261 老兵の激闘/命の選択
石川 理
コーラを持ってきてくれた牢番・・・この刑務所の看守が紹介してくれたのは、日本語がわかるKGBの女諜報員だった。
なんでも、すでに日本の諜報機関と話がついていて、近いうちに俺の身柄を引き渡すということになっているらしい。
ソフィア、と名乗ったその女性は、相当ストレスが溜まっているのか、二日に一度俺の牢の前に来て上司の愚痴を吐いていく。
「まったくもう、やんなっちゃうわよ!私たちの忠誠を何だと思ってるのよ!そりゃ、行けと言われたら地獄の窯の中だろうが何だろうが突っ込むわよ!それが何!?自称神の使いの似非魔法使いに操られたバカの言うことを聞け?ふざけんじゃないわよ!」
あれから随分といい牢・・・まるでホテルのような部屋を与えられ、奥にはバスタブ付きの浴室や、水洗式のトイレまでついている。
トイレットペーパーもちゃんとある。
そして、清潔な下着や、着心地の良い服も用意してくれた。
時間潰しに日本の漫画まであるとか・・・。
ほとんど漫画喫茶じゃないか。
ただ、入り口部分はしっかりと檻になっているんだけどな。
「たしか、アンドレイ・S・ドルゴロフ、でしたっけ?共産党書記長の。」
「ええ、そうよ。よく勉強してるじゃない。それともう一人。連邦最高会議幹部会議長のアレクセイ・ドルゴロフね。アレクセイはアンドレイの息子なんだけど、KGBではどちらかが人形で、もう一方が教皇本人じゃないか、というところまではつかんでるんだけど。」
「そんな話を俺にしていいんですか?俺、ただの高校生ですよ?」
「いーのいーの。どうせこの国、もう長くないし。来年の春、いや、今年の冬の初めには全部ひっくり返るわ。あ~あ。再就職先、どうしようかしら。冗談抜きで日本にでも行こうかしら。」
いきなり最高機密みたいなものをポンポンとしゃべらないでほしい。
っていうか、ソ連がなくなる?
アメリカと東西を分けた大国が?
いや、だからこそか。
千弦から聞いたけど、俺のかなり近いところに魔女・・・仄香さんがいて、さらには日本の政財界に顔が利く一族がいる。
俺の身柄を安全に日本に帰せば、それに関わったKGBの機関員は西側だけでなく、魔女にもある程度のパイプを有することになる。
それは、沈みゆくこの国に住む者にとって、喉から手が出るほど欲しいものだろう。
そして、上手くすればこの国を立て直すときに、政治の中枢に食い込む大きな後ろ盾にもなる。
だが、一度は俺を誘拐した連中だ。
千弦も、その先祖である仄香さんもいい顔は絶対にしない。
・・・そこで、俺に秘密を暴露して、巻き込もうと。
俺が秘密を知っていることを理由に、そちら側に引き込もうと。
うわ、諜報員の考えることって・・・すげぇな。
どんな諜報機関員でも、絶対にそんな秘密は教えないから、相当親密な関係だって思わせることができるとか・・・。
普通の人間じゃ考えねぇよ!?
・・・であれば、俺にできることは乗ることだけか。
「なあ、ソフィアさん。そんなに困ってるなら、俺から紹介しようか?もう知ってるとは思うけど、俺の友達が魔女っていう人の子孫なんだ。かなり怖がられているんだけどさ。魔女自身も話せばわかる人みたいだしさ。」
「・・・え!マジ!それは助かるわ~。もしかして理君ってば、その魔女と直接話したことあるの!?どんな人だった!?」
・・・来た!
ここで答えを間違うと、後々大変なことになる!
