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248 初めての死/それでも私は人間だ

 紀元前 約五千年


 現在のウクライナ南部 ドニエプル川河口・黒海沿岸部


 三の穴の上の娘は、赤髪の男の船で数日間、神なる河(ドニエプル川)を下り、世界の果てまで水が広がる場所・・・生まれて初めて見る海と呼ばれるものに面した町に着く。


「さあ、ついたぞ。ここが俺たちの町だ。どうせ行くあてはないんだろうからうちに来いよ。」


 赤髪の男は三の穴の上の娘の手を取り、彼女と幼い娘を船から降ろす。


「あ、あの、ナギリ・・・さん?そこまでお世話になってよろしいんでしょうか?」


「まあ、俺と妹、それからその息子しか住んでないから問題ないだろう。結構広い家だしな。」


 ナギリと名乗った男は、はるか北西にある島国から流れてきたのだという。


 「なまえ」、というものを初めて知ったが、確かに相手のことがその言葉だけで頭に浮かぶ便利なものだな、と三の穴の上の娘は感心した。

 同時に、我が娘にも「なまえ」をつけようかと考えた。


 麦や豆といった船荷を降ろした後、船は船着き場の男たちが大きな丸太とロープが複雑に組み合わされたもので陸に引き上げる。


 ナギリはそれを見届けたあと、水堀と小高い丘のような壁の間にある巨大な門を抜け、巨大な一枚岩の板を敷いた道を歩き、三の穴の上の娘を自分の家に案内した。


 それは、穴ではなく、白く塗られた土壁を持ち、透明な板がはまった複数の窓や部屋があり、かつ家の中央には炉まである、すべてが人工物でできた、三の穴の上の娘にとっては初めて見る「家」だった。


「すごい・・・これって・・・穴じゃないんだ。それに、明るくて・・・暖かい・・・。」


 天井付近には不思議な輝きを放つ透明な球体が吊るされている。

 まるで真昼の外にいるかのように明るく、それでいて熱くない。


「その辺に腰掛けてくれよ。ああ、娘さんは疲れているだろう?寝かせるなら俺のベッドを使っても構わない。」


 彼女は首をかしげる。

 ベッド?娘を寝かせるということは、寝床ということか?


 目の前には、おそらくは獣皮や草、葦などを白い布で包んだマットや敷物を敷いた、木や硬く冷たい何かで作られた台状の寝床がある。


 そっと手をのせると、あまりの柔らかさに思わず声が出てしまった。


「気持ちいい・・・こんなものが・・・あるなんて・・・。」


「さて、今後のことについて話し合おうか。まずこの町についてなんだが・・・。」


 ナギリは、この町のことをゆっくりと話し始める。

 途中、ナギリの妹が息子を連れて帰宅し、夕食を作るまで、その話は続いた。


 まず、この町の名前は「ナギル・チヅラ」というらしい。ナギリの名前はこの町の創始者からとったそうだ。


 この町は今から十数回ほど前の夏、この地に突然現れた不思議な黒髪の、目つきが悪い女が作った町で、その女は僅か20日程度で町を作り、様々な知識を伝え、ある朝、二枚の板を残して町の中心で霞のように消えたという。


「不思議な力を持った人がいたんですね。もし叶うなら会ってみたかったです。」


 ナギリはその言葉を聞き、頭を掻きながら(ひと)()ちる。


「黒髪の女もそう言ってたよ。」


「え?今なんて?」


 わが子をベッドに寝かせた三の穴の上の娘は聞き返すが、ナギリは答えず、話題を変える。


「まずは身の回りの物をそろえよう。ええと、おカネ・・・円、通貨・・・なんて説明したらいいんだ?物を買うにはカネが必要で・・・う~ん。あの村では通貨が通用してなかったからなぁ・・・。」


 ナギリは革袋から数枚の青銅製の円盤を取り出すも、どう説明したらいいか思い悩んでいる。


 それもそのはずで、この時代にはほとんど通貨経済が成立しておらず、この町だけが通貨経済・・・すなわち、「青銅という価値の塊」を一定の麦や豆と交換するという、物々交換の延長線上の通貨経済を成立させているという事実を、ナギリ自身も知っていたからだ。


