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247/296

247 光の下へ/その手は決して届かない

筆者、夏季休暇のため、更新が数日止まります。

ですが、金曜日の更新は欠かさないようにしますのでよろしくお願いします。

 ???


 紀元前 約五千年


 現在のウクライナ北部 ドニエプル川・プリピャチ川合流地点 南西部


 死臭が漂う洞窟の中、一人の娘が高熱と激痛に唸っていた。


 意識が飛ぶ。

 自分の呻き声で目が覚める。

 のどが渇く。

 男が持ってきた泥水に口をつける。

 失神するように眠る。


「おい、起きろ。メシだ。」


 唐突に一の穴の男の声が響く。

 男は腐りかけたイノシシの生肉を彼女の前に放り出した。


 どれほどの時が経ったのかわからない。

 だが、明らかに男が通う回数が減っていた。


「臭ぇな・・・ったく。ほれ、食わねえんならとっとと股を開け。・・・なんだよ、まだズタズタじゃねぇか。早く治しておけよ。じゃあ、今日はこっちだけでいいや。ほれ、お務めだ。」


 男は、ひもが複雑に絡み合ったものを娘の前に放り出す。


「・・・なに、これ・・・?」


「ああ?ンなことどうでも・・・ああ、いや、込める力の種類とかあるのか?まあいい。それは網って言ってな。お前がいなくても魚をたくさん獲ることができる道具だ。川下の連中が持ってきたんだが・・・こいつを投げると魚が逃げるんだよ。むしろ集まるように力を注いでくれ。・・・できるよな?」


 男は、裏切者か何かを見るかのような目で彼女を見下ろす。

 裏切ったのは、むしろ男の方なのに。


「あの子は・・・無事・・・ですか?」


「あの子?ああ、娘のほうか。元気に暮らしてるよ。今頃首が座ったころじゃないか?」


 娘は考える。


 この男は、娘を育てていない。

 間違いなく、自分と私との間の娘とわかっているはずなのに。


 こんな男だとは思わなかった。

 小さなころから共に過ごしてきた男が、今や見知らぬ怪物のように思える。


「・・・娘は、どこにいますか。」


「うるせぇな。どうせここから出られねぇんだ。お前には関係ないだろ!?」


 彼女は、ただ娘の無事を祈り、絞り出すように言葉を続けた。


「お願いします。私には、もうあの子しかいないんです。お願いします。」


 彼女はとっさに嘘をつく。

 つきたくない嘘をつきながら考える。

 もしかして、生まれて初めて自分の意思を曲げて嘘をついたのではないか、と。


「・・・ふん。やっとアイツのことをあきらめたか。まあ、そりゃそうだよな。アイツがいなくなってからもう冬が3回も来てるんだ。今頃はオオカミに食われたか、イノシシに食われたか。ああ、もしかしたらそのイノシシがお前の息子を食ったやつかもな。」


 彼女は、それまで感じ続けていた下腹部の痛み以上の痛みを、胸に感じる。

 今、私は娘のことが心配なあまり、あの子のことを切り捨てたのか、と。


「・・・娘は、どこに・・・いますか。」


「長のところだな。ほぼ同時に五の穴の下の娘が川下の連中の子を産んだから、ちょうど乳が出てるし、五の穴の母さんは三の穴の母さんと双子だからな。その娘の乳もお前と大差ないって・・・おい、そんなことはどうでもいいから、網に力を注げ。ああ、鼻が曲がりそうだ。こんなところに長くいたくはないんだよ。」


