50 「遥香」の異変①
一般に、憑依というと何か悪いものに憑かれた状態を指しますが、そうでない場合ってあるんですかね?
ちなみに・・・「憑りつく」とも「憑く」とも書けます。日本語って不思議ですね。
11月4日(月)
久神 遥香
今日は振替休日なので、朝から遙一郎と香織とともに上野の東京国立博物館に行く予定だ。
今朝は起きた時から珍しく体調がすぐれており、身体強化術式等を一切利用せず、一日中歩き続けても倒れないですみそうだ。
さすがに8か月も経てばどんな体にも慣れることができるだろう。
千弦や琴音、咲間さんといった友人もできたことだし、健治郎殿とも親睦を深めることができたことは、大変喜ばしいことだ。
とくに健治郎殿はいい男だ。
この生活をできる限り守るためにも、この体と、家族である遙一郎と香織も大事にしなくてはな。
「遥香~。準備できた~?」
階下で香織が呼んでいる。
いつもの休日は朝食の片付けを手伝うのだが、今朝は料理から片付けまでのすべてを遙一郎がしてくれるということだったので、甘えておいた。
「ママ~。準備できたよ~。今行くよ~。」
遥香のお気に入りだった薄水色のワンピースに袖を通し、健治郎殿から贈られたリングシールドを左薬指にはめる。
健治郎殿に聞くところによれば、このリングシールドは、嵌めている者の魔力が強ければ強いほど、より強固な障壁を構成するという。
健治郎殿が珍しく好みのタイプの男性であったため、少し舞い上がってしまったが、当然リングシールドの術式や理論上の限界強度は解析してある。
高度に暗号化された術式の末尾には、誇らしく健治郎殿の名前が刻まれていた。
大したものだ。これほどの術式を、ここまで安定させて、わずか指輪サイズに刻むとは。世が世なら大錬金術師の名もほしいままにできただろう。
少なくとも、この体で出力する魔力程度では破損することはないようだ。
なんという堅牢性のある術式だろうか。
また、何よりもありがたいことに私が作った術式ではないため、聖釘の影響下においても問題なく作動することが確認できた。
玄関に降りていくと、遙一郎と香織が支度を終えて待っていた。
「ママ、お待たせ。」
「遥香、今日は体調大丈夫?つらくなったらいつでも言うのよ。」
相変わらず、香織は心配性だ。・・・まあ、仕方ないか。今年の春が終わるまでは生きた心地がしなかったんだろうし。
◇ ◇ ◇
遙一郎の運転する車は、首都高上野線の上野出口から一般道へ下り、京成上野駅の駐車場に入っていった。
さて、東京国立博物館に来るのは三度目だ。
一度目は百二十年くらい前だろうか。
そのときは、確か帝室博物館という名前だったか。そのあと、例の大震災で本館だけでなく、2号館と3号館もやられてしまったからな。表慶館のみはなんとか残ったらしいが・・・。
懐かしい思い出だ。たしか、一度目は紘一殿と一緒に行ったんだ。
紘一殿とその母君に乞われて南雲の家の妾になった後、最初に私を連れて行ってくれた場所だ。そのあとすぐ、20世紀最初の年に男の子が生まれたんだ。
名前は、紘一殿が紀一、と名付けたっけな。
あのあと、紀一が大きくなったらまた来ようと約束をしたけど、紘一殿は日露戦争であっさりと戦死してしまった。
紘一殿には最後まで私が魔女だということは言い出せなかったな。知っても愛してくれただろうか。
それからすぐ、私が妾だったからか、あの子は石女だった奥方のものになったっけ。奥方も姑さんも、あの子のことは我が子のように可愛がってくれたらしい。
あの子が大きくなったころ、博物館が震災で焼け落ちたと聞いたときは、本当に悲しかった。
私自身も教会に追われ、身を隠すために震災で死んだことにしていたし、新しい身体をその5年後に手に入れるまで、私の顔を見せに行くことも出来なかった。
そのころ南雲先生、と尋常小学校で呼ばれている紀一はお嫁さんをもらって幸せそうに暮らしていたらしいな。
時々、寂しくなってこっそりと本妻の紬殿にお願いして、様子を聞いたりしていたんだっけ。
その後、手に入ったのは三好美代、という少女の身体だった。美代も不幸な子だったな。
体を乗り換えてすぐの頃、あの子の教え子として教室にいたときに、遠足でこの博物館に連れてきてもらったんだっけな。
あれは戦争が起きた年の前の年だったか。たしか、正倉院御物特別展観とかいう、史上初の正倉院御物の展示を行っていたっけな。大盛況だった・・・。
そのあとすぐに戦争が始まって、あの子に赤紙が出たと聞いたのはすでに出征した後だった。海軍の駆逐艦乗りになったと聞いたが、会いに行けるわけはなかったんだよな。
骨も戻ってこなかったから、骨壺には代わりに小学校で使うチョークを入れたんだよな。
子供に先立たれることなど、いつものことだ。いや、当たり前か。私の子供は一人を除いて、確実に私より先に死んでいる。
・・・ああ、そういえば千弦も琴音も、紘一殿の面影がある。そうだ、紘一殿はあの二人の何代前の先祖になるんだろう・・・?