「あら?それって・・・これと同じもの?」


 ところが、三の穴の上の娘は懐に入れていた麻袋を取り出し、中から複数種類の金属の円盤を取り出す。


「おいおい・・・なんだよ、カネ持ってんじゃないか。それも青銅貨だけでなく銅貨や金貨まであるだと?それ、どうしたんだ?」


「・・・長の家からもらってきたんですが・・・これ、何かに使えるんですか?」


 三の穴の上の娘は、その金属片は石礫(いしつぶて)の代わりにぶつけるものくらいの感覚でいたらしく、その価値もよく分かっていないようだ。


 ナギリは苦笑していたが、家の入口に見知った人影が見えたところで椅子から立ち上がり、背を伸ばす。


「ま、この町で生活するならそこからだよな。・・・よし、妹も帰ってきたみたいだし、娘さんは妹に任せて買い物にでも行ってみるか。」


 ナギリは一通りのことを妹に説明すると、三の穴の上の娘を港近くの市場に連れていくことにした。


 ◇  ◇  ◇


 ザザザ、と少し大きな音がして場面が切り替わる。


 かなり大きくなった娘がナギリの妹の息子と家の前の庭で遊んでいる。

 10歳くらいだろうか。


「クルト君!ほら、見て!あそこに虹が出てる!」


「どこ?ユーラちゃん。・・・あ、本当だ!明け方に雨が降ったからかな?こんなにはっきり見えるなんて、今日はいいことがありそうだね。」


 クルトと呼ばれた薄い赤髪の少年は、三の穴の上の娘によってユーラと名付けられた少女より5歳くらい年上で、彼女を妹のように可愛がり、どこに行くにも必ずついて回っている。


「クルト。今日のお勤めは済んだの?」


 ナギリの妹が彼に声をかける。


「朝起きてすぐに終わらせたよ。午後には伯父さんと市場に行くんだ。そろそろ取引を任せてもらえるんだって。」


 クルトは得意そうに、近くに置いてあった算盤(そろばん)を取り出す。


「そう。クルトは計算が速いからね。・・・そのソロバン?だっけ?黒髪の彼女が置いて行ったものの中で一番理解ができなかったけど・・・役に立ってるならいいわ。」


 実際には、つまみをひねるだけで水が出る銀色の道具や、食べ物が腐らない冬が詰められた箱、一人で勝手に歌い出す箱など、理解が全くできないもので溢れた町だった。


 クルトがまだ遊び足りないユーラをなだめて家に戻し、荷支度を始めると不意に声がかかる。


「娘を任せてごめんなさいね。はい、ライラさん。これ、今日の分です。」


 三の穴の上の娘が部屋の奥から顔を出し、盆の上に乗せた色とりどりの髪飾りや首飾り、腕輪などを差し出す。


「相変わらず腕がいいわね。う~ん。売り物にするのが惜しくなるわ。」


 三の穴の上の娘はナギリに拾われてから七年ほどの間にすっかりこの町になじみ、(黒海)を挟んで運ばれるさまざまな鉱石を磨き、あるいは削り、時には砕き・・・見事な装飾品を作ることを生業(なりわい)としていた。


 聞けば、遠く東西の男たちがそれを手に入れるために、船一杯の麦や豆を乗せてナギル・チヅラの町にやってくるという。


 ふと、彼女は考える。

 そういえば、あの船・・・なぜ甲板の筒からいつも煙がたなびいているのだろう?

 何より、なぜ帆がないのに進むのだろう?


「あ!お母さん!ねえ、私のは?余った石で何か作ってくれるって言ってたよね?」


「うふふ。そうよ。今日はとっておきの石で髪留めを作ったの。今出してあげましょうね。」


「うん!」


 三の穴の上の娘は、懐からそっと小さな髪留めを取り出す。

 そこには金で縁取りがなされた切手大の、黒い半透明な鉱石が一つあしらわれた、やや地味ともいえる髪飾りが握られていた。


「うわ~!きれい!でもあれ?この石、すごく大事なものじゃなかったっけ?」


 ユーラが髪留めを空にかざすと、その中央の石の中では赤、緑、青の小さな輝きと、それらをつなぐ金色の糸、そして弱いながらも金の糸の上を光がチカチカと往復している。


「そうね。それは私の大事な妹の形見。そして、あの子を探すための道しるべだった物。でも、もういいの。七年、ずっとこの身につけていた。眠っているときも。・・・でも、何も答えてはくれなかったの。」


