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第8話 病身の軍師と、新たな光

第8話 病身の軍師と、新たな光


官渡の戦いでの大勝利から数ヶ月が経過した。建安5年の冬も終わり、建安6年を迎えようとしていた頃。曹操軍は袁紹軍の残党掃討を進め、河北平定の道を着実に歩んでいた。主要な抵抗は終わりつつあり、占領地の統治も始まっている。勝利の歓喜と、乱世を終わらせる覇業への期待が陣営全体に広がっていたが、郭嘉の体調は、その輝かしい功績とは裏腹に悪化の一途を辿っていた。官渡での極限状態における激務と、想像を絶する精神的な重圧が、病弱な体を決定的に蝕んでいたのだ。


激しい咳が止まらない。一度出始めると、肺が張り裂けそうなほど続く。熱は微熱が続き、体が鉛のように重い。食欲もなく、見る見るうちにやせ衰えていく。立ち上がるのも億劫で、気力がなければ寝台から起き上がることさえできない。史実の郭嘉が病に倒れ命を落としたのは建安12年。今はまだ建安6年だ。しかし、この体調は、まるで史実の運命が彼を追いかけるかのように、着実に悪化していた。


(まずい…本当にまずい。このままでは、史実通り、烏桓討伐の後に倒れてしまう…。いや、このままでは、烏桓討伐まで体が持たないかもしれない…)


郭嘉は自室の寝台で苦悶の表情を浮かべていた。病死回避。それがこの転生における最初の、そして最も重要な目標だった。未来知識と現代知識があれば、病に打ち勝てるかもしれないと信じていた。体調管理、衛生への配慮、十分な休息。できることは全て試してきた。しかし、戦場の過酷さ、連日の激務、そして命を削る知略戦は、彼の努力を無に帰そうとしていた。官渡の勝利は、彼の体を激しく消耗させたのだ。


だが、諦めるわけにはいかない。この病弱な体でも、官渡で勝利を掴み取ることができた。それは、未来知識と現代知識、そして彼の強い意志があればこそだ。病死回避も、不可能ではないはずだ。


(現代医学ほどの進歩はない。治療薬も抗生物質もない。だけど、この時代の知識と組み合わせれば、何かできるはずだ。予防医学的な観点から攻めるんだ。発酵食品…味噌や漬物といった、栄養価が高く保存も効くものを推奨し、腸内環境を整える。衛生…手洗い、うがい、調理器具の煮沸消毒、沸騰した湯を飲むことの徹底。栄養…特定の薬草や食材の組み合わせで、滋養強壮を図る。そして…精神的な安定も重要だ。ストレスは病状を悪化させる)


郭嘉は、自身の微かな現代知識を総動員し、病状改善の糸口を探った。当時の医師(彼から見れば知識レベルは低いが、当時の最善を尽くしている)に指示を出し、自身を実験台として異端とも思える治療や養生法を試みる。それは、彼自身の体との孤独な戦いだった。


曹操は郭嘉の病状を深く心配していた。官渡の勝利は、紛れもなく郭嘉の知略と献策によってもたらされたものだ。その彼が、勝利の余韻に浸る間もなく病に臥せっている。彼の側近たちにとっても、郭嘉の体調は深刻な懸念事項となっていた。


「奉孝。無理はするな。仕事は他の者に任せよ。良い医者と薬を手配させる。欲しいものは何でも言うのだ。体を治すことが、今の貴殿の最も重要な仕事だ」


曹操は幾度となく郭嘉の部屋を訪れ、労りの言葉をかけた。彼の目は、軍師としての郭嘉への依存と、人間としての郭嘉への深い愛情を示していた。郭嘉なしでは、彼の覇業は立ち行かない。


