第7話 烏巣炎上、天下の分け目
第7話 烏巣炎上、天下の分け目
官渡の陣営は、飢えと寒さに凍えついていた。兵糧は底を突きかけ、兵士たちの目から光が失われつつあった。そんな極限状況の中、曹操は郭嘉の献策、烏巣奇襲を決断した。
「我自らが向かう。烏巣は袁紹軍の生命線。我が率いる精鋭こそが、これを断ち切るのだ」
曹操はそう宣言した。夏侯惇をはじめとする猛将たち、わずか五千の兵と共に、闇夜に紛れて出発した。兵士たちの顔には、恐怖と、それでも主君についていくという覚悟が入り混じっていた。この奇襲の成功こそが、曹操軍、そして郭嘉自身の未来を決める。
同じ頃、袁紹の陣営では、許攸が激しく詰め寄っていた。
「殿! 烏巣の兵糧庫は危ういと申し上げたでしょう! なぜ守りを固めぬのですか! 曹操は危険な相手! 必ずや急所を突いてきますぞ!」
「うるさいわ! 曹操ごときに、我が烏巣を襲う力などあるものか! あの痩せ細った貧乏軍団に、そこまで兵を回す余裕などないわ! 貴様、しつこいぞ! まさか、曹操と内通しておるのではないか!」
袁紹は苛立ちを隠せない。彼の傲慢さと、自身の才への過信は、もはや諫言を受け付けない。彼の言葉を聞いた許攸は、全身から血の気が引くのを感じた。この男に、未来はない。有能な部下たちの言葉に一切耳を貸さず、ただ己の耳に心地よい言葉だけを信じる愚将。
(最早、この殿に見切りをつける他ない。私の才は、このままでは活かされぬ。このまま袁紹殿と共に滅びるのか?…いやだ。…曹操。あの男ならば、私の言葉に耳を傾けるかもしれぬ。郭奉孝という若き才人もいると聞く。あの男になら…)
許攸は密かに陣営を抜け出した。夜闇に紛れて、敵である曹操の陣営へ向かった。彼の胸には、袁紹への失望と、新たな主への微かな希望、そして裏切り者となることへの複雑な思いが渦巻いていた。
夜半。曹操の陣営に、怪しげな男が連れてこられた。名を許攸。袁紹軍の軍師であるという。縄をかけられ、薄汚れた姿で引きずられてきた。
「曹孟徳か! 袁紹は愚物だ! 我が烏巣の兵糧庫は手薄! そこを突けば、奴の首級は目前だ! 我は、貴殿に仕えたい!」
許攸は捲し立てるように言った。曹操は許攸の言葉に驚き、その真偽を見抜こうとした。袁紹軍の軍師が、敵である自分に寝返り、しかも敵の生命線たる兵糧庫の情報をあっさり漏らすなど、にわかには信じがたい。罠かもしれないという警戒心が、曹操の中に湧き上がる。
「烏巣、だと…」
曹操が呟くと、傍らに控えていた郭嘉が小さく咳き込んだ。彼は曹操と共に徹夜で戦況を見守っていた。顔色はさらに悪化しており、目の下のクマは濃く、立っているのがやっとという状態だった。体中の関節が軋み、頭痛が酷い。しかし、意識だけは異常なほど研ぎ澄まされていた。
(兵糧はあとわずか…このままでは、確かに持たない。袁紹は、我々が飢えていることを知っているだろう。そして、この圧倒的な物量差に慢心しているはずだ)
未来知識は、この絶体絶命の状況から曹操軍が逆転勝利を収めることを示唆している。鍵となるのは、袁紹軍の兵糧庫。その場所を特定し、そこに奇襲をかけるのは、この疲弊しきった状況では容易ではない。それでも、この策以外に活路はない。
郭嘉は自らの体調をごまかし、曹操に進言した。彼の声はかすれていたが、その言葉には確固たる意志が宿っていた。
「曹公、我々は確かに苦境に立たされております。しかし、袁紹軍は我々を追い詰めていると慢心しています。また、袁紹自身が優柔不断ゆえ判断は遅れる。配下を真に信頼せず、優れた軍師たちの意見に耳を貸そうとしない。これは、我々にとって好機となり得ます」
「好機、だと? どこにだ、奉孝」
曹操は縋るような目で郭嘉を見た。彼の瞳には、この若き軍師の言葉に最後の望みを託そうという切実さが見えた。
「彼の兵站。数十万の兵を養うには、膨大な兵糧が必要です。その輸送経路は必ず長大で脆弱になる。そして、その集積所…兵糧庫は、袁紹軍にとって生命線であると同時に、最も守りが手薄になりがちな急所となります」
郭嘉は、震える指先で地図上の一点、烏巣という場所を示した。そこは、袁紹軍の主力陣営からはやや離れた地点だった。
「この烏巣。ここに袁紹軍の主要な兵糧が集積されている可能性が高い。そこを突くのです。少数の精鋭による決死の奇襲。成功すれば、袁紹軍は飢餓に陥り、一気に瓦解するでしょう」
それはあまりにも危険な賭けだった。もし失敗すれば、曹操軍に残された最後の精鋭部隊を失い、文字通り万事休すとなる。撤退する力さえ残らなくなるかもしれない。
