292 Si vis pacem, para bellum(平和を欲するならば、戦いに備えよ)
教会の三聖者がしばらく鳴りを潜めたころ。
ユリアナ
???年 秋
イスの町から逃げ出してから10か月が経過した。
あの後、マティアスと二人で住む家を建ててもらい、父と伯父の羊飼いの手伝いをして暮らしていたのだが・・・。
つい先日、エレーナが私の妹を出産したのだ。
その時の家族の喜びようと言ったら。
アランは終始にやけ、めったに飲まない酒を伯父と飲み明かし、そして妹の名前で大騒ぎになった挙句、取っ組み合いのケンカを始めてしまったよ。
「ねえ、お母さん。それで、この子の名前は決まったの?」
「ええ。キスラよ。私たちの家に伝わる、古い、古い女神さまの名前。強くて、賢くて、それでいて優しい。そんな子になってほしいわ。」
どこかで聞いた覚えのあるような、不思議な響き。
思わず抱きしめたくなるような、やさしい名前。
「そんなことより、あなた自身も気をつけなきゃ。転んだりぶつかったりしないようにね。それと身体は冷やさないように。」
「うん、気を付けるね。」
・・・そう。
当たり前の話だが・・・。
あれから毎晩のようにマティアスが私を抱くんだよ。
毎朝水浴びをしなきゃならないほど、中も外もドロッドロのベッタベタにしてくれるものだから・・・。
できちゃったよ。
半分呆れながらも、大きくなった自分の腹をさする。
性別は・・・娘か。
家を継がせるには男のほうがよかったんだろうけどさ。
ただ・・・ちょっと気になるのはマティアスがかなり戸惑っていたんだよね。
この身体は魔族に汚されてるからなぁ・・・。
馬車に轢かれた時、へそから下は完全に新品にしたわけで、絶対に魔族の子を孕む心配はないんだけど・・・。
どうせ生まれたらすぐに分かることだし、胸に魔石がないことを見せれば納得してくれるだろう。
ただ・・・マティアス。
子供に影響がありそうだからって尻の穴に入れようとするのだけはやめてくれ。
私が痛いし、お前だって病気の原因になるぞ。
◇ ◇ ◇
雪深い冬の夜、羊飼いの丘の小さな家は薪の火のかすかな揺らめきだけで薄暗く照らされていた。
妹が生まれてから2か月ほどが過ぎ、いよいよ私の番になった。
数百人を超える子供を産んできている私としてはいまさらではあるのだが、相変わらず男どもがうるさい。
これは何百年たっても変わらないな。
「ええと、お湯?熱さはこれくらいでいいのか?」
「ユリアナ!痛みは来ているか!?ええと、子供が出てくるときの姿勢は・・・足を開かせて、腰を浮かせて・・・あ、産み綱はちゃんと結ばれているか?引っこ抜けたりしないか?」
うーん。
いつの時代も男というやつは・・・。
私は膝を立て、毛布に包まれたまま荒い呼吸を繰り返す。
アランが手を差し伸べようとした瞬間、エレーナが鋭く制した。
「あなたはキスラを見てなさい。それからマティアスは少し落ち着きなさい。」
「お父さん。マティアス。落ち着いて。私は大丈夫だから。」
「でも、産婆が雪で間に合わないかもしれないんだ。昨日のうちに呼びに行かせたのに!」
そういえば、伯父が山を下りたのは昨日の朝だった。ふもとの村までは、雪がなければ朝出たとしても昼には着く距離だ。
ましてや、ここは小高い丘であって雪山ではない。
アランは手を止め、マティアスも慌てふためきながら、ぎこちなく小さな手を握りしめ、視線をキスラに向けた。
伯父は産婆を呼びに雪深い村を駆け下りたまま、まだ戻らない。
「何かあったのかしら?・・・うっ!・・・痛みが来たわ。随分と間隔が短くなって・・・。」
痛みが波のように押し寄せている。
・・・我慢しようと思えば別に苦しくもなんともない痛みだが、この痛みだけはいつも特別だ。
わが子がこの世界に生まれようとしている痛みだ。
「すごい汗・・・やっぱり、お尻が小さすぎたのかしら。ユリアナ、頑張って!」
いや、そんなに強く手を握らなくても・・・。
私は半座位で毛布に身を包み、すでに3桁を超えた痛みに耐えながら、産み綱を引き、足を広げている。
長いようで、短い時間が流れる。
やがて・・・。
かすかな産声が響いた。
柔らかく、しかし力強いその声に小屋の中の緊張がふっと和らぐ。
マティアスは思わず涙ぐみ、アランも自然と力も抜く。
エレーナは赤ん坊の体をそっと抱き上げ、産湯で清めた後、薪の火のそばで暖めた。
そしてやわらかく、しかし力強い声で言った。