「ああ、直接話したことがあるよ。・・・多分。」
そう、「多分」というのは、実際その通りだ。
仄香さんは、久神さんの中にいる人だ。
いや、最近はジェーン・ドゥとかいう人の中にいるみたいだけどさ。
「多分・・・ということはその人が魔女だって確信してないのね?どんな人?どんな感じの人!?」
千弦から聞いた話では、ジェーン・ドゥの特徴は世界中の諜報機関にバレているらしい。
ただ、久神さんがどう関係しているかは、どの程度知られているかはわからないとも言っていたっけ。
「ええと、金髪の・・・一目見たら忘れられない顔だね。なんていっても左右で目の色が違うからね。オッドアイっていうのかな?左目がエメラルドグリーンで、右目が・・・青?紫?とにかく、そんな感じ。」
そういうと、ソフィアさんは一瞬目を丸くしたあと、つぶやいた。
「・・・なるほど、こちらで把握しているままの姿ね。そりゃ、本物だわ。・・・アタリね。」
「当たり外れがあるのか?そこまで詳しくはないけどさ。」
そうか、やっぱりジェーン・ドゥさんのほうを魔女として認識しているのか。
やばいやばい、久神さんのほうを言わなくて正解だった。
「まあいいわ。ごめんなさいね、ウチの国がアホばかりで。でもまあ、ここは安全だからさ。」
しばらくブツブツと考え込んだ後、ソフィアさんは檻の前に置かれた椅子から立ち上がる。
・・・安全、ね。
最初のころの水牢やら暗闇が嘘みたいだ。
何日目かには眠っている間に首の後ろに変な入れ墨みたいなものを入れられたし・・・。
これ、消せるかな?
俺、銭湯に行けなくなっちまうよ。
「ありがと。おかげで再就職先は何とかなりそうだわ。もう少しそこで我慢してね。夏休みだっけ?8月31日までには日本に帰してあげるから。お土産は何がいいかしら?」
お土産って・・・マトリョーシカでももらっておくか?
檻の隙間から伸ばされた手を握り、握手をした瞬間・・・ピリ、と静電気が走る。
「ん?乾燥してるのか?日本とは気候が違うから・・・?」
お互いに首をひねりながら、手を振って別れる。
今頃はきっと千弦が心配しているだろう。
生きて戻れないことも考えたが、そこは何とかなりそうだ。
あとは、千弦に新しい彼氏ができたりしていないことを祈りつつ、その柔らかな胸を思い出し、悶々とする頭を振りながらベッドにもぐりこむことにした。
◇ ◇ ◇
エルリック・ガドガン
補助部隊として陽動・攪乱を任されたが、どうやら僕が行動を起こす前に事態は始まってしまったらしい。
「琴音君、千弦君。こっちが終わるまで無事でいてくれよ・・・。」
名も知らぬ博物館の屋上から見下ろすと、夜の闇を割いて北から攻め入るソ連兵たちの車両が見える。
《こちら宗一郎!北から2両のBMP-1の接近を確認!いや・・・おいおい、T-90?T-14?最新鋭の主力戦車じゃねえか!急げ千弦!そっちに向かって進行中だ!あと10分もしないうちにそこが戦場になるぞ!》
念話で宗一郎君の声が響き渡る。
彼の言う通り、あそこにいるのは確かに主力戦車だ。
それも一個大隊はいるだろう。
何より随伴している歩兵の数が多い。
我々が理君を奪還することを知って?
・・・いや、タイミングが良すぎるな。
情報が欲しい。
場合によっては退却することも視野に入れなくてはならない。
《宗一郎君。君の呪病を使って彼らの無線を傍受できないか?音声だけでもこちらに回してくれるとありがたい。君、ロシア語は分からないだろう?》
《ああ。何かわかったら俺にも教えてくれ。音声を回すぞ・・・。》
まったく便利な能力だ。
だが、悲しいかな、戦闘力は我々の中で最も低い。
戦闘を楽しむことができないとは、何とももったいない。
「・・・До цели 20 километров, в сектор обстрела попала Ивановская тюрьма, где скрываются мятежные элементы.(目標まで20km、反動分子が潜むイヴァノヴォ刑務所を射程に捕らえました。)」
「Прицел — держать. Среди гражданских не должно быть жертв. Наземные части войдут внутрь. Чёртовы гэбисты! Как вы посмели предать Великую Родину?! В лагерь... нет, всех перебьём!(照準、そのまま。市民に犠牲は出せない。地上部隊が侵入する。くそKGBめ!偉大な祖国を裏切るとは何事か!ラーゲリ送り、いや、皆殺しにしてやる!)」
これは・・・完全に別件か?
