第11話 天啓か、悪夢か
第11話 天啓か、悪夢か
北へ。建安12年。烏桓討伐の軍勢は、河北の最果てを目指し、過酷な道のりを進んでいた。荒涼とした大地、容赦なく吹き付ける冷たい風、そして慣れない土地での食料や水の確保。それは、病弱な郭嘉にとって文字通り死と隣り合わせの旅だった。揺れる馬車の中、彼は激しい咳と、全身を襲う鉛のような倦怠感、そして高熱に苛まれていた。史実の郭嘉が倒れた年。運命の刻がすぐそこに迫っていた。彼の命を狙う病魔は、烏桓遠征という過酷な環境に乗じて、最後の猛攻を仕掛けてきていた。
(体が…持たない…。このままでは…史実通りに…建安十二年…俺は…ここで…終わるのか…?)
意識が朦朧とする。肺が燃えるように熱く、呼吸が浅く速い。鎖骨が浮き出るほど痩せ細った体は震えが止まらない。頭痛が酷く、思考がまとまらない。五感が鈍り、外界との繋がりが薄れていく。病魔は確実に彼の命の炎を消しにかかっていた。許都を発つ前に、現代知識を応用した体調管理や養生法を可能な限り試みてきた。清潔な水の煮沸消毒、栄養補給(当時手に入る保存食や薬草)、保温、限られた状況下での休息の確保。しかし、遠征の過酷さは、彼の想像をはるかに超えていた。
「奉孝! 持ちこたえるのだ! 医官! 何か手立ては無いのか!」
馬車の外から、曹操の切迫した声が聞こえる。曹操は郭嘉の病状を深く案じていた。郭嘉の顔色は悪化する一方で、医官たちも為す術を知らない。「曹公…最早…」医官の言葉に、曹操は絶望に顔を歪める。このまま遠征を続けるべきか、郭嘉を連れて引き返すか、いや、引き返す体力さえ残っていないかもしれない。苦悩が曹操の胸を締め付けた。郭嘉なしに烏桓を討つことは不可能ではないが、彼の才があればこそ、この困難な遠征を成功させられるのだ。そして何より、彼の命が危ない。失いたいたくない、かけがえのない才。
「奉孝殿! しっかりしてください! 返事をしてください、奉孝殿!」
夏侯惇の声も聞こえる。彼は馬車の傍らを走り、郭嘉の様子を案じていた。武骨ながらも情に厚い彼は、病に苦しむ郭嘉の姿に心を痛めていた。自分に何かできることはないのかと、もどかしく思っていた。
(…病に…負けて…たまるか…)
郭嘉は意識が遠のく中で、歯を食いしばった。病死回避。民を救う。曹操の覇業。そして、許都で待つ曹玲の笑顔。
(玲殿…必ず…必ず…生きて…戻る…貴方様に…戦のない世を…見せるために…)
その思いが、朦朧とする意識の中で彼の魂を支えていた。病は物理的なものだが、それに抗うのは精神力だった。彼は、現代知識で知る病のメカニズムを思い出し、自身の免疫力を高め、病原体と戦うイメージを必死に思い描いた。清潔にすること、温かくすること、栄養を摂ること。これまでの地道な努力。そして何よりも、生きることへの、未来への強い渇望。それらが、病魔の猛攻を、奇跡的に、あるいはほんのわずかに押し返したのだ。
遠征軍は、郭嘉の献策通り、迅速に、敵の不意を突くルートを選んで進んでいた。険しい山道を越え、広大な草原を駆け抜ける。袁氏残党と烏桓は、まさか曹操軍がこの時期、このルートでこれほど迅速に襲来するとは予想していなかった。
その頃、郭嘉の病状は、まさに死の淵にあった。呼吸は浅く速く、意識はほとんどない。医官は、最早手の施しようがないと告げた。脈は弱く、体は冷たい。誰もが、稀代の天才の最期を覚悟した。
「奉孝…!」
曹操は郭嘉の手を取り、その冷たさに顔を歪めた。天才軍師の命が、今まさに消えようとしている。後悔が曹操の胸を締め付けた。無理を押して遠征に連れてきたのは、自分の欲だったのではないか?あの時、彼の言葉を信じず、遠征を取りやめるべきだったのではないか?
しかし、その時だった。
郭嘉の体が、ピクリと、そして確かな力強さをもって動いた。浅かった呼吸が、僅かに、しかし確かな力強さを伴って深くなった。苦悶に歪んでいた顔から、死の影がわずかに薄れたように見えた。
(…生きる…生きて…みせる…まだ…終われない…)
病と戦う、彼の強い意志。現代知識を応用した体調管理、そして何よりも、失いたくない未来への強い願い。それらが、病魔の猛攻を、奇跡的に、あるいはほんのわずかに押し返したのだ。それは、史実の運命に抗う、病死回避の瞬間だった。建安12年、郭嘉は死を選ばなかった。
郭嘉は数日後、かすかに意識を取り戻した。体は依然として怠く、咳も出るが、あの死の淵のような苦しみは去っていた。高熱は引き、呼吸も少し楽になった。病状は、劇的に健康体になったわけではないが、危機は脱した。死の淵から生還したのだ。
「…曹公…」
掠れた声で郭嘉が呟く。
「奉孝! 気づいたか! いや、奇跡だ…!」
曹操の顔には、安堵と喜び、そして驚愕の色が浮かんでいた。夏侯惇もホッと安堵の表情を見せた。他の将兵たちも、病身の軍師が生還したことに、驚きと畏敬の念を抱いていた。
「烏桓討伐は…?」
郭嘉が問いかける。まだ体は重く、頭も霞がかっているようだが、軍師としての本能がそれを促した。
「貴殿の献策通りだ。我々の迅速な進軍を敵は全く予想しておらず、虚を突かれた。烏桓は総崩れとなり、袁尚、袁煕も敗走。討伐は成功した! まさに貴殿の天啓だ、奉孝!」
曹操の言葉に、郭嘉は微かに頷いた。病身を押しての献策と遠征は正しかった。そして、病死回避という自身の戦いも、ひとまず勝利した。
(歴史を…変えた…。建安十二年…俺は…生き延びた…)
この病死回避は、単に一人の命が延びただけでなく、歴史の大きな改変を意味していた。史実の赤壁の戦いでは、郭嘉はすでにこの世にいなかった。曹操は南下し、孫権・劉備連合軍に大敗を喫する。しかし、この新たな歴史では、郭嘉は生きている。曹操の最大の敗北となるはずだった赤壁の戦いに、彼の知略が加わることになるのだ。未来知識が示す最大の悲劇は、回避できるかもしれない。
病弱な体は相変わらずだ。肺の痛み、倦怠感は残っている。病との戦いはこれからも続くだろう。しかし、死の淵を覗き込み、それでも生を選び取った郭嘉は、以前よりも一層、生きることの重みと、自分が歴史を変えられるという可能性を深く理解した。彼はもはや、病死という運命に囚われてはいない。
(これからの歴史は…誰も知らない。未来知識は、ここから先は推測にしかならない。史実通りには進まないだろう。劉備や孫権、諸葛亮は…俺の存在によって、どう動く?どんな新たな問題が発生する?だが…だからこそ…俺が…創るんだ…より良い時代を…玲殿が…安心して…暮らせる世を…戦乱を終わらせ…民に安寧を…)
烏桓討伐軍は勝利を収め、帰還の途についた。病死回避という歴史的なIFを果たした郭嘉は、病弱な体で、誰も知らない新たな未来を見据えていた。南へ。赤壁へ。歴史は、新たな、そしてさらに予測不能な局面へと向かう。




