71 血濡れの魔女・降りしきる雨、くすぶる火種 ①
史実においては、台風の接近は少し早いタイミングでした。
対馬海峡を西に通過した台風は「キジア」と呼ばれていたそうです。
この世界においては、作戦の日時がずれたか、あるいはバタフライ効果によって天候にまで影響が出たのか。
そのあたりは、読者の皆様のご想像にお任せします。
1950年9月
???(魔女)
朝鮮半島 京畿道
台風の襲来する季節だけあって、滝のような雨に舗装されていない道路は泥濘と化し、人々は立ち往生して動けなくなった荷車を人の手で押し、戦禍から逃れようとしていた。
降りしきる雨の中、おさげの黒い髪と赤茶けた斑模様のワンピースを濡らした少女が人々の列を眺め、呟いた。
「コミュニストどもめ。何が解放よ。独善的で気持ち悪い妄想に他人を巻き込んでそんなに満足なの?」
戦禍から逃れようと必死な民衆の列は途絶えることがない。傘もささず、着の身着のままで子を背負い荷車を押す民衆は、先の大戦と同じような目をしていた。
「・・・まったく。用がなければこんな所に来るつもりなんてなかったのに。誰か知らないが本当に余計なことをしてくれたわね。」
少女は腰に下げた軍用のカバンからボロボロになった地図を出し指でなぞる。
「よし。あと北に10キロ。もう、場所的に最前線にかかるわね。遺物が形だけでも残ってりゃいいんだけど・・・。」
事の発端は3か月前に遡るが、北緯38度線近辺で北朝鮮軍の砲撃が警告なしに開始された。
その後、平壌放送による「米帝国主義の傀儡である政権から韓国人民を解放する」との宣言を皮切りに北朝鮮軍10万の兵力が北緯38度線を超えて侵攻した。
半島の東海岸では北朝鮮軍のゲリラ部隊が次々と上陸し、韓国側の部隊は分断され、壊滅的な被害を受けた。
農繁期でもあったことから韓国軍は警戒を怠っており、また、ソウルでは侵攻があった日には陸軍庁舎の落成式の宴会で酔いつぶれた軍幹部が対応できず、政権中央への報告が遅れたことも原因の一つだ。
一部の部隊の奮闘により、韓国軍そのものが壊滅的被害を受けることは免れたが、アメリカをはじめとする西側諸国は衝撃を受け、大戦からまだ傷のいえていない世界は再び戦禍の泥濘に突入していった。
同時期、南朝鮮労働党の民間人を含んだ関係者が韓国政府により裁判なしで処刑されたが、たしか砲撃の2日後だったか。
気づいた時にはすでに教会の関係者も殺されてしまい、口を割らせることもできなくなった。
「ホント、どこの魔術師かは知らないけど、まったく厄介な遺物を作ってくれたものね。」
遺物の名前は、「破魔の角灯」といい、点灯すると一定範囲内のすべての魔法・魔術の効果を打ち消すという代物だ。
・・・「一定範囲内のすべて」がどの程度のものなのかが全く分からない。おそらく、魔力の流れに干渉して詠唱や術式を妨害するのではないかと思うが、膨大な魔力で無理やり術式を起動した場合はどうなるのだろうか。
それどころか、効果範囲が分からない以上、下手に空を飛んで接近することもできない。魔法の箒の効果が切れて地面に激突、破損した体を修復できず立ち往生、なんてことになったら目も当てられない。
すべての魔法使い、魔術師にとっての天敵みたいな代物だが、解析して対策を立てなければ私にとっても死活問題だ。
聖釘だけでも面倒だというのに、魔封じの道具が量産されるとなれば今後の戦略を根底から覆されてしまう。
その「角灯」と設計図面が、こともあろうに教会の京畿道支部に保管されているということが分かったのがつい1週間前なのだ。
「しかし、物探しか。一人だと厳しいわね。とりあえず、何か召喚しようかしら。戦場だし、戦える奴にしましょ。」
「光神の子にして美しきクランの犬よ。百の宝糸、百の黄金で飾られし神槍の主よ。我は汝が誉れをたえず称えるものなり。出でよ。クー・フーリン!」
詠唱が終わると同時に、黄金と白銀で彩られた神槍を手にした短身痩躯の美丈夫が姿を現す。
「マスター。お呼びに預かり光栄でございます。」
クー・フーリンに地図を示し、教会の場所と探すべきものを伝える。
「あなたは先行して破魔の角灯の反応を調べて。戦闘は可能な限り避けてちょうだい。・・・あ、そうだ、ちょっと待ってくれる?」
懐から袋を出し、停滞空間魔法を行使する。
「永劫を流れる金色の砂時計よ。我は奇跡の御手を持ちてそのオリフィスを堰き止めんとする者なり。」
「マスター。これは?」
「停滞空間魔法を掛けた飴よ。そのままでは口に含んでも溶けず味もしないけど、魔法を打ち消すものがあれば味がするはずよ、多分ね。」
「承知しました。では、反応があり次第お知らせいたします。」
クー・フーリンは軽く頭を下げたあと、足跡もつけずに泥濘の中を疾走していった。
◇ ◇ ◇
クー・フーリンの後を追ってぬかるんだ道を進む中、前から来た革のジャケットを着た男性が足を止める。
「もしかして美代ちゃん?君、三好美代ちゃんじゃないか?東京の空襲で死んだって聞いてたけど・・・。」
カメラを持った男性に突然名前を呼ばれるが、反応が遅れてしまう。この身体に憑依してから最初の数年はその名前を呼ばれていたが、ここのところ10年くらいは名前を呼ばれていなかったからな。
「ええと、どちら様?」
「ほら、興津小学校で一緒だった田所だよ。遠足で帝室博物館に行った時も同じ班だったじゃないか。」
「もしかして田所・・・道雄君?なんでこんなところにいるの?」
うわ、ずいぶんと老けたな。いや、無精ひげがひどいだけか?
