会だから」
彼女に教えてもらう約束はしているが、本気で先生のように仰ぐつもりはない。ただ友人として、分からないところを教え合うような場になればそれでいい。
「しっかし懸も大概性格が悪いな」
「……互いに納得してる話だ。それ以上言うと蹴り出すぞ?」
「そんなもんかねぇ」
「何の話?」
「懸がクズだって話」
依織の指摘に気付いていた側面を浮き彫りにされて否定する。確かに、彼から見ればその通りだろう。
葉子は懸に告白して振られた。そんな彼女と、それ以上の関係を紡ぐでもないのに友人として今回の勉強会を企画した。傍から見れば、葉子に居心地の悪い場を作り出した発起人が懸だと言う話だ。
しかし彼女はあの桜の木の下で友達である事を願ったし、これは演劇祭の一件の貸し借りを相殺する為の物。なにより互いに利のある提案で、承諾もしているのだ。
それを、他人の胸の内を掘り返そうなど無粋に極まる話。誰がどう思っていようと、表面上は取り繕っているのだ。関係のない立場で引っ掻き回してもらいたくない、と言うのは懸と葉子の共通意見だろう。
「ま、懸が女泣かせなのは今に始まった事じゃないしな」
「そうだな。付き合った事のない依織には分からない苦労だろうな」
「それは違うぞ? 今俺には立派な彼女がいるっ」
「え、嘘っ?」
「嘘だ。居るのは画面の奥の話だからな」
「えっ……と、…………え?」
少しだけ踏み込んだ、ともすれば険悪になりそうな話題が依織の冗談で掻き消える。しかし、愛が驚くくらいには依織の浮いた話は想像が出来なかったらしい。どう評価されてるか見つめ直すいい機会だろう、反省しろ。
そんな事を思いつつ向けた視線では、依織が申し訳なさそうな目をしていた。だったらそっちに話を広げるなよ。その場の勢いで口にするのはお前の悪い癖だぞ?
「深く考えないでいいよ。俺よりも常識外れなのが依織ってだけだから」
「女をとっかえひっかえしてる奴と比べられてもなぁ……」
「お前だって三ヶ月に一回彼女が変わるじゃねぇか」
「六ヶ月に一回の時だってあらぁ!」
その話は前に聞いた覚えがある。確かアニメの中には半年……二クールに渡って放送される作品もあるのだったか。
……何にせよ、相手を短いスパンで変えている事に関してはどんぐりの背比べだ。男としてはあまり褒められた事ではないだろう。
「……とりあえず、二人があたしと全く違う人種だって言うのは分かったよ」
「そこまで距離を取られると寂しいけれど、踏み込まないのは正解かもな。巻き込んで迷惑も掛けたくないし」
「他人に迷惑を掛けるのは何事に置いてもタブーだからな」
変なところで三者三様な着地をみせた会話。一体何の話をしているのだと呆れながら、やがて現地集合を告げていた自習室へと辿り着く。するとそこには随分と見慣れた顔ぶれが揃っていた。
と、その中に想像の外の人物がいる事に気付く。
「結局全員……って、会長も来たんですかっ?」
「いやぁ、暇だったからつい」
「わたしがうっかり零したのよ。でも教師役が一人増えるんだからいいわよね?」
「空木さんがいいなら……。で、空木さんは?」
「自習室の鍵を取りに言ってるわ。了承は貰ってるから大丈夫よ」
「そうですか」
心に亜梨花、恋。その隣に並んだ愛と共に、同じ三年生にして懸にとっては生徒会長としての意味合いが強い柏木蓮が顔を並べていた。
その理由を愛が説明してくれる。どうやら懸の仮初の彼女は変なところで抜けているらしい。
そんな事を考えていると丁度鍵を持った葉子が戻ってくる。
蓮が増えて全員で九人。その気になれば野球チームを作れる人数が集まって随分な大所帯になったものだと一人ごちる。
「……何だかすごい事になりましたね」
「賑やかさに負けずに勉強しないとなぁ」
葉子の声に、気合とも諦めとも思える音を零せば、彼女がくすりと笑いながら鍵を開けて。ぞろぞろと長机を二つ占拠して全員が腰を下す。
