262 重すぎた代償/喪失と慟哭、そして継承
南雲 千弦
8月29日(金)深夜
理君が私の隣に立っている。
私の右手を、その温かい左手で包んでいる。
ネズミにその日常を、高校最後の夏休みを奪われてから、今日この日まで本当に長かった。
仄香の力を借りることができなくなって本当に大変だったけど、何とかその手をつかむことができた。
でも。
素直に笑うことができない。
私は、この作戦にみんなを巻き込んだ。
相手はソ連。
アメリカと東西を二分する超大国だ。
はっきり言って、甘く見ていた。
認識が甘かった。
仄香の力に甘えていた。
結果はどうだ?
みんなを危険にさらした。
そして、ガドガン先生を・・・見捨てた。
「千弦、大丈夫?顔色がすごく悪いよ?それに、オリビアさんはどこに行ったんだい?」
理君の言葉に、思わずドキッとしてしまう。
「お、オリビアさんは・・・その・・・。」
ガドガン先生を助けに行ったんだよ、私の代わりに。
その言葉がどうしても出なかった、その瞬間。
《千弦!二人と合流した!もう心配ない!俺たちはこのまま長距離跳躍魔法でエルリンドールに向かう!お前たちは先に日本に帰れ!》
《・・・!本当!みんな無事なの!?》
《・・・ああ。命にかかわるケガはしていない。細かい傷は仄香さんに治してもらえばいい。じゃあ、先に行っているぞ!》
念話の向こうで、長距離跳躍魔法が発動する気配がした。
そうか、よかった。
オリビアさんは間に合ったんだ。
後でみんなに、本当に関係ないのに協力してくれたガドガン先生に、お礼を言わなくちゃ。
「姉さん、よかったね。これで何も心配せず、日本に帰れるね。」
理君の反対側で琴音が笑っている。
息をするのも忘れていたかのように痛む胸が、やっと楽になる。
「まさかみんなが迎えに来てくれるなんて思わなかったな。で、オリビアさんは?」
「ええと、別便で帰るって。寄り道するから少し遅れるって言ってたけど、また理君にフィギュア作りを教えてほしいってさ。」
「そっか。でもなぁ。受験勉強、半月分くらいふっとんじゃったよ。あ、オリビアさんって英語も話せたよな。教えてもらおうか。」
三人でけらけらと笑いながら階段を上がり、廊下を歩いていく。
蒼生さんは、ソフィアさんと何か打ち合わせをしてから帰るらしい。
なんでも、KGBの諜報員の多くを亡命させる必要があるんだとかで・・・。
「ね、日本に帰ったら何がしたい?夏休みもあと2日しか残ってないし。それとも・・・二人だけでどこかに行こうか。」
理君の腕に絡みつき、その体温を確かめる。
心地よい熱さと、普段と違う石鹸の香り。
どうやら入浴できる程度の待遇は受けていたらしい。
「そうだな。ずっと檻の中で・・・っていうか、途中からはホテルみたいな感じだったんだけどさ。漫画を読むくらいしかなかったから、身体が鈍ってさ。とにかく身体を動かしたい気分だな。」
「もう。理君のエッチ。」
私の言葉に、一瞬理君が前かがみになる。
さっきから胸を当ててるからね。
ふふふ、さすがに監視のある場所ではそういったことはできなかったでしょ。
あと二日しかない夏休みなんだ。
そっち方面を楽しむのもアリかな。
「おーい、私もいることを忘れんな~。ってか、ショットガン、重すぎるのよ。」
「な、なあ、歩きづらいって。」
後ろからついてくる琴音が何か言っているけど聞こえないことにしておこう。
それと、理君も反応しすぎだよ。
最後の階段を上がり、建物から出ようとしたとき、琴音が変な声を出す。
「あれ?理君、首の後ろ、どうしたの?落書き?タトゥシール?」
「ん?ああ、これ・・・寝てる間に何かされたみたいでさ。自分じゃよく見えないんだよ。浴室の鏡で気付いたんだけど・・・。」
はて?首の後ろ?
歩きながら、彼の首の後ろを確認する。
確かに何かが描かれている。
紋章?それとも部隊章?
いや・・・これは、刺青?
