ありえないはずの目覚め
それは偶然だった。偶然、先日経営不振となった会社から解雇されて、偶然、空腹を訴える脳に起こされたのは太陽が頭上に昇っている時間で、偶然、昨日ネットで見た新商品が美味しそうだったので家から二番目に近いコンビニまで遠出しようと決意し、そして偶然、運転手が突然死して暴走した車に轢かれた。通常では無いことが重なり、重なり、重なり続けた結果俺は齢26にして命を落としてしまう結果となってしまったのだった。そして更に偶然がもう1つ――
「あれ?あれ?」
死んだはずだった。ついさっきまでの記憶は車に轢かれ、意識が暗黒へと落ちていくというもの。4~5mほど飛ばされた記憶がある。いや、頭から落ちたし助かるわけがないのだが……
待て待て落ち着け、そうだここは一つ深呼吸。
「すー、はー」
ぺたんこな胸が上下する。そう俺は26歳、先日無職になったばかりでアラサーになりかけのくたびれた青年(おじさんとはまだ呼ばれたくない)だった。筋骨隆々とはいかないまでも中肉中背くらいでこんなぷにぷにと張りと弾力のある身体では無かったはずだ。さらに言うなら俺の手はこんな丸みを帯びていただろうか、爪は綺麗に揃えられ、ごつごつとした印象は無い。髪、そう髪も床先までつくほど伸びてはいなかったはずだ。まわりを見渡すと本、本、本!まるで書架のようだがこの本棚は少し高すぎる、上から二段目すら台がないと本を取れないぞ。
なんて思考を逸らし気味にその部屋を探索していると姿見があり、そこには神々しいほどの美しい少女が映っていた。髪は足元まで伸び、稲穂のような黄金色で、瞳は吸い込まれそうな深い青、鼻はしっかり筋が通っており、桜色の唇は健康的なのに蠱惑的な潤いを保っている。その少女に触れようと手を伸ばすと向こうも手を伸ばし指と指が接し合う。不思議に思い俺はぺたぺたと自分の顔を触ってみると鏡の向こうの美少女も顔を触り出す。うん、まあ薄々気づいていたというか、気づかないふりをしていたわけだがこの美少女は、
「俺ええええええええええええええええええ!?」
絹を裂くような甲高い叫び声が部屋の中に響いた。
ばたばたばたばたと部屋の外から音が聞こえた。びっくりして叫んでしまったがうかつ過ぎた。こんな状況も分からないのに誰かと鉢合わせるのはまずい。俺は姿見の裏に身を縮ませて隠れる。見つかりませんように、見つかりませんように。命を助けてくれた神様に対して祈りを捧げる。
バンと扉が開く音がした。
「なんだ、さっきの声は。この部屋からだったはずだが……って無い、無いぞ!?僕の最高傑作が無い!?」
男の声が部屋に響き、俺はびくっと身体を震わせる。
「どこだ!?あれを盗まれたら僕は終わりだ!」
男は叫びながらがさごそと音を立て始める。ヤバい、何か見つかったらマズい気がする。最悪殺されるかもしれない。いやだ!二度とあんな怖い思いなんてしたくない!物音を立てないようにこっそりと移動しようとするが、ぺたんと尻をつく。あ、足が動かない。いや足だけじゃない下半身が動かないのだ。腰が抜けてしまって力が入らない。逃げなきゃ、逃げなきゃという焦りは増し、冷や汗が背筋を垂れていくのに下半身はまったく動こうとしない。
男のぶつぶつとした呟きが近づいて来るが内容は頭に入ってこない。ぶるぶると身体は震えはじめ、怖くて怖くて仕方がないのに逃げられない。がさごそとした音はさらに近づきこの姿見からは1ⅿほどになろうとしている。男の息遣いまでもが把握できる距離になったのに俺の身体はうずくまって腕が頭を覆う。逃げなきゃと分かっているのに身体が拒むのだ。瞳からはぽろり、ぽろりと涙があふれ始めた。嗚咽が漏れる。いやだ死にたくない、死にたくない、死にたくない。涙は止まらずボロボロと床に落ちて濡らしていく。俺の泣き声が聞こえたのか男の腕が姿見をどかして、
「うわああああああああああああああああああ!」
男はひどく驚いた声をあげて尻もちを付いた。俺はというと、
「えっぐ、ひぐっ……うええええええええええん!」
しょろろろろ……と股を濡らしながら大号泣してしまっていた。