だが、理君が囚われているのは、イヴァノヴォ刑務所だったはず。
そもそもこの国は捕虜や収監者にまともな人権を認めていない。
第二次世界大戦後、かなりたってから発覚したが、捕虜どころか民間人までシベリアに抑留して強制労働に従事させ、サンフランシスコ講和条約が成立してもなお身柄を返還しないような国だぞ?
ましてや、理君は捕虜でも収監者でもない、ソ連にとってはいないはずの人間だ。
ラーゲリどころの話ではない。
《宗一郎。どうやら彼らの狙いはイヴァノヴォ刑務所のようだ。それも・・・殲滅戦を想定している。すまんが、後には引けなくなった。一分、いや、一秒でも長く時間を稼ぐ。バックアップを頼む。》
《何?そうか、では俺も・・・。》
《君は出てくるな!・・・かわいい奥さんが出来たばかりだろう?その呪病で情報をくれるだけでいい。あとは僕に任せろ。僕を誰だと思っている?人類最強の魔導士、エルリック・ガドガン。魔女・・・仄香の一番弟子だ!》
《・・・すまない、だが、必ず全員で生きて帰るぞ!》
ふ、ふふふ・・・。
何が人類最強の魔導士だ。
上には上がいることぐらい知っている。
だが・・・。
今日、この瞬間だけは楽しませてもらうぞ!
◇ ◇ ◇
宵闇を割いて一群のソ連地上軍の戦車部隊特殊部隊が接近してくる。
宗一郎の呪病は、東西25km、南北33kmのエカテリンブルグ全域に余すところなく散布され、その中に存在するすべての人間の動きを完璧に補足している。
腰の後ろから分割された白い杖を取り出し、展開して一気に魔力を練る。
高速詠唱。
「----(乾燥、加熱、着火、送風)。」
先行する小隊の直上に、ボンっという音とともに炎の雨を降らし、さらに風でかき回す。
「ぎゃあっぁぁ!」
一撃で数人が火だるまとなり、飛び散った炎が夜空を赤く染め上げる。
「なんだ!?攻撃だ!どこから!?」
燃え続ける兵士に、仲間が慌てて消火器を振りまく。
・・・準備がいいな?いや、あれは・・・近くの建物から略奪したのか。
まあ、敵の進攻を阻止するのが目的だ。
一撃で殺すようなものでもないし、炎は消えるようにしてある。
だから一人燃やせば、後送に数人の手を取らせることができる。
「続けて・・・----(散水、浸透、放電)。」
次の一団をふわりと霧雨が包み、バチンっと青白い光が舞う。
「ぐぅあ!?か、身体が・・・。」
子供だましのような威力だが、これで数時間は動けまい。
宗一郎君が示した場所にいる敵兵に対し、似たような手順を繰り返す。
そして行動不能になった敵兵の数が三桁に迫ったころ、呪病による盗聴越しに、彼らの指揮官らしき者の声が響き渡った。
「Среди врагов есть маг! Всем — по машинам! Избегать контакта пешком! Плевать, гони T-90 „Владимир“ прямо в Ивановскую тюрьму!(敵の中に魔法使いがいる!総員乗車!徒歩による接敵は避けろ!かまわん、T-90をイヴァノヴォ刑務所にそのまま突っ込ませてやれ!)」
やっと気付いたか、この間抜けども。
だが、そうすると、手持ちの遠距離用の魔法だと、さすがに戦車の装甲は抜けそうにないな。