そういえば、持っているカメラが帝室博物館に行った時と同じものだ。「フォクトレンダーVITO1」だったか。当時最新のカメラだったと記憶している。
「今、俺は従軍カメラマンをやってるんだ。ここも前線に近いからね。ところで、君は・・・昔のままだね。まるで東京に引っ越した時から成長していないみたいだ。」
面倒なことになった。三好美代が今代の魔女であるということは、すでに世界中の諜報機関に知られているだろうから、そっちはどうでもいい。
迷惑をかける可能性がある両親や兄弟は東京大空襲で全滅してるし、伯父や叔母については迷惑をかけるどころか、彼らがGHQに捕まって拷問されても気にしない。
ただの知り合いだったら殺してしまえば後腐れもないんだが・・・。道雄君は紀一の教え子だし、何より引っ越し前にかなり世話になったんだよな。さすがにいきなり殺すのはちょっとな。
「ええと、そんなに変わってないかな?あれから10年以上経つけど・・・。もしかして栄養失調だったから、かな。」
適当にごまかしておこう。ま、この身体の年齢は四捨五入すると30歳になるんだけどな。
「・・・女の年齢は分からないっていうけどすごいね。まるで10代後半みたいだ。」
すまない、道雄君。この身体の年齢は12歳で止めているんだ。ちょっと大人びた子供だったからよかったようなものの、もう少し成長させてから止めるべきだったと思うよ。とりあえず、話題をそらそう。
「従軍カメラマンってあまり聞かないけど、新しい職業なの?」
従軍記者なら知っているが、従軍カメラマンということは写真がメインということだろうか。
「ああ、いや、俺が勝手にそう名乗っているだけ。身分的には新聞社の特派員だよ。たまたま英語が喋れたからね。それより、なぜ君はこんなところにいるんだい?それにそんな恰好で。」
道雄君は私の頭からつま先までを無遠慮に眺める。確かに、この格好はおかしいかもしれない。
いくつもの術式を付与し糸のほつれや布の擦れを抑えたとはいえ、薄水色だったワンピースはいつの間にか返り血で赤茶色に染まっている。
言い訳が思いつかず黙っていると、何か勘違いでもしたのだろうか、彼は私の手を引き、近くの崩れかけた家の軒先に駆け込んだ。
「ほら、そんなにずぶぬれだと風邪を引くよ。これで身体を拭いて。ここにいるってことは、ご両親は半島出身だったのかい?っていうか、荷物はそれだけ?これからどこに行くんだい?」
彼は荷物から清潔なタオルを出し、私の頭にかぶせる。おせっかいなのは昔から変わっていないな。以前は心地よかったのだが、この状況だと邪魔なだけだ。・・・多分。
受け取ったタオルで頭を拭きながら考える。何とかしてこの場をやり過ごさないと・・・。
「ほら、身体を拭いたらこれを着て。風邪を引くといけない。」
彼はそう言って革のジャケットを脱ぎ、私に着せてきた。
油で手入れされているのだろうか、雨水をよく弾く。
・・・まったく、おせっかいだな。ジャケットが妙に暖かい。
だが、これから私が向かうところは砲弾が飛び交う最前線だ。彼を連れて行くわけにもいくまい。
「ありがとう。温まったわ。私はこれから行かなきゃいけない所があるの。それじゃあまたね。」
ジャケットを脱いで彼に押し付け、雨の中に飛び出す。
「ちょっと待って!」
彼の声に振り向くと、彼はこちらにカメラを向けて構えていた。
空が光り、近くに雷が落ちたのだろうか、轟音が響き渡る。
