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第12話 生還と南征への胎動

第12話 生還と南征への胎動


建安12年の冬。過酷な烏桓討伐遠征から、曹操軍は満身創痍ながらも勝利を収めて帰還した。袁氏の残党は掃討され、烏桓は平定された。北方の脅威は去った。兵士たちは疲弊し、多くの者が傷ついていたが、その顔には勝利の安堵と、長年の戦乱の終わりへの期待が浮かんでいた。


そして、病身の天才軍師、郭嘉も無事帰還を果たした。烏桓遠征中、死の淵を彷徨った彼は、現代知識と強い意志、そして何よりも生きることへの強い執念によって史実の運命に抗い、建安12年という死の年を生き延びたのだ。


「奉孝! 無事であったか! よくぞ、よくぞ生きて戻ってくれた!」


許都に帰還した郭嘉を出迎えた曹操は、彼の痩せ衰えた姿を見て、安堵と喜び、そして驚きが入り混じった複雑な表情を浮かべた。かけがえのない宝が生還したことへの喜びが、その瞳に満ちていた。郭嘉の手を取り、その温かさを確かめる。


「曹公…お陰様で…なんとか…生きて…戻ることが…できました…」


郭嘉の声はまだ掠れていたが、以前のような死の淵の苦しさは去っていた。肺の痛みや全身の倦怠感は残っている。病弱な体は相変わらずだが、致命的な危機は脱した。奇跡的な生還。それは、彼自身の努力と、そして歴史の大きなうねりの始まりを意味していた。


夏侯惇をはじめ、荀彧、荀攸、程昱といった多くの将兵や文官たちが、郭嘉の生還を喜んだ。彼らは、病身ながらも陣頭で献策し、命を懸けて遠征に同行したこの軍師に、深い畏敬の念を抱いていた。彼の生還は、曹操軍全体に新たな希望を与えた。不可能を可能にする男。


自室に戻り、清潔な寝台に横になると、郭嘉は深く息をついた。遠征中の過酷な日々が蘇る。飢え、寒さ、そして病魔との壮絶な戦い。あの時、もし諦めていれば、史実通りに命を落としていただろう。しかし、彼は抗った。生きることを、選び取った。


(俺は…生き延びた…建安十二年を…史実を変えたんだ…)


この生還は、単なる個人の延命以上の意味を持っていた。史実では、郭嘉の死後、曹操軍は南下し、赤壁で劉備・孫権連合軍に大敗を喫する。その最大の敗北に、郭嘉の知略が加わることになるのだ。未来知識が示す、曹操軍最大の悲劇。それを回避できるかもしれない。


体調は劇的に改善したわけではない。咳や倦怠感は残っている。免疫力も低いままだろう。病との戦いはこれからも続くだろう。だが、死の淵から生還した経験は、彼に新たな強さと、生きることへの確固たる決意を与えていた。病魔は完全には消えていない。病と共存し、それでもやるべきことをやる。それが彼の新たな戦い方だった。現代知識による体調管理も継続する。沸騰した湯を飲み、衛生に気を配り、栄養バランスを考えた食事を摂る。これらは、病と共存し、より長く生きるための彼の武器だった。


しばらくして、郭嘉の部屋に、待ち望んでいた人物が訪れた。曹操の娘、曹玲だ。烏桓遠征の間、彼女の存在は郭嘉の精神的な支えだった。彼の生きる原動力の一つ。


「郭軍師! お帰りなさいませ! 本当に、本当によかったです!」


曹玲は、郭嘉の無事な姿を見て、安堵と喜びで瞳を潤ませた。彼女は駆けるように郭嘉の傍らに寄り添った。その瞳には、病身の彼を深く案じる色が宿っていた。侍女は気遣って少し離れる。


「玲殿…ただいま戻りました。心配をおかけいたしました」


郭嘉は、病弱な体で精一杯、微笑んだ。曹玲の顔を見た瞬間、遠征の全ての苦労が報われた気がした。彼女の清らかな存在は、荒廃した乱世に希望の光をもたらす。


「本当によかった…父上も、皆様も、そして私も、どれほど心配したか…もう、あんな危険な遠征には…」


曹玲はそう言って、郭嘉の手を優しく取った。その温かさが、郭嘉の心を深く癒やした。彼女は、郭嘉の痩せ衰えた体を見て、改めてその過酷な戦いを想像し、心を痛めているようだった。


郭嘉は、曹玲の手を握り返した。彼女の存在。それが、彼が生きる理由であり、創るべき「より良い時代」の具体的な象徴だった。彼女を守りたい。彼女のような人が、安心して笑顔で暮らせる世を創りたい。


