41 同年 春先
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やっと日本に帰ってこれた。中学を卒業したらすぐ、パパの仕事のついでに私を留学させようという話になって、家族そろってアメリカに住むことになったけど、一年程度じゃあの国の文化にも言葉にも全くなじめなかった。
幸い、日本人学校で履修範囲も日本の高校と一緒だったからよかったけど、もしアメリカのハイスクールに通わされていたらと思うとぞっとする。
私は別にグローバルな環境で活躍したいとなんて思っていない。学校の成績だって真ん中ぐらいだし、人付き合いも苦手だ。キャリアウーマンや理系女子なんて夢のまた夢だと思っている。
ましてや、スポーツ系で身を立てることなんてまるで考えていない。体を動かすのは大の苦手だ。
むしろ、年上の好きな人と結婚して、のどかな農村で絵を描いたり、手芸をしたりして暮らしたいと思っている。
羽田空港第三ターミナルで入国手続きを終えて、手荷物を受け取る。ここのところずっと体調はすぐれないけど、今は平熱だし、検疫ではなぜか何も言われなかった。
寒いせいか、鼻から液体が垂れる。ズズッと啜るが、鼻と口の中に鉄のようなにおいが広がる。
「また鼻血が出ているわよ。大丈夫?」
まただ。去年のクリスマスあたりから熱が下がらない日が一週間以上続いたり、倦怠感に包まれて半月くらい起きるのがつらかったりすることがある。
先日は歯を磨いてるときに口の中を傷つけたのか、歯茎からの出血が止まらなくなったことがあった。
今は熱が下がっているし、PCR検査では毎回陰性だった。新型コロナでマヒしている医療機関では、私の体調不良について精密検査をする余裕はないようだったし、カウンセリングに来た日本語が怪しい医者は、ストレスによるものと言っていた。
ストレスで歯茎や鼻から出血したりするものだろうか。でも、家族みんなが新型コロナに感染しないで済んだのは幸いだった。
おかげで安心して日本に帰ってくることができた。
「ママ、ティッシュある?」
ママがバッグからポケットティッシュを出し、顔を拭いてくれた。
「ママ、そのティッシュケース、まだ使ってたんだ。」
ママの手には、私が何年か前に端切れで作った出来の悪いティッシュケースが握られていた。
「せっかく母の日に作ってくれたんですもの。大事に使ってるわ。」
二枚目のティッシュを丸めて、まだ血が止まらない鼻に差し込む。こんな姿を彼に見られたらどうしようかと思うと、ちょっと恥ずかしくなる。
すべての手続きを終え、空港を出ると、よく遊びに来るパパの大学時代の後輩の人が車で迎えに来てくれていた。運転席に向かってお礼を言って乗ると、その人が小さくておしゃれな紙袋を渡してくれた。
「本当は手作りにしたかっただろうけど、空港検疫で食べ物を持ち込むのは難しいって言ってたろ。だから、宗一郎に頼んで見繕ってもらったんだ。」
パパの言葉を聞いて、もう一度運転席に向かってお礼を言うと、宗一郎さんは「どういたしまして。」と言ってくれた。
袋の中をのぞくと、品のいい包装に包まれたお菓子と、何も書かれていないメッセージカード、そして値段の書いてないパンフレットが入っていた。
「宗一郎さん、これってもしかして?」
パンフレットを見ると、これはどうやらバレンタインチョコのようだ。
「先輩から聞いたんですけどね。お嬢さん、明日彼氏と会う約束をしてたんですって?今日はもう遅いですし、明日じゃ間に合わないでしょう。もしお気に召さないようでしたら先輩にでもあげてくださいよ。」
「ありがとうございます。でもパパの分は向こうで作ってあげたから。」
「へえぇ。先輩、バレンタインはお嬢さんの手作りですか。うらやましいですね。」
宗一郎さんが運転しながら、助手席のパパを冷やかす。
「お前もうらやましかったら、だれかいい人でも見つけたらどうだ。何ならだれか紹介してやろうか?」
私は後部座席から、そんなパパと宗一郎さんのやり取りを見ながら、体調不良と長旅のせいだろうか、ボーッとしているうちにいつの間にか眠りに落ちていた。
◇ ◇ ◇
「ほら、遥香。ついたわよ。」
いつの間にか家に着いたらしく、ママに促されて車から降りる。まだ寝ぼけているのか、足元のおぼつかない私をパパが支えてくれて、宗一郎さんがトランクルームから荷物を下ろし、玄関先まで運んでくれた。
「宗一郎さん、お忙しいのにありがとうございました。」
ママと一緒にお礼を言うと、宗一郎さんは運転席の窓から手を出し、ひらひらと振りながら、車を発進させた。
宗一郎さんは不思議な人で、パパの二歳年下と聞いているけど、私と比べても10歳くらいしか年上に見えず、どちらかといえばちょっと年の離れたお兄さんという感じの人だった。
物心ついた時から家族ぐるみの付き合いだったせいか、中学に入るまでは親戚のお兄さんと思っていたぐらい身近な人だったけど、この時、二度と会えないとは思ってもいなかった。
◇ ◇ ◇
その夜、歯を磨きに一階の洗面脱衣所に降りたとき、突然の吐き気とともに全身の力が抜けその場に座り込んだ。洗面台にもたれかかったまま、声を出すどころか、指一本動かすことさえできない。
