選ばれなかった令嬢 ――ライアン・カーターの記憶
最初に気づいたのは、
刺繍だった。
店に並ぶ品の中で、
それだけ空気が違った。
派手じゃない。
流行を追ってもいない。
なのに、
なぜか目が離れなかった。
——ああ、これを作った人は、
誠実だ。
それが、最初の印象だった。
⸻
二階から降りてきた彼女は、
思っていたより、ずっと静かな人だった。
背筋は自然に伸び、
視線は控えめに落とされている。
派手さはない。
けれど、立ち止まる位置や、
手の置き方ひとつに、
妙な落ち着きがあった。
育ちがいい、という言葉では
片づけきれない何か。
それを隠そうとしている――
そんな気配だけが、
なぜか、はっきり伝わってきた。
「この刺繍、いいな」
そう言ったとき、
彼女は一瞬だけ、驚いた顔をした。
褒め言葉に慣れていない人の顔だ。
それが、なぜか胸に残った。
⸻
打ち合わせは、
いつも予定より長くなった。
俺が話を脱線させていたのもある。
刺繍の話だけで終わらせるのが、
もったいなく感じたからだ。
彼女は、
自分の話をあまりしない。
聞けば答える。
でも、語ろうとはしない。
まるで、
「ここまで」と線を引いているみたいだった。
それが悪いとは思わなかった。
むしろ、
その距離感が、心地よかった。
——近づきすぎると、
壊れてしまいそうで。
⸻
彼女は、
俺の疲れに気づいていた。
「ちゃんと休めていますか?」
そう聞かれたとき、
少し驚いた。
俺はいつも、
大丈夫なふりをする側だから。
「休み方、忘れたかもな」
そう笑ったら、
彼女も、少し困ったように笑った。
——ああ、この人も、
ずっと一人で立ってきたんだ。
なぜか、そう思った。
⸻
誕生日の話をしたのは、
深い意味はなかった。
……と言えば、嘘になる。
少しだけ、
期待していた。
物じゃなくていい。
覚えていてくれたら、それで。
でも、
彼女は大きなことはしなかった。
小さな袋。
控えめな言葉。
「お誕生日おめでとうございます」
それだけ。
手が触れたとき、
彼女が一瞬、息を止めたのが分かった。
——ああ。
この人は、
分かっていて、距離を保っている。
優しさで。
そのことが、
少しだけ、苦しかった。
⸻
俺には、
戻る場所がある。
他の街で、
一緒に暮らしている女性。
「友達だよ」
そう言ったのは、
嘘じゃない。
でも、
全部を話したわけでもなかった。
俺には、
やりたいことがあった。
守りたいものがあった。
そこに、
彼女を巻き込む資格はない。
それくらいは、
分かっていた。
⸻
最後の日。
港へ向かう途中、
刺繍を光にかざした。
本当は、
理由なんて何でもよかった。
ただ、
もう少し一緒に歩きたかっただけだ。
「エリザベス」
名前を呼んだ。
この名前を、
もう呼べなくなる気がして。
「あなたと話してる時間、嫌いじゃなかった」
本当は、
もっと言いたかった。
——あなたは、
自分が思っているより、ずっと価値がある。
——誰かに選ばれなくても、
あなたは、最初から“ある”。
でも、
それを言う立場じゃない。
だから、
言わなかった。
彼女も、言わなかった。
それが、
正しかったのだと思う。
⸻
彼女が去ったあと、
俺はしばらく港に立っていた。
潮の匂い。
太陽の光。
胸の奥に、
小さな痛みが残っている。
でも、後悔はなかった。
彼女は、
誰かの所有物になる人じゃない。
選ばれなかったんじゃない。
——自分で、
自分の道を選び始めただけだ。
いつか、
彼女が自分の時間を、
心から愛せるようになるなら。
俺は、
その少し前に立ち会えただけで、
十分だと思う。
刺繍の糸は、
今日もどこかで、光を受けている。
静かに、
確かに。
彼女が、
ここにいる証として。