「・・・女の子ね。」
私は息を整えながら、ほっとした笑みを浮かべる。
「この子の名前は?」
「・・・クロ・・・私の古い友人にちなんで、クラウディア。」
マティアスは涙を拭いながら小さく頷き、アランも静かに同意した。
女の子が産まれたら私が、男の子が生まれたらマティアスが名前つける約束になっていたのだ。
私は魔女としての力を一切使わず、ただ母として産み、そしてクラウディアの小さな手を握りしめた。
火のそばで暖められた赤ん坊はやがて泣き疲れたのか穏やかな寝息を立て、初めての夜を迎えた。
吹き付ける雪の寒さも、遠く吹雪の音も、すべて遠くに消えたかのようだった。
小さな命の誕生が、この丘の小屋に一瞬の光と希望をもたらしていた。
・・・・・・。
当然といえば当然なのだが、クラウディアの胸には魔石などなかった。
実際のところ、私は魔族との間に子供を作ったことはない。
・・・私の遠い娘たちが魔族と番っているかもしれないが。
「マティアス。どうしたの、そんなに拍子抜けしたような顔をして。」
「あ・・・いや、もしこの子の胸に魔石があったらどうしようって・・・。ユリアナが必死になって産んだ子を、俺は愛せるのかって・・・。」
まあ正常な反応だな。
だいたい男って生き物は必ず自分が知らないところで妻が何者かとの間に子供を作っているんじゃないかって邪推する生き物だ。
そして、それは必要な防御反応でもある。
一生の間に作れる子供の数などたかが知れてるし、育児の労力を自分以外の男の子供に割くいわれはないんだからな。
あまり病的なのも困るけどさ。
「安心して。あなたの子供よ、マティアス。それに・・・ほら。足の指の形があなたそっくり。」
「そう・・か?いや、本当だ。足の指が長いところがよく似てるよ。」
先ほどまでは元気よく泣いていたクラウディアは、今ではすうすうと寝息を立てて布にくるまれている。
この瞬間の喜びだけは何度繰り返してもたまらない。
全身を包む幸せな空気が、私の心を癒していく。
突然バタンと扉が開き、産婆を連れた伯父が駆け込んでくる。
「・・・あ、兄さん。もう生まれちゃったよ。女の子だよ。」
「う・・・やはり間に合わなかったか。まあ、無事で何よりだ。エレーナもついていたし、そこまで心配することはなかったか。」
まあな。
私は誰の助けも借りずに出産することも十数回あったしな。
はっきり言って心配するようなことではないんだよな。
全身雪まみれの伯父は、同じように雪まみれの産婆の肩や背中に積もった雪を叩き落とす。
緊張感が緩み、みながケラケラと笑う中で、産婆だけは無駄足になったことを悔いているのか、笑ってはいなかったが。
◇ ◇ ◇
南雲 千弦
三聖者による襲撃事件からおよそ三か月後
レギウム・ノクティスの一番外側の城壁の上で、一人ため息をつく。
普段使いのホムンクルスボディを自分で吹っ飛ばしちゃったせいで、その後しばらく幽体で居続けたからか、久しぶりに自分の体に戻ったのに妙な違和感が止まらない。
・・・まさか自分の体の操縦方法を忘れ始めるとは思わなかったなぁ・・・。
教会の三聖者を撃退してからしばらくの間、レギウム・ノクティスに平和が戻っていた。
ドラゴパレストによる攻撃も完全に止み、今では捕えた竜人に対する再教育が行われているというが・・・。
はっきり言って効果はないらしい。
ってか、ドラゴパレスト自体が完全に壊滅状態になったため、彼らに帰る国がなくなってしまったのも原因の一つではあるが、そのドラゴパレスト跡地をデュオネーラ家の進言で帝都に何かあったときに帝国臣民が避難するためのシェルターとして再整備するという流れになったこともあり、結果として彼らは国を失ったのだ。
風に吹かれていると、セラフィアがひょいと顔を出す。
「チヅラ様。こちらにおいででしたか。クインセイラ家の方がお待ちです。」
「あ、ごめん。今すぐ行くよ。ところで・・・身体の調子はどう?」
「ほぼ万全です。ちょっと料理が味気ないですが。それより、『アルクス・ミッレ・コルダ』・・・。AMC-1でしたっけ?先ほどメンテナンスが終了したそうです。」
「そう。じゃあ、また安心してコールドスリープに入れるね。2号機もお願いしてあるし、しばらくは安心かな?」
「女神」や「三聖者」・・・星羅さんや三馬鹿トリオとの戦闘で過剰ともいえるほどの有効性を示した義体は、あのあとクインセイラ家の技術者が徹底的に調べたのだが・・・。