 三の穴の上の娘は、悲しげに目を伏せる。

 ユーラは、そんな母が寝物語に語っていた、自分の兄のことを思い出す。


「私のお兄ちゃん・・・どんな人だったんだろう」


 ユーラは母が作った髪留めをつけてもらいながら、まだ見ぬ兄に思いをはせていた。


 ◇  ◇  ◇


 ザザ、と音がして画面が切り替わる。


 やや広い空き地に数人の男女が集まり、中央の檀上にいる二人を見つめている。

 クルトとユーラ。


 司祭のような男が二人に口づけをするように勧め、クルトがユーラの唇に、そっと口づけをする。


 固唾(かたず)をのんで見守っていた男女から、歓声が上がり、誰かが声を上げる。


「結婚おめでとう!これでナギリの家も安泰だ!」


「ナギリのやつ、奥さんをもらったのにとうとう子供ができなかったからな。でもこれで跡取りが出来たも同然だ!」


「馬鹿!俺と彼女はそんな仲じゃない!」


 ナギリは赤くなり、隣にいる三の穴の上の娘・・・すでに娘とは言えないほど美しくなった女を、そっと見る。


 ナギリは考える。


 思えば不思議な女だった。


 この町を作った黒髪の女から言われていたとおり、神なる河の途中で彼女を拾ってからは、商売がトントン拍子でうまくいった。


 美しく聡明で、優しく、率先して働く。

 あっという間に文字を覚え、計算は算盤(そろばん)も使わないのにクルトよりも早く、そして正確だ。


 仕事で腰が痛いときには、背中をさすってもらうだけで痛みも疲れも消えてしまう。

 それに、彼女が作るペンダントや髪留めは、つけているだけで幸せが舞い込むというウワサさえある。


 ・・・これで彼女の下半身が壊れていなければ、すぐにでも子を作りたくなるほどの素晴らしい女だったが、俺はそこまでの度胸はないし、彼女もその気はないようだ。


「・・・クルトさんと娘が新しい家に住むようになったら、私は出ていかなくてはなりませんね。これまで長い間、本当にお世話になりました。このご恩は必ずお返しいたします。」


「そんなことを言わないでくれ。俺は、あんたのことを家族だと思ってる。あんたにその気はないかもしれないが・・・。」


 考えてみれば、彼女は最後まで自分の名前を名乗らなかった。

 いや、名前を作らなかった。


 それは、いまだに彼女の息子のことが後を引いているのだろう。

 それに、彼女は下腹部の傷以上の何かを抱え続けている。


 それは生活の細かなところに現れていて、いつだったか、彼女の作る料理に味がないことについて聞いてみたところ、「塩味は好みません」と短い返事があっただけだった。


 ・・・料理を作るところを見ている限りでは、普通に塩を使っているんだけどな?

 なぜ塩味だけがなくなるのか、まったくもって謎だ。

 塩味に何か呪いでもかかっているのだろうか?


「もうしばらく俺の家にいてくれ。行く当てができるまででいい。」


「・・・よろしいのですか?私がいるせいで、あなたは女性が・・・。」


「あんたがいなくても嫁は来ないさ。あんたのせいじゃないし、俺はあんたにいて欲しいんだ。」


「・・・しばらくお言葉に甘えます。」


 三の穴の上の娘はうつむいたまま、そう短く答えた。


 ◇  ◇  ◇


 季節はめぐり、クルトとユーラが夫婦になって次の春、彼らに子供が生まれた。

 作りたての小さなベッドには、男の子と女の子の双子が眠っている。


「もう名前は決めたの?」


「ううん。まだ。だって二人も生まれると思わなかったんだもん。クルトは町の偉人の名前をもらうって言ってるけど。」


 三の穴の上の娘は、生まれたばかりの孫の顔をそっと撫でる。

 その顔は、かつて失った息子のことを思い出しているかのような、不思議な慈愛に満ちていた。


 同時に、ナギル・チヅラが誇る鉄壁の城塞と不思議な軍隊のおかげであの男が来ることもなく、安心して暮らせることに感謝をしていた。


「クルトさん!お届け物です!・・・あれ?クルトさんは?」


「夫なら市場ですが・・・あら?これ、あて先が夫だけどちょっと違うような・・・?」


 最近この町で整備された「郵便」という制度で、粘土板のようなものが届く。


 最近はほとんどが紙で、粘土板は珍しいと聞いたけど?


