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第15話 荒れる南土、病身の宰相の策

第15話 荒れる南土、病身の宰相の策


赤壁の炎が消えて一年余り。建安15年。曹操軍は南方の制圧を急速に進めたが、広大な支配地域を得たことで新たな問題が噴出していた。旧劉表・孫権勢力の残党、地方の豪族、そして文化や習慣の違いによる民の不満が結びつき、南方の各地で反乱や騒乱が頻発していたのだ。戦乱の火種は完全に消えておらず、天下統一への道は依然として険しかった。これは、郭嘉が官渡と赤壁で歴史を大きく改変したことで生まれた新たな混乱だった。


許都の郭嘉の病室には、南方の混乱を伝える報告書が山積していた。病身ながらも、南方の統治全般を任されている彼は、これらの状況に頭を悩ませていた。咳を一つしてから、郭嘉は次の指示を書き込む。


郭嘉の体調は、死の淵を脱した後、徐々に安定に向かっていた。以前のような命の危機は去ったが、病弱体質は変わらない。咳や倦怠感は残り、無理をすればすぐに体調を崩した。報告書を読みすぎたり、思案にふけったりすると、激しい咳が出て寝込んでしまうこともあった。それでも、彼は病と共存しながら職務をこなしていた。衛生、食事、養生法といった現代知識を応用した日々の体調管理は欠かさない。それは、彼がこの時代で生き抜くための、そしてやるべきことを成し遂げるためのもう一つの戦いだった。彼の病状は緩やかではあるが安定に向かい、かつてのような死の影は薄れていた。


「南方の状況は…やはり容易ではありませんな。鎮圧部隊を送るべきでは?」


曹操が、報告書を読みながら呟いた。広大な土地を治める難しさを痛感していた。武力でねじ伏せることの限界を感じ始めていた。


「はい。武力による制圧だけでは、民の心は掴めません。反乱の根本原因は、統治の不慣れ、旧勢力の反感、そして民が新しい秩序に順応できていないことにあります。彼らは我々を『征服者』として見ております」


郭嘉は、咳を一つしてから言った。顔色はまだ優れないが、その分析は冷静だった。彼の指先が、南方の地図上の反乱多発地域を示す。


「これらの反乱を鎮圧するには、武力だけでなく、知略と内政の力を組み合わせる必要があります。武力はあくまで最終手段。まずは、人心を掴むことです」


郭嘉は、南方の新たな課題に対する対策を立て始めた。それは、単なる鎮圧ではなく、反乱の火種を根元から摘み取るための多角的なアプローチだった。


(南方の民は、北方の我々とは文化も習慣も違う。言葉や食生活も異なる。旧勢力への忠誠心も根強い。武力で抑え込もうとすれば反発はさらに強くなり、いつまで経っても安定しない。必要なのは、彼らの不満を理解し、取り除くことだ。そして、彼らに『曹操の世の方が良い』と思わせること。彼らに、我々がただの征服者ではなく、彼らの生活を良くしようとしているのだと理解させること)


郭嘉は現代知識で知る組織論や社会学的な視点を応用した。反乱の首謀者に対する情報収集と離間策。反乱に参加した下層の民に対しては、首謀者と区別して寛大な処遇を約束する布告を出させ、早期の降伏を促す。そして、最も重要なのは、南方の実情に合わせた内政改革の加速だった。南方の有力者や才ある者を、旧勢力出身であろうと身分に関わらず積極的に登用し、現地の統治に当たらせる。彼らに裁量を与え、現地の民心掌握を委ねる。また、南方の気候や風土に合わせた農業技術の導入支援、商業の振興、海賊討伐による水上交易路の安全確保、そして郭嘉がこれまで進めてきた衛生改善や食料確保といった、民の生活に直結する施策の徹底も不可欠だった。