現時点では私以外、だれも制御できるものがいないということが分かってしまったんだよね。
だから、今は複数の義体を作って実験を繰り返しているところなんだけど・・・。
魔法帝国の滅亡時のどさくさでしっかりもらっていこうか。
現代に戻ったらゆっくりと解析しよう。
クインセイラ家に向かう途中、セラフィアの入院中の食事が不味かったことや、魔石が無事でもかなりギリギリだったこと、それから三聖者が残し、騎士団に押収されてしまったB・A・Rを取り戻した時の苦労やらなんやらを話しながらクインセイラ家に到着する。
「お邪魔しまーす。チヅラでーす。」
「おお!チヅラ様。お待ちしておりましたぞ!派手に使いましたな!疑似魔力回路がいくつか焼けていましたぞ!くふふ・・・こんな出力でも持たないとは・・・いっそカートリッジ式にして・・・。」
「ええと、ユーリさん?私としては、兵器には信頼性が一番欲しいんだけど・・・それと、できたら実戦証明済みの装備を積んでほしいかな・・・なんて・・・。」
「いやいや、人工魔石を用いて制御コアを冗長化しましょうか・・・。」
あ、だめだこいつ。
なんも聞いてないよ。
これだからミリオタというやつは・・・。
ひょいと部屋の奥を見ると、AMC-1と全く同じデザインの義体が一つ、作りかけで吊るされている。
腰のところに形式番号が・・・。
ああ、AMC-2か。
よく予算が持つな・・・なんて思いつつ、メンテナンスが終わった義体を受領し、クインセイラ家を後にする。
とにかく、オリジナルの身体の主観時間をこれ以上進めるのは勘弁だ。
とっととデュオネーラ《第二公爵》家に戻ってコールドスリープを開始しよう。
◇ ◇ ◇
デュオネーラ《第二公爵》家に戻り、AMC-1に憑依して作動チェックを行っていたところ、にわかに屋敷内があわただしくなる。
「ん?何かあったのかな?」
「ああ、ノクト皇帝がお忍びでお見えになっているとのことです。チヅラ様は部屋でおとなしくしていていただけるとありがたいのですが。」
まるで人のことを問題児みたいに・・・。
「わかってるよ。じゃあ・・・カリーナ。オセロでもやろうか。」
一人ぽつんとラウンジに立っていたカリーナを呼び、私は自分の部屋でオセロを楽しむことにしたよ。
・・・・・・。
オセロがすっかり強くなったカリーナと二人、ミニテーブルに座ってパチ、パチと石を置く。
三馬鹿トリオの襲撃で親族を失ってしまったカリーナは、その治療と療養もかねてデュオネーラ家に引き取られているのだが・・・。
実質、ポンタス侯爵家の後見をデュオネーラ家がしているということなんだろうな。
「チヅラ様・・・ノクト皇帝が何の御用でしょうか。噂では、ウナヴェリス家やセプティモス家にも出入りしているようで・・・この国が今後どうなっていくのか、心配でなりません。」
「そうだよねぇ・・・ま、仕方がない。盗聴盗撮は好みじゃないんだけど調べてみましょうか。」
右眼と右耳の遠隔視と遠隔聴取を起動し、場所を応接室にセットする。
ふわり、と視界が広がり、紫雨君・・・じゃなかった、ノクト皇帝と現当主、レイダ・デュオネーラさんの声が聞こえ始めた。
◇ ◇ ◇
ノクト・プルビア三世(紫雨)
ダスーン代用監獄が襲われ、その設計者であるブロンタス・ド・ポンタス侯爵とその一家のことごとくが殺された日・・・そして、僕の叔母さんが行方不明になってからかなり経つ。
いまだに残る竜人の対処や、デュオネーラ家の進言によるドラゴパレスト接収と整備、そしてウナヴェリス家に届いた正体不明の粘土板や超高魔力の金属片が詰まった筒などの問題は残るものの、帝国は一応の平穏を取り戻していた。
「レイダ。何か僕に隠してないだろうな?」
僕は本題にいきなり切り込むつもりで口を開いた。
だが彼女はひょうひょうとした声で軽く答えた。
「これは異なことをおっしゃる。皇祖ノクト・プルビア一世の時代に、皇帝のご意思に反しない限りにおいて、領土、国民、主権にかかる事項以外は自由裁量を認めるとおっしゃったではありませんか。わがデュオネーラ家は、国家に弓引くものではありませぬぞ?」
「つまり、何か隠しているということか。・・・それは、僕の叔母さんに関することではないか?それとも、竜人族のことではないか?あるいは・・・ポンタス侯爵家襲撃事件に関連するものではないか?」
いずれも国家または皇室に対する重大な背信行為だ。
返答次第によってはデュオネーラ家を取り潰すことも考えねばならないか?