入れ墨なら仄香に消してもらうか、琴音でも消せるかな、なんてことを考えながら、砦のようなイヴァノヴォ刑務所を出た瞬間。
その入れ墨は毒々しい赤と紫の光を放ち始める。
「術式!一体何の!?」
琴音が悲鳴を上げる。
術式!?なんで!?
もう、終わったんでしょう?!
彼と再会できて、完全に浮かれていた。
普段の私なら考えられない。
捕虜の身体に何か仕掛けるなんて、東側諸国なら当たり前なのに。
一切の対抗術式も、慌てて取り出した抗魔力増幅機構も。
何もできないまま、その光は一瞬で理君の全身を包み込んだ。
◇ ◇ ◇
一瞬のことだった。
いきなり琴音が私を理君から引きはがし、その光からかばうように抱きしめた。
「姉さん!目を閉じて!」
琴音は私の頭をかばうように胸で抱きしめ、両方の耳をふさいだ。
・・・これは!?
抗魔力の障壁!?
暴れまわる赤紫の魔力の本流を、琴音の白い抗魔力が押し返していく。
・・・ダメ!
このままじゃ、理君が!
琴音を振りほどき、彼に手を伸ばそうとするも、琴音は渾身の力で私を抱きしめた。
時間にして、わずか5秒程度だったと思う。
毒々しい光は空中に溶けるかのように消えていき、そこには理君が無表情のまま、立っていた。
「理君・・・?だい、じょう・・・ぶ?」
首の後ろにあった、刺青が消えている。
間違いない、何かの術式が発動した。
呪い?それとも毒?
急いで対抗術式を!
そんな、私の心配をよそに、理君は無表情のまま、抑揚のない声で答えた。
「千弦。俺の身体に傷はない。痛みも、苦しさもない。」
「そ・・・そう、なの?何か、違和感はない?」
「違和感は含意が多すぎる。条件を詳細に指定してくれ。」
そう、あまりにも違和感のある言葉を、彼は私が何度も重ねた唇から、抑揚のない声で言い放った。
「・・・あなたは、理君、だよね?偽物・・・じゃない・・・よね。」
彼の身体に縋り付き、乞うようにその手を絡ませる。
でも、彼は握り返してこない。
そして、再び、その口から抑揚のない言葉が返される。
「俺は、石川理。平成〇年11月23日生まれ。私立開明高校3年2組。出席番号・・・」
「やめて!!聞きたくない!!」
「分かった。回答を停止する。」
何かの術式が作動した直後から、言いようのない焦燥感が広がっていく。
もはや、取り返しがつかない何かがすでに起こってしまったのが、疲れ切った脳をかろうじて回している私にも理解できる。
「ね、姉さん。今、私の抗魔力が、間違いなく抵抗したの。ものすごく、悪意がある術式だったわ。」
そう、さっきの術式・・・。
あまりにも一瞬のことだったし、理君の後ろ髪で半分以上隠れていたからわからなかったけど、洗脳系でも記憶干渉系でもなかったはず。
「ねえ、理君・・・一体、どうしちゃったの?なんの冗談?」
冗談であってほしかった。
でも、彼は普段からそんな質の悪い冗談を言うような人ではなくて・・・
「冗談などは言っていない。どう、というのが先ほどの状況を示しているのであれば、一つ該当する情報がある。」
理君は、縋り付く私を抱き返すわけでも、振り払うわけでもなく。
ただ、表情のない顔で、淡々とそう答えた。
「じ、情報・・・?理君、さっきの刺青のこと・・・知ってたの・・・?」
「刺青というのは不正確だ。俺の首の後ろに刻まれていたのは『人格消去術式』。完全動作を確認した。また、それに加えてメッセージを預かっている。再生するか?」
人格・・・消去・・・術式・・・?
全身から力が抜ける。
仄香が言っていた、人間の魂の二大要素。
人格情報と記憶情報。
失われたのが記憶情報なら、治らない記憶喪失になるのと同じだ。
すぐには日常生活に戻ることもできないし、赤ちゃんからやり直させるようなものだ。
同じ年月を重ねれば少なくとも「人間」にはなる。
だが、人格情報が失われた場合、その人はもはや、「人」ではない。
仄香の言う、腐肉人形と一緒だ。
・・・アンデッドよりもひどい。
ひどく脱力したのか、自分で気付かないうちにコンクリートの上に腰が砕けるかのように座っていた私は、理君の顔を見上げる。
「メッセージ・・・誰から?なんの?」
反射的に、口から言葉が出る。
もう、頭が回らない。
「メッセージを再生する。『・・・やあ。俺と妻の娘たち。そう、君だ。千弦といったかな?それとも琴音だったかな?ローザンヌでは楽しませてもらった。俺の身体を消し飛ばすだけでなく、大事な妻の身体を消し飛ばすなんてヒドイことをするじゃないか。』」
全身が総毛だつ。
この声!