「・・・はい。」


 彼女は後ろ手に縛られたまま、網に口づけをして力を注ぐ。

 網は大きく、釣竿と違って注げる力が大きそうだ。


 彼女は自分の苦しみを、その網でとれる魚を通じて少しでも村人に伝染するようにと、もはや折れかけた心の中で(わら)にも(すが)る思いで念を込めていった。


 ◇  ◇  ◇


 ザザっ、と聞きなれた音がして、画面が切り替わる。


 川幅の広い川で複数の小舟が並び、網を引き揚げている。

 網の中には銀色の輝きが踊り、あの娘が不思議な力で獲った以上の魚が跳ねている。


 村人たちは歓声を上げながら魚を引き揚げ、幾分か増えた人数が十二分に腹を満たせることに喜びながらも、その網に力を注いだ娘のことを忘れていた。


 村人は満面の笑みで村に帰り、魚を保存するために内臓を取り除き、清潔な水で洗っている。

 その水をもたらしている井戸は、だれが掘ったものかも知らずに。


 下処理が終わった魚を、塩水に漬けていく。

 その塩と交換した、麦がなぜ豊作であり続けるかも考えずに。


 塩が十分に回った魚を、干場に並べていく。

 その干場に、なぜ虫が寄り付かないかにも気づかずに。


 だがその夜の宴で、保存に回さず塩焼きにした魚を口にしたある女が、ふと、三年ほど前まで村にいた、不思議な力を持った娘のことを思い出した。


「ねえ、そういえば三の穴にちょっと不思議な娘がいなかったっけ?」


「そうそう、いたいた。あの子、一の穴の男の奥さんだったのよね。たしか、子殺しと妹殺しの罪で洞窟に閉じ込められているはずよ。」


「あれ?一の穴の男はまだ独り身なんじゃなかったっけ?」


「ええと、五の穴の上の娘が言い寄ってるんだけど、なんか出来ないらしくって。」


「え?何が?」


「あっちの話よ。・・・勃たないんだって。」


 ゲラゲラと笑う女たちを見て、一の穴の男は露骨に顔をしかめる。

 実際、一の穴の男はしばらく女を抱いていなかった。


 死臭漂う洞窟の中に監禁しているあの娘は、汚物にまみれ、傷だらけになっても彼にとっては美しい妻であり続けた。

 いや、彼の認識がそう捻じ曲がっているだけかもしれないが。


 目の前で(かしま)しく騒ぐ女や、自分を狩りの道具の一部にしか見ない女に欲情することができなくなっていたのだ。


 ・・・だが、娘が生まれた日からしばらくして、彼女を抱くことはできなくなった。

 男の象徴を入れるべき場所がズタズタでは、快楽を得ることができなくなっていたのだ。


「ふん。面白くもない。」


 男は食べかけの魚を放り出す。


 男は考える。

 そういえば最近は魚ばかりだ。

 そろそろイノシシの肉でも食いたいものだ。


 いや・・・あの娘に食わせた後、イノシシの腹から子供の骨が出たとでも言ってみようか。

 暗い愉悦に、勃たないはずのソレが鎌首を持ち上げる。


 男は早々に立ち上がり、明日の狩りの支度をするために、自分の穴に戻ることにした。


 ・・・・・・。


 一の穴の男が自分の穴に向かって歩き出したその時、宴の輪のかなり外で一人、焼いて塩を振っただけの魚にかぶりついた中年の女が、自分の娘のことを思い出す。


 ・・・あの娘も、そろそろ許されてもいい頃なんじゃないだろうか、と。


 反省するまでという約束で、罪人としてあの洞窟に閉じ込められているはずだが、それにしてもずいぶん経っている。


 あの娘の力を注がれた釣竿や網が運び出されているところを見ると、しっかりと一の穴の男が面倒を見ているはずだ。


 村のためにその力を振るう程度には、大事にされているようだ。


 だから、禁止されてはいるけど、こっそりと顔を見に行くくらいは許されるんじゃないか。


 確かにあの娘は、自分の子供と妹を殺した。

 わが娘ながら、それ以外は本当によくできた娘だった。


 確かに、あの娘が妹を殺したおかげで、自分は村の中で爪弾きになった。


 だが・・・物心ついた時から自分の言いつけは守ったし、何より嘘がなかった。

 我儘(わがまま)らしい言葉を聞いた覚えもない。


 それに、自分が大変な時、頼みもしないのに妹の面倒を見てくれたのはあの娘だった。

 頭がよく、そして誰に対しても気を配り、見返りを求めない、優しい娘だった。

 もしかしたら、自分の息子だけでなく、妹の面倒までみて、かつ村のために力を振るい、心が病んでいたのかもしれない。


「どうした?三の穴の姉さんが泣いてるよ。もしかして娘さんの事でも思い出したのかい?」


「・・・煙が目に染みてね。ああヤダヤダ。もう歳かね。」


 いや、本当に妹を殺したのはあの子なのか?

 あの子の言う通り、石板・・・のようなものがあって、本当に破裂したのではないか?