仕方がない。
白兵戦は得意ではないのだが、接敵して仕留めるしかないか。
エカテリンブルグ市電の軌道敷を叩き割りながら接近する戦車群の前に飛び出し、複数の高速詠唱を展開する。
「----(大地、隆起、脆化)!----(水、泥、混合)!----(高湿度、大気冷却)!」
戦車は本来、塹壕を突破するために開発されたものだ。
ゆえに、その走破性は凹の地形には強いが、凸の地形にはそれほど強くない。
また、都市部のようなアスファルトの上に、ドロドロの泥が撒き散らされていると、金属製の履帯は摩擦力を失い、容易く空転する。
すべて第一次大戦中にマークⅠ戦車を開発したヴィッカーズ・アームストロング社の連中の受け売りだが、戦車というやつはそう簡単に弱点を克服できないものらしい。
念のために散布した霧の向こうで、金切り音を上げながら立ち往生しているようだ。
「ふう、次はどこだ。よし、あっちの連中を・・・っ!」
複数の建物をなぎ倒し、突き出たコンクリートに履帯をからめとられた戦車を置いてその場から立ち去ろうとした瞬間だった。
《高魔力反応!複数接近!これは!?》
宗一郎君の悲鳴のような念話の直後、轟音とともにその場に降り立ったそれは・・・。
かつて魔術結社本部で見た、装甲機動歩兵。
それを、さらに洗練させた、まるで騎士のような巨体だった。
◇ ◇ ◇
目の前に降り立った三体のそれは、騎士鎧のようなダークグレーの装甲に、赤い単眼を持つ兜を備えた、装甲機動歩兵だった。
「く・・・まずいな、さすがにこれは・・・。」
逡巡した瞬間、先頭の一体が丸太のような砲身を振り上げる。
「く!----(風、圧縮開放)!」
足元の空気を一瞬で圧縮し、さらに爆発的に開放することによって己の体を吹き飛ばす。
直後に轟音。
そして衝撃波とアスファルトの破片が襲う。
「おいおい、88mmか・・・?そんなもん、人間相手に使う口径じゃないだろう?」
楽しくなってきたじゃないか!
魔力で起こした風を調整し、近くのアパートの屋上に着地する。
まるでクレーン車が間近で旋回するような音を立て、装甲機動歩兵は再びこちらを向く。
「----(岩、旋回、高速射出)!」
高速詠唱で周囲のがれきを巻き上げ、砲弾のように先頭の一体に叩き込む。
ガン、ゴン、とまるでビルの上からドラム缶をバラまいたかのような音が、あたりに響き渡るも、装甲機動歩兵はハエを振り払うかのように手を動かし、こちらに砲身を振り上げる。
「くそ、火力がまるで足りない!ならば!」
僕が高速詠唱を好んで使うのはただ詠唱が速いからではない。
こう見えても、すでにこの身体は120歳。
戦闘ともなれば、心肺機能がすでについてこないのだ。
「雷よ!火柱の如く突き立ちて、静寂なる大地を打ち鳴らせ!」
垂直に立てた白い杖が一瞬で僕の魔力を吸い上げ、大地に雷と化した刃を突き立てる。
ガリガリと耳障りな音。
落雷の直撃を受けた一体が、左腕に装備していた盾を取り落とす。
そのほぼ中央に、融解した穴が開いている。
・・・よし、雷柱攻撃魔法は効いている!
盾は、本体の装甲より硬いはず。
ならば!
他の二体のうち片方が大砲を構え、もう一体が槍のようなものを引き抜く。
おいおい、生身の人間相手に白兵戦か!?