懐かしい名前を思い出していると、不意に声がかかる。
「さて、ここから少し歩くけど、遥香、大丈夫か?」
珍しく遙一郎が私の体調を気遣う。何かあったんだろうか。
「大丈夫だよパパ、車酔いもしてないよ。」
・・・もしかして顔色が悪かったか?
香織がそっとハンカチを出しながら心配そうに私の顔を覗いてきた。
「遥香、どうしたの?なんで泣いているの?」
そっと頬に手をやると、一筋の涙がこぼれていた。
「大丈夫だよママ。たぶん、さっき欠伸したからだよ。」
ごまかすように背伸びをしながら、上野公園に続く出口に向かって歩き出した。
◇ ◇ ◇
東京国立博物館に到着すると、入り口入ってすぐの掲示板に「日本刀展」「吉野ケ里遺跡展」「銅鏡復元・当時の銅鏡を現在の技術で修復!あなたの顔が映るか試してみよう!」などと書かれた色とりどりのポスターが貼ってあった。
「へぇ~。遥香、日本刀展だってさ。童子切安綱、見れるかな。」
「わたしは銅鏡が気になるわ。遥香も見てみない?」
遙一郎と香織は、それぞれ見たいものがあったらしく、それぞれの詳細が書かれたパンフレットを手にそろって順路を進んでいく。
私はどちらかというと、展示物より東京国立博物館そのものに興味があったのだが、展示物にも興味がわいてきたので、二人の後についていった。
日本刀の展示場で遙一郎が童子切安綱に張り付いたまま、しばらく蘊蓄を語り、動かなくなったのを除けば、順調に展示場をめぐっていた。
吉野ケ里遺跡で新しく発見された把頭飾付有柄銅剣や、当時の生活の様子を物語る様々な出土品を見て、年月の流れの速さと、薄れて消えゆく記憶に軽く身震いをした後、最後に復元された銅鏡のブースに差し掛かった。
なんでも、吉野ケ里遺跡近くの古墳の中から千枚を超える銅鏡が出土したらしい。
展示されてる鏡は、出土した物の中でもひときわ豪華な装飾が施された銅鏡の一つがあまりにも保存状態が良かったことから、緑錆を落としサンドブラストで表面仕上げをして実際に人の顔が映るまで磨き上げたモノだそうだ。
・・・なんというか、考古学的価値と美術品としての価値を混同していないか?反対する学芸員はいなかったのだろうか・・・。
「遥香!見て。この銅鏡、本当に顔が映るわ!」
香織が興奮して手招きをするので、私もその銅鏡を覗き込んだ。
・・・!
銅鏡を覗き込むと同時に身体が前から突き飛ばされたような衝撃を受け、後ろに数歩、たたらを踏む。
『何?今のは一体!』
思わず声を出してしまった。・・・いや、声が出ない!?
ふと前を見ると私と同じくらいの年頃の、薄水色のワンピースを着た少女が一人、座り込んでいる。
よそ見をしているうちにぶつかってしまったのだろうか。
『あの、大丈夫ですか?』
声をかけながら手を伸ばし、その顔を見たとき、あまりの事態の驚愕した。
遥香だ!遥香の身体だ!
「遥香、大丈夫?いきなり座り込んだりして、具合が悪くなっちゃったの?」
香織が心配そうに遥香の身体に声をかける。
「・・・ママ?ここ、どこ?私、なんでこんなところにいるの?」
遥香の身体に入った何者かが混乱している。
「遥香?どうした、何があったんだ?」
遙一郎が心配そうにその顔を覗き込み、その身体を支え、近くのベンチに座らせた。
・・・これは?何が起こっている?
遥香の中にいる、何物かの魂の波長に憑依の時の不安定さがまったくない・・・。まさか、オリジナルの遥香が帰ってきたのか!?
とにかく緊急事態だ。だが、遙一郎には念話のイヤーカフを渡していない。何とかこの状況を伝える方法はないものか・・・。
・・・!そうだ!
