59 笑顔とフラッシュバック
意外かもしれませんが心的外傷後ストレス障害というのは、近親者や親しい友人がひどい目にあったのを見ただけでも発症します。
ひどい目にあった本人が立ち直っても、近くにいた人間が立ち直れないということは医療の現場でもたびたび確認されているようです。(被害者が本当に立ち直ったのかは誰にもわかりませんが)
琴音は、遥香が受けた性被害や身体への加害の経過こそ見ていないものの、回復治癒魔法の最中にその体の詳細を知り、その悲鳴を抱きしめた腕の中で実感してしまっています。
一番の被害者である遥香が何事もなく日常に帰還できたのは魔女の力によるものですが、遥香がトラウマの原因と真正面から向き合い、克服する過程が完全に欠落していますから、遥香に相談することさえできない琴音は完全にその機会を失っています。
この状態はとても危険なのですが、魔女、そして千弦は気づいてくれるのでしょうか?
11月6日(水)
南雲 琴音
今朝も姉さんと二人で遥香の家まで一緒に登校するため、迎えに行く。
私は遥香の顔を見るのに少々の心構えが必要だったが、姉さんはあまり気にしていないようだ。
「おはよ~、琴音ちゃん!千弦ちゃん!今日もいい天気だねぇ。」
・・・ああ、またこの笑顔が見られるとは思ってもみなかった。魔女の魔法に心の底から感謝してしまう。
「あ、そうだ。これ。昨日、教室で忘れてたみたいだよ?」
姉さんが遥香に何かをそっと渡した。
「あ、リングシールド!なくしちゃったと思ってずっと探してたの。ありがとう!でも、はずした覚え、ないんだけどな?」
そういいながら、彼女は白魚のような左薬指にそっと嵌め、朝日にかざした。
「きれい・・・これ、買ったらいくらくらいするんだろう?」
遥香はうっとりするような目でリングシールドを眺めている。
「う~ん。さすがに制作者に聞かないとわからないなぁ。うちの健治郎叔父さんが作ったんだけど、今度会ったら聞いてみたら?」
私は遥香と姉さんが楽しそうに話しているのを見て、何かがこみあげてくるのを感じた。
「そうだね。お礼も言わなきゃ。あれ?琴音ちゃん、どうしたの?なにか悲しいことでもあったの?」
遥香の言葉にハッとして自分の頬を触ると、気付かないうちに涙がボロボロと流れていた。
《琴音、大丈夫?もしかして昨日のフラッシュバック?》
念話で姉さんが心配している。たぶん、フラッシュバックかもしれない。
でも、二人に心配はかけたくない。
「大丈夫、ちょっと大きなゴミが目に入っただけ。えーと、ハンカチはどこだっけな。」
・・・どうやら持って出るのを忘れたらしい。制服の袖で拭けばいいか。
「はい、ハンカチ。琴音ちゃん、本当に大丈夫?」
袖で顔を拭こうとしていたら、遥香が自分のハンカチを差し出してくれた。その優しさにますます涙が止まらなくなる。
「姉さん、今日、ちょっと先に行っててくれる?」
「分かった。遅刻しないように気を付けて。」
これ以上遥香の顔を見続けるのがつらくなった私は、差し出されたハンカチを握りしめたまま、近くの路地に飛び込んだ。
◇ ◇ ◇
遥香
遥香に身体を返してから、憑依するのにちょうど良い身体もなく、一昨日から魂だけの状態で千弦に憑いている。
・・・いや、憑いているといっても、一緒にいるだけだ。憑依しているわけではない。
さて、久しぶりにこの状態になった。通常であれば、憑依先を探して世界中を飛び回るところだが、遥香を放置することもできないし、千弦と琴音のことも何かと心配だ。
いっそあの半分頭でも殺して体を奪うか。・・・千弦も琴音もいい顔はしないだろうな。
動かす身体もないし、これからのことに思索を巡らせていたら、突然、琴音から念話で話しかけられた。
《ねえ、遥香、っていうか魔女さん。ちょっといい?》
《別に構わないですけど・・・。なんです、急に改まって。》
遥香、ではなく、「魔女」と呼ぶのだから、何か魔法関連で大事な話でもあるのだろうか。