ふかふかのベッドで目が覚める。どうやら大号泣した後に気を失ったらしいということまで思い出し、そういえば漏らしたのだったなと他人事のように思った。きょろきょろとあたりを見渡すと灯りに小さな本棚があり、今まで寝ていたこの天蓋付きのベッドと関連させて考えるにこの部屋は寝室なのだろうということとこの屋敷の持ち主はそれなりのお金もちなのだろうなと推測することができた。後は寝かせてもらっていたということはさっきの男は少なくとも害意は無いのだろう。今すぐ命を取られることは無いはずだ。身体を求められることはあるかもしれないけど、とそこまで思考して自分が男に求められるということの可能性に背筋をぞくっと震わせた。男に抱かれるなど冗談ではない。俺は童貞ではあったけれどもノーマルなのだ。
かと言って逃げ出すには情報が圧倒的に足りない。この屋敷の出口はどこなのか、屋敷を出たとしてここは一体どこなのか。またこの身体にどうしてなってしまったのか。そういったこともさっぱりわからないまま行動するのはあまりに危険に過ぎる。ならば今は誰かを待った方がいいと決断をした俺はもう一度ベッドに横になる。しかしこのベッドはふかふかで気持ちがいい。ちょっとした安心感を得ながら俺はもう一度微睡みの中に落ちた。
二度目の覚醒が訪れる。
「ん……ぬぁ……」
大きくあくびをして背筋を伸ばす。
「起きたかい?」
ベッドの横で本を読んでいた男はそう俺に語りかけた。さっきの男だ。
「あ、あの……俺……!」
「いいよ、君も混乱していたのだろう?僕も君を見つけたときは混乱していたしこの状況は僕にとっても君にとっても想定外のできごとなのだと思う」
男の優し気な声の問いかけにこくこくと首を縦に振る。
「うん、じゃあまずは自己紹介をしようか。私はレイ。錬金術師だ」
「れんきん、じゅつ?」
「錬金術を知らないのかい?いいやそれは後にしよう。まずは君の自己紹介が聞きたいな」
「俺、俺は……」
おかしい名前が思い出せない、自分の歳、無職、童貞といった自分を構成する要素については重い出せるのに名前だけが記憶の靄に隠れている。
「思い出せないのかい?」
「名前だけ思い出せない。他のことは思い出せるのに……」
「なら覚えている部分だけでも教えてくれるかい?」
こくりと頷き、俺は自分が日本で生まれ育った男であることを話すと難しい顔をした。
「実はその身体はね、僕が作製したホムンクルス……わかりやすく言うと人間の身体だけを作った中身が空っぽのものだ」
「空っぽ?」
「魂が無いってことさ、おそらく二ホンで死んだ君の魂がなんらかの理由でこの世界に来てホムンクルスに宿ってしまった、ということだろう。しかしまた極東の国から遠いところにきたものだね」
「やっぱり俺死んだのか……」
「状況から推測するとそういうことになるのだと思う。こんな事態は前例がないけれどそう考えるのが一番自然だ」
うすうす分かっていたことだが自分が死んだということを改めて突き付けられるとがくっと気分が落ち込んでしまう。
「ん……?」
何かひっかかる。俺はホムンクルスという幻想じみた物に宿ってしまったらしい。違う、そこではない。
「さっき日本のこと極東の国と言ったか?」
「あ、ああ言ったよ。最近めきめきと成長をし続けている極東の島国のことだろ?サムライとかシノビとかいる国の」
「日本があるのか!?」
錬金術やホムンクルスという言葉で勘違いしたが。ここもしかして異世界じゃない!?
「な、なあ今西暦何年でここどこだ!?」
「い、今は西暦1911年でここはロンドンだがそれがどうかしたのかい?」
俺が死んだと思う最後の記憶では間違いなく2017年で日本だったはずだ。
「時をさかのぼってる……?いや、でも錬金術なんてもんはオカルトだったはず……」
「ふむ……興味深い話だが考察は後にしようか、まず決めるべきは君の処遇だ」
「俺はこの先どうすればいいんだ?貴方に頼ってもいいのか?」
「僕を頼ってくれるのはかまわないけど、この先にしたいこと、つまり何か希望はあるかい?」
希望……やりたいこと……こんなあやふやな状況では何もわからないけど一つだけ確固とした希望がある。それは、
「生きたい、俺はもう死にたくない!」
そんな単純なものだった。
「……そうか、分かった。ならば僕は君が生きるために全力を尽くそう」
この時から俺とレイとの物語は始まった。最初にして最大の契約。この契約が俺の第二の生を大きく変えていくことを俺はまだ知らない。
ちまちまやっていきます