これらの施策は、南方の各地で徐々に実行されていった。最初は戸惑っていた民も、衛生的な環境で疫病が減り、飢えに苦しむことが少なくなり、才能が認められるようになると、曹操軍の統治を受け入れ始めた。戦乱で荒れていた土地に耕作が戻り、壊された水路が修復され、疫病で閉ざされていた村に活気が戻る。郭嘉が描く「より良い時代」が、現実として少しずつ形作られていった。それは、戦によって得られた勝利を、真に民のための平和と安寧に繋げるための、郭嘉にとって最も重要な、静かな戦いだった。


その間も、郭嘉の病との戦いは続いていた。無理をして指示を出したり、報告書を読み込んだりすると、激しい咳が出て寝込んでしまうこともあった。体は相変わらず病弱で、健康な者と同じようには動けない。だが、彼は諦めなかった。


(俺がやらなければならないことがある。病に負けて倒れるわけにはいかない。戦乱を終わらせ、民を救い、『より良い時代』を創る。劉備も孫権残党も、まだ完全に滅んだわけじゃない。彼らとの最後の戦いも待っている。その前に、この南方を、この国を安定させなければ)


彼の精神的な支えとなっていたのは、許都で彼を案じている曹玲の存在だった。時折、彼女が病室を訪れ、穏やかな時間を過ごす。彼女と話す時間は、激務と病の苦しみから解放されるかけがえのない時間だった。


「郭軍師、お疲れ様です。南方の状況、少しは落ち着いてきたと聞きましたが…無理はなさらないでくださいね」


曹玲が心配そうに問いかける。彼女の優しさは、郭嘉の心を深く癒やした。


「…お陰様で、玲殿。体は相変わらずですが、病魔も諦めかけたのかもしれません。それよりも、仕事は楽しいものです。玲殿に見ていただきたいのです、私が描く世が少しずつ形になっていくのを…」


郭嘉は咳き込みながらも言った。曹玲は、彼の痩せた手にそっと触れた。その手は、以前より僅かに熱を取り戻しているようだった。


「郭軍師の考えは本当に素晴らしいです。父上や他の皆様の戦での功績も偉大ですが、戦の後の世を創るのは、郭軍師のような方がいなければできません。飢えや病で苦しむ民が減り、皆が安心して暮らせるようになる…それは、私が心から願っていたことです」


曹玲は心から尊敬する眼差しで郭嘉を見た。彼女は、戦乱の苦しみを誰よりも理解しているからこそ、郭嘉が創ろうとする平和な世の価値を深く理解していた。彼女の瞳には、郭嘉への深い信頼と、特別な感情が宿っていた。


「…玲殿のような方が…安心して、笑顔で暮らせる世を創る…それが私の…最も大きな目標です。私が生き延びたのも…病に打ち勝つ努力を続けているのも…そのために…」


郭嘉はそう言い、曹玲の手を握り返した。赤壁での死闘、病との壮絶な戦い。それらを乗り越えた郭嘉にとって、曹玲の存在は、単なる癒やしや守るべき対象ではなく、共に未来を歩みたいと願うかけがえのない存在となっていた。彼女は、彼が創り出す新しい時代の象徴でもあった。二人の間には、深い信頼と、病と理想を共有する者同士の、静かで確かな絆が育まれていた。


劉備は益州で勢力を固めつつあり、臥龍・諸葛亮と共に曹操に対抗する最後の策を練っていた。孫権残党も、江東の一部で抵抗を続けている。しかし、彼らの勢力は赤壁以前に比べれば大幅に弱体化しており、もはや天下統一を阻むほどの力はない。残るは、これらの勢力の掃討と、歴史改変がもたらした新たな課題への対処だった。病身の宰相、郭嘉の知略により、南方の騒乱は徐々に収まりを見せ始めていた。


郭嘉は病室から、来るべき天下統一という最終目標を見据え、静かに、しかし着実に、歴史を紡いでいく。劉備や孫権残党が最後の抵抗を見せるだろう。それは、郭嘉の知略の最後の見せ場となるかもしれない。

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