あの時の!
「『俺は悲しい。自分の父母にそんなことができるなんてな。そこでお仕置きだ。一度は自分の大事な番を失ってみるといい。だが俺は優しいからな。身体だけは残してやろう。それなら子を作ることもできるだろう?』」
身体だけ?
理君の心は?
あの笑顔は?
優しく私を抱いてくれた時の甘い吐息は?
耳障りな言葉を、理君の口は再生し続ける。
「『だが、人格情報がないなら欲情もしないか。彼もかわいそうだな?お前のせいでもう何も感じられない。その肉の喜びもな。ああ、殺すなよ?後で俺が使うかもしれないからな。何ならその後で相手をしてやろうか?く、く、ふ、ふはははは!』・・・再生を終了する。」
・・・え?
私が、仄香の最初の身体の、「三番目の穴で冬の朝生まれた女の死体」を消し飛ばしたから?
でも、仄香には許可を取ったよ?
それにもう、あんたの妻じゃなかったでしょ?
だいたい、仄香はあんたに会いたくもなかったんだよ?
逆恨みして、理君を、彼の魂を殺したってこと?
・・・地面がぐるぐる回る。
胃を締め付けるような吐き気、甲高い耳鳴り。
真夏の夜なのに、まったく止まらない寒気と震え。
痛い、苦しい、寒い、寂しい、悲しい、悔しい。
九重の爺様の言う通り、私が彼を巻き込んだ?
要するに、私が彼を殺した?
「う、うげぇぇぇ!」
締め付けられた胃から、赤いものが混じった液体がぶちまけられる。
「姉さん!大変!どこか切れてる!」
「う、あ、あ、あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛!私が、私が理君を巻き込んだ!私が好きだって言わなければ!ずっと一人でいれば!彼も、だれも巻き込まなかった!あ゛あ゛あ゛!もっと早く私がいなくなれば!ん゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁぁぁぁぁぁ!」
私の手が勝手に琴音の手を振り払い、地面をたたき、髪を掻き毟り、喉からは声が出続ける。
「仄香に相談しよう!ね、姉さん!まだ全部が終わったわけじゃない!何か、何か方法があるかもしれない!」
そんなこと言ったって!
魂が揮発したら何もできないって!
リビアの時だって、遥香が私の人格情報のバックアップをとっていなければ!
仄香だって何もできなかったんだよ!
ああ、もう、だめだ。
もう、なにも、かんがえられない。
ならば、せめて。
この身体、この魂のすべてをかけて。
「サン・ジェルマァァァン!!殺す!絶対に殺す!地獄に叩き落してやる!地獄がなければお前専用の地獄を私が作ってやる!許さん!絶対に許さん!この身のすべてを犠牲にしてでも、必ず殺してやる!」
◇ ◇ ◇
南雲 琴音
8月30日(土)朝
あの後、激しく慟哭し、血反吐を吐きながら頭を掻き毟る姉さんに、強制倦怠魔法と強制睡眠魔法を併用して何とか落ち着かせながら、日本への長距離跳躍魔法を発動した。
理君の身柄・・・身体は日本に到着すると同時に黒川さんに任せることになり、しばらくして政府預かりになることが決定した。
ドモヴォーイとかいう、彼に変身していた仄香の眷属と身柄を交換したらしい。
一日たった今日になって、エカテリンブルグを経由して日本に戻ってきた宗一郎伯父さんから連絡があり、健治郎叔父さんの家で集まることになった。
・・・でも、姉さんは、部屋から出られなかった。
時間になり、健治郎叔父さんの研究部屋兼自室でテーブルを囲んでいるのは、私、宗一郎伯父さん、エル、オリビアさん。
そして仄香、遥香、健治郎叔父さんの7人。
姉さんと、ガドガン先生がいない。
「まず、無事帰れたことを喜ぼう。みんなのおかげでエルさんと俺は無傷で済んだ。それと、千弦、琴音。大きなケガもなく、生きて帰れて何よりだ。」
宗一郎伯父さんが話を切り出す。