「・・・まず、陛下の叔母上については、当家では関与しておりません。ですが、当家のものが調査中ではあります。それから竜人については、むしろドラゴパレスト殲滅と占領に一役買っております。また、ポンタス侯爵家襲撃事件については、カリーナ・ド・ポンタス侯爵令嬢が我が家に逗留中であり、むしろその保護に一役買っております。・・・すべて報告しているとおりですよ?」
確かに報告書を読んだ限りにおいては矛盾はない。
だが、何かが引っかかる。
「報告書に記載されていた・・・遥か北方の国、イス、だったか?これはどうやって調べたのだ?一年やそこらで行き来できる距離ではないだろう?」
「ああ、その件でしたか。オクタヴァインからの報告書はもうご覧に?」
「いや・・・まだだが。何か関係があるのか?」
「ええ。ついにかの魔女の大魔法、長距離跳躍魔法の再現に成功しました。ですが・・・それ、もう半年以上前に提出されたはずの報告書なんですが?」
ぐっ!?
盲判を押した報告書の中にそんな大事な項目が含まれていた!?
新開発の魔法に関する報告のほうに入っていたのか!
そっちは半分趣味みたいなものだから気にもしていなかった!
くそっ!これだから僕は!
「魔法に関する報告書も読んでいらっしゃらないのですね。・・・魔法が何より大好きな陛下がそれほど追い込まれているとは知りませんでした。仕方ありません。ウナヴェリス家に政務を任せて少しお休みになってはいかがでしょうか?」
「いや・・・いい。それより、ドラゴパレストを殲滅したというのは、デュオネーラ家の魔法使いか?さすがに一人、ということはないだろう。何人か貸してくれないか?」
ドラゴパレストを極めて短時間で殲滅し、組織的抵抗を断念させたどころか、すべての戦闘可能な竜人を一人残らず無力化したというのだから、デュオネーラ家は大兵力を有しているに違いない。
それを長距離跳躍魔法でイスとやらに送り込めば、叔母さんを奪還するのも容易かろう。
だが僕のそんな思惑に反し、レイダの口から出てきた言葉は、思いもよらぬものだった。
「我がデュオネーラ家が保有する戦力は、皇帝陛下もご存じのとおり衛兵と非常勤の傭兵団のみです。それらのほとんどは、攻撃魔法を使うことはできません。ドラゴパレストを殲滅したのは・・・しばらくの間我が家に逗留していた一人の流れの魔法使いによるものですね。」
「一人の・・・?ではその彼に渡りをつけてもらうことはできないか!」
「・・・『彼女』です。陛下。残念ながら、彼女は今どこにいるかはわかりません。帝国に仇なす者ではないのは間違いありませんが、同時に一か所に留め置くことができる者でもありませんでしたので。」
「・・・そうか。その者の名は?」
「アルカム・フィナムと。おそらくは偽名でしょう。彼女が残していった魔導書ならこちらに。」
僕はどこか懐かしい響きを伴う名前を聞きながら落胆し、デュオネーラ家を後にし、次のトレシリア家を目指すことにした。
◇ ◇ ◇
デケムナリウスのすべてに聴取を終え、城に戻る途中でレイダデュオネーラから渡された一冊の魔導書を手に取る。
「手書きの魔導書か。珍しいな。魔導書といえばほとんどが魔力溜まり産の本の悪魔を不活性化させたものだというのに。ええと・・・なんだこりゃ?」
久しぶりに気分転換をしようと開いた魔導書は、帝国公用語ではなくて・・・。
「なんだ?ナギル文字?この言語、とにかく文字の種類が多いんだよな・・・しかもこれ、民生用のナギル語じゃなくて、正ナギル語じゃないか。・・・ええと?」
魔導書に挟まれたメモを読むと、「翻訳が難しくてあきらめた、もしかしたら偽物かもしれない」という内容の言葉が・・・。
あいつら、処分に困ったものを僕に押し付けやがって!
っていうか、正ナギル語は画数の多い文字が多くてまだあまり解読できていないんだよ!