「----(風、圧縮開放)!」
瞬時に真横の空気を圧縮し、開放。
吹き飛ばされるようにその場を飛びのくと、ドドドン、と響き渡る発砲音が鳴り響き、追って剛槍が振り下ろされる。
「大地よ!仄暗き深淵よ!猛き獣は汝に捧げる供物なり!」
宙を舞いながら盾を失った一体の足元に、土石破砕魔法を叩き込む。
一瞬で足場を失い、回避することもできずに一体の装甲機動歩兵が穴の中に消えていく。
だが、これだけではまだ足りない。
「炎よ!万物の清め手よ!蒼炎となりて悪しき闇を打ち払え!」
残りの二体をかいくぐり、穴の中に蒼炎魔法を叩き込む。
ただ燃やすんじゃない。
堀り抜いたかまどの中に放り込み、熱エネルギーが逃げないようにした上で、完全燃焼状態の蒼炎を叩き込む。
穴から噴き出す蒼炎が、ほんの一瞬揺れた後、轟音とともに金属部品が穴からまき散らされる。
・・・まずは一体。
だが、身体中が悲鳴を上げている。
老体にはきついな。
《ガドガン!宗一郎だ!呪病を回復用に転用した!一瞬でいい!後退して深呼吸しろ!》
《ありがたい!現状は見えているな?装甲機動歩兵は他にいるか?》
《千弦たちのほうに二体現れたがすぐに撃破された!エカテリンブルグ全域でも残り二体のみだ!・・・戦車大隊の増援を確認!連中、軍隊の湧き出る壺でも持ってるのか!》
敵が炎上する装甲機動歩兵に気を取られているうちに後退し、建物の陰で大きく深呼吸する。
胸いっぱいに吸い込んだ甘い空気は、肺から循環する血流に乗って全身にしみわたり、疲労が消えていく。
《すごいな、これは。よし、まだ戦える!》
《循環器を通じて酸素と栄養を補給し、細胞の酸化と炎症を鎮めただけだ。魔力も気力も回復させられない。無理そうならいつでも後退しろ!俺が出る!》
《ああ、そのうちな。だが今は情報が命だ。自分の役目を果たせ。》
戦禍の中で結婚し、これから幸せな家庭を築こうとしている花婿を戦場になど出すものか。
それに・・・花婿は教え子の身内、花嫁は教え子の親友、そして妹弟子。
僕の残り少ない命を張るには、これ以上ない晴れ舞台だ。
ここは僕の戦場。
宗一郎、悪いがお前の出番はないんだよ。
嘘みたいに軽くなった身体を翻し、装甲機動歩兵から離れた交差点の隅にある商店の上に立つ。
増援の迫る気配が見える。
とにかく、数が多い。
一両ずつ相手をしている時間がない。
・・・幸い、まだ魔力は十分にある。
そして、二つある魔力回路も十全だ。
ならば、我が師の魔法を借り受けよう。
白い杖を起点に、体内の魔力を圧縮する。
いまだかつて使ったことがないほどの魔力。
まだ、まだ足りない。
・・・そう、いつか仄香の横に立ちたいと思ってかき集めた禁呪。
その中にコレ、命を削って魔力に変換する、命魂魔力変換術式があったっけ。
可能な限り長生きして魔導を極めたい僕にとっては、はっきり言って下らない術式だったけど、まさか役に立つとは思わなかったな。
知識は何でも邪魔にならない。
杖の先端に置かれた極小の魔法陣に、己の存在を集中する。
ダンっ、と全身を叩く衝撃、身体中からブチブチと聞こえる何かが切れるような音。
「よし、よし、よし!・・・熾天の白杖よ!目いっぱい魔力をくらえ!」
杖の循環詠唱補助機構を使い、可能な限りの詠唱を繰り返していく。
・・・千弦君、僕は君にとって、ただの英語の教師だけど、君のような魔術の天才を教え子に持てたのは光栄だった。
でもね、君の自動詠唱機構には遠く及ばないけど、同じ詠唱をただ繰り返すだけの機巧なら、この世界にはもう一本、この杖があるんだよ!
