第3話 兵站を断ち、人心を衝く
第3話 兵站を断ち、人心を衝く
曹操は郭嘉の献策を受け入れた。『持久戦』。多くの将が首を傾げる中、曹操はただ一人、郭嘉の言葉に宿る真理を見抜いた。呂布の人間性と、構造的な脆弱性を突く戦略。それは、短期的な消耗を避け、確実に敵を内部から崩壊させる冷徹な一撃だった。
「奉孝、貴殿に一任する。呂布討伐の具体策、全て貴殿の指図に従おう」
曹操の言葉に、僅かながら同席していた他の軍師や武将たちの中に動揺が走った。仕官したばかりの若輩者に、これほどまでの権限を与えるとは。しかし、曹操の目は真剣そのものだった。郭嘉もまた、その信頼の重みに身が引き締まるのを感じた。史実の呂布討伐戦は、曹操自身が苦戦し、撤退さえ考えた戦だ。未来知識を使えば、それをより効率的に、そして被害を少なく終わらせられるはず。
郭嘉は動き始めた。呂布軍の籠もる下邳城を厳重に囲み、無理な攻城戦は行わない。その代わり、徹底したのは城外からの遮断だった。
「呂布は略奪によって兵を養う。すなわち、城の周囲から食料や物資を調達させねば、速やかに飢える」
郭嘉はそう指示を出し、精鋭部隊に周辺の村々や輸送路の徹底的な封鎖、略奪部隊の殲滅を命じた。これは単なる補給断絶ではない。呂布軍が民から略奪することを防ぎ、結果として戦乱に苦しむ民への被害を最小限に抑えるという、郭嘉の「より良い時代」への静かな意思表示でもあった。陣地構築においても、伝染病対策や衛生面に現代知識の応用(清潔な水場の確保、簡易的な汚物処理など)を示唆し、兵の健康維持を図った。
さらに、郭嘉は心理戦を仕掛けた。飢えと孤立の中で士気が低下した呂布軍の兵士たちに向け、降伏を促す文書を城内に投げ込ませる。呂布の猜疑心を煽るため、彼の腹心である陳宮や高順の不満を記したかのような偽の情報も巧妙に流させた。それは容易に呂布の耳に届くよう仕組まれていた。
城内では、郭嘉の策略が着実に効果を現していた。兵糧は底を突き始め、兵士たちの間に飢餓と動揺が広がる。呂布は苛立ち、些細なことで配下を怒鳴り散らすようになった。特に、苦言を呈する陳宮との対立は深まる一方だった。
「呂布め……このままでは、城兵は皆、飢え死にしてしまうぞ!」
陳宮は焦燥に駆られていた。かつて仕えるに足ると見込んだ男は、今や目先の享楽に溺れ、現実から目を背けているように見えた。陳宮は再三献策したが、呂布は愚かなまでにその耳を閉ざした。
「呂布殿、このままでは兵が持ちません! 何らかの手を!」
高順が何度も進言するが、呂布は聞く耳を持たない。むしろ、自分に意見する高順さえも疑い始める始末だった。郭嘉が巧妙に流した偽情報が、彼の強い猜疑心に火をつけたのだ。
飢餓と疑心暗鬼。郭嘉の「待つ戦略」は、呂布軍の内部を確実に腐食させていった。やがて、苦境に耐えかねた呂布の配下、侯成、魏続、宋憲らが決起する。彼らは陳宮を捕らえ、城門を開いて曹操軍に降伏を申し出た。
城は落ちた。
捕らえられた呂布は、曹操の前に引き出された。縄で縛られ、地面に膝をつかされている。その目は、かつての威光を失い、ただ助命を乞う情けない光を宿していた。
「孟徳殿、縄を解かれよ。私は孟徳殿を助け、共に天下を治めたい!」
呂布は必死に訴える。曹操は冷静に呂布を見下ろしていた。そして、傍らに控える郭嘉に目を向けた。
「奉孝。この男の処遇、どうすべきか、貴殿の意見を聞こう」