まあ、偽物でも暇つぶしになるか。
僕はこう見えてもこの国の中で最もナギル語に通じているのだ。
「ええと・・・『この魔導書は、画期的なハードウェアインターフェイスを搭載しており、本を閉じて額に当てるだけで読了します。母語が違う場合は、ソフトウェアインターフェイスが自動的に読者の母語を検出し、高速でデータを・・・』だめだ、何が書かれているのかさっぱりわからない。」
でも、本を閉じて額に当てるというところまではわかった。
それから、表紙に書かれているのは・・・。
『通信プロトコルは魔族には対応していません。魔族がこの魔導書を読みたい場合は、お手数ですが版元にお問い合わせいただくか、改訂版の発行をお待ちください。雲の書店。』
ますます何が書かれているのさっぱりだ。
だが、時間つぶしにはなるだろう。
そう思い、僕はその魔導書をそっと額に当てる。
どうせダメ元だ。
そう、思っていた。
その魔導書の術式が作動するまでは。
・・・。
・・・!?
「・・・陛下?皇帝陛下!?御身に何かございましたか!」
「・・・あ、いや・・・何でもない。何でもないと・・・思う。」
軽く首を振り、額をさする。
今のは・・・一体・・・。
幻のような不思議な感覚。
はるか昔、僕がいた孤児院に毎月お菓子とおもちゃを持ってきてくれた、黒髪の女性。
・・・「ねーたん」と呼んでいた人の不思議な香り。
フラッシュバックするかのようにそれらの記憶が現れては消えていく。
気付けば僕の頭には、長距離跳躍魔法から光撃魔法、轟雷魔法といった聞いたこともないような知識と、未だ見ない魔術の深奥の知識が焼き付けられていた。
◇ ◇ ◇
サン・マーリー(初代)
死の砂漠の西端、西の大洋を臨む小さな港で待っていると、この世のものとは思えぬほど大きな灰色の船が水平線上に現れる。
「お。教皇猊下のナグルファルだ。今回はわざわざアレを動かしたのか。随分と気合が入ってるね。」
ナグルファル・・・。
木とも鉄ともつかない不思議な素材でできた船で、まるで敵の爪を溶かして固めたかのような硬さと柔らかさを持った不思議な船体に、帆の一つもないにもかかわらず、釜に薪をくべると走るという不可思議極まりない力を持った船です。
船体には角ばった不思議な二つの不思議な文字があしらわれ、神話の中から現れたかのように美しい流れるかのような姿をしています。
「相変わらず得体の知れないものをよく使う気になるものです。船の下半分はまだその構造すらわからないのに・・・まあ、いいでしょう。それだけ本気ということなのでしょうから。」
我々がナグルファルと呼ぶこの船は、教皇猊下がクレタ島で王国を作っている時代に発見したという、超古代文明の遺物の一つで、本当の名前は「ハルカゼ」であると聞いています。
ナギルのハルカゼ、略してナグルファル。
船体のいたるところに刻まれたナギル文字は、今ではほとんど解読することができなくなっていますが、船自体が巨大なゴーレムであり、大量の薪や燃える石と引き換えに、海の流れよりも早くどこにでも連れて行ってくれるという、いわば魔法の船だそうです。
ナグルファルは沖合で錨を下すと、小舟に乗り換えた数人の信徒たちとともに教皇猊下がこちらへとやってきました。
「久しいな。ワレンシュタイン。エドワルド。そしてマーリー。魔法帝国の皇帝とやらは息災か?」
「ええ。大事な大事な叔母を失って相当慌てているようですが。ご足労いただき感謝に堪えません。すぐにレギウム・ノクティスに向かわれますか?」
「・・・ああ。かの国は滅ぼす。悪魔の帝国だ。一人たりとも生かしてはおけん。」
「では、国民すべてを・・・?」
「人工魔力結晶にする。」
教皇猊下は軽く手を振り上げると、沖合にいたナグルファルがゆっくりとこちらに近寄ってきました。
そう、あの船は浜辺があるところには乗り上げることができるという、ありえない構造を持っている船なのです。
もちろん、地形に制限はあるようですが。
ナグルファルからはぞろぞろとゴーレムが湧き出てきました。
そのすべてに大きな荷物が縛り付けられており、あるいはソリ状の台に乗った何かを引きずっています。
「ふむ。教皇猊下。これらは人工魔力結晶抽出用の機材ですか?」
「そうだ。かの帝国を、すべてわが力に変えてやろうというのだ。くふふふ、くははははは!こうも何もかもが思い通りに進もうとは。愉快愉快!」
ああ、そういえばセヴェリヌスが法理精霊とやらの力に接触することに成功したとか言ってましたっけ。
あれからあの女とも遭遇していないし、このまま何事もなくいくのでしょうか。
私は冷たくもない海風に、ブルリと体が震えるのを感じてしまいました。




