277 悲劇の傍観者/魔女の旅立ちを見送る者
南雲 千弦
紀元前4849年(6874年前)
作戦が終了し、ナギル・チヅラの町の当座の防衛方針が決まった後、一人で神なる河のほとりの村を訪れる。
この前の作戦でこの辺りの大気をかき乱してしまい、かなり大きな嵐となってしまったようだ。
特に、神なる河のほとりの村は異常気象に見舞われてしまったらしい。
言葉にはしていないが、そちら方面へ行く船乗りからは不満が出ているに違いないな。
フライングオールに跨り眼下を眺めていると、小高い丘の上に石板が立っているのが見える。
・・・あれが、原初の石板か。
仄香を・・・いや、三番目の穴で冬の朝生まれた女に超常の力を与え、その妹の命を奪い、幼い息子を連れ去り、さらにはその破片が最悪の悪魔を作り出した。
可能であれば、今のうちに破壊してしまいたいが・・・不可能だ。
あわよくばと同じ素材の破片を、マッハ150まで加速してぶち当てたのに亀裂一つ入っていないんだぞ?
遠隔視と透視で確認したから間違いない。
一体、何で出来てるんだよ?
まあ、サン・ジェルマンの魔石は砕けたことが確認できたから良しとするか。
今思えば運がよかったとしか言えないが、砕けて小さくなった粉末が原初の石板に大量に付着していたのだ。
あとは、三の穴の上の娘の旅立ちを支えれば、私のこの時代の仕事は終わる。
・・・ああ、彼女が来た。
ちょっとくすんだ色の金髪に貫頭衣を着た元気そうな少女が花を髪に挿し、歌を歌いながら丘を登ってきた。
・・・彼女は丘の上にある石板に気付き、きょろきょろと辺りを見回した後、ゆっくりと手を伸ばす。
「・・・それに触らないで・・・と、言えたらどんなに・・・。」
数百メートルの上空で、電磁熱光学迷彩術式をかけている私のことに気付くはずもなく。
彼女は石板を触り、まるで雷に打たれたかのように硬直する。
・・・今、始まった。
彼女の、6874年にわたる旅路が。
終わることがない、この世を地獄と断言できるほどの苦難の道のりが。
彼女はこの後、妹の命を失い、最愛の息子を手放さなければならない。
私はそっと追跡術式を彼女に打ち込み、次にこの丘に来る瞬間を待つことにした。
◇ ◇ ◇
ナギル・チヅラの町に戻り、理君の魂を・・・人格情報をバックアップするための術式が血継術式でどの程度広がっているのかを確認する。
「よし、全住民に行き渡ったわね。第二世代、第三世代ともに術式データに異常なし。やっぱりデジタル式にしたのが正解だったかしら。」
これで遠い未来、現代の夏の終わりのあの日に、理君のもとに術式を届ける準備が整った。
あとは・・・そう、少し疲れ始めた。
停止空間魔法を使わず、幽体離脱もせず、少し普通に眠るか・・・?
そう考え、執務室のソファーで少し、うとうとする。
自分でも、どんな夢を見ているかわからない。
夢なんて、そんなものだ。
・・・そろそろ、こちらに来てから主観時間で80日が経過した。
幽体だけで活動している時間を合わせると、もっと長くなるんだろうな。
ああ、時間がもったいなくてほとんど寝てなかったんだ。
夢の中で、懐かしいみんなの声が聞こえる。
琴音、母さん、父さん。
遥香と、咲間さん
そして、ジェーン・ドゥや遥香の身体のころの仄香。
二号さんや、エル。
師匠、宗一郎おじさん。
九重の爺様が、とても心配そうな顔をしている。
それから、二葉お婆ちゃん・・・。
二葉おばあちゃん?
突然、場面が切り替わる。
「・・・美琴と宗一郎から聞きました。良く琴音を守りました。これは九重家からのご褒美です。」
ああ、そういえば、二葉おばあちゃんに褒められたのって・・・この時だけだったっけ?
