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選ばれなかった令嬢 〜婚約破棄され、誰にも選ばれずに港町で生きることにした〜  作者: 青木奈々


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1/4

選ばれなかった令嬢

「エリザベス・リンカーン。

其方との婚約は――破棄する」


その言葉を聞いたとき、私は泣かなかった。


叫びもしなかったし、取り乱しもしなかった。

ただ、胸の奥で何かが静かに折れる音がしただけだった。


――やっぱり、そうなるのね。


驚きよりも、納得のほうが先に来た。

この婚約は、私が選ばれた結果ではない。

ただ、家同士の都合で、空いていた場所に押し込まれただけ。


それでも、どこかで期待していたのだと思う。

「必要とされる側」になれるのではないか、と。


けれど彼は、支配する人だった。

手ではなく、言葉で。

命令と沈黙で、人の心を縛る人だった。


私は抵抗しなかった。

抵抗する気力を、最初から与えられていなかったから。


ただ、時が過ぎるのを待っていた。

彼が私に興味を失う、その瞬間を。


そしてそれは、突然、音もなく訪れた。



婚約破棄の知らせを受けて家に戻った日、

私は父の執務室に呼ばれた。


「婚約を破棄されたそうだな」


低く、感情のない声。


「……はい」


「つまり、お前には価値がなかったということだ」


言葉は淡々としていた。

怒りも、失望も、そこにはなかった。


ただの事実確認のように。


部屋には、母も弟もいた。

けれど、誰一人として私を見なかった。


「役立たずは不要だ」


「リンカーン家から出て行け」


それで終わりだった。


――元々、私の居場所はなかった。


元婚約者の振る舞いを、

何もなかったことにしてきた人たちだ。


期待していなかった。

だから傷つかない、はずだった。


けれど、何も言われないことが、

何よりも重かった。 



旅支度は簡単だった。


持っていったのは、

母が昔、気まぐれに教えてくれた刺繍道具だけ。


誰の名前も通らない場所へ。

誰の過去も問われない場所へ。


馬車の窓から、

貴族街の石畳が遠ざかる。


私は、振り返らなかった。



辿り着いた港町は、

塩と風と人の声で満ちていた。


私は小さな手仕事店の二階に間借りし、

刺繍で生計を立てることになった。


糸を選び、針を進める時間だけが、

私を「今」に繋ぎとめてくれた。


誰にも期待されない。

誰にも否定されない。


その静けさが、心地よかった。


ある日、

店に一人の商人が現れた。


ライアン・カーター。


派手さはない。

けれど、人の話を聞くとき、

必ず相手の目を見る人だった。


「この刺繍、いいな」


褒め言葉というより、

独り言のような声だった。


それが、彼との始まりだった。



打ち合わせは、いつも予定より長くなった。


布の話から、

港町の天気、

酒場の噂、

どうでもいい話へと流れていく。


「ちゃんと休めていますか?」


「休み方、忘れたかもな」


彼は笑って言った。

その笑顔が、少しだけ疲れて見えた。


不思議だった。

隣に座っているのに、怖くならない。


沈黙が、苦しくない。


人をまとめるときの、迷いのない声。

場を動かすときの、自然な強さ。


私は、引っ張っていってくれる人に弱い。


ずっと、自分で立つしかなかった。

誰も支えてくれないのが、当たり前だった。  

 

だから――


「大丈夫?」


そう気にかけてもらえるだけで、

胸の奥が、少し緩む。


自分でも、単純だと思う。



ある日、彼は何気なく言った。


「俺、十月三日が誕生日なんだよね」


軽い調子で。

けれどその話題は、何度か繰り返された。


――何か、期待しているのだろうか。


私は、彼が好きそうなお菓子を買って、

部屋に置いていた。


消えものなら、

受け取ってもらえるかもしれないと思ったから。


けれど彼には、戻る場所があった。


別の街で、

共に暮らしている女性。


「友達だよ」と、彼は言った。


真実かどうかは、分からない。

ただ、そこに私はいない。


だから私は決めた。


この人とは、踏み込まない。

期待も、約束も、持ち込まない。


誕生日の朝、

袋を開けて中身を取り出す。


代わりに、

小さく分けた菓子と、短い言葉だけ。


「お誕生日おめでとうございます」


それが、私の精一杯だった。


彼は、がっかりしたかもしれない。


渡すとき、

手と手が、ほんの少し触れた。


胸の奥が、

小さく痛んだ。


――ああ。


この痛みを、

私はもう知っている。



最後の打ち合わせの日。


港へ向かう途中、

彼は刺繍を光にかざした。


「自然光で見ておきたくて」


商人としての慎重さ。

でも、それだけじゃない気がした。


「エリザベス」


名前を呼ばれて、胸が鳴る。


「あなたと話してる時間、嫌いじゃなかった」


それ以上は、言わなかった。

言えなかったのかもしれない。


私も、言わなかった。


——好きだった。

——ちゃんと、好きだった。


でも、

その気持ちを持てたこと自体が、

奇跡みたいだと思った。


私は、

誰も愛せないのだと思っていたから。



私は、刺繍枠を握りしめる。


選ばれなかった。

結ばれなかった。


それでも――


私は、人を好きになれた。

怖くならずに、心を通わせることができた。


誰にも選ばれなくても、

私は、ここに立っている。


朝の光が、糸を照らす。


私は、まだ、立っている。


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