その問いに、郭嘉は迷うことなく答えた。彼の顔に浮かぶのは、かつて民の苦しみに心を痛めた青年の表情とは違う、冷徹な軍師の貌だった。
「殺すべきです」
静まり返る謁見の間。呂布が目を見開き、陳宮が苦い表情を浮かべる。
「なぜだ、奉孝!」曹操は問い詰めた。
「呂布は、繰り返す裏切りによって、すでに信用を失っております。丁原、董卓、劉備……誰に対しても忠義を尽くすことなく、ただ己の欲に従って主を変えてきた。このような男を生かしておけば、いずれ必ず災いの種となります」
郭嘉は淡々と言った。これは未来を知る者としての確信だった。呂布を生かせば、必ずまた曹操を裏切るだろう。歴史はそれを繰り返している。乱世を終わらせ、民を救うためには、非情な判断も必要だった。
(呂布…あなたの武勇は凄まじい。だけど、この時代に最も必要なのは、力だけじゃないんだ。あなたの存在は、戦乱の火種になり続ける)
転生者としての感傷が脳裏をかすめる。しかし、すぐに冷徹な思考に取って代わられる。多くの血が流れる乱世を終わらせるためなら、少数の犠牲はやむを得ない。そう、自分は郭嘉として、曹操の覇業を支え、より多くの民を救うのだ。
「劉備も過去に裏切られました。彼にも意見を聞くべきでは?」
曹操は敢えて劉備の名を出した。郭嘉は静かに答える。
「劉備殿も裏切られたとはいえ、彼の視点は私とは異なります。彼は義を重んじるあまり、時に現実を見誤る。この呂布を生かすことは、義ではなく、害にしかなりません。彼を野に放てば、再び誰かを裏切り、新たな戦乱の火種となるでしょう。天下統一のためには、ここで断つべきです」
曹操は郭嘉の瞳をじっと見つめた。そこに迷いはなく、ただ確固たる意志と、非情なまでの合理性が宿っていた。曹操は満足げに頷いた。
「……うむ。奉孝の言う通りだ」
そして、曹操は呂布に最期の時を告げた。陳宮もまた、曹操に仕えることを拒否し、呂布と共に最期を迎えることを選んだ。その選択に、郭嘉は静かに頭を下げた。陳宮は愚かな主を選んだが、その忠義だけは本物だった。
呂布の処刑後、曹操軍の陣営には、勝利の高揚感と共に、郭嘉という新たな、そしてあまりにも恐ろしい才への畏敬の念が広がった。特に、荀彧や夏侯惇は、郭嘉の若さからは想像できない深謀遠慮に、改めて舌を巻いていた。荀彧は冷静に郭嘉の戦略を分析し、その理論的な隙のなさに感心しつつも、その冷徹な判断に複雑な表情を見せた。夏侯惇は、郭嘉の病弱な体と、そこから繰り出される常人離れした知略のギャップに、驚きと尊敬の念を抱いていた。
曹操は郭嘉を自らの傍近くに置き、これまでの倍以上の厚遇を与えた。
「奉孝。貴殿が来てから、我が悩みは全て解決するようだ」
曹操はそう言って笑った。その笑みには、絶対的な信頼と、少しの、誰も気づかないような孤独の色があった。才を愛するがゆえに、自らの孤独を理解する者を見出したのかもしれない。
郭嘉は小さく咳き込みながら、その言葉を聞いていた。病弱な体は相変わらずだが、心は満たされつつあった。呂布を討ち、一つ大きな節目を越えた。この勝利は、曹操軍内の彼の地位を不動のものとし、今後の大規模な作戦、特に最大の敵である袁紹との対決において、彼が中心的な役割を担うための確固たる足場を築いた。
(病には負けない。曹操と共に、この乱世を終わらせる。そして、未来知識を使って、史実よりもずっと良い時代を創ってみせる)
静かに燃える決意を胸に、郭嘉は乱世の未来を見据えた。袁紹軍との戦いは、すぐにでも始まるだろう。