第10話 死の淵からの献策
第10話 死の淵からの献策
建安12年。時間は容赦なく流れていた。官渡の戦いから7年。曹操は河北平定をほぼ終え、中原の覇者としての地位を確立していた。しかし、北方の憂いは完全に消えていなかった。袁紹の息子である袁尚と袁煕は遼東に逃れ、烏桓と結びついて抵抗を続けていた。彼らはしばしば国境を侵犯し、曹操の支配地域を脅かしていた。その脅威は、郭嘉が官渡で袁紹を早期に討滅したことによる、歴史改変の明確な副作用だった。史実よりも早く、袁氏残党と烏桓の結びつきが強固になりつつある。
軍議の席では、烏桓討伐の必要性について議論が交わされていた。
「烏桓の騎馬兵は精強。袁氏残党と結びつけば、北方の大きな脅威となりましょう。彼らがさらに力をつける前に、早いうちに討伐すべきです」
夏侯淵が進言する。彼の目は討伐への意欲に燃えていた。彼は、郭嘉の内政改革による兵糧増産や衛生改善の恩恵も受けつつ、軍の練度を高めてきた実感を持っていた。
しかし、慎重論も多かった。
「ですが、烏桓は遠方の異民族。遼東はさらに遠く、大軍での遠征となります。兵糧の確保が困難な上、時間をかければ後方の劉表や孫権が隙に乗じて攻めてくる危険もあります。無理な遠征は、後方に大きな危険を残します」
荀攸が冷静に分析した。官渡の戦いで兵糧不足に苦しんだ経験から、遠征の兵站確保の困難さは彼らにとって大きな懸念材料だった。多くの将兵も、遠征のリスクを恐れていた。荀彧もまた、許都の守りを固めるべきだと考えていた。
その中で、郭嘉は病身を押して軍議に出席していた。彼の体調は、建安6年頃よりわずかに持ち直した時期もあったものの、この建安12年という史実の病死時期が近づくにつれて、再び悪化の一途を辿っていた。顔色は土気色で、体は骨と皮のよう。全身の倦怠感と発熱が続き、激しい咳が頻繁に出るため、話すことさえままならない時がある。立っているのも精一杯で、時折眩暈に襲われる。しかし、彼の目は、病の苦痛を湛えながらも、異常なほど澄んでいた。そこには、乱世の本質と、来るべき未来を見通す鋭い光が宿っていた。
(建安12年…史実なら、俺が死ぬ年だ。烏桓討伐の遠征中か、帰還後に…。この遠征は、俺にとって、この体で迎える最後の戦いになるかもしれない)
郭嘉は、自身の命の期限が迫っていることを痛感していた。病死回避。その目標は、今、この烏桓遠征に挑むかどうかにかかっている。史実の郭嘉は、この遠征を強く主張し、そして遠征中に病死した。歴史を改変し、この病弱な運命を変えるなら、ここで病に倒れるわけにはいかない。だが、この体調で遠征の過酷さに耐えられるのか?不安と恐怖が彼の心をよぎる。それでも、後悔して終わるよりは、戦って終わりたかった。
そして、烏桓討伐の必要性も理解していた。袁氏残党が烏桓と結びつき、遼東の公孫康が史実よりも早く独自の勢力として動き始めている。この新たな火種を放置すれば、将来、さらに大きな災いとなるだろう。自分が官渡で歴史を大きく動かしたことによる波紋は、無視できない脅威を生み出していた。
「…曹公。烏桓討伐は…今こそ…行うべきかと…存じます」
郭嘉は、途切れ途切れの声で進言した。その声は弱々しかったが、病身を押しての発言であることに、軍議の場の全ての視線が彼に集まった。曹操の信頼厚い郭嘉の言葉は、他の将軍たちの議論を静止させた。
「奉孝! 貴殿の体調では…とても…」
曹操は、郭嘉の体調を案じ、思わず声を上げた。彼の顔には、郭嘉の命への心配と、彼の言葉を聞きたいという期待、そして彼の異才への信頼が複雑に入り混じっていた。他の将軍たちも、病身の郭嘉の言葉に驚き、心配と同時に、彼の言葉に込められた只ならぬ気迫に畏敬の念を抱いていた。
「…ご心配…感謝いたします…しかし…烏桓は…我々が後顧の憂い(劉表、孫権)を…気にして…遠征しないと…油断しております…」
郭嘉は、咳き込みながらも言葉を続けた。一言一言に、命を削るような力が込められている。
「…逆に…今…迅速に…軽装で…電撃的に…攻めれば…敵の…不意を突けます…彼らは…我々が…ここまで…来るとは…思っても…いない…はず…」
史実の郭嘉が献策した、敵の油断を突く電撃戦。転生者郭嘉は、その戦略の有効性を未来知識で知っている。この時代の常識を超えるスピードと奇襲こそが、勝機を生むのだ。