《千弦。休日にすまない、今時間あるか?》
千弦に念話を飛ばす。
《・・・ごめ~ん、寝てた。・・・まさかもう学校!?寝坊した!?》
まだ寝ていたのか・・・。それもイヤーカフをつけたままで。もう昼前だぞ。
《休んでいるところすまない。非常事態が起きた。少し、身体を貸してくれるか?》
《いいよ~。・・・え?身体を・・・え、何ていった?》
寝起きを襲うかのようで本当に悪いと思うが、それどころではないので構わず千弦の身体のコントロールを奪う。どんな形でも同意さえ取れればこっちのもんだ。
イヤーカフに念話だけでなく身体制御系の術式を組んでおいて本当に良かった。真田副長の言葉ではないが、まさに「こんなこともあろうかと」だな。
千弦のベッドの上で起き上がり、両掌を開いたり握ったりしてみる。
軽く全身に魔力を流してみると、遥香の体よりスムーズに、かつ大量の魔力が流れる。まるで使い慣れた自分の体のようだ。
これならまず間違いなく、魔女の魔法の大部分が行使できるだろう。
・・・遥香の身体より、よほどしっくりくるな。私とこの身体の相性、歴代でもトップクラスじゃないか・・・!
いかんいかん。友人の身体を奪うことなど考えるべきではない。
千弦が何かの病気や事故で死ねばその可能性もあるだろうが、万が一にもそのようはことはあってはならない。
・・・それにしても、なんだここは?千弦のやつ、倉庫で寝起きしているのか?
コンクリート打ちっぱなしの壁に、どこかの会社で使うような折りたたみ式の長テーブル、その上には・・・3Dプリンター?それとレーザー刻印機?ボール盤にフライス盤、旋盤まである。
足元に散らばるのは電動工具。壁一面にかかっているのは銃器。・・・おいおい、MINIMIまで置いてあるよ。
・・・うわぁ。パジャマが迷彩柄だ。
気を取り直して、スマホを探す。それと、何も見えないじゃないか。メガネはどこだ?
スマホとメガネは枕の下にあった。スマホはとにかく、メガネが潰れたらどうするんだ。・・・よかった、顔認証だ。
暗証番号がわからなければ干渉術式と解析術式で無理やり突破してしまえばいいが、このスマホのOSはとにかく時間がかかるんだよな。
手早く遙一郎のスマホの番号を入力し接続する。
「はい、久神です。」
3コールもしないうちに応答があった。
「もしもし、私だ。魔女のほうの遥香だ。今は、千弦の体を借りて電話している。」
「・・・どういう状況だ?まさかと思うが・・・今この体の中にいるのは・・・。」
電話の向こうで息をのむ音が聞こえる。
「そのまさかだ。オリジナルの遥香が戻ってきたんだよ。・・・その遥香がどこまで知っているのかわからないが、この8カ月のことも含めて香織にバレるとまずい。」
そこら辺の壁に掛けてあった無難そうな無地のブラウスにそでを通し、どこぞの陸軍の迷彩柄のスカートをはく。これは・・・リボンか?スカートのポケットにあったオリーブドラブのリボンを襟に通し、素早く結ぶ。
ええと、靴下の替えは・・・なんでタンスの中にアモ缶が入っているんだ?
「どうすればいい?」
遙一郎が電話の向こうでそう言っているが、私だってこんなの初めてだ。そんなこと分かるものか。
「とにかく急いでそちらに向かう。上野公園までは飛んでいくが、そこからは歩きだ。何とか博物館のエントランスまで出てきてくれ。」
あとは、財布と定期入れ、それとハンカチ、と。こんなもんでいいか。
「わかった。・・・もう一度奪うつもりか?」
遙一郎の声色が低い。かなり警戒しているようだ。
「いや、せっかくの親子の再開を邪魔するつもりはない。それに、そもそもそんなことは不可能だ。本人の同意のもとに借りる程度はできるだろうが、中身が入っている体を奪うことはできないよ。安心したまえ。」
「そうか・・・。すまない、疑うようなことを言って。待ってるから到着したらまた電話をくれ。」
さて、早速この体で魔法を使ってみようか。
「勇壮たる風よ!汝が翼を今ひと時我に貸し与え給え!」
玄関を出たところで長距離跳躍魔法の詠唱を行い、上野公園に向かって飛び立った。
さて、大問題が起きました。魔女は自分のことを「遥香」と呼んでほしいといいましたが、本物の遥香が戻ってきてしまいました。琴音と千弦は、この二人のことを何と呼ぶのでしょうか。