選ばれなかった令嬢
「エリザベス・リンカーン。
其方との婚約は――破棄する」
その言葉を聞いたとき、私は泣かなかった。
叫びもしなかったし、取り乱しもしなかった。
ただ、胸の奥で何かが静かに折れる音がしただけだった。
――やっぱり、そうなるのね。
驚きよりも、納得のほうが先に来た。
この婚約は、私が選ばれた結果ではない。
ただ、家同士の都合で、空いていた場所に押し込まれただけ。
それでも、どこかで期待していたのだと思う。
「必要とされる側」になれるのではないか、と。
けれど彼は、支配する人だった。
手ではなく、言葉で。
命令と沈黙で、人の心を縛る人だった。
私は抵抗しなかった。
抵抗する気力を、最初から与えられていなかったから。
ただ、時が過ぎるのを待っていた。
彼が私に興味を失う、その瞬間を。
そしてそれは、突然、音もなく訪れた。
⸻
婚約破棄の知らせを受けて家に戻った日、
私は父の執務室に呼ばれた。
「婚約を破棄されたそうだな」
低く、感情のない声。
「……はい」
「つまり、お前には価値がなかったということだ」
言葉は淡々としていた。
怒りも、失望も、そこにはなかった。
ただの事実確認のように。
部屋には、母も弟もいた。
けれど、誰一人として私を見なかった。
「役立たずは不要だ」
「リンカーン家から出て行け」
それで終わりだった。
――元々、私の居場所はなかった。
元婚約者の振る舞いを、
何もなかったことにしてきた人たちだ。
期待していなかった。
だから傷つかない、はずだった。
けれど、何も言われないことが、
何よりも重かった。
⸻
旅支度は簡単だった。
持っていったのは、
母が昔、気まぐれに教えてくれた刺繍道具だけ。
誰の名前も通らない場所へ。
誰の過去も問われない場所へ。
馬車の窓から、
貴族街の石畳が遠ざかる。
私は、振り返らなかった。
⸻
辿り着いた港町は、
塩と風と人の声で満ちていた。
私は小さな手仕事店の二階に間借りし、
刺繍で生計を立てることになった。
糸を選び、針を進める時間だけが、
私を「今」に繋ぎとめてくれた。
誰にも期待されない。
誰にも否定されない。
その静けさが、心地よかった。
ある日、
店に一人の商人が現れた。
ライアン・カーター。
派手さはない。
けれど、人の話を聞くとき、
必ず相手の目を見る人だった。
「この刺繍、いいな」
褒め言葉というより、
独り言のような声だった。
それが、彼との始まりだった。
⸻
打ち合わせは、いつも予定より長くなった。
布の話から、
港町の天気、
酒場の噂、
どうでもいい話へと流れていく。
「ちゃんと休めていますか?」
「休み方、忘れたかもな」
彼は笑って言った。
その笑顔が、少しだけ疲れて見えた。
不思議だった。
隣に座っているのに、怖くならない。
沈黙が、苦しくない。
人をまとめるときの、迷いのない声。
場を動かすときの、自然な強さ。
私は、引っ張っていってくれる人に弱い。
ずっと、自分で立つしかなかった。
誰も支えてくれないのが、当たり前だった。
だから――
「大丈夫?」
そう気にかけてもらえるだけで、
胸の奥が、少し緩む。
自分でも、単純だと思う。
⸻
ある日、彼は何気なく言った。
「俺、十月三日が誕生日なんだよね」
軽い調子で。
けれどその話題は、何度か繰り返された。
――何か、期待しているのだろうか。
私は、彼が好きそうなお菓子を買って、
部屋に置いていた。
消えものなら、
受け取ってもらえるかもしれないと思ったから。
けれど彼には、戻る場所があった。
別の街で、
共に暮らしている女性。
「友達だよ」と、彼は言った。
真実かどうかは、分からない。
ただ、そこに私はいない。
だから私は決めた。
この人とは、踏み込まない。
期待も、約束も、持ち込まない。
誕生日の朝、
袋を開けて中身を取り出す。
代わりに、
小さく分けた菓子と、短い言葉だけ。
「お誕生日おめでとうございます」
それが、私の精一杯だった。
彼は、がっかりしたかもしれない。
渡すとき、
手と手が、ほんの少し触れた。
胸の奥が、
小さく痛んだ。
――ああ。
この痛みを、
私はもう知っている。
⸻
最後の打ち合わせの日。
港へ向かう途中、
彼は刺繍を光にかざした。
「自然光で見ておきたくて」
商人としての慎重さ。
でも、それだけじゃない気がした。
「エリザベス」
名前を呼ばれて、胸が鳴る。
「あなたと話してる時間、嫌いじゃなかった」
それ以上は、言わなかった。
言えなかったのかもしれない。
私も、言わなかった。
——好きだった。
——ちゃんと、好きだった。
でも、
その気持ちを持てたこと自体が、
奇跡みたいだと思った。
私は、
誰も愛せないのだと思っていたから。
⸻
私は、刺繍枠を握りしめる。
選ばれなかった。
結ばれなかった。
それでも――
私は、人を好きになれた。
怖くならずに、心を通わせることができた。
誰にも選ばれなくても、
私は、ここに立っている。
朝の光が、糸を照らす。
私は、まだ、立っている。