「…玲殿に…約束しましたから…必ず…生きて…戻ると…その…約束を…果たすために…」


郭嘉は掠れた声で言った。


「はい…」曹玲は小さく頷き、郭嘉の顔を見上げた。その瞳には、郭嘉への深い尊敬と、病身を押して命懸けで戦う彼に対する、特別な感情が宿り始めていた。


二人の間には、病と死の危機、そして過酷な戦場という共通の困難を乗り越えた者同士にしか分かり得ない、強い絆が生まれつつあった。曹玲は郭嘉の弱さを知り、それでも彼の才と志に惹かれていく。郭嘉は曹玲の優しさと聡明さに触れ、彼女を守り、彼女と共に平和な世を生きたいと願うようになる。


烏桓討伐の成功は、曹操の天下統一への道を大きく開いた。北方は安定し、残る敵は南方。次の目標は、荊州の劉表、そして江東の孫権。特に江東は、長江という自然の要害に守られ、水軍も精強だ。史実では、ここで曹操は疫病と火計によって大敗を喫する。


軍議では、南征の準備が進められていた。多くの将が、長江を渡る困難さや、水軍の経験不足を懸念していた。北方の騎馬兵主体である曹操軍にとって、水上戦は未知数だった。


郭嘉は、病身ながらも再び軍議に出席した。彼の頭の中には、史実の赤壁の戦いの詳細が鮮明に蘇っていた。建安13年。曹操軍20万(あるいはもっと多いとも)、劉備・孫権連合軍5万。兵力差は圧倒的だったが、曹操軍は大敗した。その最大の敗北要因は多岐にわたる。疫病、水上での不慣れ、船を鎖で繋ぐ連環の計、黄蓋の偽降、周瑜の火計、そして計算外の東南の風。これらが曹操軍の壊滅に繋がったのだ。


(疫病…長距離遠征と水上での集団生活は衛生状態が悪化し、疫病が蔓延しやすい。これは現代知識で対策できるはずだ。水の煮沸消毒の徹底、食料の衛生管理、簡易的な隔離施設の設置、衛生的な排泄処理、兵士への衛生教育、栄養補給…徹底すれば、史実ほどの被害は防げる)


(水上での不慣れ…これは訓練である程度補えるが、根本的な問題だ。船を繋ぐ連環の計は火計には極めて弱い。馬を恐れる北方の兵士を船に慣れさせるためとはいえ、これは愚策だ。もし敵が火計を仕掛けてきたら、逃げ場がなくなる。そして、風…長江では冬でも東南の風が吹くことがある。もし敵が火計を仕掛けてきたら、東南の風では我が軍の船団に火が燃え移り、壊滅する…)


郭嘉は史実の敗北要因を分析し、対策を考え始めた。兵に沸騰した湯を飲むことを徹底させる。衛生的な陣地構築。そして、船を繋ぐことの危険性を曹操に進言し、風向きを読むことの重要性を説く。気象予報はできないが、経験則や地形からある程度推測し、警戒を怠らないように促すことはできる。また、敵の火計を防ぐための策、あるいは逆に敵に火計を使わせる策はないか…これは、未来知識と現代知識応用の、新たな、そして最大の見せ場となるだろう。史実の悲劇は、回避できるかもしれない。いや、必ず回避しなければならない。


しかし、郭嘉の生存は、歴史に新たな不確定要素をもたらしていた。劉備や孫権陣営は、郭嘉が建安12年を生き延びたことを知れば、史実とは異なる警戒や対策を講じてくる可能性がある。郭嘉の存在が、彼らに史実以上の危機感を抱かせ、より周到な準備を促すかもしれない。特に、臥龍・諸葛亮。史実では郭嘉の死後に劉備に仕え、赤壁で火計を成功させる天才。彼が郭嘉の存在をどう認識し、どう動くか。郭嘉の生存が、彼の出廬のタイミングや、赤壁での戦略にどう影響を与えるか。


(諸葛亮…史実では俺の死後に表舞台に出てくる天才。彼との知略戦は、未来知識を持つ俺でも予測できない…新たな歴史。新たな強敵…)


新たな歴史。新たな戦い。病身の軍師は、曹操軍の南征準備を見据え、静かに思考を巡らせていた。彼の傍らには、彼を案じる曹操や夏侯惇、そして温かな光を放つ曹玲の存在があった。彼が創ろうとする「より良い時代」の実現は、この赤壁の戦いにかかっていると言っても過言ではなかった。


赤壁へ。史実最大の悲劇は、天才軍師郭嘉の生存によって、どのように改変されるのか。歴史が決定的に分岐する瞬間へと向かっていく。

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