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第1話 異邦の魂、病身に宿る

第1話 異邦の魂、病身に宿る


うめき声と共に、意識が浮上した。全身が鉛のように重く、肺腑を締め付けるような咳が込み上げる。かろうじて目を開けると、視界はぼやけ、埃っぽい天井が見えた。


「……ここは……?」


掠れた声が喉から漏れる。見慣れない部屋だ。古い木造の壁、簡素な寝台、傍らには薬湯らしき湯気を立てる器があった。何よりも、この体の感覚が、まったく自分の知るものと違う。弱々しく、熱っぽい。


混乱する頭で、直前の記憶を辿る。確か、現代日本で徹夜で仕事をしていて、急な目眩に襲われて……気がついたら、ここにいたのだ。


「転生、か……?」


かつて熱中したWeb小説やゲームで馴染みのある言葉が、ふと脳裏をよぎる。まさか、自分がそんな体験をするとは。だが、この体の不調と見慣れぬ光景は、それを裏付けるかのようだった。


体にかろうじて力が入るようになり、ゆっくりと身を起こす。部屋を見回す。古い書簡らしきものが積まれ、壁には見たことのない筆文字が書かれている。自分の手を見る。痩せ細り、爪は伸び、どう見ても現代人の手ではない。


その時、突然、膨大な知識の奔流が頭に叩きつけられた。人の名前、地名、歴史的な出来事、戦略、政治、文化……後漢末期の混沌とした時代背景。そして、この体が「郭嘉」という人物のものであること。


郭嘉。字は奉孝。曹操に仕えた、稀代の天才軍師。だが――


「建安十二年、享年三十八で病死……」


歴史の知識が、冷たい現実として突き刺さる。時は建安元年頃。この体は、遠くない未来に死を迎える運命にあるのだ。あの天才軍師と同じ、病弱な体。咳が再び込み上げ、胸が苦しくなる。史実の郭嘉は、この病に苛まれ、志半ばで倒れた。


(せっかく、新しい生を得たのに、すぐに終わってしまうなんて、元の世界でやり残したこと以上に悔しいじゃないか)


元の世界でやり残したこと、叶えられなかった夢が頭をよぎる。志半ばで倒れる悔しさ。それは、前の人生で感じた閉塞感にも似ていた。だが、今は違う。自分には、「未来の知識」がある。


(そうだ、俺は郭嘉だ。そして、未来を知っている。あのまま病に伏せて終わるなんて、絶対に嫌だ)


病死を回避する。それが、この新しい人生における最初の、そして最も差し迫った目標となった。現代の医学知識や衛生観念があれば、この時代の医療でも改善できることがあるかもしれない。体の管理を徹底し、病魔に打ち勝つ。それは、この体を与えられた自分自身の責任だ。


次に、この時代の状況を理解する。時は後漢末期、群雄割拠の乱世。民は塗炭の苦しみに喘いでいる。戦乱、飢饉、疫病……。窓の外から聞こえるかすかな人々の声、遠くの村から立ち上る煙。それは、歴史の知識として知っていたはずなのに、この体を通して感じると、胸を抉られるような痛みがあった。


(この時代の人々を、少しでも救いたい。戦乱を終わらせ、民が安心して暮らせる世を創りたい)


それは、前の世界で漠然と抱いていた、社会への貢献といった思いが形を変えたものだった。未来の知識は、天下統一という大目標だけでなく、身分差の緩和、公共福祉の充実といった、より具体的な「より良い時代」のビジョンを示してくれる。だが、そのためには、強力な後ろ盾が必要だ。


誰に仕えるべきか? 劉備か、孫権か、袁紹か、あるいは……。


頭の中で、未来の歴史が駆け巡る。どの勢力が天下に近づき、どの勢力が滅びたのか。誰が傑物で、誰が器ではなかったのか。


結論は、最初から決まっていたようなものだ。


(曹操だ。あの時代で、最も現実的で、かつ天下統一の可能性を秘めていた男。そして、俺が郭嘉として最も力を発揮できる相手だろう)


冷酷で猜疑心が強いという負の側面も知っている。だが、同時に、才能を愛し、乱世を終わらせるという強い意志を持っていたことも知っている。そして、史実の郭嘉が最も信頼を置いて仕えた相手だ。


(郭嘉として生きるなら、曹操と共に歩むべきだ。俺の未来知識と現代知識があれば、きっと彼の力になれる。そして、史実よりも早く、もっと良い形で天下を統一できるはずだ)


病身の体から、熱い決意が込み上げる。まだ咳は出るし、力も入らない。だが、心は滾っていた。病死回避、そして曹操と共に天下統一を成し、戦乱に苦しむ民を救い、「より良い時代」を創る。


これから歩む道は、史実とは違う、未知の道だ。未来知識は絶対ではない。自分が行動を変えれば、歴史もまた変わる。予期せぬ副作用や新たな問題も生じるだろう。曹操との関係性も、歴史改変の影響も、病弱な体も、全てがリスクだ。


だが、後悔して終わるより、ずっといい。


立ち上がるために、か細い腕に力を込める。まずは、この体を動かせるようにすること。そして――曹操に、会う。


時期は建安元年。曹操が豫州潁川郡に陣を敷いていた頃。郭嘉は伝手を頼り、その陣営を訪ねていた。


「献策を? しかも、齢二十七の書生が?」


曹操は面白がるように目を細めた。近頃、潁川には多くの俊英が集まるが、彼らの大半は名声かコネを頼ってくる。だが、目の前の青年は違った。病弱そうではあるが、その眼光には並々ならぬ光が宿っている。名を郭嘉、字を奉孝というらしい。荀彧や荀攸といった、自慢の軍師たちも名を挙げている人物だ。


「はい。この乱世に、曹公こそが光となれるとお見受けいたしました。微力ながら、お力になりたく」


郭嘉と名乗る青年は、咳を一つしてから澱みなく答えた。その声には、弱々しい体躯に似合わぬ芯の強さがあった。


「ほう。ならば、その微力とやらで、この曹孟徳に何を示せる?」


曹操は挑発するように問いかけた。多くの人間を見てきた彼には、この青年のただならぬ気配が感じ取れた。


郭嘉は一瞬の間を置き、口を開いた。その言葉は、曹操が今まさに抱えている最大の懸念を、核心から突き崩すものだった――。

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