「うん。多分きれいに撮れたと思う。・・・どこに行くかは知らないけど、気を付けて。また会おう。いつか必ず。」
この身体に入ってから初めての妙な感情に後ろ髪をひかれながら、教会京畿道支部があったであろう場所に向かって泥濘を駆け抜けていった。
◇ ◇ ◇
目的地である京畿道の教会の近くに到着した時には、すでにあたりは薄暗くなっていた。
あたりは砲弾の雨でも降ったのか、建物は崩れ、道は砲弾で耕されている。
近くにクー・フーリンはいないようだ。おそらく、この区画全体を探索しているのだろう。生真面目な奴だ。
ん?・・・複数の人間の気配がする。少なくとも6人。うち二人はかなりの手練れの魔法使いだ。
近くの草むらに身を隠し、様子を見ながら術式を発動させる。
「術式束19227発動、続けて術式束2022161発動。術式束22497067発動。」
常駐式の魔力隠蔽に加えて、一気に12個の術式を発動する。
思考加速、身体強化、五感向上、感覚鋭敏化。
防御障壁、乱数回避、消音、気配遮断。
直感鋭敏化、高機動、照準妨害、認識阻害。
魔力隠蔽をする都合上、それぞれの術式は必要最低限だ。
だが、すべての術式がスムーズに発動したところを見ると、「破魔の角灯」は作動していないのか、あるいは破損しているのか。・・・ここにはない、なんてことも有り得るか。
白髪のソ連兵が北朝鮮兵に耳打ちしている。
「そこに誰かいるのか!いるなら出てこい!」
・・・これは朝鮮語か。装備からするとどうやら一人は北朝鮮の兵士のようだ。残りはソ連の兵士か。
それにしてもあの白髪の露助、私の気配遮断術式と認識阻害術式を突破するとはなかなか大した使い手だな。
ん?ソ連兵の持っているのは新型のサブマシンガンか?金属製の機関部に、ハンドガードとストックだけが木でできているが、大きく湾曲した弾倉が特徴的だ。
よし。鹵獲して自分への土産にしよう。
あ、合衆国の大統領にも一丁プレゼントするか。
私の中身は元々日本人ではないと教えたら、結構仲良くなったしな。
「・・・発動遅延、セット・ワン、七連唱。水よ、集いて一条の槍となれ。発動遅延、セット・ツー、八連唱。大地よ、轟け。そして打ち砕け。発動遅延、セット・スリー、四連唱。風よ、歌え。そして切り刻め。」
炎撃魔法と光撃魔法、そして雷撃魔法は使わないでおく。
こんな土砂降りの中で使ったら目も当てられないことになるからな。
「子供です!撃たないで!武器も何も持っていないです!」
術式を13個、発動遅延詠唱を3種類19個セットした状態で声を出す。
朝鮮語で答えてみるが、この言語、北と南で微妙にイントネーションが違うんだよな。ほとんど使ったことがないから、文法も単語も正しいかどうかあやしい。
両手を上げて草むらから出ると、ソ連兵らしい男が2人駆け寄ってきて、私の両手をつかみ、膝を折らせて泥濘に座らせ、拘束する。
ご丁寧に背中を銃床で殴った上で。いてて。
そのまま後ろ手に縛りあげられ、廃墟と化した教会に連れていかれると、瓦礫をどけて広くなったところに後ろから蹴り飛ばされた。
「おい、ガキ。こんなところで何していた。10歳くらいか?少年兵にしては装備がない。女のガキということは売春婦か?」
先ほどまで朝鮮語をしゃべっていた北朝鮮兵も途中からロシア語をしゃべっている。
さて、どうしよう。適当に股でも開いておけば少しは情報が得られるか?