 文字、というものがやっと使えるようになったユーラはそれを手に取り、首を傾げた。


「・・・これ、お母さん宛てだ。文字、読める?」


 三の穴の上の娘は頷き、ユーラから粘土板を受け取る。


 粘土板には二つの七芒星をずらしたものに小舟の櫂をあしらったような紋章と、縁には何かの20周年を祝うかのような文言が彫られていた。


 ああ、ナギル・チヅラの紋章か。


「ええ。仕事で使うから・・・ええと。『あなたの息子さんは同じ空の下で生きています。けっして諦めないで。いつか必ずあなたの手は届く。ただ、あなたの幸せを祈って。私は黒髪の女と呼ばれる者。遥かな明日の、あなたの娘。』・・・これは・・・一体・・・?」


 彼女は考える。

 差出人の氏名は書かれていない。

 黒髪の女?

 遥かな明日の、私の娘?

 私はもう、子を孕めないのに?


 だが、三の穴の上の娘はわが子に贈った髪留めを、ちらりと見る。

 その髪留めは、窓から差し込む日の光に照らされ、何かを伝えたそうにキラリ、と光っていた。


 今の年齢にすれば、三十を少し超えたくらいだろうか。

 この時代であればすでに年配だが、まだ体は不思議と衰えていない。


 三の穴の上の娘は、自分の身体の中に何かが灯るのを感じた。

 ・・・そう、あの子が待っているのなら。

 私は歩みを止めてはいけないんだ、と。


 ◇  ◇  ◇


 ザザザ、とノイズ混じりの音がして、場面が切り替わる。


「本当に行くのか?いくら黒髪の女の言葉だとしても、どこに行けばいいかなんて分からないだろう?」


 旅支度をしている三の穴の上の娘を、ナギリが必死に止めている。


「これまで長い間、大変お世話になりました。私も結構な歳になりました。あと何年生きていられるか分かりません。・・・こんな身体ですし。」


 三の穴の上の娘は、そういいながら自分の下腹部に手を当てる。


「お母さん。行くの?もう、戻っては来ないの?」


 ユーラは少し大きくなった娘を抱いて、その隣の息子を抱いたクルトと二人、心配そうにその姿を見ている。


 この二人の名は、女の子がチーロ。男の子がコルネ。

 この町、ナギル・チヅラを作った黒髪の女の名と、彼女が時々口にしていた言葉からとった名だ。


「あの子を見つけたら、すぐに戻ってきます。あなたたちも私の大事な娘、そして孫です。必ずあなた方の人生を、私は守ります。・・・名残惜しいですが、そろそろお別れです。」


 村から出た時に着ていた、母親の貫頭衣と、(わら)を編んだサンダル、麻のような繊維の腰巻を着た彼女は、そのまま旅立とうとする。


「ちょっと待って。これを持っていきなさい。おカネが使えるのはこの町と貿易している町だけだから。食べ物に困ったらこれと交換してもらって。」


 ナギリの妹のライラが、部屋の奥から大きな麻袋を取り出す。


 そっと中を開けると、これまでに作った装身具のうち、特に出来の良いものや、娘の婚姻・出産祝いに贈ったものと同じものが大量に入っていた。


「・・・これは?」


「お母さん。必ず帰ってきて。それまではこの首飾りを見て私を思い出してくれると嬉しいな。」


 その中の一つを取り出し、そっと彼女の首にかける娘の言葉に、三の穴の上の娘は麻袋にポツリと涙を落とす。


「ごめんなさいね、こんな母親で。これから子育てで忙しくなるでしょうに、私のわがままでつらい思いをさせるわ。」


「そんなことない!お母さんは私のことを一生懸命育ててくれた。行方不明になったお兄ちゃんを探しに行きたいのに、口にも出さずにぐっと我慢して、育ててくれた。・・・だから、私はもう大丈夫。それに、クルトがいるから大丈夫。」


 ユーラの肩をそっとクルトが抱き寄せ、力のこもった言葉で宣言する。


「ユーラと子供たちは俺が守ります。命を懸けて。ですから、心置きなく、ご自分のなさりたいことをなさってください。そして、いつでもかまいません。お帰りをお待ちしています。」


 神なる河のほとりの村を飛び出した時とは違い、多くの人々に見送られ、彼女は一歩を踏み出す。


 最近流行り出した、動物が引かない車が煙を吐きながら走っていくのを見つめながら。

 あの日、息子が飛び去った東の空を目指して。


 ◇  ◇  ◇


 ジジジ・・・とこれまでとはまったく違った音がする。


 いつの間にか場面は、しんしんと雪が降り積もる深い林の中になっている。

 点々と続く赤黒いシミのついた足跡。

 どこまでも続く、白く、暗い木々。


 雪焼けした上にあかぎれだらけで指先が真っ黒になった手をした、一人のくすんだ金髪の女性の姿が目に入った。

 手に持った木の枝そのままの杖は、その持ち手が赤黒く汚れている。


 その女性は、(なめ)した獣の皮に穴を開け、蔓紐を巻き付けただけのボロボロの貫頭衣に、藁を編んだ粗末なサンダルのようなものを履き、麻のような植物を叩いてほぐした繊維で作った布を体に巻き付けている。