《昨日のことなんだけど・・・。私、何の力にもなれなかった。遥香のご両親には、任せてくださいとか偉そうなこと言っておいて、遥香がひどい目に合ってる間、ずっと気絶してた。》
念話越しに琴音の泣きそうな気持ちが伝わってくる。琴音は私に数千年間、知らなかった大事なことを教えてくれた。この身を削ってでも、何とかしてやらないと。
《それは仕方ないでしょう。あなただって重傷だったんですよ。回復治癒呪であっさりと治したから実感がないでしょうけど、感電でいくつか障害が出ていたんです。意識が戻ったのだって奇跡みたいなものですよ。》
実際、テイザーガンの当たり所が悪ければ、心臓に心室細動以上の電流が流れて心臓が止まっていた恐れだってある。あのテイザーガンもどきは、こともあろうに1アンペア近く出ていたのだ。致命的な障害を引き起こすとされる100ミリアンペアの10倍だ。
《でも、姉さんはテイザーガンで撃たれても平気そうだったけど・・・。》
《あれは、千弦さんに雷神の神格を降ろしていたからですよ。それも日本最強の雷神です。テイザーガンどころか本物の雷が当たっても平気です。・・・琴音さんは遥香の生命維持をしっかりしてくれたじゃないですか。遥香が死なずに済んだのは琴音さんのおかげですよ。》
そうだ。遥香が生きているのは、琴音が人工心肺装置の代わりをずっとしていてくれたからだ。
《でも、遥香を守り切れなかった。昨日から遥香の泣き叫ぶ声が耳から離れないのよ・・・。やっぱり、強制忘却魔法で私の記憶も消してもらったほうがいいのかしら。》
《強制忘却魔法は可能な限り使いたくないんですが・・・。もしかして悪い夢でも見たんですか?》
《悪い夢・・・いえ、今もずっと見ているような気がする。》
千弦たちのことも心配だが、シェイプシフターに監視させておけば大丈夫だろう。今は琴音を何とかしてやらないと。
《分かりました。今日は授業を休みましょう。後ほどシェイプシフターを代わりに出席させておきます。カウンセリングはあまり得意ではありませんが、話を聞くぐらいなら何時間でもお付き合いしますよ。とりあえず、近くで座れるところにでも入りましょうか。》
しばらく琴音に憑くことを千弦に伝えておこう。
◇ ◇ ◇
琴音は駅から少し離れたハンバーガーショップへ向かい、飲み物だけを注文した。
《ありがと。頼りになるわ。・・・ところで、二人とも遥香だと呼びにくいわ。何か他に名前とかないの?》
《・・・長く生きているから、たくさん名前は持っていますよ。ただ、ひとつ前の名前は避けてほしいところです。》
《へぇ~、何て名前?》
《・・・ジェーン・ドゥ、です。》
その身体を手に入れたときの50年ほど前の戦いが脳裏に蘇る。あの時は何もかもかなぐり捨てて、ただがむしゃらになっていたな。
《何か問題でもあるの?何かのアニメに出てきそうな、いい名前だと思うけど?》
《・・・琴音さんが知らないのも仕方ないですよ。ジェーン・ドゥっていうのは、米軍の言葉で「身元不明死体」という意味です。千弦さんなら知っていたかもしれませんね。》
《なんでそんなひどい名前なのよ?》
《ひとつ前の身体を選ぶときは、あまりにも余裕がなくて死にたての身元不明死体を使いましたからね。前線になった村でボロボロになった姉妹の遺体を見つけて、無理やり蛹化術式で再利用したから、記憶情報も人格情報も一切残っていなかったんですよ。》
《人の名前を呼ぶのに、いくら何でもそれはないわね。なんかほかの名前ない?》
《そういえば、120年くらい前に使っていた丁度良さそうな名前がありますね。「南雲仄香」というんですけど・・・。》
《へぇ~。南雲って結構珍しい苗字だと思ってたけど、魔女さんも名乗ってたのね。もしかして親戚?》
《ええ。そうですね、あなたたち姉妹から見てひいひい・・・何代前になるのかしら?南雲紀一って人がいませんでした?》
