プロローグ
「ホットにすればよかった……」
両手に持った缶から広がる冷たさに誰に言うでもなく悪態を零す。
階下からは少し騒がしい生徒の声。重なり合うのは先ほどまで行われていた催しに対する感想や、これからどこに遊びに行くかなどの他愛ない日常。
そんな雑音に少しだけ耳を傾けながら階段をのぼり、やがて行き止まりの扉を目の前に思わず立ち止まる。
……失敗した。両手が塞がっていては開けられない。
すぐに片方を胸に抱えてポケットから鍵を取り出す。鍵穴に差し込んで捻ると響いたガチャリという音は、どこか現実離れして脳裏に刻まれる。
本来ならば校則で禁じられている、屋上への立ち入り。いつからか生徒会内部でのみ受け継がれている屋上の合鍵は、知る人ぞ知る秘密の空間として現実以上に高揚感を湧き上がらせる。
後ろを振り向き目撃者がいないことを確認すると僅かな蝶番の音と主に扉を押し開く。
吹いた風は春も終わりかけた季節の温度。もうしばらくすれば梅雨の時期。張り付くような空気に様々な悪態が重なって、少し憂鬱な言葉の波が教室内を埋め尽くし始めるだろう。
個人的にはしとしとと降り注ぐ雨と、それを弾けさせる紫陽花の色が曇天に映える様は見ていて心が落ち着く風景だ。濡れた土や雨の匂いも、音も、少し沈んだ静かな世界にはちょうどいい。
そんな梅雨は、あと少し。とは言え願ったところで四季の便りが前倒しになるはずもなく。
屋上に出て空を見上げれば、雲に翳った太陽が薄らぼんやりと暖かい日差しが陰と一緒に大地を差していた。
今朝の天気予報通り晴れのち曇り。気温も過ごし易く、春眠暁を覚えずとはいい言葉だと一人ごちる。
時はゴールデンウィーク明け。桜も既に散って夏に向けての若葉を揺らす世界の片隅で、コンクリートの冷たい地面に腰を下ろし欄干に体を預けて目を閉じる。
遠くに聞こえる男女の声。グラウンドの方には運動部が準備を進める気配。誰かが鳴らした今日始めての金管の音──トランペットだろうか──が、遠く遠く伸びていく。調律の音階はB……あぁ、いや。ドイツ語読みのBだから、一般的にはB♭か。
しかしながら不思議な話だ。楽器によってドの音の高さが違っていて、その高さによってC管だとかG管だとか名前がついていたり。コード進行はAmとか英語読みなのに、楽譜にはイタリア語の演奏記号で書かれていて、かと思えばB♭をドイツ語読みでBと言ったり……。剰えそれをオーストリアの作曲家が作ってるとか、最早ギャグの域だ。
音楽の授業と、本で呼んだもののカオスな知識だが、音楽は色々ややこしすぎると。
そんな世界で音を楽しむ人たちには尊敬の念を抱くばかりだ。……俺には難しすぎる。音楽が嫌いだとか、音痴と言うわけではないが、そう言った論理的なことを覚えるのがなんだか面倒臭そうだ。
中学の頃吹奏楽部に入っていた友達は、やってれば慣れると言っていたが、そんなものだろうかと。
頬をなでる風と共に益体もなく考えていると、校舎のあちこちから調律の音が重なって行く。木管、金管、鍵盤……。
まるで何かを告げるサイレンのように響き渡るその音色は、この高校での恒例である吹奏楽部の練習の始まりの音。その音をきっかけに、ほかの部活も本格的に練習を始めて行く。
……俺も後で文芸部に顔を見せるとしようか。行っても誰もいないかもしれないけれど。
考えつつ、暇を持て余して少し悩む。スマホを弄るか、読み掛けの本を読むか……。あぁ、いや、周りがうるさすぎるからゲームにしよう。本は静かに一人で読むというのが個人的嗜好だ。音楽を聴きながらとか、歌詞に気を取られて集中できない。
と、そこまで考えて指定鞄の外ポケットに手を伸ばしたところで、屋上の扉が開く気配。伸びた手をそのまま下ろして顔を向ければ、たった一つの出入り口に立っていた人物に声を向ける。
「あぁ、どうも。一つどうですか?」
言って用意していた缶を持ち上げて見せれば、その人物は失敗したとばかりに肩を揺らしたのだった。