「うん・・・。みんな無事でよかった。・・・理君のことは聞いてる?」
「ああ。そのことも話したいと思って集まってもらったんだ。それと、オリビア。君は関係ないのに命がけで戦ってくれた。俺からもお礼を言わせてほしい。ありがとう。」
「何を言ってるんですか。理師匠にはいろいろと学ばせてもらってるんです。なにしろ私は理師匠の一番弟子ですからね。」
あれから少し聞いたけど、オリビアさんは完全に単独で装甲機動歩兵を一機、そしてガドガン先生が倒しきれなかった装甲機動歩兵を二機、撃破しているらしい。
もし、オリビアさんがいなかったら、私たちは生きて帰れなかっただろう。
「オリビアさん。姉さんがベッドから起きられないから二人分、お礼を言います。ありがとう、本当に助かりました。」
「やめてよ。もう。照れるじゃない。」
まずは、全員無事に帰れたことを喜ぶ。
だが、私以外の全員、表情が硬かった。
・・・あれ?そういえば。
「ガドガン先生がいないけど、新学期の準備?オリビアさんと同じで、ほとんど関係ないのに作戦に参加してくれたんだよね。ぜひお礼を言いたいんだけど。」
私の言葉に、オリビアさん、エル、宗一郎伯父さんが目を伏せる。
・・・あれ?
生きて帰ったんだよね?
「エルリックは・・・もう長くありません。」
私の軽々しい言葉を責めることもなく、ただ、仄香がそう告げた。
「長くないって・・・どういうこと!?まさか、あの戦闘で大ケガを負って!?治さなきゃ!」
「違うんです。琴音さん。彼は、もう寿命なんです。」
「ちょっと待って!?寿命って、あれ?ガドガン先生って、・・・何歳だっけ?」
確か40代後半くらいだったと思うけど。
3年1組の教室で、女の子たちがいつもキャアキャア言ってたっけ。
イギリス紳士で、ナイスミドルって感じの。
でも、あれ?
「エルリックは、私が南雲仄香の身体を使っていたころに保護したんです。紀一を産み、紘一殿を失った後すぐですから・・・もう、百年以上前になります。」
「そ、そういえば、そうだった。じゃあ、エルと同い年くらいなの?」
「・・・はい。去年の冬、120歳になったと聞きました。それと・・・あの戦いで彼は魔力を使い切り、それを補うため・・・禁呪である命魂魔力変換術式を使ってしまったんです。」
「禁呪・・・それって・・・。」
「残りの生命力、そして魂の一部を魔力に直接変換する術式です。結果、残り少ない寿命を消耗しきってしまった。もう、教壇に立つことはできません。」
そんな・・・ガドガン先生が犠牲になっていたなんて。
でも、そこまでの犠牲を払ったのに、理君は・・・。
「ガドガン先生は、理君のこと、知っているの?」
「いいえ。話していません。話しても、彼の誇りを奪うだけですから。」
仄香の言葉に、一同が沈黙する。
ガドガン先生・・・。
黒部宇奈月温泉で襲われたときは、はっきり言ってなんて迷惑な人だろうと思ったけど、話してみると気さくで優しい人だった。
英語の授業も分かりやすいし、お昼休みも放課後も、どんな質問をしても嫌な顔一つせず、食事中でも食べかけのパスタをしまって答えてくれた。
担当の英語以外の、それこそ進路相談や恋の悩みにも笑顔で答えてくれた、みんなから人気の先生だった。
「ガドガン先生は、今どこに?」
会いに行かなきゃ。
せめて、お礼を言わなきゃ。
健治郎叔父さんが口を開く。
「それは俺が答えよう。ガドガン卿はイギリスの名門貴族、ガドガン伯爵家の現当主だ。同時に、元魔法協会長でもある。国際問題になるだけでなく、国家間の保安問題にも影響するため、今は向陵大学病院に入院してもらっている。・・・家族以外は面会謝絶なのだが、そもそも家族がまだ日本に到着していない。それに仄香さんは家族みたいなものだしな。琴音と・・・あと一人くらいなら会わせられるだろう。」
私と、仄香と、あと一人?