 その足は酷く汚れ、泥汚れの中に赤黒い汚れがいくつもこびりついている。


「あの子は・・・どこに・・・この大地は、これほどまでに広かったの?・・・どれほど、歩けば・・・。」


 三の穴の上の娘・・・いや、かなり人相が変わってしまっており、手足に刻まれた傷は、それまでの旅路が容易ならざるものであったことを物語っている。


「・・・回復治癒の(まじな)いが、もうずいぶん前から効いていない。人里を出てからもう30日を超えた。そろそろ次の人里がないと・・・。」


 彼女は考える。

 そういえば、最後に太陽を見たのはいつだったか、と。


 空腹で力が出ない。

 血を流しすぎたのか、目が回る。

 それでもなお、歩みを止めるわけにはいかない。


「あの子が、きっと待っている。せめて、その姿を・・・足跡だけでもいい。あの子が、幸せに生きた痕跡だけでもいい。最後に一目・・・。」


 力が抜け、膝から崩れ落ちる。

 いつしか雪は止み、雲間から月明かりが射しているのに、月がはっきり見えない。

 目もかなり、悪くなっている。


 懐から松脂を塗り、油に浸した松明を取り出し、そっと言葉を発する。


()()()()。」


 ボっと軽い音がし、一瞬で松明が燃え上がる。

 彼女は近くにある濡れた枯れ枝をかき集め、己の魔力で水分を抜き、松明の灯をつける。


 杖を握る両手の指先が、黒ずんでいる。

 麻布をまいた簡易的な防寒はしていたが、数日前から感覚がない。


 回復治癒の呪いも効かないところを見ると、すでに指先は死んでいるようだ。


「・・・うぅっ・・・もう、使えない、のね。もう、あの子に新しいペンダントを作ってあげることもできない、のか。」


 ぼろり、と落ちた黒ずんだ指先は、音もたてずに雪の上を転がっていく。


 思わず拾おうとしたが、その指先で我が子の頭を撫でてやれないことに、両目の奥が熱くなる。


 ただ一人、全身を包む喪失感に、嗚咽を漏らして震える。


 ふと、神なる河のほとりの村や、途中の村であがめられていた「神」という存在のことが頭に浮かぶ。


「うっ・・・くっ・・・。だれか、助けて・・・。神様、お願いします。あの子に、一目でいい、死ぬ前に、幻でもいいから、会わせてください。お願いします・・・。」


 欠けた指先を曲げることもできず、両手を合わせて空に祈る。

 ・・・だが、何も返事はない。


 彼女は、そういえばナギル・チヅラの町では、この世を作ったという意味での神の話は全く聞かなかったな、などと思いつつ、再び歩き出そうと腰を上げる。


 だが、腰を上げた瞬間・・・ふわっという浮遊感とともに、雪の上に投げ出された。

 足の感覚がない。平衡感覚もない。

 倒れたのだと気づくのに、若干の時間を要した。


「・・・ここまで、かしら。ああ、もう一度、あなたに会いたかった。私の坊や。あなたとはまだ、何も話をしてないわね。もっとたくさんお歌を歌ってあげたかった。私の料理を食べさせてあげたかった。一緒に眠ってあげたかった。あなたのお嫁さんも見たかった・・・。」


