4 魔女の油断/こぼれたアイスコーヒー
魔女の視点です。
8月24日(土)午後4時
運が悪い。つくづく、運が悪い。
薄紅色のサマーブレザーとミニのトレンチスカート。
少し流行遅れの、年齢に似合わない大人びた服装を纏った少女は、無表情のまま深いため息をついた。
己の運のなさと間抜けさに、心底 辟易 しながら——。
◇ ◇ ◇
ほんの4〜5時間前のことだった。
約50年前。ふたつ前の身体を使っていた頃——。
長い時間を過ごした街。
記憶の奥に沈んでいた懐かしさに誘われ、つい寄り道してしまった。
明後日には、この体の家族とこの街へ転居する。
高校への転入手続きは7月の初めに済ませた。
初登校は9月の半ば。
自分の年齢の百分の一以下の子供たちに混じるのは、初めてではない。
それでも、疲れることに変わりはない。
今日は、出来上がった制服を受け取りに行かなければならなかった。
社会に紛れるためとはいえ——
「・・・本当に、面倒なことだ。」
知り合いがいる可能性は 低い。
それでも 誰に会うかわからない 以上、認識阻害術式は強めにかけておく。
さらに空調術式も展開。
普通の人間ではなくなって久しく、熱中症とは無縁だが不快なものは不快である。
そんなことを考えていると、ふと視界の端に懐かしい影が映った。
かつて毎週通っていた喫茶店——。
まだ営業していたのか。
それを見つけた瞬間、古い友人に再会したような小さな喜びが胸を満たす。
交差点の角。
信号が変わるのを待つ間、反対側の歩道に 炎天下の中、スマホを操作し続ける少女 の姿が目に入る。
「・・・時代は変わったな。」
苦笑しつつ、当時は数少ない空調の冷気を逃がさないための工夫がされた、古いながらも手入れのされた回転ドアを押す。
肉体は変わっても、嗜好までは変わらないらしい。店内に入ると、ほのかに香る懐かしいコーヒーの香りに心が躍る。
マスターはさすがに亡くなっただろう。生きているとしたら、ギネスブックものだ。いや、私がそれを言うか。
などと心の中で自分に突っ込みを入れつつ、周囲を確認して認識阻害術式を解除する。
カウンターの奥にいるのは、マスターの面影を残す若い店員。
時の流れを実感しながら、席へと案内される。
メニューを開き、迷わず注文を決める。
「トアルコトラジャを。」
かつては幻と呼ばれたコーヒー。
「さすがに手書きのメニューはやめたか。」
それでも家庭用のプリンターで印刷されたメニューに奇妙な温かさを感じながら、カウンターに置かれたサイフォンの下の奇妙なランプをじっと眺めた。
「サイフォンの形が珍しいですか?」
先ほどの店員が声をかけてくる。
「いや、珍しいランプだと思ってな。」
サイフォン式は知っている。それほど古い技術ではない。たしか、200年くらい前からあったと思うが、アルコールランプを使ってサイフォンを温め、膨張した空気でロートへ湯を送り、抽出するのではなかったか。
「これはビームヒーターといって、電気で温めることができるんです。家庭用電気ヒーターを小さくしたものですね。」
若い店員がつまみを回すと、魔法のような光が放たれる。
次の瞬間、フラスコの中の水が一瞬で沸騰した。
「・・・よほど人間の方が進んでいるな。」
数世紀もの間、壊し、殺し、何ひとつ目的を果たせなかった 自分。
それと比べて、人間はたった数十年で、こんなにも便利なものを生み出す。
自嘲がこぼれそうになった。
「よし、景気づけにケーキも頼もう。」
他愛ない話に花を咲かせ、懐かしい味を堪能したのち、いつになく良い気分で席を立つ。
テイクアウトにアイスコーヒーのレギュラーサイズを注文し、会計を済ませ、一抹の寂しさを感じながら、回転ドアを押し、店を後にした。
店から出ると同時に、昔では考えられないような熱気が襲ってきた。
「暑い。というか熱い。これではアイスコーヒーがぬるくなってしまう。」
あわてて空調術式を強めにかける。ちょっと力が入ってしまったか。
あとは列車に乗ってからのお楽しみだ。
安心した瞬間、強い視線を感じた。視線に魔力の気配がまとわりついている。
「・・・せっかくの気分が台無しだ。」
店を出たばかりの穏やかな余韻は、一瞬で霧散した。
あたりを見回すと、交差点の反対側の植え込みの陰で不自然な動きをしている少女に気づいた。
植え込みの陰で見えないが、何らかの魔力を帯びた黒い短杖のようなものを持っている。
「さっきの娘!魔法使いか!」
ただの魔力持ちならいい。そんな者はごまんといる。
しかし、魔法使いはあまりいただけない。
奴らは、もちろん研究しか興味がないような連中もいるが、大きな力を手にした途端に気が大きくなる愚か者の方が多いのだ。
特に、魔法を奇跡と呼ぶ教会の連中は、それを自分の権能のように振るう。まるで己が神の代理人であるといわんが如く。
少なくとも、いきなり短杖に魔力込めてぶっ放そうとするヤツは危険すぎる。
多分、教会の連中だ。
後腐れがないように殺しておこう。
「術式束、53,157発動、続いて術式束284,321発動。」
キーワードを口にすると、瞬時に7つの術式が同時起動する。
拡張された霊体に直接刻まれた術式に、一瞬で魔力が循環する。
思考加速術式が最初に起動し、脳が加速し世界がスローモーションになっていく。
身体強化術式、感覚鋭敏化術式、直感鋭敏化術式。
物理防御術式、抗呪抗魔力術式、照準妨害術式。
「術式20番、方位0、仰角3、距離25で発動。」
次に短距離転移術式を起動し、少女の真横に移動する。
妙な金属製の箱が邪魔で行先が見えなかったため、すこし転移先が狂う。
構わず左手に魔力を込め、詠唱不要の念動断裂呪を叩き込む。
首を狙ったつもりが、少しそれて少女の左肘から先を切り飛ばした。
「・・・?」
反応が鈍い。切られたことに気づいていない?