並びとしては懸の右隣に心。左隣に葉子。心の反対側に亜梨花。懸の向かいに愛。愛の右手側に蓮、左手側に愛。長机の天板の短い部分に恋と依織が向き合うように座って満足気だ。仲いいな、君たち。
「両手に華だね、懸君っ」
「分かってると思うがテスト勉強の為の集まりだからな? 遊ぶなよ?」
「ちぇっ」
心は一体何をするつもりで来たのやら。
しかしながら、彼女の言う通りに男女比率は一対三。少し男の肩身が狭い空間ではあるか。
「で、範囲どこだっけ」
「長松君得意な教科は?」
「現代文っ」
どうして心が答えるのか。そして何故当たっているのか。これがわからない。
「じゃあそこからですね」
「苦手な教科からじゃなくていいのか?」
「最初は好きな教科で勢いをつけましょう。頭をその気にさせて、そこから苦手に挑戦ですっ」
なるほど、彼女の勉強法はそう言う仕組みなのか。
「後最初は短く区切っていきましょう。段々と長くして、集中力が持続するようになれば勉強は恐れる物じゃありませんよっ」
「はえー……まさに先生ですね」
「…………今のは忘れてください……」
感心したような恋の声に我に返ったらしい葉子が、恥ずかしそうに顔を伏せる。委員長をしてはいるが、目立つ事は苦手なのだろう。演劇祭でも裏方を担当していたみたいだし、性格か。
しかし尊敬できるくらいの方が教えを乞う身としては安心するというもの。自信のない教鞭では意味がなくなってしまう。
「得意なところから、と言うと小説問題だろうな」
「ではそこから始めましょうか。担当は椿野先生ですよね?」
「そうだけど……そこまで関係するのか?」
「先生によって試験問題の傾向が少し変わりますからね。椿野先生だと……教科書より課題ノートからの方が出易いかなぁ…………。後は教科書の隅の注釈とか、授業中の入試向けの雑談とかも時々出た気がする。ぼぅっとしてるように見えるけれど意地悪なんだよねぇ、あの先生。でもその分受験向けの問題を作る先生ではあるから、そこは抑えたいよね」
滔々(とうとう)と語る葉子の声。その内容に、手元よりも彼女の方へと視線が吸い寄せられる。
今までそんなところまで考えてなかった。流石は学年首位を根城にする委員長だ。いい先生に指導を仰げたかもしれない。
しかし、ならば納得出来る事もある。小説読解の設問ではよく著者の気持ちを問われる事がある。試験全体で考えれば、それは出題者の意図……どこを重要視して解かせたいかを当てるような物だ。そう考えれば似たような思考で師んだ先生の傾向は何となく分かる気がする。
懸にとっては担任、担当教科に加えて文芸部顧問と関わりの深い先生だ。周りの生徒よりは彼の思考と嗜好をトレースし易い。嫌いな食べ物が根拠すら不安定な木耳だしな。
「……じゃあまずはこの問題からだね。5……いや、10分で一回区切るから解いて見て?」
「あぁ、分かった…………」
葉子に言われた問題を解きながら、少しだけ考える。彼ならば、問題をそのままは出さない。空欄の場所を変更するか、そもそも問題文に含まれる漢字の読み書きを設問にさえしてくるかもしれない。そちらならばそれなりに小説読解に並んで得意分野だ。加えてこの勉強法なら早々落とす事はあるまいと。
思いながら解けば、少しだけ出題者に自分が重なって何となく勘が働く。この問題は、出る気がする……。
そうして10分。それぞれに手元へと集中すれば、ペンを転がす音が聞こえて顔を上げる。
「くぅっ、30秒ずれた!」
「八重梅は一体何と戦ってるんだ……」
「体内時計ですっ」
どうやら勉強をしながらタイムキープをしていたらしい。それで集中出来るなら越した事はないのだが。
そんな恋を見て、それから今更ながらに気付いた指摘を一つ。
「と言うか八重梅、眼鏡なのか」
「はいっ。学校では基本コンタクトなんですけどね」
「そこまで悪かったか?」
「一年でギリギリ眼鏡圏まで落ちたんですよ。どうですかっ、似合いますか?」