座り込むときに胸と顔を洗面台に打ち付けた音に気付いたのか、ママが慌てて飛んできた。
「遥香?どうしたの?また具合が悪くなったの?」
その声に答えることもできず、目だけで母を見上げる私の顔と胸のあたりは、鉄のにおいがする何かでぬとぬととしていた。それが吐いたものか、洗面台に打ち付けたことによる外傷による出血か、もうわからなかった。
「あなた!遥香が大変!はやく、はやく来て!」
「どうした。うわぁ!遥香!大丈夫か!香織、タオル!」
パパに背負われて客間のベッドに運ばれたが、そのまま急激な発熱発作と急性肺炎のような症状を起こした私は、時計の針が翌日になったことを示す前に、救急車で運ばれた。
◇ ◇ ◇
彼との翌日の約束は、集中治療室のガラス越しに果たされることになった。
朦朧とする意識の中、ガラスの向こうで彼が何か言っている。きっと大事なことだ。聞こえないのがとても残念だ。
彼が帰ったあとで看護師さんが点滴を交換に来てくれた時、それを伝えようとしてくれたが、目を開くのがやっとで何を言っているのかわからない。
それがこの体で見る最後の景色となった。
バレンタインチョコに添えたメッセージカードには、ただひとこと「あなたのことが好きです」と書いたが、それが彼に渡されたかどうかさえも知ることはできなかった。
◇ ◇ ◇
・・・ふわふわとする不思議な感覚の中、見下ろすと私が眠っている。
「久神さん、誠に残念ですが、白血病が中枢神経系にも浸潤しています。放射線治療を行いますが、発見が遅れたため、治っても日常生活に影響が・・・」
枕元の置時計のデジタル表示が2月28日となっている。もう半月も経ってしまったのか。
2月中に、新しい高校に転校しなければいけないのに、これでは高校で留年してしまう。
焦りを感じた私は慌てて自分の体に戻ろうとするが、目に見えない腕のようなもの押し返されて宙を舞った。
『何?誰なの?』
思わずその腕の主に文句を言ってしまう。
私の体の上に、黒い何かがまたがっている。人ではない、獣か、蜘蛛のようにも見えるそれは、赤く光る眼だけをこちらに向け、くぐもった声で答えた。
『あな口惜しや。グェッグェッ。汝が巫覡の血を引いて居らねば此の体、吾のものと出来ようものを。』
『かんなぎ?何の話をしているの・・・?とにかく、そこをどいて!はやく戻らないと!高校で留年なんてしたくない!』
必死になって手を伸ばし、何とか自分の体の右足に縋りつく。
『グエッ。抗うか。ならば、せめて輩の贄としてくれよう。グェッグェッグェッ。』
『ともがら?にえ?わけのわからないこと言ってないで消えてよ!お願いだから!』
心の底から叫んだせいか、ものすごく眠い。でも、この手を離したらすべてが終わる。そんな予感がした。
『魂の緒はもう切った。もう汝は戻れぬよ。キェッキェッキェッ。』
黒い蜘蛛のような何かが、あざ笑うかのようにその前足をふるうと、急激に周囲が暗くなり、縋りついた右足以外の感覚が闇に溶けるように消えていった。
◇ ◇ ◇
・・・再び、浮遊感とともに目が覚める。
枕元に置かれた時計のデジタル表示が3月14日になっている。あれからさらに半月も経ったのか。
自分の体の右足に縋りついたままの体勢で、周りの声が聞こえる。以前よりずいぶん音が遠い。話し声は、途切れ途切れにしか聞こえない。
「ねえ、遥香。今日、・・・・なんだよ。・・・剛久君、・・・くれるって。ねえ、・・く起き・・と・・・・ちゃうよ。ねえってば!・・・」
ママが私の肩を揺さぶっている。
「娘さんの・・・・は、すでに停・・・います。様子を・・・いましたが・・・このままでは・・・」
医者らしき人が何かを告げると、今度ははっきりと聞こえる声でママが泣き叫んだ。
「ねえ、なんで!?地震で!毒ガスで!私の大事な人を奪って、こんどは遥香まで!みんなが何をしたっていうの!私が何をしたっていうの!こんな世界!なくなってしまえばいい!」
「キェッ、キェッ、キェッ。」
ママの声に合わせるかのように、黒い蜘蛛のような何かが耳障りな声で笑っている。
蜘蛛が吐き出す糸のような黒いもやに巻かれて、右足から引きはがされると同時に、ピーッという甲高い機械音があたりに響き渡った。
「久神さん。・・・ご家族の・・・・んで・・さい。」
「はい。もう・・・であります。・・・今・・・そうです。」
ガラガラッという音とともに病室のドアが開く。
パパと一緒に見たこともない金髪の女の子が、ドアを開けて入ってきた。
左眼だけが翠色に光っている。
「遙一郎。ここだな。」
その体には、黄金色に輝く何かを纏っている。
その子が病室に入ってくると、まるで火であぶられたかのように蜘蛛は慌てだし、私を簀巻きにしたまま担いで逃げ出そうとした。
その金髪の女の子は一筋の希望に見えた。
助けて!お願い!なんでもするから!
でも、必死で手を伸ばしたけれど、その手はむなしく空を切るばかりだった。
最後に、遠ざかる病室の中で、ママが崩れ落ちたのを見た気がした。
見渡す限りの闇と漠然とした恐怖が四方八方から私を包み、何も見えなくなって、それでも力の限り叫んだけど誰も気づいてくれなかった。
たぶん、私は死んだんだ。ごめん、ママ。どう頑張ればいいか最期までわからなかったよ。