 彼女は涙するも、極寒の雪の上で、無情にも涙は凍り付いていく。


 彼女は考える。

 もはや、声も出ない。

 全身の感覚は、両手、両足ともになくなり始めている。


 指一本動かせない。・・・いや、動かすべき指は、先ほど雪の上を転がっていった。

 こんなことなら、娘の子育てを手伝っておけばよかったのか。

 だが、あの粘土板・・・黒髪の女の言葉を信じたのは自分だ。


 ゆっくりと、世界が遠ざかる。

 こんなところで終われない。

 こんなところで、諦められない。


 誰にも、声が届かない。

 あの子にも、神とやらにも。

 もし生まれ変わりがあるのなら、何回生まれ変わっても。


 黒髪の女の言葉を信じて、あの子を、あの子の足跡を探しに行く。


 およそ執念、もはや呪詛とも呼べるほどの情念を、雪の上にまき散らしながら、三の穴の上の娘と呼ばれた女の身体は・・・ゆっくりとその鼓動を止めた。


 ◇  ◇  ◇


 ・・・。

 ・・・・・・。

 ・・・・・・・・・。


 何もない空間で、明滅する光の粒子が浮いている。

 数列、いや、数式・・・いや、文字の羅列のようなものが、瞬いている。

 ある時、一斉に整列し、明瞭な意識を持つ。


 それらは、唐突に理解する。

 これは、私だ、と。


 それらが、自分を「三つ目の穴で冬の朝生まれた女」と理解したとき、ふわりと世界が広がる。


 気付けば、彼女は誰かの身体を動かしていた。

 幼い手。

 穢れのない身体。


「目が開いた!ユーラ!まだ生きてる!」


「うそ!あんなに頭から血を流していたのに!きっとお母さんが助けてくれたんだわ!」


 周囲を見ると、どこかの山道を数人の男女が大きな荷物を背負って移動しているようだ。

 大きなケガをした者もいる。


 彼女は首をひねる。

 さっきまで雪の上で死にかけていたはずなのに・・・。

 それに目の前にいるのは、自分の娘だ。

 すこし、いやかなり歳を取っているが、我が娘を見間違えるはずがない。


 娘によく似た、少し自分より大きな少年が心配そうに声をかける。

 不思議と彼のことがわかる。


「チーロ。大丈夫か?頭からかなり血が・・・あれ?傷がない。」


 その名前は私の孫娘の名前だ、と思い出した瞬間、チーロのこれまでの人生が頭の中を駆け巡る。


 同時に、今先ほど道から足を踏み外して崖から落ち、頭を岩にぶつけ、亡くなったことも。


「なんて、こと・・・私は・・・チーロ・・・孫娘の身体を・・・。」


 あまりのことに(おのの)いていると、ユーラがそっと手を伸ばす。

 思わずビクッとし、身体を縮めてしまう。

 息子を選び、娘を捨てた私は、娘の手で頭を撫でられる資格などあるのだろうか。


「立てる?今日中に次の町まで行かなきゃならないの。ナギリとライラは先に行ってるから・・・。」


 記憶を整理するも、幼い孫娘の頭はすべてを知ることができる立場になかった。

 ただ、ナギル・チヅラが得体のしれない者に襲われ、西へ逃れていることだけしかわからなかった。


 ◇  ◇  ◇


 ザザ、と軽い音がして場面が切り替わる。


 青銅器も鉄器もない、それでいて人口だけはある村の麦畑で、不思議な魅力をまとった娘が収穫したばかりの麦を背負い、歩いている。


 時代的にはむしろ逆行したようなイメージがあるが・・・。


 彼女はすでにチーロの身体ではなく、誰かほかの女性の身体を使っているようだ。


「あれから1200年。まだ私は生きている。娘たちの、孫娘たちの身体を奪って・・・。」


 村の近くの丘の上で、彼女は考える。


 あの洞窟の中、私を傷つけぬいた男と、私は同じことをしているのではないか。

 娘を、孫娘を、その亡くなった身体を渡り歩いて息子の痕跡を探すなど、鬼畜の所業ではないだろうか。


 土の下で眠ることも許されず、その亡骸を会ったこともない女にいいように使われている彼女たちは、私のことを決して許さないのではないか。


 うわさに聞く、悪魔とは自分のことなのではないか。


「おーい!麦粥ができたぞー!」


 わが娘を呼ぶような男性の声が丘に響く。


「はーい!今行くよ!お父さん!」


 彼女は元気に答える。

 答えたあと、自分ではない、本当の娘に向けた彼の声にほんの少し、恐怖を感じる。


「・・・私は悪魔じゃない。生まれも育ちも人間だ。でも、あの子に会うまで、あの子の足跡を見つけるまで、絶対にこの歩みは止めない。たとえ、世界そのものを敵に回しても。」


 空はあの日と同じように青く、白い雲が浮いている。

 少女は唇をかみ、こぶしを握り締め歩き出す。

 その胸に、ほの暗い恐怖と、まばゆい決意の炎を宿しながら。


 ◇  ◇  ◇


 仄香(ほのか)


 8月10日深夜


「ここまでが私が魔女になり、娘たちの身体を渡り歩きだしたいきさつです。すべてはあの日、愚かにも石板に触れた、私の過ちから始まっています。千弦さんや琴音さんが苦しい思いをしたのも、紫雨(しぐれ)が1700年もの間、海の底に封印されたのも。」