「馬子にも衣装だな」
「孫……?」
高校一年生でその間違いは先輩としても恥ずかしい。
因みに馬子とは馬の子……ではなく、馬で荷物を運ぶ身分の低い者の事だ。アクセントは|馬(’)子。身なりなど頓着出来ないような者でも着飾る事でそれなりに見えることから、転じて服の方を褒め、着る者を詰る皮肉の意味でも使われる。
こういった諺や慣用句に関する問題も現代文の範疇。日本人として出来るだけ正しい言葉を使うためにも、国語……母国語はしっかりと学びたいものだと、恋の勘違いを見て改めて思う。
「……八重梅はもう少し本を読んだ方がいいと思うぞ」
「読んでますよ?」
それは恐らく、漫画とか雑誌とかそう言う意味だろう。俺が言ってるのは文庫だ。
まぁ青春盛りの女子高生に古典や純文学を読めと言うのも酷な話か。そんな絶滅危惧種、うちの文芸部にもいないかもしれない。
とは言え男の身で少女漫画を定期購読している懸が言えた物でもないか。
「ふふっ。でも、そう言う意味だと教科書って立派な短編集ですよね」
「んー、まぁ、確かに? けど教科書から原作を読みにいく人なんてそういないと思うけど」
「そうですか?」
少し意外そうに問うてくる葉子。その言葉の端に、本物の音を聞きながら戦慄する。
「……まさか空木さん…………」
「えっ! ちょっと待ってくださいっ。わたしが変なんですかっ? 非難されるとこですか!?」
「いや、非難とまでは言わないけど。もしこの流れで勉強が嫌いなんていったら少し軽蔑するかも」
「嫌い……とまでは言いませんよ。ただ、その……分からない事や中途半端が嫌なので。気付いたら色々な事に手を伸ばしてるだけです」
好きこそ物の上手なれ。とはまた少し違うのかもしれないが、確かに興味がなければ身にはならない話か。そう言う意味では、彼女は好奇心旺盛な知識欲の権化とも言うべき性格をしているのかもしれない。
「それに、好き嫌いせずに読んでみるのも面白いものですよ。授業では分からなかった事とか、授業で先生が仄めかした言葉の意味とか。……だから別に、特別な事じゃないと思います。全ての始まりは興味ですよ」
「……空木さん部活は?」
「家庭科部です」
「完璧かよっ」
あわよくば文芸部に勧誘を、と思っての質問。返った答えに、依織が意味の分からない感想を漏らしていた。何が完璧なんだよ。
「完璧なんて程遠いですよ。そこに関して言えば、藤宮さんとか八重梅さんはある種の憧れです」
「わたしですかっ?」
「……もしかして運動苦手?」
「恥ずかしながら……」
愛と恋。その二人で、学校の事で共通していると言えば運動神経の良さだろうか。
ソフトテニスとバドミントン。恋は中学時代に幾度も表彰された実力者で、滝桜にもスポ推で入ったその星だ。愛も去年は県大会ベスト8と言う成績を修めて、夏休み明けに全校生徒の前で表彰もされていた。天は二物を与える実例だ。
「特に球技が駄目で、体がついていかないんです」
「考えすぎで体が思う通りに動かないとか?」
「そんな感じです」
「なるほど。理詰めに考えてって事か」
蓮の声に頷く葉子。頭が良すぎるのも考え物かもしれない。
しかしながら彼女は文系。文学少女に理詰めとは面白い話だ。
「って、わたしの話はいいですよ。休憩も終わりですっ。次の問題にいきましょう」
もう少し雑談も含めて彼女の話が知りたかったが、まぁいい。また今度にするとしよう。
我に返って恥ずかしそうにしながら無理やり当初の目的を取り戻した葉子。そんな彼女に小さく笑いつつペンを取ったところで、机の下から小さな抗議があった。
何事かと顔を上げれば、肩肘を突いた愛がまるで嫉妬でもするかのようにじっとこちらを見つめていた。
……いや、うん。だから最初に先輩にこの勉強会の連絡をしたんじゃないですか。もちろん忘れてませんから。