「売春婦でもそうでなくても関係ねぇ。俺たちはもう3か月も女を抱いてないんだ。とっとと引ん剝こうぜ。」
「はは、おまえ、こんな枯れ木みたいなガキが好みかよ。」
「いいじゃねぇか。どっちにしたって穴くらい空いてんだろ。おいガキ。空いてるところに突っ込まれるのと穴開けてから突っ込まれるのとどっちが好みだ?」
一番若いソ連兵が銃口を私の腹のあたりに押し付け、ワンピースを乱暴に引きちぎろうとした。
・・・あ。術式のせいで素手で引き千切れない程度の強度になってるのを忘れていたよ。
ワンピースの生地が物理的な力に抵抗したことにより、微弱な魔力が漏れ出る。
魔法使いとみられる二人のうち、年長と思われる男が叫んだ。
「おい!そいつ、魔術師だ!生命の根源たる水よ!オケアノスの現身よ!我が意に従い猛りて槍となれ!」
ほう。詠唱が効率的だ。魔力制御も無駄がない。だが暗号化が甘い。
「麗しきオケアノスよ。汝は静謐な流れたれ。」
白髪のロシア人の魔法の制御を一瞬で奪い取ると、一瞬だけ槍を形作った水は、力を失って床に落ち、盛大な水音を立てた。
「・・・!大いなる豊穣をもたらせし雷神よ!翼馬を駆りて黄金の槌を振るいしペルーンよ!我が意に従い雷の槍となれ!」
お、若いほうの魔法か。スラブ神話か。珍しいな。だが詠唱が無駄に長い上に魔力制御が中途半端だ。
「雄々しきペルーンよ。翼馬は翼折れ飛ぶこと能わず。」
一瞬だけ風が吹き、何も起こらない。詠唱に割り込みをかけられるとは、まだまだ未熟だな。
「なに?何が起きた!まさか、破魔の角灯か?」
「アハハ!角灯なんかじゃないわ。魔法はこうやって使うのよ!セット・ワン解放!」
一瞬で七発の水槍魔法が解放され、2人の魔法使いの頭を撃ち抜き、爆散させる。
「このガキ!」
新型のサブマシンガンを持っていたソ連兵の2人が、それを構え、引き金を引き絞る。
はは、最低出力でたった一枚の防御障壁とはいえ、拳銃弾なんかで抜けるものか。せめてライフル弾を持って来い。
少し重めの音を立てて発射された弾丸は、展開済みの防御障壁に次々と当たり、四方へはじけ飛んだ。
・・・?障壁にヒビ?サブマシンガン程度の貫通力で?
不思議に思った瞬間、障壁が砕け数発の弾丸が私を襲った。
「グ、グハ、ゲホッ。」
腹に2発、胸に1発。右上腕部に2発。左足に1発・・・おいおい。右肺と肝臓、大腿動脈が吹っ飛んでるよ。私じゃなきゃ死んでるよ。
うわ、右上腕の骨が砕けて千切れかけてるし。
「みたか!クソガキ!今開けた穴に突っ込んでやるからな!」
まさか手抜きとはいえ、サブマシンガンでこの防御障壁を抜くとは。魔力隠蔽は解除するべきだったか。
「・・・術式重ねて931発動、セット・スリー解放。」
防御障壁を二枚展開し、発動遅延状態の風刃魔法を解き放つ。すると、瞬時に不可視の風の刃が現れ、残りの兵士を切り刻む。
すべての兵士がバラバラになり、確実に無力化が済んだあとで回復治癒呪を使って傷口を塞ごうとして初めてその傷の大きさに気付いた。
・・・これ、サブマシンガンじゃない!傷口は入口よりも出口の方がでかい。6発食らったが、普通の人間なら1発か2発で致命傷じゃないか。
「あ~あ。連射できるライフルだったなんて。油断した。・・・あ~もう~。肉片、集めなきゃ。」
でも、右上腕部から右腕が千切れたおかげで、後ろ手に縛られた拘束を簡単に解けた。
この近くに肉屋か魚屋でもあればいいんだが、最前線近くで営業している店があったら、むしろそっちのほうが怖い。何の肉を扱っているんだか。
・・・質量が足りない。また体重が減ってしまう。この際だ。そこら辺に転がったソ連兵の肉でもいいか。
しかし、魂が抜けきっていない人肉をそのまま回復治癒に使うと、魂が混ざる危険性がある。それを防ぐには、胃で消化して栄養素として取り入れるしかない。
・・・しかたない。好き嫌いなんて言わずに食べるしかないか。
回復治癒呪で右腕を繋ぎ、とりあえず止血だけしてから自分とソ連兵の肉片を一か所に集める。
新型のサブマシンガン、いや、連射できるライフルはとりあえず教会の奥に隠しておこう。・・・かなり重いな。
「ああ、憂鬱だ。人肉は不味いんだよな。どこかにウサギか何かいないかな。あと、醤油を持ってくればよかった。」
「無事か美代ちゃん!・・・何をしているんだ美代ちゃん?・・・やっぱり君は・・・。」
かなりヤバい独り言の途中で、先ほど聞いたばかりの声に目を上げると、廃墟となった教会の入り口に道雄君が古めかしいランタンを片手に、立ち尽くしていた。
この時代の魔女もそうですが、基本的に魔女は「貞操観念」というものが欠落しています。
貞操観念がなくても、我が子に注ぐ愛情や、恋人に対する恋慕の情は今の人間と変わるものではありません。
また、あまりにも多くの男性を相手にしてきたのと、切り刻まれても死なないことから、そこら辺の性犯罪者はおろか、戦場における性暴力にあっても眉一つ動かしません。
今の人間に理解できるものではないでしょうね。
ところで、「人肉は不味いんだよな」と言っていますが、それってつまり・・・。皆さんのご想像にお任せします。