 今まで誰に話したこともない、見せたこともない私の一番の傷を、琴音と千弦、紫雨(しぐれ)星羅(せいら)、そして遥香に見せてしまった。


 彼らはなんと言うか。

 どんな非難の言葉が投げられるか。

 覚悟をしていたが、そっと私の手を握る、温かい手がそこにあった。


「・・・仄香(ほのか)・・・ずっと辛かったでしょう?一人でこんなにも重いものを抱え続けて。本当に、言葉に言い表せられない。なんて言ったらいいのかわからないわ。」


 千弦が涙を拭きながら、私を抱きしめる。


「・・・姉さんが死んだと思っただけで自殺した私は、恥ずかしくて仄香(ほのか)の顔も見れないわ。よく、頑張ったわね。」


 顔を伏せたまま、琴音が後ろから私の腰に抱き着く。


「母さん・・・。僕を探してくれてありがとう。6800年もたってから、母さんの愛情がこれほど深いと知るとは思わなかった。僕は、世界最高の母親をもって幸せだ。」


紫雨(しぐれ)が女に奥手でヘタレなのは、母親がいないからだと思っていましたが・・・。もうこれで解決ですね。それに、今は琴音さんがいますし。それにしても・・・姉さん、本当に苦労したんですね。】


 星羅(せいら)がしみじみと言う。


 ・・・いや、同じ期間、ずっと身体がなかったんだから、むしろ星羅(せいら)のほうがよほどつらかったんじゃないか?


 私ならそれだけの期間、身体なしじゃ耐え切れないぞ?


「・・・ねえ、仄香(ほのか)さん。今は幸せ?」


 遥香が私の瞳をのぞき込む。

 彼女は両目に涙を浮かべながら、それでもまっすぐに私の瞳を見つめている。


「ええ。今は私の人生の中で一番幸せです。あれほど探した息子がいて、娘の子孫が元気に暮らしている。これほどの幸せはないでしょう。なんなら、この周回を最後にしてもいいくらいです。」


「「それはダメ!!」」


 琴音と千弦が声をそろえて飛び上がる。

 それを見ていた遥香と星羅(せいら)が、クスクスと笑い始める。

 いつしか、16畳の空間は笑い声で満たされる。


 ああ、生きてきてよかった。

 ああ、歩き続けてよかった。


 心の中の黒いものが(ほど)けていく。

 これで、私は前だけを見ることができる。

 いつの間にか、私は、大声をあげて笑いながら泣いていた。


 ◇  ◇  ◇


 サン・ジェルマン


 同時刻 ソビエト連邦 エカテリンブルグ郊外


教皇(サン・ジェルマン)猊下。お加減はいかがですか?」


「・・・む。これは・・・ドルゴロフの息子の身体か。よくやった、薙沢。」


 東スラブ系の若者の身体を起こし、手足を動かしてみる。

 ・・・問題はない。

 それどころか、以前の身体より若干高性能であるようだ。

 そのうち、妻と同じ人種の肉体を手に入れればいいだろう。


「申し訳ございません、穂村がしくじりました。奥方様の身体は聖釘(アンカー)に侵され、爆発、四散したとのことです。いくつかの肉片は集めましたが、残念ながら全体の一割にも満たないとのことで・・・。」


 ・・そうか。

 まったく惜しいことをした。

 だが・・・。


 爆発させたのは妻ではないだろう。

 アイツが聖釘(アンカー)に術式を組めるとは思えん。

 おそらくはあの場にいた娘の一人だろう。

 いつかこの借りは必ず返してやろう。


「まあ良い。もともと手に入るとは思っていなかったものだ。・・・いや、待て。一割に満たないといったな。見つかった部位はどこだ?」


「頭蓋骨の一部と、骨盤の一部です。遺物(アーティファクト)でも作りますか?」


「・・・ああ、それだけあれば十分だ。ここから先は、あいつらに気取られないよう、秘密裏にすべてを行う必要がある。薙沢。人工魔力結晶の保有量は残りどれだけだ?」


 妻の骨は、あの日、あの時に戻るための道標になるものだ。


「ええと、総量で約5tといったところでしょうか。先月末時点で4,870kgと聞いています。」


 ・・・ふむ。概算ではあと200kg程度か。

 それだけあれば、もう一度あの日のように妻を抱き、娘を愛でることができるだろう。


「よろしい。では、アフリカ諸国の難民キャンプにあるすべての人工魔力結晶抽出装置を稼働させろ。ひと月以内に残りすべての信者を動員して、人工魔力結晶をあと200Kg揃えろ。」