同じく視線でそんな感じの無言を返せば、伝わったのかそうではないのか……小さな吐息の後に手元へと視線を落とした彼女。これは一つ何か講じた方がよさそうだな。
と、そうして現状を俯瞰した懸が気付く。恋と愛の視線。特に恋から感じる面倒そうな気配。彼女は変なところで鋭いからなぁ……。叶う事なら突っつかれて被害拡大しませんように。
そんな事を考えながら適度に休憩兼雑談を交えつつ最終下校の時間まで自習室に居座って。空木式効率的勉強法のいろはを頭の中に叩きこんだところで今日の勉強会は終了となった。
とは言っても帰り道は途中まで同じ。目立つ面子での集団下校は尽きない話題と共に紡がれてあちらこちらに飛び交う雑談。その楽しい時間が、駅を境に変化する。
滝桜市内に住むのは愛、愛、蓮の三人。彼女達は電車には乗らずに駅でのお別れ。次いで隣駅である茜ヶ丘市の福寿には恋と葉子の家があるらしい。そして最後、要達の町である州浜で駅の北側には依織と亜梨花。南側には懸と心と言う別離を経て、それぞれの家へと言うのが今回の面子の分布図だ。
個人的に気になるのは依織と亜梨花の二人。その他は顔見知りであったり、恋あたりは持ち前の性格で直ぐに距離を詰めて仲良くなりそうな物だ。が、あの二人は中学の時から一緒なのに二人でいるところを見た事がないほどに気配がない。
そもそも二次元に生きるオタクの依織と、三次元の象徴のような女子高生である亜梨花。あの二人の間に共通の話題があるのかと問われれば、助け舟を出したくなる気持ちが逸る。それくらいには全く以って想像出来ない組み合わせだ。
何かきっかけでもなければ、離れた距離と沈む夕日の寂しさに息苦しい下校時間が始まるのだろうと無粋な気遣いをする。
「なぁ心」
「なに?」
「お節介な話だとは分かってるが、桔梗原さんって……」
「私の大切な親友っ」
「…………そうか」
これ以上はやめておこう。当人がそれでいいのであれば外が口出しをする物でもない。
「まぁちょっと心配ではあるかな。いつも私の傍にいるから」
つい先ほど別れた二人。その背中を探すように足を止めたまま零す幼馴染。とは言え懸に何が出来るわけでもない。何かを出来るほど余裕があるわけでもない、が正しいか…………。
「でも大丈夫だよっ」
「親友なんて一生で一人出来れば十分だろうからな。俺の場合それが依織になるかもしれないってのが目下一番の悩みだが」
「そう? 楽しくていい人じゃないかな?」
「限度があるだろ。俺にとっては少し賑やか過ぎる」
「つまらないよりはよくない?」
それはそうかもしれないと。そう言う意味では煩いほどの親友に助けられている側面も確かに存在するかと。
あんなのでもいないよりはましかもしれないと納得しつつ、返した踵と共に話題を変える。
「そう言えば今日は大丈夫だったな。会長いたのに」
「私だってそこまで弱いわけじゃないよっ。それこそ二人きりで何か起こらない限り早々あの子に迷惑は掛からないからっ」
心の口から心の存在が出る度に少しだけ思う。一体いつ、どこにその鍵が落ちているのだろうかと。先など全く分からない、砂漠の中の一粒の砂金のような皆無にも等しい偶然。
決めた覚悟さえ曖昧になるほどに、未知の領域。
懸よりも、彼女の方が大変だと言うのに。それでも笑う幼馴染が、強く、痛々しく思える。
「会長も優しいからね。懸君より紳士的な感じもするよ?」
「んー……まぁ、そうかもな。だらしない俺よりも会長の方が余程しっかりしてるのは同意だ」
「何か変なものでも食べたの?」
失礼な幼馴染だ。懸だって素直なときくらいある。認められないのが恐ろしいくらいに正しい物は、いつだって存在するのだから。
「だとしたらきっと紫も今頃同じ症状が出てるだろうな」
「それはないよ。だって紫ちゃんしっかりしてるし」
「ほう? これまた斬新な喧嘩の売り方だな」
「なにおぅっ、やるかぁ? やってやろうかぁっ?」
