第2話 異才、曹操に光を示す
第2話 異才、曹操に光を示す
曹操は面白がるように目を細め、郭嘉に問いかけた。「ほう。ならば、その微力とやらで、この曹孟徳に何を示せる?」
郭嘉は深呼吸を一つしたが、肺が痛むような感覚に思わず小さく咳き込んだ。病弱な体は、この緊迫した状況でも彼に現実を突きつける。しかし、彼の眼光は一点の曇りもなく曹操を見据えていた。
「曹公、現在の最大の懸念は、呂布です」
その言葉に、場の空気が僅かに変わった。謁見の場に同席していた荀彧と夏侯惇の視線が、一斉に郭嘉に集まる。呂布。無類の武勇を誇り、各地を転々としては勢力を築き、最近では豫州内で曹操軍にとって無視できない脅威となっていた。多くの将兵が呂布の強さに手を焼いていた。
「呂布か。確かに厄介だ。だが、多くの者がそう考えているだろう。貴殿の『最大の懸念』とは、具体的に何を指す?」曹操の声には、まだ試すような響きがあった。
「呂布最大の強みは、彼自身の武勇と、彼を盲信する兵、そして張遼や高順といった優れた配下の存在です。しかし、彼の最大の弱みは、その人間性にあります」
郭嘉は断言した。
「人間性、だと?」曹操が訝しげに眉を上げた。
「はい。呂布は義理を解さず、利に聡いようでいて目先の欲に囚われやすい。そして何より、配下を真に信頼せず、また配下からも真に信頼されていない。陳宮は彼の短気を憂い、張遼らはその扱いに苦慮しているはずです。呂布の強さは個人の武に依存しており、組織としては脆い。特に、苦境に立たされた時、その統制は容易に崩壊するでしょう」
郭嘉は淀みなく続けた。未来知識は単なる史実の羅列ではなかった。登場人物たちの性格、行動パターン、失敗の歴史。それらが、呂布の「人間性」という言葉に集約されていたのだ。
「さらに申し上げれば、呂布軍は兵站が脆弱です。各地を転戦し、略奪によって食料や物資を賄うことが多い。これは短期的には有効ですが、長期的な戦いや大規模な兵を動かす際には限界があります。特に、曹公のように盤石な基盤を持った相手との持久戦になれば、彼らの弱点は露呈するでしょう」
兵站。現代の軍事学では基本中の基本だが、当時の戦において、その重要性を体系的に理解し、戦略に組み込める者はまだ限られていた。郭嘉は、歴史知識で呂布の行動パターンを知るだけでなく、現代的な軍事視点からその構造的な弱点を見抜いていたのだ。
「故に、取るべき策は一つ。短期決戦ではなく、持久戦です」
郭嘉の言葉に、夏侯惇が思わず声を上げた。「持久戦だと? 奉孝殿、呂布奴めは城に籠ると堅固ゆえ、兵糧の消費も激しくなる。むしろ短期で叩くべきでは!」
荀彧も静かに口を開いた。「孟徳様。潁川の地は我が軍の根拠地に近いとはいえ、呂布を野に放っておくわけにもいきません。短期で決着をつけられれば、それが上策では?」
曹操は何も言わず、ただ郭嘉を見つめていた。その目には、訝しさから興味、そして僅かな緊張の色が浮かび始めていた。
「夏侯将軍、荀彧殿のお言葉、ごもっともです。しかし、呂布軍は籠城すれば確かに厄介ですが、それは彼らに十分な兵糧がある場合に限ります。先ほど申した通り、彼らの兵站は脆弱。略奪に頼る彼らは、城に籠もれば外部からの補給路を断たれ、速やかに兵糧が尽きるでしょう」
郭嘉は咳を抑えながら、しかし確信に満ちた声で言った。
「我々は無理に攻め急がず、堅固な陣を築き、兵糧攻めにするのです。同時に、彼らの補下(兵糧調達のための略奪や輸送)を徹底的に妨害する。城外からの孤立を深めれば、やがて内部から動揺が生まれます。呂布の猜疑心は強く、苦境に立てば立つほど配下を疑い、命令が錯綜する。最終的には、内部崩壊、あるいは有力な配下による裏切りを誘発できる可能性が高い」
郭嘉は一息ついた。彼の提案は、当時の主流であった「武力による早期制圧」とは全く異なる、敵の構造的な弱点と人間性に着目した、論理的かつ冷徹な戦略だった。それは、未来の歴史が証明する、呂布攻略の有効な手段に他ならなかった。
「持久戦は兵糧の消費、士気の維持など、我が軍にとっても負担となります。しかし、それは呂布軍にとって致命的な負担となるのです。彼らは規律や信頼を欠いているゆえ、苦境に耐えきれない。我々がすべきは、彼らの弱点を突いた、待つ戦略なのです」
静寂が、謁見の間に落ちる。曹操は顎に手を当て、深く考え込んでいた。荀彧は目を見開き、夏侯惇は驚愕に顔を歪めていた。
「……待つ、だと」
曹操が呟いた。それは、彼が今まさに抱えていた懸念――呂布の武力と配下の強さゆえ短期での消耗戦を避けたいが、有効な打開策が見えないという状況――の核心を突くものだった。
「…面白い」
やがて、曹操が顔を上げた。その目に宿るのは、深い洞察力を持つ者だけが理解できる知略への感嘆。
「奉孝、貴殿の才、まこと恐るべし。我が求めるは、乱世を終わらせる才だ。貴殿ならば、それが叶うかもしれぬ」
曹操は立ち上がり、郭嘉の傍らに歩み寄る。彼の顔には、猜疑心の影は見当たらず、あるのは純粋な才能への渇望と、得難い宝を見つけたと確信する歓喜だった。
「我が軍師として、力を貸してくれ。この天下、共に獲るのだ」
差し伸べられた手を見る。その手は力強く、しかし乱世を生きる者の血と泥に塗れているようにも見えた。郭嘉は小さく咳き込みながらも、その手を取った。
「は。微力ながら、曹公の覇業にお力添えいたします」
病弱な体は、まだ未来の不安を孕んでいる。しかし、この瞬間に、郭嘉の、そして曹操軍の運命は、史実から外れた新たな一歩を踏み出したのだった。