「風よ!不羈奔放なる神翼よ!叫びて遥か遠巒を切り刻め!」
あの日見た、我が師、魔女仄香の大魔法。
おそらくは、風の概念精霊魔法の一つの到達点。
気合で乗り切った詠唱が終わると、周囲の音が一瞬掻き消え、直後、至近距離で子供の金切り声のような、あるいはガラスを連続して叩き割るような不快な音が響き渡る。
風は、その余波である空振だけで周囲のアスファルトを瞬時に粉微塵にし、まるで紙切れのようにコンクリート製の建物を薙ぎ払いながら、路上の戦車や装甲車に殺到する。
圧力差だけで電離した風は濃淡のある波となり、爆音を響かせながら戦車を、装甲車を、そして二体の装甲機動歩兵をはるか空中へと舞いあげた。
◇ ◇ ◇
南雲 琴音
回復治癒魔法で目や耳、鼻から血を流す姉さんを治療し、何とか応急処置を終えた後、オリビアさんと合流した。
私たち二人がかりでやっと一体倒せた装甲機動歩兵を、オリビアさんは一人で圧倒したというのだから驚きだ。
「ん、よしよし。こっちはちゃんと白旗を上げられたみたいだね。えらいえらい。」
彼女は、戦意を完全に喪失した操縦兵を引きずり下ろし、そこら辺にあった鉄柵を引きちぎったもので拘束している。
・・・あれ、解放するのってオリビアさん以外には無理だよね?
ディスクサンダーか、ボルトクリッパーが必要なんじゃない?
そんな下らないことを考えながら姉さんに拳銃を返す。
「・・・ふう、何とか見えるようになった。それに耳も。でも、射撃管制術式と照準補正術式は何ともならないわね。ったく、戦車と殴り合ったほうがましだっての。」
ぼやきながらも姉さんは、あっという間に装備を整え、理君が囚われている刑務所の扉に手をかける。
「うん、カギはかかっていない。蒼生さんが開けて行ってくれたままだね。さあ、琴音。行くよ!」
拳銃をポーチにしまい、ショットガンを構えて乗り込んでいく。
姉さんのすぐ後を私が、そして後方からの不意打ちに備え、防御魔法のみを展開したオリビアさんが後に続く。
連続しない階段を二度下り、迷路のような廊下を抜けて、少し開けた部屋に差し掛かったところで人の声が聞こえた。
「蒼生兄さん!なんで兄さんがここに!?」
「あー。ほら、ソフィアさんがお前を日本に引き渡すって話をしてくれただろ?だから俺は家族代表ってことでこっちに来たんだよ。叔母さんはちょっと具合が悪くてさ。」
「そうか、母さんには相当心配をさせたんだろうな。で、俺はすぐに日本に帰れるのか?」
・・・理君の声だ。
蒼生さんと、それから・・・そっちの人はソフィアさんとか呼ばれてたな。
それなら、少なくとも敵ではないか。
じゃあ、この建物にはもう、敵はいないのか?
「理君!会いたかった!無事で、無事でよかった!」
それまでは緊張した面持ちで周囲を警戒し続けていた姉さんが、手に持っていたショットガンを放り出して理君の胸に飛び込む。
ちょ、装弾したままのショットガンを放り出さないで!
安全装置がかかっていても危ないでしょ・・・って、ええ!?これ、実銃じゃない!
うげ、これ、見たことがある!
九重の爺様がわざわざ所持許可を申請して取り寄せた・・・狩猟用のショットガン!
しかも、無断で銃口回りを改造してあるし!
とはいえ、今はそんなことを言えそうな状況ではないんだよなぁ・・・。
だってあの姉さんが泣いているんだよ?
理君の胸に顔をうずめて、声を押し殺して泣いているんだよ?
ま、まあ・・・ショットガンの件については、一緒に爺様に謝ってあげるとしましょう。
・・・犯罪行為だけどね。
姉さんが泣き止むまでの間に、蒼生さんとソフィアさんから一通りの事情を聞く。
「そうなんですか。じゃあ、理君は何もしなくても帰ってきたってことですか。」
二人の話を聞く限りではそうなんだろうけど、そんなこと、言われなきゃ分からないって。
毎朝見る姉さんの顔が能面みたいで本当に怖かったんだから。
「でもさ、そうはいっても今地上じゃ・・・。」
そうオリビアさんが言いかけた瞬間。
《しぃ!黙って。・・・理君をこれ以上、心配させたくない。だから、このまま建物の外に出たら、一気に長距離跳躍魔法で日本まで連れ帰るわよ。》
念話で姉さんの声が響く。
ああそうか。
途中まで本当で、途中から嘘なんだ。
でも、とにかく理君の身柄を確保できた。
あとはもう、撤退するだけだね。
そう、胸をなでおろした瞬間だった。
《ガドガン!応答しろ!ガドガン!》
宗一郎伯父さんの声が念話で響き渡る。
ガドガン先生・・・?