この後、加熱消毒した畳針で耳に穴をあけられたんだよなぁ・・・。
「このピアスはお前が妹をその身を挺して守った勲章です。」
そう、このピアスは私の勲章だ。二葉おばあちゃんが、私を認めてくれた・・・。
「そして、私の実家・・・一家に伝わる『原初の石板』の、地上に残された最後の破片を加工して作られた、・・・希望のかけらです。」
そうそう、そんなこと言ってたっけ。
・・・そんな・・・ことを・・・。
「ちょっとまて!今なんて言った!?」
私はソファーから慌てて跳ね起きる。
夢の中で思い出した二葉おばあちゃんの言葉が、頭の中でこだましている。
「原初の石板の破片・・・確かに、そう言った。どういう、事・・・破片が・・・二つあった・・・そういうこと、なの・・・?」
チャリ、という音がして、左耳のピアスが揺れる。
私は注意深く、左耳のピアスを取り外す。
・・・ピアスの中央には、黒く透き通った石が嵌められていて、その中に微細な金の配線のようなものが・・・赤緑青の石のようなものと、光の粒をやり取りしているかのように煌めいている。
「信じられない・・・まさか、これって・・・。」
思い出せ。
石板の破片は一つじゃなかった?
・・・くそ、思い出せない!だが、現実にここにある!
混乱する私に追撃するかのように、追跡術式に反応が・・・。
「うそ、こんなに早く?いや、そんなに時間が経ったの?」
三の穴の上の娘が、我が子と妹を連れて、石板に向かっている。
あの悲劇がこれから起きるのか。
いてもたってもいられなくなった私は、左耳にピアスを付けなおし、フライングオールを片手に長距離跳躍魔法の詠唱を行い、はるか北西の空に向けて飛び立った。
◇ ◇ ◇
神なる河のほとりの村の近くにある丘の上に差し掛かり、フライングオールによる飛翔に切り替える。
眼下を見れば、三の穴の上の娘が妹と幼い息子を、石板に触れさせようとしているところだった。
・・・これから何が起きるか、私は知っている。
でも、どうしても見極めなければならない!
「・・・永劫を流れる金色の砂時計よ。我は奇跡の御手を持ちてそのオリフィスを押し広げんとする者なり。」
一瞬たりとも見逃してはいけない。
だから貴重な時間を消費することになっても、私は加速空間魔法を自分にかける。
ゆっくりと幼い息子・・・紫雨君の指先が石板に触れる。
光の粒子のやり取りが起き、それが収まった後・・・。
三の穴の上の娘の身体が巻き上げられ、そして・・・その身体で我が子をかばう動作をした直後・・・。
石板が内側から砕け散る!
破片が、そのすべてが四方に散らばるのではなく、空に・・・宇宙に消えていく。
まるで、石板が飛来した道を逆になぞるかのように!?
三の穴の上の娘が何かを叫んでいる。
妹の身体に破片が・・・頭と、腹?
そうか!
地上に残った石板の破片は、彼女の妹の身体に刺さったから宇宙に消えなかったのか!
頭に当たった破片は、彼女があの洞窟から逃げ出すときに母親から託された破片だったのか!
そして三の穴の上の娘自身の手により髪飾りの一部になり、めぐりめぐってこのピアスになったんだ。
じゃあ、腹に当たった破片は?
そうか、一の穴の男が飲み込んだのが、腹に当たった破片だったのか!
・・・加速空間魔法の効果が切れる。
眼下では、三の穴の上の娘が悲鳴を上げ、必死になって我が子を支えようとするが、あと一歩、その手は届かない。
風に巻き上げられ、東へとはじき出された瞬間。
一本の矢が、赤子の産着を貫く。
なんだ!?
あれは・・・一の穴の男!?