オリビアさんは私より付き合いが長いはずで、でも、姉さんだって会いたいかもしれないし、いや、宗一郎さんとエルは、付き合いは少ないけど・・・。
「では、私と琴音さん、そしてオリビアの三人で。それでいいですか?琴音さん。いえ、千弦さん。」
仄香の言葉にハッとする。
そうか、会うべきは私じゃなくて、姉さんなんだ。
でも、姉さんを会わせるわけにはいかないんだ。
「仄香さん。お見舞いに行くときは私の身体を使ってくれないかな?私も、ガドガン先生に会っておきたい。私は役に立っていないし・・・。」
それまで黙っていた遥香が小さく声を上げる。
そう、遥香もガドガン先生が担任の一組の生徒なんだよね。
「・・・わかりました。では、健治郎さん。よろしくお願いします。」
そうして、お昼前にガドガン先生のお見舞いに行くメンバーが決まった。
でも・・・エルは、唇を噛んだまま、最後まで何も言わなかった。
そんな彼女に、宗一郎伯父さんはそっと肩を抱き寄せていた。
◇ ◇ ◇
タクシーを使い、信濃町の向陵大学病院に向かう途中、なぜかオリビアさんがスーパーマーケットによりたいと言い出した。
運転手さんにお願いし、スーパーマーケットの駐車場で待っていると、オリビアさんは仄香を連れて買い物に行き、すぐにビニール袋いっぱいの買い物をしてきた。
「トマトピューレが手に入ってよかったよ。それと・・・合い挽き肉。人参。ニンニク、オリーブオイル。あと・・・ハーブコーナーが充実してたね。」
「オリビア。鍋とザルまで買って・・・一体何をするつもり?」
「ん?ああ、仄香さんにちょっとね。お願いがあってね。」
首をかしげる私たち二人をよそに、妙に上機嫌なオリビアさん。
何気なくビニール袋の中をのぞくと、早ゆでのパスタが一束あることに気付く。
・・・そういえば、ガドガン先生って、お昼はいつもパスタだったっけ。
イギリス人なのに?
タクシーは病院の正面玄関につき、私たちはそのまま面会の申し込みをして、エレベーターを上がっていった。
病室は、大きな特別室だった。
入口のカーテンを開き、中に入っていく。
ゆったりとした部屋の中、ほかの調度品に似合わない、飾り気のない病院用のベッドには・・・一人の老人が横たわっていた。
「エルリック?・・・一気に老けたわね。気分はどうかしら?」
「久神君・・・いや、仄香。君は、紛らわしくて困るね。いちいち魔力検知をしないと分からない。わざわざ会いに来てくれたのかい?」
枯れ枝のような腕を伸ばし、頬のこけた白髪の老人が、仄香に手を伸ばす。
・・・そうだ、ガドガン先生は魔力検知が得意だった。
じゃあ、私が姉さんじゃないってバレちゃう?