言いつつステップを取ってシャドーボクシングをはじめる心。次の瞬間、後ろ向きに歩いていた彼女が不注意で電信柱に右の肘をぶつけて悶絶した。
「ぬぉぉぉおおおおおぉっ!?」
「何やってんだよ……」
「ふ、封印が解けそうなんだよ……!」
「頼むから心までそっちの世界の住人にならないでくれ」
「ひぃぃ……痺れるぅ……」
ファニーボーン。くだらない事をしている天罰だ。
お陰でくだらない彼女に悩みなどどうでもいいと言われた気がした。
「ったく、怪我してないか?」
「汚されはしてるかなっ」
「誰にだよ」
「言わせんなよ恥ずかしぃ……」
全く以って意味が分からない。変な時空で生きているのは親友だけで十分だ。
その週の土曜日。愛に呼び出されて彼女のバイト先である蓮の家……『Jardin de fleurs de le café』にやってきた。
どうやら昨日の放課後に告白されたらしく、週明けから色々予想されるとの事で作戦会議だそうだ。
恋愛絡みの作戦会議って何だと言う話なのだが、そんな事を考えてしまうのは彼女から来た文面の所為だろう。第一声が、『蜘蛛の巣に蝶が引っかかった』だった。一体何を楽しんでいるのだろうか、あの人は。
妹の紫もそうだが、恋路を娯楽にするのはどうかと思う。もっと健全な趣味を持ちましょう。
などとどうでもいい事を考えながら目的地の建物へと入店する。
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」
応対してくれたのは蓮。小さく回した視界で幾人かの客の姿を見つける。昼前だがどうやらこの時間は賑わっているらしい。邪魔をしないように待つとしよう。
窓際の席に腰掛けると、遅れて水を出してくれたのは愛。前にも見た、よく似合っている給仕服。長い髪をポニーテールに纏めていて、仕草に毛先が揺れていた。
「ごめんなさい。今少し忙しくて。落ち着いたらでいいかしら?」
「大丈夫ですよ。……オリジナルブレンドをお願いします」
「無理しなくてもいいのに」
「今はただ一杯だけのファンですから」
言葉は本心。前に飲んだコーヒーが、思いのほか口に合って美味しかったのだ。
以降演劇祭で忙しかったり、秘密にしているところに押しかけて困らせるのも遠慮をしたりで一月ほど来れていなかったのだが、時折コーヒーを飲んでは想像のそれと比べていたりもした。
しかしながら、思い出補正なのか何なのか、あの時に飲んだ一杯ほどに美味しいと感じる物には巡り会えず……。今日こうしてここに来られた事には、事実以上の楽しみを密かに見出していたのだ。
「じゃあまた後で」
「はい」
こんな事なら丁度読みかけの小説を持ってくればよかったと小さく後悔しながら。運ばれてきたカップに口をつけつつ、落ち着いた店の雰囲気に心を委ねてしばらく待つ。
他のお客は、休日な装いの女性客が一組と男女が一組。片方は高校……大学生くらいで、聞くとは無しに聞こえてきた話の内容から察するに遊びにいく待ち合わせ場所にここを選んだ、と言ったところ。もう片方は少なくとも成人はしているだろう二人。お洒落をして仲睦まじい所を見るに恋人のデートだろうか? シックなこの喫茶店はきっと悪くない方向に時間を盛り上げてくれる事だろう。
他愛ない日常。流れ行く風景は、どこかゆったりと有り触れていて。懸の知らないところで世界は勝手に動いているのだと何となく思い煩う。……これでこの後の予定が悪巧みのような話し合いでなければ、一人でもう一つ隣の町にでも足を伸ばしたくなる気分なのだが、そこはしばらくの我慢。また時間があるときに、気が向けば知らない世界を広げてみるのも面白いだろう。
……うん、相変わらず美味しい。流石に売ってたり、はしないか。あれば買ったのに。
さて、ならばどうしようかと。手元のアプリでだらだらとデイリーを回し終えて。丁度今日から開催のイベントは午後のアップデート待ち。何か暇潰しに最適なゲームはないだろうか?