夏侯惇もまた、頻繁に郭嘉を見舞った。彼は戦場育ちで病とは縁が薄いが、郭嘉の才と人柄には深く敬意を払っていた。


「奉孝殿。顔色が悪いぞ。食えるものは食って、少しでも休むんだ。俺にできることなら何でも言ってくれ。体を動かすことなら任せろ! 見張りでも護衛でも何でもやる!」


武骨な夏侯惇の不器用な気遣いが、郭嘉の心を温めた。他の将兵や文官たちも、彼らの命と勝利を救った病身の軍師を案じていた。


そんなある日、郭嘉の自室を訪ねてきた人物がいた。曹操の娘、曹玲だ。まだ年若い彼女は、父譲りの聡明さと、戦乱に心を痛める心優しい女性だった。侍女を連れて、簡素な見舞いの品を持ってきた。


「郭軍師、お見舞いに参りました。父上から、郭軍師の功績と、そして…お体が優れないと伺いました」


曹玲の声は静かで、部屋に穏やかな空気を運んできた。乱世の喧騒から隔絶されたような、清らかな響きだった。彼女は病床の郭嘉を見て、ハッと息を呑んだ。噂には聞いていたが、その痩せ衰え、顔色の悪さ、そして止まらぬ咳…想像以上に病状は深刻だった。


「これは、玲殿…。ようこそ…このような病室に…」


郭嘉は無理に体を起こそうとしたが、肺が痛み、激しく咳き込んでしまった。胸を押さえて息を整える。


「どうぞ、お気遣いなく。無理はなさらないでください」曹玲は慌てて郭嘉を制止した。彼女は傍らに静かに座った。彼女の目は、憐憫ではなく、純粋な心配の色を宿していた。彼女は、郭嘉の表面的な天才性だけでなく、その裏にある病弱さや、孤独な戦いに心を痛めていることに、何かを感じ取っているようだった。


「官渡での勝利は、郭軍師のおかげです。皆、郭軍師の知略がなければ、今の私たちはなかったと申しております。ですが、そのために、貴方様がこれほど…」


曹玲はそう言い、少し俯いた。戦乱の勝利が、一人の人間の命を削っているという現実。そして、勝利の裏で流される血や涙。彼女は、乱世がもたらす悲劇を誰よりも敏感に感じ取れる人物だった。


郭嘉は、曹玲のその純粋な優しさに触れ、心が少しだけ軽くなるのを感じた。彼女のような、乱世に苦しむ人々のためにこそ、自分は生き延び、より良い時代を創らねばならないのだ。彼女の清らかな存在は、彼が目指す未来の具体的な象徴のように思えた。荒廃した世界に咲く、一輪の花。


(この娘のような人が、安心して笑顔で暮らせる世を…そのために、俺は…)


病弱な体は、依然として彼を苦しめていた。病死回避という目標は、官渡の戦いと同じくらい、あるいはそれ以上に困難なものに感じられた。しかし、曹操の信頼、夏侯惇たちの気遣い、そして曹玲という新たな光が、彼に生きる希望を与えていた。官渡勝利は、歴史を大きく変えた。袁紹という巨大な敵は消えた。しかし、病死回避という自身の歴史改変は、これからが本番だった。


郭嘉は、僅かに微笑んだ。その微笑みは、病の苦痛を湛えながらも、確かな希望の光を宿していた。


「ありがとうございます、玲殿。貴方様のお気遣い、心に沁みました。必ず、この病に打ち勝ち、元気になって…戦のない、皆が笑顔で暮らせる世を、この目で見届けとうございます。貴方様のような方が、心安らかに過ごせる世を創るために、私は生きてみせます」


その言葉は、曹玲の心に深く響いた。病身の軍師が抱く、天下への夢と、民への思い。そして、自分自身への明確な誓い。彼女は、この天才軍師の、戦場では見せない人間的な一面に触れた気がした。彼の瞳の奥に、ただならぬ決意の光を見た。


袁紹の残党はまだ残っている。そして、次の目標は烏桓討伐。戦いは続く。しかし、郭嘉の病死回避と、より良い時代を創るための戦いも、また続いていく。新たな、そして最も人間的なドラマが、ここから始まろうとしていた。

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