第5話 官渡前夜、絶望と光明
第5話 官渡前夜、絶望と光明
建安五年。歴史が大きくうねり始めた年。曹操軍は、北から押し寄せる巨大な波、袁紹軍と官渡において対峙しようとしていた。本拠地である許都の目と鼻の先で、雌雄を決する戦いが始まろうとしていたのだ。
曹操の陣営に張り詰めた空気が満ちていた。袁紹は数十万とも言われる大軍を動員し、南下を開始。対する曹操軍は、兵力で袁紹軍の数分の一に過ぎない。兵糧も決して潤沢とは言えず、地の利も袁紹軍に有利な部分が多い。黄河とその支流に沿って展開される袁紹軍の威容は、圧倒的な質量の差を誇示していた。多くの将兵が、この絶望的な状況に顔色を失っていた。
「袁紹、いよいよ来たか」
曹操は地図の前で腕を組み、静かに呟いた。その声には、敵の強大さを認める響きと、それでも怯まない強い意志が宿っていた。その目は、広大な戦場となるであろう平野と、そこに展開される敵味方の配置をシミュレートしているかのようだった。
軍議の場でも、重苦しい雰囲気が漂っていた。兵力差は歴然としており、正面からの衝突は自殺行為に等しい。様々な献策が出されるが、いずれも決定打に欠ける。守りを固めるべきか、それとも打って出るべきか、意見は割れていた。
その中で、郭嘉だけは冷静だった。病弱な体は、この数ヶ月の激務と緊張でさらに細くなったように見えた。政務と軍務を兼任する曹操を補佐し、来るべき戦の準備に奔走していた彼は、疲労の色を隠せない。時折、会議の合間に深々と咳き込むが、彼の眼光は鋭く、事態の本質を見抜いていた。曹操は、そんな郭嘉に全幅の信頼を置いている。
「奉孝、貴殿の意見を聞こう。この難局、いかに打開する?」
曹操が郭嘉に問いかけた。他の軍師たちの視線が集まる。彼らは郭嘉の呂布討伐での功績を認めつつも、この未曽有の危機において彼がどのような策を出すのか、固唾を飲んで見守っていた。荀彧は冷静に、夏侯惇は期待を込めた視線で郭嘉を見つめていた。
郭嘉はゆっくりと口を開いた。
「曹公、我々は兵力で袁紹に劣ります。しかし、決して勝機がないわけではありません。袁紹軍は強大ですが、同時にいくつかの致命的な弱点を抱えています」
彼の言葉に、僅かな希望の光が灯る。
「袁紹は虚栄心が強く、決断力に欠けます。有能な配下を疑い、讒言を信じやすい傾向がある。例えば、同じ名門出身の許攸のように、本質を見抜く才を蔑ろにする傲慢さもある。田豊や沮授といった優れた軍師も抱えておりますが、彼らを十分に活かせていない。これが彼の最大の弱点であり、付け入る隙となります」
未来知識は、袁紹という人物の末路とその理由、そして彼自身の人間性がもたらす結末を知っていた。郭嘉はその弱点を突く戦略を、既に頭の中で描き始めていた。
「故に、我々が取るべきは、正面からの消耗戦ではありません。彼の内部の弱点を突き、少数の精鋭による機動力を活かした奇襲と、相手の兵站を断つ兵糧攻めを組み合わせた戦略です」
奇襲と兵糧攻め。この二つは、呂布討伐戦でも用いられた要素だったが、それをこの数十万規模の袁紹軍相手に、いかに実現させるのか?その困難さは、場の誰もが理解していた。
「袁紹軍は兵が多く、補給線が長大です。河北四州から官渡まで、膨大な兵糧を輸送する必要がある。その兵糧の輸送には、必ず隙が生じます。そこを突くのです。敵の兵糧庫を叩けば、いくら大軍でも飢えには勝てない」
郭嘉は、官渡の戦いの行方を決めることになる決定的な要素をいくつか散りばめた。未来知識は、具体的な日時や場所まで教えてはくれないが、袁紹がどう動き、どのような判断ミスを犯し、彼の兵站の弱点がどこにあるかを示唆していた。