そんな事を考えながら街行く流れをぼぅっと眺めていると、硝子越しに見覚えのあるシルエットが通り過ぎる。自然と追った視線で、遅れてそれが私服姿の恋だと言う事に気がついた。
と、いつの間にか動いていた指。駄目元で、気付いたら僥倖程度の思い付きからSNSを飛ばす。すると直ぐに確認したらしい彼女が早足に戻ってきて、交差点を見渡し始める。残念、唯一の死角……真後ろだ。
小さく笑って『かごめかごめ』と送る。手元の画面を見つめて、少し考えたらしい恋。それから至るや否や音を伴ってこちらへ振り返った彼女と視線が交わった。
「先輩っ。今行きますっ!」
硝子を挟んでそう告げた彼女が小走りに店内に入ってくる。そうして迷わず向かいに腰を下した犬のような後輩は、休日の偶然の出会いに随分と嬉しそうな表情をしていた。
「用事は良かったのか?」
「はい。バドのシューズを買いに行く途中だっただけですから」
「……どうでもいいけどさ、どうしてバッシュはバスケだけなんだろうな」
「どうでしてですかね?」
ふと脳裏を過ぎった疑問。バスケットシューズ。略すとバッシュと呼ばれると言うのは、どこかで聞きかじって知っていた話。けれど、だったらバドミントンシューズだってバッシュではなかろうかと。
まぁきっと、スポーツの花形と言われて大抵の場合先に浮かぶのがバスケの方だからなのだろう。経験者としてちょっと理不尽を感じる。それは恋も同じだったようで、くだらない疑問に小さな憤りを見せる彼女。
と、そうしてどうでもいい会話をしていると、傍に気配。見上げればじっとこちらを睨むような愛の顔があって思わず声を漏らした。
「あ…………」
「ご丁寧にサクラまで用意してくれるとはね」
「……ごめんなさい」
素直に謝る。目先の偶然に踊らされて現状を忘れていた。
「ったく……。お客様、ご注文は何に致しますか?」
「あ、えっと……先輩と同じ物を」
「畏まりました」
ちらりと机の上を見た恋が注文を通す。まだ文句を言いた気に一瞥を残した愛がカウンターへと向かえば、向かいの後輩が小声で尋ねてきた。
「もしかしてわたしお邪魔でしたか?」
「……いや。悪いのは俺だから。八重梅の分も出すよ」
「いえっ、それは大丈夫です。代わりに、また今度デートでもしてくださいっ」
「機会があればな」
「絶対ですからね?」
恥ずかしげもなくデートと言えるその性格はあまり真似出来ないものだろう。その素直さは、慕ってくれる愛嬌と相俟って彼女を彩る魅力の一つかもしれない。
屈託のない笑顔に、彼女も彼女でモテる理由を知りながらしばらく話をして。最後にデートを念押しした彼女は来た時よりも上機嫌に足取りを跳ねさせて店を後にした。
恋を見送り姿が見えなくなると、一呼吸。覚悟を決めて目の前を向けば、いつの間にかそこには給仕服姿のまま腰を下した愛が彼女宛らに嫉妬をするような表情で懸を射抜いていた。
「……別にいいのよ。付き合ってると言っても形だけの、心なんて伴ってない演技だもの。けれど演技だからこそ、対外的な振る舞いにこそ気を配る必要があるんじゃ無いかしら?」
「仰る通りです……。奢らせてください」
「及第点ね。今回は許してあげる。別の意味でわたしを不安にさせないで頂戴」
「はい」
消沈した心持ちで恋と同じ対応を取れば今回は彼女の慈悲に助けられる。……そう考えた直後、少しだけ気分を持ち直した彼女がカウンターからこちらを眺めていた蓮に告げる。
「フルーツパンケーキをお願い」
「あいよっ」
…………うん。奢るって言ったのは懸だ。男に二言は、ないっ……!