そういえば、ずっと念話が途絶えていた。
まるで、何かを隠すように。
《ガドガン卿!何があったのですか!・・・宗一郎さん!状況は!》
オリビアさんが反射的に答える。
《くっ!北から戦車大隊が侵入中!オリビア!長距離跳躍魔法の術札はあるか!》
《中距離用の使い捨てが一枚!今すぐ向かいます!》
《地図は頭に入ってるな!?プロスペクト・コスモナフトフを北上しろ!おそらくはシェフスカヤ・ウーリツァとの交差点でガドガンが交戦中だ!急げ!》
姉さんがビクッとその念話に反応する。
だが、一度目を閉じ、深呼吸をすると、ゆっくりと理君の胸から離れた。
「・・・琴音。私は、必ず理君と一緒に帰る。それに、琴音を危険にさらす気はない。だから・・・。」
「姉さん、それって・・・。」
そう、今、姉さんは選択をしているのだ。
必ず理君を助けるため、そして私を危険にさらさないため、ガドガン先生を見捨てる可能性を・・・。
「はい、そこまで。そんなキツいこと、その歳で考える必要はないよ。私がヒョイと行ってヒョイと拾って帰ってくればすむことなんだから。千弦さん、琴音さん。先に帰ってていいよ。」
「・・・お願いして、いいですか。」
「ああ。だってあの時、宗一郎さんにも同じ決断をするように言っただろう?だから、立場が逆になっただけだ。千弦さんは筋が通ってる。でもね。私は身軽だからね。」
姉さんの言葉に、こともなげにオリビアさんは答える。
そして一瞬で身をひるがえし、階段を駆け上がっていった。
そのうしろ姿を見送る姉さんの顔は、まるで子供が取り返しのつかないことをして、親にバレてしまうのを恐れるような・・・でも本懐は遂げたかのような・・・本当に歪な表情だった。
◇ ◇ ◇
オリビア・フォンテーヌ
砦のような出来の悪い建物・・・イヴァノヴォ刑務所を飛び出し、頭の中の地図をひっくり返してプロスペクト・コスモナフトフを北に駆ける。
ほんの数キロ走っただけで、道路はめくれ上がり、建物は粉砕され、まるで戦争が起きたかのようなありさまだった。
「ガドガン卿・・・やるじゃないか。さすがは人類最高の魔導士。いや、人類最強だっけ?」
《・・・ふ、・・・はは・・・ははは!》
途切れ途切れの念話の中に、ガドガン卿の笑い声が混ざる。
ケガをした時の独特な震えはない。
これは・・・歓喜?それとも、愉悦?
少なくとも、相当楽しんでいることは変わりない。
だが・・・念話のイヤーカフから感じる、いつもの生命力、いや・・・獰猛さが足りない。
「あと300m!見えた!」
砕け散り、燃え上がった商店や住居の奥、散乱する瓦礫の中で白い杖を振り回し、狂ったように魔法を打ち放つガドガン卿が、半壊した装甲を引きずりながら槍を振り回す二体の装甲機動歩兵と戦っていた。
「強さ、勝利、暴力、鼓舞!ステュクスとパラースの子らよ!鍛冶神とともに勇者を磔にせし神々よ!我が腕、我が拳に宿りて神敵を滅する力を授けたまえ!」
今日何度目かの身体強化魔法を詠唱する。
すでに防御魔法は展開済み、ならばこのまま突っ込む!
「せいやぁ!ガドガン卿!ご無事ですか!」
半壊した装甲機動歩兵の一体に渾身の蹴りを叩き込む。
風呂桶をひっくり返したような轟音とともに、ソレは横転し、近くの瓦礫に倒れこむ。
もう一体は!
