番外編:失われた時間
港町を離れて、三日目の夜だった。
宿の部屋は、十分に整っている。
仕事も順調で、予定通りだ。
それなのに、
どこか落ち着かなかった。
ライアンは机の上の帳簿を閉じ、
椅子にもたれた。
——理由は分かっている。
分かっているはずなのに、
言葉にすると、どこか大げさになる気がして、
避けていた。
ふと、窓を開ける。
潮の匂いは、
ここにもある。
それなのに、
あの港町とは違う。
あの店の奥で、
静かに針を進める音が、
ここにはない。
「……」
無意識に、
彼は思っていた。
——今なら、何を話すだろう。
用件はない。
商談もない。
ただ、
どうでもいい話をするだけだ。
そのことに気づいた瞬間、
胸の奥が、僅かに沈んだ。
彼は、これまで
多くの別れを経験してきた。
前に進むための別れ。
必要な別れ。
感情を整理して、
納得して、
置いていく。
それが、彼のやり方だった。
だから今回も、
同じだと思っていた。
彼女は、
港町の刺繍師。
親切で、落ち着いていて、
話しやすい人。
——それだけのはずだった。
けれど。
夜更け、
荷の中から、
小さな包みが転がり出た。
あの日、
「お誕生日おめでとうございます」とだけ添えられていた、
あの菓子。
食べてしまえばいい。
そう思って、
なぜか、まだ残っている。
彼は、それを手に取った。
包装は簡素で、
飾り気もない。
けれど、
雑に扱う気には、なれなかった。
そのとき、
はっきりとした違和感が、胸に刺さった。
彼女は、
何も求めてこなかった。
期待もしなかった。
引き止めもしなかった。
それなのに、
「与える」ことだけは、やめなかった。
時間を。
言葉を。
安心を。
それは、
当たり前のことのようでいて、
実は、とても稀なことだった。
ライアンは、
ゆっくり息を吐いた。
ここで初めて、
彼は理解した。
失ったのは、
人ではない。
——あの時間だ。
目的も、肩書きも、
役割もない。
ただ隣にいて、
同じ時間を過ごすことを、
疑わなくてよかった、あの空間。
それが、
もう戻らない。
その事実が、
遅れて、確実に、胸に届いた。
「……そうか」
誰に向けるでもなく、
呟いた声は、低かった。
彼は、
すぐに追いかけたいとは思わなかった。
それができないことも、
分かっていた。
ただ一つ、
確かなことがあった。
——自分は、
何かを大切にしすぎる前に、
置いてきてしまった。
その夜、
彼は初めて、
灯りを消さずに眠った。
静かな部屋で、
失ったものの輪郭だけが、
はっきりと残っていた。