おそらくは釣り糸か何かがついていたのだろう、男は全身全霊をかけてそれを巻き取ろうとするも、赤子が突然雷光を発し、釣り糸は焼き切れる。
・・・そうか、この時点ではあの男もまだ父親だったんだ。
紫雨君。
あなたにも別れの瞬間までは、間違いなく父親がいたのか。
だけど・・・いくら魔法が使えるようになったからといっても、この高さから落ちたら助からない。
東に向かって放り出された赤子・・・紫雨君を追って私はフライングオールの出力を全開にしていった。
・・・・・・。
強化したフライングオールの性能はいかんなく発揮され、1kmも飛ばないうちに赤子・・・未来の紫雨君を無事、空中で受け止めることができた。
今すぐに神なる河のほとりの村に戻って、三の穴の上の娘に会わせてあげたい。
でも、それはできない。
決定的に歴史を変えてしまう。
・・・なんという罪悪感。
そうか、私は仄香から最愛の息子を奪った最初の人間になるのか。
そうしなければ、私や琴音は存在できないのか。
帯電しながら泣きじゃくる彼を防御障壁越しに抱きながら考える。
せめて彼の生活基盤を整えてやらなければ。
でも仄香が彼を見つけてしまうと、やはり歴史がくるってしまう。
「・・・最悪。私が一番の悪人じゃん。現代に戻っても・・・もう二人の顔、見れないよ。」
いや、これは仕方がないことだ。
避けられない運命なんだ。
・・・まずはナギル・チヅラに戻ろう。
そう自分に言い聞かせ、長距離跳躍魔法の詠唱を行うことにした。
◇ ◇ ◇
紫雨君は、ナギル・チヅラの一般市民エリアにある孤児院で一時的に保護されることになった。
まだ星羅さんの姿は見えないところを見ると、合流するのはもっと後になるのか?
・・・最近は一般市民エリアは文明の進み方を少しマイルドにしてある。
ラジオや冷蔵庫、洗濯機のような便利グッズは、もう生産も販売もしていない。
電気設備は照明など、必要最小限に切り替え始めている。
周辺の村と交易をはじめた際に、あまりの文明の格差で市民の中に周囲の国家を征服するべきという過激な意見が出始めたのだ。
・・・改めて冷静になると、この時代にこれほどの文明があるほうがおかしい。
はっきり言って歴史が変わるなんてレベルではない。
・・・サン・ジェルマン憎さに完全に冷静さを欠いておかしくなっていたよ。
遠い未来で理君を助けるための準備は整ったし、あとは三の穴の上の娘とその娘がこの町に逃げ込んできたら保護するだけだ。
そしてすべての役目が終わったら、この文明は滅ぼすべきだろう。
住民たちには申し訳ないが、ゆっくりと滅ぼしていく方向で調整をしよう。
◇ ◇ ◇
久しぶりに生身で、誰もいないコールドスリープルームの中、目を覚ます。
紫雨君と別れてから5年は経ったか?
身体の加齢を抑えるため、最近は幽体でしか活動ができなかった。
そして幽体で活動しても脳の容量は無限ではないから、気軽に町を見回ることもできない。
町の運営にも口を出さず、守備隊の詰め所以外には一切行かない日々が続いていた。
そのせいか、あるいは例の作戦・・・サン・ジェルマンの魔石を砕く作戦で国が傾くほどの予算を使ったせいか、いつの間にかこの国の議会は私の指示を聞かなくなった。
はじめのうちはこの町への隕石の墜落を防いだと褒め称えていたのにね。
紫雨君については、最近始めた開拓計画で東方に向かう一団で、子供を作ることができなかった夫婦に託すことになった。
いつの間にか立って歩くことができるようになった彼は、私のことを「ねーたん、ねーたん」と呼んで懐いてくれて、別れの朝には大きな声で泣きじゃくっていた。
それに、そろそろ停止空間魔法の装置を作り直す必要がある。
まだ金属材料が手に入らない頃に無理やり作った聖棺モドキは、100年ちょっとの時間経過にも耐えられなかったようだ。
手伝ってくれる人はいない。
だから、一人黙々と作業を続ける
コールドスリープルームも同様だ。
外装は石造りで堅固だが、内装はかなり痛み始めている。
私が町を見回らなくなってからナギル・チヅラの町は荒み始めたようだ。
技術者を大事にしないツケが出始めたのか、商人になりたがる子供はいても、技術者になりたがる子供はいない。
だからインフラのいくつかが壊れても誰も修理できず、動かなくなったらしい。
・・・この時代に来たばかりのころに会った、気の良い原始人たち。
最初に私を助けてくれた母子も、いろいろな鉱石を運んでくれたモンドも、起きるたびにおいしい朝食を作ってくれたキクジも、もういない。
みんな、老衰で死んでいった。
仄香、いや三の穴の上の娘はこれからずっとこんな苦しみを感じ続けるのか。
何度繰り返しても慣れない、あっという間に親しい者たちが土に還っていく、比較するものがない喪失感。
そして闇に飲み込まれるかのような・・・孤独感。
・・・そうだ、久しぶりに町に出よう。
立体造形術式で新しい聖棺モドキは完成したし、あとはコールドスリープルームの内装だけだ。
気分転換になるかは分からないけど。
そう思い、劣化ウランかタングステンのように思い身体を持ち上げ、町に向かうことにした。
◇ ◇ ◇
久しぶりに街を歩くと、道行く人が振り返り、けげんそうに私の顔を見る。
・・・ああ、もうチヅラ様とも呼ばれないのか。
公園のような場所の看板には、どこかで見たようなポスターが貼ってある。
ええと、「清き一票を!私は政教分離を推進します!」??