遠慮のない愛に、けれどそれで許してもらえるなら安いものかと納得を落として。ついでにもう一杯コーヒーをおかわりすれば、椅子の背もたれに体を預けた愛が切り出す。
どうでもいいが、先ほどまでいた二組のお客さんは懸が恋と話をしている間に店を出たらしい。だからホールの華が見知った顔ぶれの中でこんなにも寛いでいるのだ。次が来たらどう身が翻るのか少し興味がある……。
「連絡した通り告白されたわ。それで、彼氏がいるって断っておいた。週明けから絵踏が始まるわよ」
「恋愛って宗教なんですか?」
「似たようなものでしょう。で、処刑台に立つ筆頭候補として何か遺言はあるかしら?」
どちらかと言うと無実の罪……冤罪による魔女裁判の方が近いかもしれないなどと考えながら。少し過激な彼女らしく危なっかしい発言に、これ以上敵が増えない事を祈りつつ思考を巡らせる。
「遺言も何も、死ねない拷問に耐えるだけですよ」
「耐えられるの?」
「そもそもなんとも思いませんから」
「それはそれでわたしに魅力がないみたいで嫌だわね」
「俺にどうしろって言うんですか……」
どうでもいい確認。言葉にしなくとも、ほぼ二人の間で策……と言うか方針は決まっている。
必要最低限の噂を肯定して互いが互いを守る壁になる。これはそう言う関係だ。
「まぁ校則で明文化されてるわけではありませんから暗黙の了解ではありますが、演技とは言え影響力は十分ですよ」
「望むところじゃない」
生徒会役員同士の、名の知れた二人の交際。滝桜は、懸が肌で感じる限り強く恋愛を禁止しているわけではない。但し公序良俗……行き過ぎた不純交遊は風紀委員の目について、ともすれば呼び出しからの反省文や……停学処分なんて事もあり得る。
そう言う意味ではあまり大っぴらに規律を乱すような言動は控えるべきだろう。
問題は、その影響力の判断と拡大が、噂という娯楽によって懸と愛の手を離れ勝手に肥大化する事。
「相変わらずだね、菊川君は」
「会長はどう思いますか?」
愛の注文した皿を持ってきた蓮が、自分の一杯を用意しながら話に加わってくる。お願いですからその会計をこっちに押し付けないでくださいね。
「話を聞くに、去年の二の舞になる前に二人で手を打ったって所かな。ある種当事者の俺からすれば、もうちょっと早く知りたかったけれどね」
「杞憂で終わるならそれが一番だったので。何かあれば会長にも話をって決めてたんです」
「ふぅむ…………」
去年は愛と蓮の間にあるはずのない噂が立って校内が少し騒がしくなった。後から聞いた話では、内密に先生達の方から指導を受けたらしい。
ただ、そう言う類の噂に関してはそれなりに慣れっこだったらしい二人が冷静だったお陰で、大きな問題になる前に自然と沈静化はした話だ。
「で、その何かってのは?」
「……相手を悪く言うつもりはないのだけれど、少し誤解をさせたみたいでね。あの様子だと週明けには針の筵が予想出来たから、この場を設けたのよ」
「良くも悪くも先輩は正直ですからね。ただ多少言葉足らずな感は否めませんが」
これは愛の性格だが、彼女は自分の中で気持ちが決まっていると説明を怠る癖がある。簡単に言えば、多くを語らず誤解をさせ易いのだ。
自分が納得しているから。その思い込みが強いらしく、大事な事を言わないという事がよくある。
中学の頃から付き合ってきた懸や、その辺の察しがいい蓮相手にはあまり大きく起こらない誤解だが、だからこそその居心地のいい関係を他にも無自覚に求めてしまうのだろう。結果、言葉足らずが誤解や問題を引き起こす事がある。