「・・・それと、君も。千弦君?それとも、琴音君かな?見ないうちに強くなった。もう、魔力量は僕を追い越しているじゃないか。」
そうか、魔力総量が成長してるから、区別がつかないのか。
それとも、魔力検知能力まで失い始めているのか。
「千弦です。ガドガン先生。私たちのわがままに付き合ってくれたせいで、ごめんなさい。」
いずれにせよ、言わなければいけない言葉は変わらない。
「・・・理君は、僕の教え子だ。一年でも、一日でも、それは変わらない。それに、久しぶりに全力で戦えて楽しかった。ああ、本当に楽しかった。」
そうか、この人は・・・戦闘狂と呼ばれているけど、そうじゃないんだ。
戦闘狂を言い訳にしているだけなんだ。
柔らかな笑顔で、ガドガン先生は言葉を続ける。
「理君は、新学期から登校できるのかい?・・・僕は、このまま引退することになると思うけど。引継ぎで迷惑をかけたくはなかったんだがなぁ。」
「理君は、どこもケガしてません。何も、忘れたりしていないし、変な術も、かかっていません。だから、きっと新学期は登校できると思います。」
そう、今はもう、何も術式はかかっていない。
まだかかっていたなら、あるいはこれからなら、いくらでも取り返しがつくのに。
「そうか。・・・オリビア。君も来てくれたのか。どうだ?人生の目的は決まったか?」
「ええ。ガドガン卿のおっしゃる通り、大きな目標ができました。私は日本のアニメをもっと楽しみたい。そして世界にその良さを広めたい。だから、理師匠の下でフィギュア作りを学んでいくのです!」
オリビアさん・・・理君はもう・・・。
「なんだそりゃ。・・・まあ、君らしいというか・・・ん?その大荷物はなんだ?もしかして買い物の途中だったのか?」
ガドガン先生が、オリビアさんの買ってきたものに気付く。
「あ、これは・・・ガドガン卿。お昼はまだですか?」
「あ、ああ。まだだけど。何か買ってきてくれたのか?それならありがたい。病院食は味がなくてね。別に悪いところはないんだけど。」
「じゃ、ちょっと待っていてください!ほら、仄香さん、こっちに来て!」
オリビアさんはそういうと、仄香を連れて病室を出ていく。
「なんだありゃ?・・・とにかく、全員が無事でよかった。老骨に鞭打った甲斐があったよ。ところで・・・なぜ泣いているんだい?」
気付けば、頬を一筋の涙がこぼれている。
「あ、いや、これは・・・安心してというか、びっくりしてというか・・・。」
ガドガン先生は、そっと手を伸ばす。
そして、私の涙を優しくふき取る。
「・・・君は、本当に嘘が下手だ。だから・・・最後に僕が二つ、いいものをあげよう。」
嘘が下手?
どこまでバレて・・・!?
「ほら。頭をこちらに。・・・-----。」
ガドガン先生は、小さく何かを詠唱する。
普段通りの高速詠唱で、何を言っているかはまるで分らない。
でも、その手のひらからは何か、温かい、それでいて力強い何かが私の中に流れ込んできた。
「ガドガン先生?これって・・・?」
「僕の、魔法使いとしてのすべてさ。あともう一つ。ベッドの下のカバンを取ってくれるかい?」
言われるままに、高級そうなカバンを取り出す。
「先生、これは?」
「熾天の白杖という。僕の魔術師としてのすべてが込められている。きっと君の役に立つはずだ。使い方は、杖が教えてくれるよ。・・・ああ、これでやっと肩の荷が下りた。」
そう言ってガドガン先生は目を閉じる。
「先生!?・・・眠っただけね。でもこんなに魔力量が・・・あれ?」
気付けば、病室の、いや、世界のすべてに魔力が満ち満ちている。
その濃淡も、温度も、属性も、強弱も、ベクトルも、まるで手に取るようにすべてがわかる。
廊下の向こうから歩いてくる看護師さんの、微弱な魔力量が手に取るように見える。
間に壁があろうが、天井が、床が、何があろうがすべての魔力が見える。
「これは・・・ガドガン先生の魔力検知能力!それに、まさか!・・・----(着火)。」
小さく、指先に火をともす。
概念精霊魔法を。
高速詠唱で。
・・・間違いない。
先生が使ったのは、自分の魔力や能力を誰かに譲り渡す魔法だ。
そして、おそらくは・・・一生に一度の禁呪だ。
その証拠に、あれほど強大だったガドガン先生の魔力が、今はもうほとんどない。
これは・・・姉さんと私を間違えた?
どうしよう!
さっき、千弦って名乗っちゃった!
自分のしでかしたことに狼狽していると、ふわり、と優しい魔力の香りが広がる。
これが、仄香の魔力。
大きくて、強くて、優しくて・・・まるで母親に包まれているような。
「あら。エルリックは眠ってしまいましたか。せっかく昼食を作ってきたのに。仕方ありません。冷めないように停滞空間魔法をかけておきましょうか。」
仄香はナポリタンスパゲッティのようなものにラップをかけ、姉さんの作った全自動詠唱機構で魔法をかける。
その左手に一瞬で大量の魔力が流れ込み、続けて全自動詠唱機構の中心から光り輝く模様のような波が流れ出ているのがわかる。
これが、ガドガン先生の見ていた世界。
これが、魔法の深奥。
これが、姉さんが作った技術。
その圧倒的な景色に、ガドガン先生を騙してしまったことも忘れ、私はただ、魅入っていた。