・・・なんだ、選挙のポスターか。
ま、政教分離は民主主義国家の大原則だ。
ぜひ推進してくれたまえ。
たまには買い食いでもしようかな、と雑嚢を開き財布を取り出す。
「・・・なんだ、金貨しか入ってないじゃん。これじゃあ、おつりが出せないって文句言われちゃうよ。」
両替商を探し、町を歩く。
市場の方向へしばらく歩いた時、曲がり角から飛び出してきた一人の青年にぶつかり、しりもちをつく。
「痛い・・・ああ、そうか、肉体があるから・・・。」
「あ、ごめん!・・・あれ?君、どこかで・・・?」
そこには、はっきりと見覚えがある男・・・ナギリが前も見えないほどの荷物を持って妹と思われる女性と立っていた。
そっと手を伸ばす女性の手を取り、礼を言う。
「ありがとう。あなたはライラさんでいいかしら?それとナギリ。久しぶりね。」
「なぜ私の名前を?・・・まさか、黒髪の・・・ち、チヅラ様とは知らず、とんだご無礼を・・・!」
「面倒だから黒髪の女でいいわ。お買い物の帰り?大荷物だけど、誰かほかに家にいるの?」
「あ、いえ・・・大河の北と交易を始めましたんで、船に積む食料です。塩と、小麦、それから青銅の品を商うことになりまして・・・。」
「そう。商売は順調みたいね。・・・行先は、神なる河のほとりの村?」
「はい、よくご存じで。この前なんて青銅の剣が売れたんですよ。あんな骨董品でも、周りの村では言い値で買ってくれますんでね。」
・・・アオガネの剣。
そういえば、確か・・・。
「ねえ。ちょっとお願いがあるんだけど。前金で払うから頼まれてくれないかしら?」
「え!?ええ、あなたの頼みを聞かない人間なんて、この町にはいませんよ。」
さあ、それはどうかな?
もう私のことを女神と言う人間はいないんじゃないかな?
それに政教分離を推進してるみたいだし。
なんて思いつつ、やるべきことを私はやることにした。
まず一番大切なことを一つ。
ナギリには神なる河のほとりの村に行った帰りには、必ず中洲や川岸を注意して船をゆっくりと進めるようにお願いする。
そして、川岸に若い子連れの女性がいたら、必ず保護するようにとお願いする。
続けて郵便局に案内してもらう。
「またなんで粘土板なんです?パピルスや羊皮紙もあるでしょうに。」
「ちょっと長持ちさせたいのよ。それに無くなると困るからね。粘土板なら目立つし、紛失する可能性もないでしょう?」
・・・お、この粘土板、メモリアルモデルじゃないか。
ええと、ナギル・チヅラ建国二〇周年?またなんだってこんなもん作るかね?
不良在庫が売れてうれしいのか、笑顔の郵便局員に対し期日指定の郵便を依頼し、金貨一枚を渡す。
郵便局員は慌てておつりを出そうとしたので、余った分はチップだから好きなものでも食べるように、と言っておく。
「・・・やっぱりチヅラ様は女神様なんですね。まるで未来が読めて世界のすべてがわかるような・・・。」
「・・・ライラ。私は生まれも育ちも人間よ。ちょっと不思議な生まれで、ちょっと不思議なことができるだけの。」
「それって、神様っていうんじゃ・・・。」
さて、一つ一つ私の役割を果たしていこう。
次は、衛星都市のひとつの守備隊の詰め所でいいか。
◇ ◇ ◇
守備隊の詰め所に入り、顔見知りの隊長さんがいつの間にか基地司令になっていたことに驚きながらも、私が不在の間の報告を受け、さらに今後の話をまとめていく。
「了解しました。神なる河のほとりの村の人間、それもチヅラ様のような力をもった男の襲撃が予想される、ということですね?ふふふ。腕が鳴ります。この町は外敵がいない。いや、いても相手にならない。ですが、チヅラ様クラスであれば話は違う。」
「油断しないようによろしくお願いするわ。それと、町の出入りはどうやって管理しているのかしら?」
「最近ではこれですな。」
隊長さんはそう言いながら、名刺サイズの金属板をそっと差し出す。
・・・うわ、これ、なかなか良く出来てるじゃないか。
顔写真付きの身分証明書って・・・しかも通しナンバーはパンチカード式か?
