第4話 北方の脅威、来るべき戦
第4話 北方の脅威、来るべき戦
呂布討伐の成功は、曹操軍に大きな勢いをもたらした。建安4年の年初、曹操は献帝を許都(後の許昌)に迎え、名実ともに朝廷を掌握し、最大の難敵である袁紹との対決を一層鮮明にした。
軍議の席で、曹操は険しい表情で地図を見下ろしていた。呂布を滅ぼしたとはいえ、北には依然として強大な袁紹が控えている。彼は河北四州を制圧し、兵力、糧秣、人材、どれをとっても曹操を凌駕していた。
「袁本初め、いよいよ刃向かうか」
曹操が呟く。傍らには、荀彧、荀攸、程昱といった古参の軍師たち、そして文官たちの列に並んで郭嘉が控えていた。呂布討伐における郭嘉の功績は絶大だった。彼の「待つ戦略」が呂布軍を短期間で崩壊させたことは、軍全体に衝撃を与え、仕官したばかりとは思えぬほど確固たる地位を築いていた。多くの将兵や文官が、彼を見る目に畏敬の念を混ぜるようになった。
「袁紹は名門の出であり、その威光は強大。しかし、彼自身の性格に大きな問題があります」
郭嘉は、静かに、しかし明瞭な声で進言した。時折、喉の奥から微かな咳が出るが、彼はそれを抑え、冷静に続けた。
「袁紹は虚栄心が強く、決断力に欠けます。有能な配下を疑い、讒言を信じやすい傾向がある。同じ名門出身の許攸のように、本質を見抜く才を蔑ろにする傲慢さもある。田豊や沮授といった優れた軍師も抱えておりますが、彼らを十分に活かせていない。これが彼の最大の弱点であり、付け入る隙となります」
未来知識は、袁紹という人物の末路とその理由、そして彼自身の人間性がもたらす結末を知っていた。郭嘉はその弱点を突く戦略を、既に頭の中で描き始めていた。
荀彧が頷き、郭嘉の言葉を補足する。「奉孝殿の仰る通り、袁紹殿は寛大に見えて、実は度量が狭い。優秀な者も多く抱えておりますが、彼自身の器が天下を納めるには不足しています。我々が袁紹殿に劣るのは兵力と地の利。しかし、才ある者を使いこなすという点では、曹公に分があります。兵站の確保、内部の結束こそが、彼に対抗する鍵となるでしょう。」
夏侯惇が郭嘉に声をかけた。「奉孝殿の策には、いつも驚かされる。呂布討伐では、まさか戦わずして敵が自壊するとはな。袁紹奴めも、あんたの手にかかれば同じようになるのか?」
夏侯惇は武骨だが、郭嘉の知略には純粋な敬意を払っていた。呂布討伐戦で郭嘉の指示に従って兵を動かした経験から、彼の言葉には絶大な信頼を置いているようだった。その尊敬は、他の多くの武将にも広がりつつあった。
「夏侯将軍。袁紹軍は呂布軍とは規模が違います。正面からの衝突は避けられません。しかし、彼の弱点を突くことで、その強大な力にも抗う道はあります」
郭嘉は答えた。呂布のような一点集中型の弱点ではなく、袁紹軍は組織としての規模が大きい。彼らを崩すには、より大規模で、より周到な準備が必要となる。
軍議では、袁紹への対策が熱く議論された。郭嘉は積極的に発言し、袁紹軍の内部構造、主要人物の性格、そして兵站の重要性を説いた。彼の提言は、時に他の軍師たちとは異なるものだったが、その論理的な裏付けと、呂布討伐で証明された実績が、彼に発言力と説得力を与えていた。特に兵站論は、彼の現代知識の応用であり、他の者が気づかない視点として曹操を唸らせた。
軍議が終わり、自室に戻ると、郭嘉は深々と咳き込んだ。激務と緊張が、病弱な体に重くのしかかっている。許都に移ってから、以前よりは衛生状態が改善され、手洗いやうがい、湯浴みに栄養バランスを考慮した食事など、当時の常識からすれば異端とも言える体調管理を試みてはいるが、根本的な病弱さは変わらない。体の内側からくる倦怠感は、努力だけではどうしようもなかった。このままでは、史実の郭嘉のように、大一番の前に倒れるかもしれないという不安が拭えない。
(まずいな。袁紹との戦いは、官渡は、俺が生き残るための、そして歴史を改変するための最大のチャンスだ。ここで倒れるわけにはいかない。体調管理を徹底しなければ…そして、戦い以外の面でも、力を示す必要がある)
体調管理に加え、彼はもう一つ、この時代でできる「改良」を考え始めていた。それは、内政。戦乱で荒廃した土地を回復させ、民を飢えさせないための施策だ。
(例えば、農業技術の改良では、連作障害を防ぐ輪作や簡易な有機肥料の利用を広めること。経済の安定化では、統一的な通貨制度の整備や行商の奨励。そして、民の生活安定のための公共事業や福祉の萌芽…)
未来知識には、古代から近代にかけて蓄積された、社会システムや技術の基礎がある。それらをそのまま持ち込むことはできないが、この時代の知識と技術を組み合わせれば、必ず「改良」できる点があるはずだ。それは、天下統一という戦いの側面だけでなく、自分が目指す「より良い時代」を創るためのもう一つの戦いでもあった。これらのアイデアを、まずは曹操や荀彧といった理解者から提案していく必要がある。
その夜遅く、曹操が郭嘉の部屋を訪れた。
「奉孝、無理はしていないか」
曹操は労るように言った。郭嘉の顔色の悪さに気づいたのだろう。その瞳には、深い洞察力を持つ曹操ならではの、相手の体調や精神状態を見抜く鋭さがあった。
「曹公、ご心配には及びません。…しかし、体は正直なようです」郭嘉は苦笑した。無理をしていないと言えば嘘になる。しかし、この乱世で、やるべきことをやらずにいられない。
「貴殿の才は、この天下を救う光だ。だが、その光が消えてはならぬ。体あってこそ。自らを大切にするのだ」
曹操は真剣な顔で言った。彼の言葉には、軍師としての郭嘉への評価だけでなく、得難い友を見出したかのような温かさも感じられた。曹操の人間的な側面。冷酷さの裏にある、才能への敬意と孤独。郭嘉は、この男になら全てを懸けても良い、と感じていた。
「お言葉、身に染みます。この体と、この知識を最大限に活かし、曹公の覇業にお応えする所存です。…曹公。内政につきましても、いくつか考えがございます。この乱世を終わらせた後、いかにして民を安んじるか、今から手を打つべきかと」
郭嘉は、内政改革への考えの一端を述べた。曹操の目が輝く。
「ほう、それは面白い。詳しく聞かせよ。戦も重要だが、戦後の世をどう創るか。それこそが真の覇業よ」
袁紹との決戦は近い。病魔、強大な敵、そして歴史改変の重圧。様々なものが郭嘉の前に立ちはだかる。しかし、曹操からの揺るぎない信頼、そして「より良い時代」への強い意志が、彼を突き動かしていた。