「…後顧の憂いは…ご無用…劉表は…臆病…自己保身のみ…彼に…この機に乗じて…動く…度胸は…ありますまい…孫権は…まだ若く…内部を…固めるのが…優先…彼もまた…動くことは…ありますまい…彼らの…性格を…未来知識と…過去の行動から…分析すれば…それは…明らか…」
郭嘉の分析は、未来知識による劉表と孫権の性格予測に基づいていた。史実でも、彼らはこの時動かなかった。その確信が、彼の言葉に重みを与えていた。
「…むしろ…今…烏桓を…討たねば…袁氏残党は…さらに…彼らと…結びつきを…強固に…します…遼東の…公孫康も…史実より…早く…勢力を…拡大しております…彼らが…結託すれば…北方は…将来…一層…大きな…脅威と…なります…これは…私が…官渡で…歴史を…改変した…副作用…その…副作用を…ここで…断たねば…なりません…」
病身ながらも、郭嘉の言葉には、未来を見通すような鋭い洞察と、自身の行動が歴史に及ぼした影響、そしてその責任を果たそうとする覚悟が宿っていた。彼が言及した公孫康の動きは、まさに郭嘉が官渡で歴史を動かしたことによる新たな副作用だった。その副作用に、郭嘉自身が立ち向かおうとしていた。彼の言葉は、他の将軍たちの慎重論を打ち砕いた。
曹操は、郭嘉のその言葉を聞き、圧倒されていた。病に侵された体から放たれる、あまりにも正確で、あまりにも先を見越した分析。彼の瞳の光は、まるで乱世の未来を照らしているかのようだった。劉表や孫権の性格分析、烏桓と袁氏、そして公孫康の連携による将来の脅威。それは、曹操自身が漠然と感じていた不安や疑問を、明確な言葉で解き明かすものだった。そして、歴史改変の副作用という言葉に、曹操は郭嘉が抱える秘密の深淵を垣間見た気がした。
「…分かった、奉孝。貴殿の言葉を信じよう」
曹操は、迷いなく決断した。烏桓討伐の号令が下される。
「…曹公…この遠征…私も…お供させて…いただきたく…存じます…」
郭嘉は、さらに声を絞り出した。遠征への同行。それは、彼の病状から考えれば、無謀とも言える願いだった。死地に赴くようなものだ。
「何を言うか、奉孝! 貴殿の体調では、とても遠征など…この陣営に留まり、病を治すことに専念せよ!」
曹操が驚き、強く制止した。夏侯惇も心配そうな顔で郭嘉を見た。他の将軍たちも、彼の発言に息を呑んだ。
「…なりません…この戦は…私が…献策した戦…その成否を…最後まで…見届けとう…ございます…そして…遠征先で…体調を…維持する…方法も…考えが…ございます…過酷な環境でこそ…私の…試みが…真価を…発揮する…かもしれません…」
郭嘉は、病身を押してまで遠征に参加することで、病死回避という自身の目標に立ち向かおうとしていた。遠征の過酷な環境でこそ、現代知識による体調管理法(水の煮沸消毒の徹底、特定の薬草や保存食の活用、防寒対策、限られた状況下での休息の工夫など)の効果を最大限に発揮できるかもしれない。それは、病死回避という自己目的と、烏桓討伐という軍事目標を同時に達成するための、彼なりの、そして最後の戦い方だった。死に挑むことで、生を掴み取ろうとしていたのだ。
曹操は郭嘉の強い意志を感じ取り、深く考え込んだ。郭嘉の命は、曹操にとって何よりも代えがたい宝だった。彼の才なくして、これまでの勝利はなかった。しかし、彼の言葉には、この戦いを成功させるために彼の才が不可欠であるという事実も含まれていた。そして、郭嘉自身が、この病との戦いに、文字通り命を懸けようとしていることも理解した。
「…よし。許可する。だが、決して無理はするな。貴殿の命が第一だ。万が一、容態が悪化すれば、すぐに引き返すのだ。約束しろ、奉孝」
曹操は、苦渋の決断を下した。彼の顔には、期待と、そして愛する部下の命を危険に晒すことへの苦悶の色が浮かんでいた。
烏桓討伐の軍勢が北へ向かう。病身の軍師、郭嘉も、揺れる馬車の中で激しく咳き込みながら、その中にいた。彼の体調は最悪だった。遠征の過酷さが、病状をさらに悪化させることは目に見えていた。しかし、彼の胸には、病死回避と、より良い未来を創るという強い決意、そして許都で待つ曹玲の面影があった。
(待っていてください、玲殿。必ず、生きて戻ります。そして、貴方様が安心して暮らせる、平和な世を共に創りましょう。貴方様の笑顔を見るために、俺は病にも歴史にも打ち勝ってみせる)
死の淵からの献策。そして、命を懸けた遠征。郭嘉の、そして歴史の最大の試練が、今始まろうとしていた。病魔という見えざる敵との最後の戦いが、過酷な遠征の中で繰り広げられることになる。