「最近は写真を撮ることが流行っていましてな。その影響か、クリスタル入りの写真なんてものまで出る始末ですよ。まあ、写りはあまりよくないんですがね。」
「じゃあ、市民は全員がこのカードを持っているの?どうしようかしら、私だけ持ってないのよね・・・。」
「いえ、顔写真が入っていないカードもありますし、身分証明書の普及にはもうしばらくかかりそうですな。あと、チヅラ様のカードはこちらで作成し保管してあります。今すぐにお持ちしますね。」
「そう。・・・じゃあ、個人認証のほうは急ぐように言っておいて。身分証明書と本人の名前、それから・・・合言葉が一致しない人間は町に入れないように。私からはそんなところかしらね。」
「了解しました。それで、次はいつごろいらっしゃるので?それと・・・せっかくですから。」
立ち上がる私を引き留めた彼は、そっとカメラのようなものを取り出す。
・・・でかいな。
百科事典くらいのサイズがあるぞ?
「隊員の士気が上がりますので、どうか。」
「仕方ないわね。悪用とかしないでよ?」
夕暮れが迫る守備隊の基地から衛星都市トラキア・ナーヴの全景を見下ろすような角度で、全員そろって記念撮影を行う。
まあ、どうせ紙媒体だ。
遠い未来には、朽ちてなくなっているだろう。
そう思い、私はコールドスリープルームの片づけに戻ることにした。
◇ ◇ ◇
新調した聖棺モドキで再びコールドスリープを行い、ゆっくりと目を覚ます。
今回は試運転のようなものなので、飛び越えた年数はほんの少しだ。
「今何年かしら。ええと、紀元前4833年。この時代に来てから140年以上たったのね。主観時間は短いけど、もうそんなに経ったのか・・・。」
コールドスリープルームに置かれた報告書を手に取り、ざっと目を通す。
「・・・一の穴の男の襲撃があったみたいね。無事撃退できたみたいだけど・・・ええ?重機関銃どころか迫撃砲まで使ったの?それに暗視装置まで・・・うわ、戦車と自走砲、砲艦まで使ってる。一人の人間相手に何やってんのよ・・・。」
この時代に持ち込んだ暗視装置のうち、守備隊に預けておいたモノが役に立ったみたいだが・・・。
まあ原始人とはいえ、暗闇でどれほど夜目が効いても第三世代型の暗視装置には勝てないだろう。
それに、あのクソガキがどれほどの魔法が使えるかは知らないが、近現代兵器に勝てるほどの魔法が使えるようになっているはずはないか。
で、三の穴の上の娘は・・・よし、気付いてもいないようだ。
コールドスリープルームを出て町を歩く。
・・・また少し変わったかな?
