エピローグ 名もなき時間の、その先で
エリザベス
港町の朝は、静かだった。
店の窓を開けると、
潮の匂いと一緒に、淡い光が差し込む。
エリザベスは、刺繍枠を手に取った。
最近、少しだけ、
図案が変わった。
以前より、
線が伸びやかになった気がする。
——無理に、整えなくなった。
誰かに好かれるためでも、
必要とされるためでもない。
「私は、これが好き」
そう思える時間が、
前より増えていた。
彼のことを、
思い出さない日があるわけじゃない。
けれど、
思い出すたびに、
胸が締めつけられることは、なくなった。
あの時間は、
確かに、愛だった。
でもそれは、
「誰かに選ばれるための愛」ではなかった。
怖くならずに、
心を通わせられたこと。
期待されなくても、
与え合えたこと。
——私は、愛せた。
その事実が、
彼女を、少しだけ前へ進ませた。
針を置き、
深く息を吸う。
「……大丈夫」
誰に言うでもなく、
そう呟く。
港町の朝は、
今日も変わらず、穏やかだった。
⸻
ライアン
別の街での仕事は、
相変わらず忙しかった。
計画は進み、
人は集まり、
目的は、形になりつつある。
——それでも。
ふとした瞬間、
ライアンは、立ち止まるようになった。
以前なら、
通り過ぎていた沈黙。
今は、
少しだけ耳を澄ます。
夜、宿に戻り、
窓を開ける。
潮の匂いは、
やはり、違う。
彼はもう、
あの刺繍師の店に戻ることはない。
それは、
選択だ。
後悔とは、
少し違う。
ただ、
知ってしまったのだ。
目的のない時間が、
どれほど、人を支えるかを。
求められなくても、
期待されなくても、
そばにある関係が、
どれほど、希少かを。
ライアンは、
深く息を吐いた。
次に誰かと向き合うとき、
自分は、
少しだけ違うだろう。
前より、
急がずに。
前より、
置いていかずに。
それだけでいい。
そう思えたこと自体が、
彼にとっては、
確かな変化だった。
⸻
そして
二人は、もう会わない。
けれど。
あの時間は、
どちらの人生からも、消えなかった。
選ばれなかった令嬢は、
自分を選ぶことを、覚えた。
前に進む商人は、
置いてきたものの重さを、知った。
それぞれの場所で、
それぞれの歩幅で。
——名もなき時間は、
確かに、二人を変えていた。
終わり。




