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第6話 飢餓と重圧

第6話 飢餓と重圧


官渡の戦いが始まって数ヶ月。状況は曹操軍にとって極めて厳しかった。袁紹軍は物量に任せた波状攻撃を繰り返し、曹操軍の陣地はじりじりと後退を強いられていた。兵糧は底を突きかけ、士気は日に日に低下。兵士たちは疲弊し、飢えと寒さに震えていた。冬の北風は厳しく、戦場の空気は鉛のように重かった。


曹操の顔には、疲労と焦りの色が濃く浮かんでいた。連日の劣勢は、彼を深く苦しめていた。軍議では、撤退や講和を求める声さえ上がり始めていた。


「孟徳様、もはや兵糧も尽きかけ、このままでは士気が持ちません。一旦兵をまとめて、許都へ引き返すことも…」


ある将が、震える声で進言した。他にも数名の将がその意見に頷いた。彼らの顔には、もはや限界の色が滲んでいた。


曹操は黙ってその将を見据える。撤退。それは即ち、これまでの全てを失うことを意味する。朝廷を袁紹に奪われ、自らの地位は地に墜ちるだろう。勢力は瓦解し、二度と立ち上がる機会は得られないかもしれない。


「…まだだ。まだ、打つ手はある」


曹操はそう呟き、傍らに控える郭嘉に視線を送った。


郭嘉は顔色が悪く、全身が怠い。咳き込みが激しくなり、時折めまいを覚えるほどだった。立っているのも辛い時がある。官渡の冬の寒さは、病弱な体には堪えた。戦場の不潔な環境、睡眠時間もほとんど取れない激務。これらは、彼の体調を急速に悪化させていた。しかし、彼の意識は異常なほど研ぎ澄まされていた。常に袁紹軍の動き、兵站の情報、内部の噂などを分析し、わずかな勝機を見出すため、持てる全ての力を絞り出していた。


(兵糧はあとわずか…このままでは、確かに持たない。袁紹は、我々が飢えていることを知っているだろう。そして、この圧倒的な物量差に慢心しているはずだ)


未来知識は、この絶体絶命の状況から曹操軍が逆転勝利を収めることを示唆している。鍵となるのは、袁紹軍の兵糧庫。しかし、その場所を特定し、そこに奇襲をかけるのは、この疲弊しきった状況では容易ではない。それでも、この策以外に活路はない。


郭嘉は自らの体調をごまかし、曹操に進言した。彼の声はかすれていたが、その言葉には確固たる意志が宿っていた。


「曹公。我々は確かに苦境に立たされております。しかし、袁紹軍は我々を追い詰めていると慢心しています。また、袁紹自身が優柔不断ゆえ判断は遅れる。配下を真に信頼せず、優れた軍師たちの意見に耳を貸そうとしない。これは、我々にとって好機となり得ます」


「好機、だと? どこにだ、奉孝」


曹操は縋るような目で郭嘉を見た。彼の瞳には、この若き軍師の言葉に最後の望みを託そうという切実さが見えた。


「彼の兵站。数十万の兵を養うには、膨大な兵糧が必要です。その輸送経路は必ず長大で脆弱になる。そして、その集積所…兵糧庫は、袁紹軍にとって生命線であると同時に、最も守りが手薄になりがちな急所となります」


郭嘉は、震える指先で地図上の一点を示した。そこは、袁紹軍の主力陣営からはやや離れた烏巣という場所だった。


「この烏巣。ここに袁紹軍の主要な兵糧が集積されている可能性が高い。そこを突くのです。少数の精鋭による決死の奇襲。成功すれば、袁紹軍は飢餓に陥り、一気に瓦解するでしょう」


それは、あまりにも危険な賭けだった。もし失敗すれば、曹操軍に残された最後の精鋭部隊を失い、文字通り万事休すとなる。撤退する力さえ残らなくなるかもしれない。


「烏巣…か。危険すぎる」


夏侯惇が険しい顔で呟いた。彼は郭嘉の才を尊敬していたが、あまりにもリスクの高い策にためらいを感じていた。もし失敗すれば、郭嘉だけでなく、自分たちも無駄死にすることになる。


荀彧は静かに郭嘉を見つめていた。彼の献策は常に既存の枠を超えている。しかし、その論理の根幹には、確かな確信めいたものがあった。王道ではないが、この絶望的な状況では、非王道こそが活路なのかもしれない。


曹操は黙って郭嘉の指差す場所を見つめていた。彼の脳裏では、郭嘉の言葉と、自身の置かれた絶望的な状況が交錯していた。他に、これほどの突破口となり得る策があるだろうか?この飢えと疲弊の中で、正攻法で袁紹に勝つことは不可能だ。


その時、郭嘉の体が大きく揺らぎ、激しい咳が込み上げた。咳は止まらず、息が苦しくなる。視界がかすみ、立っているのが難しくなった。


「奉孝! 大丈夫か!」


夏侯惇が慌てて駆け寄り、その体を支える。郭嘉の顔は蒼白で、額には脂汗が滲んでいた。あまりの咳に、呼吸すらままならない。


「…大丈夫です…っ、曹公…。この策以外に…勝つ道は…ない…っ」


途切れ途切れの声で、郭嘉は訴えた。彼の目は、それでも揺るがぬ光を宿していた。民を救う。曹操と共に天下を統一する。その強い思いが、病に蝕まれる体を突き動かしていた。ここで倒れるわけにはいかない。


曹操は郭嘉のその姿を見て、決意を固めた。この病弱な軍師が、自らの命を削ってまで進言する策。それは、常人には見えない勝利への道筋なのかもしれない。自分の勘が、この男を信じろと告げている。


同じ頃、袁紹の陣営では慢心が満ちていた。


「曹操め、いよいよ兵糧も尽き、虫の息と見える。もはや攻めずとも、自滅するであろうよ」


袁紹は悠然と語っていた。彼の周りには、彼の言葉に賛同する者ばかりが集まっていた。そこに、心配顔の許攸が進言する。


「殿。曹操は虎狼の輩。油断は禁物です。烏巣の兵糧庫は重要。守りを固めるべきかと。万が一、兵糧庫を叩かれれば…」


しかし、袁紹は許攸の献策を聞き入れず、苛立ちを露わにする。


「何を言うか! 我が数十万の大軍が、あの痩せ細った曹操ごときに破られると申すか! 貴様は臆病風に吹かれたか? あるいは曹操と内通しておるのではないか?」


許攸は内心で舌打ちした。(袁本初め、なんと傲慢で、猜疑心の強い男だ。これではいずれ、足元を掬われるぞ。田豊や沮授の言葉にも耳を貸さぬ。このままでは…)


袁紹と配下たち、特に有能な者たちとの間の不和は、郭嘉の分析通り深まっていた。それは、曹操軍が活路を見出すための、小さな、しかし決定的な亀裂となりつつあった。


「烏巣…決行する」


曹操は静かに命じた。彼の決断に、周囲は息を呑んだ。病身の軍師の一言が、数十万の運命を決めた瞬間だった。


郭嘉は、夏侯惇に支えられながら、曹操のその言葉を聞いた。奇襲部隊の編成、情報収集、そして自らの体調管理。やるべきことは山ほどあった。勝利への道は険しい。だが、希望の光は確かに見え始めていた。病弱な体で、この戦いを、そしてその先の未来を掴み取る。その決意を新たにした。

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