・・・素手、いや両こぶしが粉砕している。
あれでは武器は持てまい。
「・・・オリビア。せっかく人が楽しんでいるのに、獲物を奪うなんてひどいじゃないか。」
覇気のない声でそう告げるガドガン卿の顔を見て、思わず息をのむ。
「ガドガン卿?・・・その姿は、一体・・・?」
そう、一瞬、着ているものが同じだけの老人かと見間違えてしまうような、枯れ枝のような腕、こけた頬、そして・・・白く、薄くなった髪を振り乱した彼が、あの白い杖を構えて立っていた。
「ふ、ふふ。とうとう来たのだよ。重ね続けた負債を返す日が。・・・忘れたのかね?僕は、120歳の老人だよ?それに・・・使うまいと思っていた禁呪を使ってしまった。」
ガドガン卿の声を聞きながら、正面に立つ装甲機動歩兵に、近くの乗用車を叩きつける。
十分に燃料があったのか、爆発、炎上する。
「下がっていてください。《宗一郎さん!ガドガン卿と合流しました!あなたはどこですか!?》」
「俺はここだ!くそ、距離がありすぎて!」
すぐ近くから瓦礫を押しのけた宗一郎さんが肉声で答える。
肩で息をする彼は瓦礫を押しのけ、足をもつれさせながらもすばやくガドガン卿を支える。
「くそ、やっぱり!あんた、一体何の魔法を使ったんだ!?この衰弱の仕方、どう考えてもおかしいだろう!?」
「ふ、ふふ、僕は、自分の役目を果たしただけさ。それより、千弦君は、理君に会えたのかい?」
・・・そうか。
ガドガン卿は、彼らが通う高校の教師。
そして、兄弟子としての矜持を果たしたのか。
「ええ。先ほど再開し、これから日本へ連れ帰るところです。全員、無事です。」
瓦礫を払いのけて、二体の装甲機動歩兵が起き上がる。
見れば、あたり一面に散らばる戦車、装甲車、そして軍用トラックの破片。
これほどの軍勢を、一人で倒したのか。
「そうか、それはよかった。・・・じゃあ、後は雑魚を片付けるだけだな。手早く終わらせて、早く帰ろう。・・・ああ、久しぶりに仄香のパスタが食べたいな。当時は、スパゲッチと言って、高級レストランでしか食べられなかったんだ。」
ぐっと息をのみ、二体の装甲機動歩兵に向き直る。
時間がない。
悪いが、捕虜もいらない。
手加減もしない。
「・・・宗一郎さん。ガドガン卿をお願いします。慈しみの女神ギュルラよ。汝の掌より滴る清き命の流れよ。傷をなぞりて、痛みを拭い給え。彼の者に安らぎと癒しの息吹を与え給え。」
身体強化魔法、防御魔法に加え、回復治癒魔法を発動する。
・・・ああ、そろそろ私もガス欠だ。
だが、この勝負、ひと呼吸も必要ない!
ドン、と大地を踏みしめる。
そのまま、フルパワーで正面へ。
右拳の先端は、白い円錐状の雲をまとい、一瞬、一切の音が掻き消える。
直後、正面に向かって音速の数十倍の衝撃波。
突き出した拳の先端が、空力加熱で赤く灼ける。
だが、気にする必要はない。
そのための回復治癒魔法だ。
全身を包む空気が、一瞬で刃となってこの身を襲う。
皮膚がはがれ、血液が舞い、筋肉が、骨が砕ける音が聞こえる。
・・・だが。
二歩目を踏み出した瞬間、すべては終わっていた。
目の前にいたはずの装甲機動歩兵は、握り拳より大きな部品は残っていなかった。
「・・・ふう。冥途の土産だ。ありがたくその目に焼き付けな。」
限界まで圧縮した身体強化魔法で、全身の筋肉、骨を物理・魔法限界まで出力し、攻撃の強度は防御魔法で担保し、そして、命だけは回復治癒魔法で守り切る。
一発しか放てない、捨て身の攻撃。
私の切り札にして、長距離跳躍魔法の瞬間最大速度を上回る正拳は、エカテリンブルグの街を大きくえぐり取っていた。