「烏巣…か。危険すぎる」
夏侯惇が険しい顔で呟いた。彼は郭嘉の才を尊敬していたが、あまりにもリスクの高い策にためらいを感じていた。もし失敗すれば、郭嘉だけでなく、自分たちも無駄死にすることになる。
荀彧は静かに郭嘉を見つめていた。彼の献策は常に既存の枠を超えている。しかし、その論理の根幹には、確かな確信めいたものがあった。王道ではないが、この絶望的な状況では、非王道こそが活路なのかもしれない。
曹操は黙って郭嘉の指差す場所を見つめていた。彼の脳裏では、郭嘉の言葉と、自身の置かれた絶望的な状況が交錯していた。他に、これほどの突破口となり得る策があるだろうか?この飢えと疲弊の中で、正攻法で袁紹に勝つことは不可能だ。
その時、郭嘉の体が大きく揺らぎ、激しい咳が込み上げた。咳は止まらず、息が苦しくなる。視界がかすみ、立っているのが難しくなった。
「奉孝! 大丈夫か!」
夏侯惇が慌てて駆け寄り、その体を支える。その顔には、心配と安堵が入り混じっていた。
「…勝…った…これで…」
彼の口から漏れたのは、安堵と、そしてまだ見ぬ「より良い時代」への微かな希望だった。病弱な体で、この国を、人々を救うために、彼は文字通り命を燃やしたのだ。
曹操は郭嘉のその姿を見て、決意を固めた。この病弱な軍師が、自らの命を削ってまで進言する策。それは、常人には見えない勝利への道筋なのかもしれない。自分の勘が、この男を信じろと告げている。
「よし! 烏巣へ向かう部隊に伝令! 直ちに奇襲を敢行せよ!」
曹操は即座に命令を下した。伝令兵が嵐のように駆け出した。許攸は曹操の素早い決断に驚き、郭嘉はその決断を見届け、安堵の息をついた。この一瞬の判断が、天下の行方を決める。
その夜更け。袁紹軍の兵糧庫がある烏巣から炎が天高く舞い上がった。曹操自らが率いるわずか五千の奇襲部隊が、袁紹軍の虚を突き、兵糧庫に火を放ったのだ。兵糧を守っていた淳于瓊は混乱し、成すすべなく討たれた。
炎上する兵糧庫。それは、袁紹軍の生命線が断たれたことを意味していた。
「烏巣が…烏巣が燃えているだと!?」
袁紹は報告を聞き、顔色を失った。彼の慢心が、自らの首を絞めたのだ。配下たちは混乱し、有効な指示が出せない。田豊や沮授は救援や反撃を進言しようとするが、時すでに遅し。そして、兵糧を失った袁紹軍全体に、絶望的な動揺と飢餓が広がり始める。
郭嘉は、陣営でその炎を見ていた。その光は、勝利への希望を示す光明であると同時に、無数の民がさらに苦しむことになる戦乱を終わらせるための、血塗られた光のようにも見えた。(多くの血が流れる乱世を終わらせるためには、時には非情な手段も必要だ。だが、その犠牲の上にこそ、より良い世を築かねばならない)彼は激しく咳き込み、その場に膝をついた。極度の疲労と重圧が、彼の体を内側から破壊しようとしていた。吐き気と目眩が襲う。
「奉孝!」
傍らにいた夏侯惇が、倒れかけた郭嘉を慌てて支える。
「…勝…った…これで…」
彼の口から漏れたのは、安堵と、そしてまだ見ぬ「より良い時代」への微かな希望だった。病弱な体で、この国を、人々を救うために、彼は文字通り命を燃やしたのだ。
烏巣炎上。それは官渡の戦いの流れを完全に変えた。兵糧を失った袁紹軍は総崩れとなり、曹操軍は一気に反撃を開始した。兵力で劣る曹操軍が、郭嘉の知略と曹操の決断力、そして将兵たちの奮戦によって、数十万の大軍を打ち破るという、歴史的な大勝利を収めたのだ。
戦場に、曹操軍の歓声が響き渡る。多くの将兵が、この奇跡的な勝利を喜び、そして病身の天才軍師、郭嘉に心からの畏敬の念を抱いた。彼の姿は、彼らにとって希望の象徴となっていた。
曹操は、燃え盛る烏巣の炎を見つめながら、郭嘉に言った。
「奉孝。貴殿のおかげだ。貴殿の知略が、この天下の趨勢を決した。我が覇業に、貴殿は不可欠だ」
曹操の言葉に、郭嘉は微かに笑みを浮かべた。彼の体調は最悪だった。意識を保つのもやっとだった。しかし、この勝利は、彼が目指す未来への確かな、そして決定的な一歩だった。袁紹軍は壊滅し、北方の脅威は去った。これで、天下統一は大きく前進する。歴史改変は、まさにここから本格的に始まる。
(官渡の戦いは終わった…これで、歴史は大きく変わる。この勝利を無駄にはしない。病に打ち勝ち、曹操と共に、民を救い、より良い時代を創るために…必ず生き延びてみせる)
病魔と疲労に蝕まれながらも、郭嘉は未来を見据えた。しかし、この勝利が、彼の体にどれほどの代償を強いることになるのか、そして病死回避という目標がいかに困難であるか、その時はまだ誰も知る由もなかった。