宙に舞った少女の左手を掴み取り、魔力を流してみるが、魔法使いの特徴である魔力回路の反応がない。
魔力障壁もない。いや、あることはあるが、「魔術師」を自称する連中に毛が生えたくらいだ。
少女は、伏せようとしてか、あるいは転倒してか、そこで初めて左手がないことに気づいたのか、あわてて拳銃を持ったままの右手で左腕の付け根を抑える。
噴出した鮮血が路上を汚していく。
「ん?魔法で応急処置もできないのか?魔力の気配はあったんだが・・・?」
魔法の詠唱も始めなければ、呪いを発するために精神を集中する様子もない。
相当量の術式を刻んだ装備を身にまとっているが、少なくとも拳銃以外は攻撃用のものではない。
魔法使いではない?それに武器が拳銃?何か嫌な予感がする。
一瞬の逡巡で攻撃の手を緩めた途端、少女はこちらに向かって発砲してきた。
引き金がひかれた瞬間、銃口に術式のものと思しき光がともり、軽い、何かが破裂するような音が響き、白い何かが顔の横を通り過ぎていく。
あれ?銃声ってこんな音だったっけ?
あ、BB弾だ、これ。まさか、一般人か?
いやな汗が一気に噴き出したような気がする。
銃口から吐き出される 6mmほどの白いプラスチック弾。
照準妨害術式で乱されているとはいえ、そもそも 少女の狙いが定まっていない。
「・・・街中でおもちゃの銃を乱射する女子高生?」
時代も変わったものだな——などと、
思考加速術式で引き延ばされた時間の中で、間抜けなことを考えていると。
直感鋭敏化術式により鋭敏になった直感が軽い警鐘を鳴らした。
BB弾に何かの術式が封入されている。
炸裂術式か。
よかった、少なくとも一般人ではなさそうだ。
「術式束、1,147発動!重ねて961発動!」
防御障壁術式と乱数回避術式を発動、さらに追加で防御障壁を2枚発動する。
アスファルトや電柱、看板などに次々と着弾したそれは、瞬時に炸裂術式を発動させ、周囲のあらゆるものを砕いていく。
3枚の不可視の防御障壁にはいくつものヒビが入り、1枚は完全に破壊される。
「ふうん?なかなかの威力じゃないか。」
400年ほど昔、中仙道が出来たばかりのころ、下諏訪宿のあたりで何人かの鎧武者から矢に呪符を結んだものを射掛けられたことがあったが、あれは一発ずつだった。
これは速射性も威力もその比ではない。
わずか6㎜の球体にここまで精度が高く、かつ複数の術式を刻み、一発一発の誤差なく均質な魔力を込めるとは、人間業ではない。
おそろしく熟練した術者が作成したに違いない。
しかしながら、ここまで手間のかかる術式を組み、それを湯水のように消費しているにも関わらず、一切の魔法を使わないということは、この少女は魔法使いでも、魔法を奇跡と呼ぶ頭のおかしい教会の連中でもないだろう。
捨て置いてもよかったか。
砕け散るアスファルトと飛び散る血しぶきの中、少女の左耳のピアスが鈍く光る。
(自爆術式か!それもかなりでかい!)
あの自爆術式が作動すると、手持ちの術式では防御しきれない。装備している者の死亡と同時に作動するタイプか?
先ほどの嫌な予感はこちらであったか。わざわざアレを作動させて、魔法でいらぬ魔力を消耗する必要もない。
いきなり襲い掛かられて、しかも自爆付きとはまったく迷惑な話だ。
「ちっ・・・。」
周囲のアスファルトや看板が砕け散る中、隠蔽術式と認識阻害術式をかなり強めに発動し、少女の左手を放り出す。
通行人がこちらを見て何か叫んでいる。
(教会の連中に知られたら面倒だな・・・。)
使い慣れた記憶干渉術式と、最近やっと使えるようになった電磁的記録阻害術式を発動し、通行人の頭の中とスマートフォンのデータをかき乱す。
◇ ◇ ◇
足早にその場を離れたあと、ふと気づき、大きくため息を吐いた。
「・・・あー・・・。」
アイスコーヒーのカップの底が、割れている。
・・・防御障壁をかけ忘れたようだ。せっかく買ったのに。
「・・・台無しだ。」
魔女が喫茶店から出てすぐの時、油断して認識阻害術式をかけ忘れています。さらに、慌てた拍子に莫大な魔力で空調術式をかけています。
魔力を検知できる人間にとってみれば、まさに災難。
至近距離で液体ヘリウムをぶちまけられたようなものです。
これは、魔女が悪い。
ちなみにですが、魔女は術式を素数で管理しています。すごい計算能力ですね。