「・・・残り200kgを、一気にですか?・・・わかりました。では、直ちにかからせていただきます。」


 薙沢は驚きながらも、(うやうや)しく頭を下げて部屋を出ていく。

 その姿を見送り、満足した俺は夢の続きを見ることにした。


 ◇  ◇  ◇


 あいつ・・・三の穴の母が俺の村を焼き、妻を逃がした後だった。

 新しく長になったのは、五の穴の下の男・・・つまり、死んだ長の息子だった。


 新しい長の元、燃えた村を再建しようとしたが、妻が作った井戸は壊れて埋まってしまい、延焼した畑はもはや使い物にならず、神なる河に流れ出た灰は漁場を台無しにした。


 三の穴の母の死に際の言葉に、妻が力を得たのはやはり石板であると仮定し、妻を閉じ込めていたあの洞窟をあさり、その妹の遺骸を調べたところ・・・確かにその腹には石板の破片が残っていた。


 しかし、その破片に触っても、何も起きない。

 やはり砕けてしまった以上は、何の力もないのか、あるいは妻の言葉は嘘であったのかと。


 村の人間が諦め、同時に俺に怒りの矛先を向けた時、ふと思いついた。


 ・・・飲み込めない大きさではない、と。

 俺は、恐る恐るそれを口にした。

 

 すると、破片は不思議と喉にするりと落ち、いつしか俺という存在がその中に入っていることに気付いた。


 あの石板の破片を飲み込んだ瞬間から、俺の世界は変わった。


 妻ほどではなかったかもしれないが、手をかざして祈れば炎が出て、擦れた足をさすれば傷がふさがり、網に魚をおびき寄せることができた。

 ・・・麦を育てることだけはできなかったが。


 いつしか村では長をしのぐ権力を手にし、慌てた長が自分の妹・・・五の穴の上の娘を嫁によこしたが・・・妻と同じように扱ったら息子を一人生んだ後、あっさりと死にやがった。


 外見だけは妻によく似ていたが、泣き声は最悪だったな。

 自分の事しか考えず、自分以外の全ての命を差し出してでも助かろうとしていた。


 それに、息子・・・あれを、あの系統を俺は俺の子孫とは認めない。


 はっきり言って出来損ないだ。


 俺の真似をするかのように出来損ないの石を胸につけているわ、石を砕けば簡単に死ぬし、瞳の形も縦長で、更にはなかなか大人にもなりゃしない。


 だが、俺の身体の乗り換え先としては重宝した。

 なんて言っても寿命が八倍あるからな。


 五年くらいしてから、妻が逃げ込んだ町が分かったときは嬉しくて小躍りしたよ。


 黒髪の女のせいで、町に入るだけで何年もかかったが、石板の破片の力を使い、あの町を根こそぎ燃やしてやった。

 ・・・いや、勝手に燃えたんだっけか?

 そうそう、そのあと水没していたんだよな。


 今考えると、何を考えているか理解できない町だった。


 残念ながら妻も娘もいなかったが、どうやら生き延びたらしい。


 ・・・ふふ、ははははは!!

 怒りに任せて娘を、娘の系譜を滅ぼさないで本当によかった!


 その娘の系譜が続いているおかげで、妻はこの世にあり続けた。

 まったくよくできた娘たちだ。


 俺に差し出すために妻の魂の器であり続けるとは。

 ほんのちょっと、事故や病気を装って少しずつ殺して回ったが、おかげで新鮮な肉体を妻に提供し続けることができたよ。

 ・・・イレギュラーな身体に憑依することも多かったけどな。 


 だが・・・もはや目的が変わった。

 娘などもう不要だ。

 ならば、この世界もろともに、俺の糧に・・・人工魔力結晶にしてやろう。

 そして、俺が再び妻をこの手にするための礎となるがいい。


これで神話編、完結です。

これまでの話が全て第三者視点で描かれていたのは、幻灯術式で魔女が上映すると同時にサン・ジェルマンも同じものを見ていたからですね。

次回から新章が始まります。

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― 新着の感想 ―
友人に勧められて読んでみたが、世界観の細かさだけでなく、登場人物の感情や身の上などの細かさに驚かされた。 最初は、どうせだれかにチートを授けられた女主人公が「俺tueeeee」ならぬ「私tueeee」…
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