何というか、衰退した文明が落ち着き始めたみたいだが・・・。
この町での顔見知りと言えば・・・ナギリくらいしか思いつかないな。
曲がり角を曲がった瞬間、聞き覚えのある声が聞こえた。
慌てて物影に身体を隠す。
「本当に行くのか?いくら黒髪の女の言葉だとしても、どこに行けばいいかなんて分からないだろう?」
旅支度をしている三の穴の上の娘を、ナギリが必死に止めている。
「これまで長い間、大変お世話になりました。私も結構な歳になりました。あと何年生きていられるか分かりません。・・・こんな身体ですし。」
彼女によく似た娘が、2歳か3歳くらいの娘を抱いて心配そうに話しかけている。
「お母さん。行くの?もう、戻っては来ないの?」
たしか、あの子供たちの名は女の子がチーロ。男の子がコルネ。
そうか・・・私の名前と私が時々口にしていた琴音の名前からとったのか。
そう思うと、ジワリと目頭が熱くなる。
「あの子を見つけたら、すぐに戻ってきます。あなたたちも私の大事な娘、そして孫です。必ずあなた方の人生を、私は守ります。・・・名残惜しいですが、そろそろお別れです。」
・・・ごめん、仄香。
あなたの息子は、私が奪ったんだ・・・。
だめだ・・・。
罪悪感に押しつぶされるように、私は彼女の旅立ちを最後まで見ずに、その場を立ち去る。
だけど・・・私は、理君に会いたいんだ。
琴音や、エルや、咲間さんや、母さんや、父さんに・・・。
現代の仄香に、もう一度会いたいんだ。
会って、謝りたいんだ。
だから、歴史は変えられないんだ。
たとえ、あなたがシベリアの林の中で一人、孤独に死を迎えるとしても。
流れた涙の分、心が渇いていく。
涙で前が見えない中、私は大した距離でもないのに、コールドスリープルームまで長距離跳躍魔法を発動した。
◇ ◇ ◇
何年経ったのだろう。
最近は、幽体でも出歩かなくなった。
コールドスリープの停止空間魔法のログを確認する。
「10年くらい眠ったのか。・・・それにしても・・・もう、誰も来ていないのか。」
コールドスリープルームは、私が眠りについたころと何も変わっていない。
あれほどたくさん届いていた報告書は一枚も増えておらず、それどころか、脱ぎ捨てたシルクのローブが置いてある場所さえ、代わっていない。
目覚める日時の予定は知らせておいたはずだが、もう私のことなどどうでもいいようだ。
「そろそろ・・・かな?」
なにがそろそろなんだよ、と自分に突っ込みを入れながらも、コールドスリープルームから外に顔を出す。
・・・そこには、思っていたのとはかなり違う風景が広がっていた。
「おい!そこのお前!町には行くなよ!死人が歩き回っていやがる!」
「誰か!うちの子を知りませんか!誰か!」
・・・ナギル・チヅラからたくさんの人間が逃げ出してきている。
これは・・・サン・ジェルマン、いや一の穴の男の襲撃か。
道行く人は、私が誰であるかに全く気付いていない。
たった十年の間に、私を崇めていた宗教も、あるいは町を作った人間の逸話も、何もかもが忘れ去られたのか。
「まあ、人間なんてそんなものよね。・・・ちょうどいいわ。全部、終わりにしちゃおうか。」
そう、私の記憶が確かならば、チーロとコルネは、今頃は家族に連れられてどこかの山道を逃げているところだろう。
仄香の幻灯術式で見たとおりなら。
私はフライングオールを引き連れ、コンテナボックスから取り出した銃を手に、町の中を歩く。
一応、避難訓練は続いていたのだろう。
当初の取り決めどおり、市内の市民は高台にある避難所へ、間に合わない市民は港の避難艇に向かって逃げていく。
「くそ!他の衛星都市は壊滅状態だそうだ!港の方舟を起動しろ!」
「じゃまだ!どけ!」
町の中を逃げ惑う男にぶつかられそうになるも、ひょいっとかわすとその男はたたらを踏み、私のことを睨みつける。
「・・・くだらない連中。便利な生活ができたのも、平和で安全な生活ができたのも、もう当たり前になっているのか。」
いつの間にか生きている人間がいなくなり、体中がただれ、あるいは崩れた死体のようなものが呻きながら襲ってくる。
「あはは・・・まるでバイオハ〇ードだ。でもね。来ると分かっていれば何ということもないんだよね。」
術弾で頭を打ち抜き、あるいは攻撃魔術で腰を丸ごと吹き飛ばす。
そして、町の中央・・・議事堂のような建物の前に到着する。
「そうそう・・・あったあった。・・・パスコード、2887。全都市の自律自爆術式を起動。タイマー、セット。カウント3600sec。スタート。」
ああ、そういえば黒海最南端の衛星都市は兵器廠があったっけ。
誘爆したら結構な被害が出そうだな。
まあ、人的被害を出すつもりはないし、こんなこともあろうかと当座の食料や家畜などについては、すぐに方舟に積載できるように態勢を整えておいたけど・・・。
術式を作動した後、私はぼんやりとする頭で長距離跳躍魔法を発動する。
私が眠るコールドスリープルームは、現代でいうオデーサの北・・・自爆術式の範囲外だ。
さて・・・これでもう、歴史にゆがみは起きないはず。
次は、いつごろ起きようかな。