《ああ、たぶんレイテ沖海戦で死んだって。いや、シブヤン海だったかな?姉さんに聞けばわかると思うんだけど・・・。確か、ひいひい爺さんだったかな。お墓に書いてあった。何で知ってるの?》
《私の息子です、私と紘一殿の間の。駆逐艦「藤波」に乗っていたはずでした。まあ、幼いころ、本妻さんに引き取られてそれきりですからね。家系図に仄香という私の名前は残っていないと思いますけど。》
《・・・ご先祖様、だったの・・・。今、魔女さんの呼び方が決まったわ。ほのか婆ちゃんよ。》
《婆ちゃん、はやめてください。そんな歳では・・・いえ、何でもありません。》
少し、琴音の思念波に余裕が出てきたのが分かる。しばらくそばにいてやろう。千弦みたいに戦うために身体制御術式で身体を借りるようなことは起こらないでほしい。
それともどこかに遊びに連れて行こうか。幸い蓄えはあるし。
《分かった。じゃあ、仄香ね。遥香とイントネーションも似てるし、今度からそう呼ぶわ。》
《ええ、お願いします。ところで、仄香と呼ばれていたころの顔、見てみたいと思いません?》
《え、写真なんてあるの?見たい見たい!》
《写真じゃなくて似顔絵になりますけど。琴音さんの手を借りて書きますので、少し体を借りてもいいですか?》
《うん、いいよ。》
《じゃあ、さっそく借りますね。少し目を閉じていてください。よろしいですか。》
琴音が目を閉じると同時に、琴音の体に滑り込む。
やはり双子だな。私との身体の相性は歴代最高レベルだ。魔力が千弦の身体を借りた時とまったく遜色なく馴染む。おそらく、この身体でも千弦と全く同じことができるだろう。
・・・抗魔力が高いせいで魔力に悪影響が出ているのか。
いや・・・これは・・・?千弦と魔力を共有している?
二人で魔力共鳴をすることにより、人間としては規格外の魔力を出力できるようになっているのか。
《どうしたの?何か不具合でもあった?》
《いえ、何も問題ありません。じゃあ、さっそく似顔絵でも書きましょうか。》
カバンの中からルーズリーフを一枚出し、鉛筆を持って自動書記術式を発動する。
ものの数分で和服姿の女の似顔絵が出来上がる。
《すごい!こんなに速く正確に書けるの?・・・あれ?この顔、見たことがあるような?う~ん。・・・そうだ!小学生最後の年の正月に南雲の家に行った時だ!鴨居に手紙と一緒に飾ってあった!》
写真が残っている?手紙と一緒に?その手紙の内容が気になる。誰から誰にあてたものだろう?
《琴音さん、その手紙、なんて書いてあったかわかります?》
《うーん。さすがに内容までは・・・。南雲の実家、これから行ってみる?長距離跳躍魔法でヒュッと行ってヒュッと帰ってこれるよ?いつまでもここにいるのもなんだし。》
《・・・ええ、よろしければ。南雲家の場所はわかります。静岡の興津町ですよね。》
《そうそう。300年以上前からの古い家だからね。でも色々合併したから今は静岡市清水区興津本町だね。》
ハンバーガーショップから出て、さっそく琴音の身体で魔法を行使する。
「術式束、72370439発動。勇壮たる風よ。汝が翼を今ひと時我に貸し与え給え。」
《うわぁ・・・。一体いくつの術式を同時に起動してるのよ。術式回路もなしに・・・。そのうえ魔法まで使えるなんて、ほんと、魔女って規格外ね・・・。》
琴音の感嘆の言葉もよそに、まだ見ぬ手紙が私の心を逸らせた。
琴音に深刻なフラッシュバックが起きているのに、千弦はそれほどでもないように感じている(ように見える)のは、魔女により神格が降ろされていたことが影響しています。
人間の脳神経だけでは神格を降ろしたことによる情報処理が追い付かず、一部を魔女が術式で補っていますが、逆に言えば「そんなこと感じている余裕なんてない」だけであって「冷血女」だからではありません。
・・・あのとき、琴音が完全に気絶していなければ、魔女が憑いたのは琴音だったかもしれませんね。