星空の下で君と約束をする
秋の夕暮れは、まるで世界が琥珀色に染まる魔法の時間だ。茜色の陽光が校舎の窓を滑り、図書館の古い木製の本棚に柔らかな影を落としていた。埃が舞う光の筋の中で、紙の匂いと静寂が混ざり合い、まるで時間が止まったかのような空間が広がっている。
高瀬海斗は、図書館の奥の窓際の席に座っていた。目の前には、借り物のライトノベルが開かれているが、彼の視線はページから離れ、窓の外の紅葉した楓の木に漂っていた。赤とオレンジが混ざり合った葉が、そよ風に揺れるたびに、まるで心の奥で何かがざわめくようだった。
「ねえ、海斗。またボーッとしてる」
柔らかくも少しからかうような声が、静寂を破った。海斗が顔を上げると、目の前に立っていたのはクラスメイトの佐倉美月だった。彼女は肩に小さなカバンをかけ、長い黒髪を軽く揺らしながら、微笑んでいる。白いブラウスに紺のスカート、首元に巻いた薄いスカーフが秋の風にそよぐ。彼女の笑顔は、まるでこの図書館の静けさにそっと花を添えるようだった。
「ボーッとしてないよ。ちょっと……考え事してただけ」海斗は慌てて本に視線を戻したが、心臓が少し速く鼓動していることに気づいた。
美月はクスッと笑い、海斗の隣の椅子に腰を下ろした。「ふーん、考え事ね。何か面白いこと?」
海斗は一瞬言葉に詰まった。面白いこと? そんな簡単な言葉で片付けられるものじゃない。美月の笑顔を見ていると、胸の奥で何か温かいものが膨らむのに、同時に締め付けられるような感覚が襲ってくる。彼女とこうやって話す時間は、海斗にとって宝物のようなものだった。でも、その気持ちを言葉にする勇気はまだなかった。
「別に……ただ、秋ってなんか切ないよな、って思ってただけ」海斗はごまかすように言って、窓の外を見やった。
美月は少し首をかしげ、窓の外を眺めた。「切ない、か。確かに、紅葉って綺麗だけど、すぐ散っちゃうもんね。まるで恋みたい」
「恋?」海斗の声が思わず上ずった。
美月は笑って手を振った。「うそ、冗談! でも、なんかロマンチックな気分になるよね、秋って」
海斗は心の中で苦笑した。美月はいつもこうだ。軽い調子で、でもどこか本心を隠すような言葉を投げかけてくる。そのたびに、海斗の心は揺さぶられるのに、彼女の本当の気持ちはつかめない。
その夜、海斗はいつものように自転車で帰路についていた。街灯のオレンジ色の光が、冷たい秋の夜気をほのかに温めている。空にはすでに星が瞬き始め、澄んだ空気が肺に心地よかった。
ふと、スマートフォンが振動した。美月からのメッセージだった。
「海斗、今日の夜、丘の上の公園に来てよ。星がめっちゃ綺麗だよ!」
海斗の指が一瞬止まった。美月からの誘いは珍しくなかったが、夜に二人で会うなんて初めてだ。胸の鼓動がまた少し速くなるのを感じながら、彼は「了解」と短く返信し、ペダルを強く踏んだ。
丘の上の公園は、町を見下ろす小さな場所だった。普段は子供たちが走り回る場所だが、夜になると静寂に包まれ、まるで世界から切り離されたような雰囲気になる。海斗が到着すると、美月はすでにベンチに座っていた。彼女は膝の上に小さな毛布を広げ、 魔法瓶に入った温かいココアを手に持っていた。
「遅いよ、海斗! 星、待ってくれないんだから」美月は笑いながら、隣のスペースを軽く叩いた。
「悪い、急いできたんだけどな」海斗は少し照れながらベンチに腰を下ろした。美月の隣に座ると、彼女の髪からほのかに漂うシャンプーの香りが、夜の冷たい空気と混ざり合って、妙に心を落ち着かせた。
空を見上げると、満天の星が広がっていた。まるで黒いビロードにダイヤモンドを散りばめたような光景だ。オリオン座がくっきりと浮かび、流れ星が一瞬だけ尾を引いて消えた。
「わ、見た! 流れ星!」美月が興奮した声で言った。「海斗、願い事! 早く!」
「え、急に言われても……」海斗は笑いながら、頭の中で慌てて願い事を探した。でも、なぜか頭に浮かんだのは、美月の笑顔だった。この時間がずっと続けばいい――そんなシンプルな願いが、胸の奥で響いた。
美月は目を閉じ、両手を胸の前で軽く握っていた。彼女がどんな願い事をしているのか、海斗にはわからなかった。でも、彼女の横顔を見ていると、なぜか自分の願い事がちっぽけに思えてきた。
ココアを飲みながら、二人はしばらく星空を眺めていた。時折、風が木々の葉を揺らし、遠くでフクロウの鳴き声が響く。美月は毛布を肩にかけ、まるでこの瞬間を閉じ込めたいかのように、じっと空を見上げていた。
「ねえ、海斗」美月が突然口を開いた。「もし、誰かに大事なこと伝えたいけど、怖くて言えないとき、どうする?」
海斗の心がドキッとした。彼女の声はいつもより少し真剣で、どこか脆い響きがあった。彼は彼女の顔を見たが、美月は星空に視線を固定したままだった。
「怖いって……どんなこと?」海斗は慎重に聞き返した。
美月は少し笑って、首を振った。「うーん、たとえば、さ。誰かを好きになったけど、言ったら友達じゃいられなくなるかもしれない、とか」
海斗の胸が締め付けられた。彼女の言葉は、まるで自分の心を鏡のように映し出しているようだった。彼は美月が好きだ。図書館で笑い合う彼女も、こうやって星空の下で少しだけ弱さを見せる彼女も、全部が愛おしかった。でも、告白したら、この心地よい時間が壊れてしまうかもしれない。そんな恐怖が、いつも彼を縛っていた。
「俺だったら……」海斗は言葉を選びながら、ゆっくりと言った。「怖くても、言うかな。だって、言わないで後悔するほうが、もっと怖い気がする」
美月の目が、星空から海斗に移った。その瞳には、星の光が映り込んで、まるで小さな宇宙を抱えているようだった。「そっか。海斗って、意外と大胆なんだね」
「大胆じゃないよ。ビビりまくってる」海斗は苦笑しながら、でも勇気を振り絞って続けた。「でも、もし大事な人が目の前にいるなら、ちゃんと伝えたい。じゃないと、いつか流れ星みたいに、消えちゃうかもしれないから」
美月は一瞬、目を丸くした。それから、ゆっくりと微笑んだ。「海斗、なんかかっこいいこと言うじゃん」
「やめろよ、恥ずかしいって」海斗は顔を赤らめながら笑ったが、心の中では決意が固まりつつあった。
夜が更けるにつれ、気温はさらに下がった。美月は毛布を二人で共有しようと提案し、肩を寄せ合って星空を見続けた。彼女の肩の温もりが、海斗の心を静かに温めた。
「ねえ、海斗」美月が小さな声で言った。「また、こうやって星見に来ようね。約束」
「うん、約束」海斗は頷き、胸の奥でそっと誓った。いつか、この気持ちをちゃんと伝えよう。星空の下で、彼女の笑顔を守るために。
二人の吐息が白く溶け合う中、夜空にはまた一筋の流れ星が輝いた。それは、まるで二人の未来をそっと照らすようだった。
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