「嫌ね……分かってても癖になってるんだから。直せるなら直したいわよ」
「あれだな。菊川君は教える側に向かないって事だ」
「ただカリスマはありますよ。背中で語る、的な」
「貶すか褒めるかどっちかにしなさいな」
そうして開き直れる自信が彼女の中にある事が、愛と言う人物を語る上で欠かせない要因なのは間違い無いだろう。
賢いが故に悩み、一人で抱え込んでしまう彼女。そんな危なっかしさを支える役に選んでもらえたのだと誇れば、色々な理由は抜きにしても取り返しのつかない失敗が起こる事だけは避けなければと決意を新たにする。
「それで、二人はどうするつもりなのかね?」
「さて、問題はそこですよ。俺としては先輩の名前を出してもいいんですがね」
「そりゃあ正常な心の分からない人形はそうでしょうよ。けれど隠せば、それはそれで不用意な興味関心を煽る事になる。この際だから訊くわ、柏木君は何かいい案あるかしら?」
「都合よく解決策が見つかってれば去年使ってるだろう?」
冷静な蓮の言葉に全員口を噤む。
現実は物語ほど清廉潔白ではない。都合だってよくない。物語に許されるお色気シーンの後には確かな溝と拭いきれない記憶が残る。特異特別は排斥すべき異常へと変わり、問題が片付いたって舞台の幕を下すように区切りはつかずその後も時は流れて行く。
思いはそれぞれに集団の無意識が世界を回す。世界は、フィクションほどに鮮烈ではない……清濁混淆のカオス宛らだ。
特に人間関係なんて、答えはあってないようなもので。幾ら文系の成績がよくても解決出来ない問題は数多に存在する。あるのはただ、折り合いと言う名の納得だけだ。
「……最終的な着地地点としては噂なり面倒の火種なりが消えたところで演技の終了ですね」
「ならいっそのこと振り切ってみる?」
覚悟を決めたような愛の声。彼女の悪い癖であり、そう簡単に真似出来ない決意の表れ。
「開き直るわけじゃないけれど、この際原因はどうしようもないわ。なら起きる事に対処するより、起こさない努力をするべきでしょう? 同じ過ちは繰り返すべきじゃない。懸君に頼んだのだって、その一つだもの」
「……つまり、他人が口出し出来ないくらいに触れて回ると?」
「前門の虎後門の狼。なればこそ、虎穴に入らずんば虎子を得ず。菊川君らしい意見だね」
迷ったときは前へ。確かにこれまでだってそれでどうにかなってきた。それにだ。帰還不能点は彼女の話に頷いた時に既に通り過ぎている。毒を食らわば皿まで、だ。
「もちろん問題を起こすような言動は駄目よ。ただ、隠さない事で武器になるなら、その方が精神的にも楽でしょう?」
「そこまで覚悟出来るなら、どうして俺を巻き込んだんですか……」
「恋愛なんて一人じゃ出来ないからよ」
当然だとばかりに腕を組んだ愛。こうなった彼女の意見を懸が覆せた例はない。
そんな懸の意見には蓮も同意のようで。交わした視線で振り回される身の上を小さく同情し合いながら。
「……分かりました。男に二言はありませんからね」
「それでこそわたしが見込んだ後輩ねっ」
「仕込んだ、の間違いじゃないですか?」
「…………君達に噂が絶えない理由が分かった気がするよ」
「ブーメランですよ、会長」
せめてもの仕返しに懸が告げれば、疲れたように笑った蓮。
そうして、思い立ったが吉日とばかりに愛が身を乗り出して告げる。
「と言うわけで懸君。デート、するわよっ!」
こんな不誠実なデートの約束、俺他に知りませんよ。