「そして、彼の優柔不断な性格と、配下間の不和を利用し、決断の遅れを誘い、内部を攪乱する。例えば、敵の有力な配下に対し、離間策を仕掛ける。あるいは、彼の猜疑心を煽るような偽の情報を流すのです」
郭嘉は、呂布攻略で実証された、敵の人間性を利用する戦い方を、袁紹軍というより大規模な相手にも応用する戦略を語った。
夏侯惇が感心したように言った。「なるほど…敵の多さは、逆に兵站という足枷になるということか。そして、袁紹奴めの性格が、その足枷をさらに重くすると…」
荀彧は考え込むように顎に手を当てていた。彼の王道的な戦略論とは異なる発想だが、郭嘉の言葉には確かな説得力があった。しかし、それでも大規模な戦いの厳しさを知る彼は、慎重だった。
「奉孝殿の策、理に適っております。しかし、数十万の大軍相手に、いかにして機動力を維持し、補給線を突くか…容易ではありません。それに、我々の兵糧もいつまで持つか…」
荀彧は現実的な難しさと、曹操軍自身の兵糧問題という弱点を指摘した。
「確かに困難です。しかし、兵力を集中させ、迅速に動くことができれば、不可能ではありません。相手の油断を誘い、決定的瞬間を捉えるのです。そして、兵糧については…」
郭嘉は一瞬言葉を切り、自らの体調を懸念していた。この大規模な戦いを乗り切るには、想像を絶する精神力と体力が必要になるだろう。史実の郭嘉は、まさにこの袁紹討伐戦の後に体調を崩し、烏桓討伐から帰還する途中で命を落とした。歴史改変の最大の山場は、自分自身の病死回避と、この官渡での勝利の両立にかかっている。激務は確実に体を蝕んでいた。
(民を救うために、天下統一は必須だ。そのためには、袁紹を倒さねばならない。病に負けてたまるか…!)
戦の合間を縫って、郭嘉は許都周辺の内政にも目を光らせていた。簡易的な治水施設の提案、衛生状態改善のための指導、食料備蓄方法の改良など、現代知識の応用は地道に進められていた。これらの改革は、短期的な戦力増強には繋がらないかもしれないが、長期的に曹操の勢力を安定させ、戦乱に苦しむ民の生活を僅かでも良くするための、彼の「より良い時代」への努力だった。それは、彼自身の病弱さと向き合う、もう一つの戦いでもあった。そして、彼の行う改革の報告を聞くたびに、曹操は満足げに頷いていた。
軍議の後、曹操は郭嘉を呼び止めた。
「奉孝。貴殿の策、受け入れよう。袁紹相手に正面からぶつかっては、勝ち目は薄い。貴殿の言う通り、彼の弱点を突くしかない」
曹操の顔には、郭嘉への絶対的な信頼が見て取れた。そして、僅かに疲労の色も。彼もまた、この重圧の中で戦っていた。
「は。しかし、この戦、容易ではありません。兵糧の件につきましても、可能な限り備蓄を増やす手立てを講じておりますが、戦が長引けば厳しくなります。曹公ご自身も、くれぐれもご自愛ください。曹公に万が一のことがあれば、全てが…」
郭嘉は、思わず曹操の体調と、彼の命が持つ重要性を気遣った。曹操は意外そうに目を見開いた後、フッと笑った。
「ふ、貴殿に言われるとは思わなかったぞ。だが、感謝する。互いに、この難局を乗り切ろうではないか」
曹操の手が、郭嘉の肩に置かれる。その手には、暖かさと、共に戦う者への揺るぎない信頼が宿っていた。
官渡の戦いは、もう始まっている。兵力差という絶望的な現実の中、郭嘉の知略という光明だけが、曹操軍を勝利へと導く希望だった。そして、病魔という影が、彼のすぐ隣に迫っていた。