 三年の月日が経つにもかかわらず、突然いてもたってもいられなくなり、立ち上がる。


 そう、確認するだけだ。

 あれから村で死人は出ていないから、洞窟に埋葬された人間はいない。

 ならば、葬儀にかかわる道具は、まだ長が住む五の穴のどこかにあるはず。


 幸い、長もその娘たちも、川下の連中が持ってきたブドウを腐らせた酒とやらで酔いつぶれている。


 かつて、三の穴の母さんと呼ばれた女は夜の闇に紛れ、五の穴にゆっくりと忍び込んだ。


 ◇  ◇  ◇


 村の者に感付かれないように足を忍ばせて、五の穴から顔を出す。

 女ばかりの村だ。

 交代で巡回を行っている男は、常に一人のみ。


 五の穴で見つけた、見慣れないアオガネ(青銅)の不思議な棒切れが、なぜかとても気になった。

 女はその棒切れと、同じところに置いてあったアオガネ(青銅)の剣を持ち、洞窟に向かう。


 洞窟の前につくまで、不思議と誰にも会わなかった。

 そろそろ子どもがいる女は、宴からそれぞれの穴に戻るはずなのに。


 洞窟の前で小さく娘を呼ぶが、返事がない。

 眠っているのだろうか。

 ふわりと悪臭がする。


 洞窟は太い枝と強靭な麻糸で縛り上げた檻でふさがれている。

 ここに入るためには、この檻を破壊しなくてはならない。


 女はためらった。

 やっと村の者たちが三年前のことを忘れ始めたのだ。

 もし、あの娘を逃がせば、自分の立場はない。

 むしろ、洞窟の中に閉じ込められるのは、自分ではないか、と。


 だが、今までに感じたことがない何かが、身体を突き動かす。


 気付けば、アオガネ(青銅)の剣は振り下ろされ、麻糸のことごとくを切り裂いていた。


 洞窟の手前に置かれた篝火(かがりび)から火をもらい、松明を灯す。

 ゆっくり、ゆっくりと奥に進んでいく。


 むせ返るような悪臭の中、松明の光に照らされたのは・・・。


 かつて、あどけない顔で笑い、妹を優しい歌であやし、大変なことでも嫌な顔一つせずに働いていた・・・ちょっとくすんだ色の金髪の娘の・・・変わり果てた姿だった。


「ひどい・・・こんなことになっているなんて!一の穴の姉さんは、ちゃんと食べさせてるって。一の穴の男は、娘が生まれるくらいに愛してるって・・・。」


 松明に照らされて目を覚まし、うつろな瞳を向ける娘は、かすれた声を出す。


「お願いします。娘を、どうか、お願いします。なんでもします。私はどうなってもいいから、娘を・・・。」


 変わり果てたその声に、思わず逃げ出しそうになる。

 目の前の半裸の娘は、下腹部にある、女性の象徴を縦に引き裂いたような傷を露わにして横向きに倒れていた。


「どうして、こんなことになってるの・・・?反省するまで閉じ込めておくだけじゃなかったの?あの男、何をしたの・・・?」


 あまりにも長い間、洞窟の中にいたからだろうか。

 松明には反応するが、自分の母親の顔がわからないようだ。


 目が見えていないのか、それとも覚えていないのか。

 ・・・あるいは、とうの昔におかしくなってしまったのか。


 女は松明を壁の穴に挿し、自分の娘を抱き起そうとしたとき、壁の一部が崩れていることに気づいた。


 壁の隙間から、亜麻色よりもやや濃い髪色がこぼれている。

 そこには、見覚えのある髪飾りが・・・。


 目の前の娘が、妹である三の穴の下の娘のために石を磨き続けて作った髪飾りがこぼれていた。


「なんてことを・・・妹の亡骸の近くに、閉じ込め続けるなんて。かわいそうに。いくらなんでも、よくもこんなひどいことを・・・。」


 そっと妹の髪飾りに手を伸ばした時、砕けた頭蓋骨の中に見慣れないものがあることに気付く。


 それは、黒く透明な石の中に、いくつもの金の糸が走り、赤、緑、青の小さな宝石を内包して、弱いながらも今なおチカチカと光を放つ、不思議な石だった。


 石を手に取った瞬間、一瞬でいくつもの夢を見せられたかのような、見知らぬ知識が頭を駆け巡る。


「・・・あの子を、探しに・・・娘を・・・。」


 虚ろな目でブツブツとつぶやき続ける娘を見て、女は納得する。

 これは、娘が言った石板の破片だ。


 そして、これは・・・この破片はこの世のものではない。

 わが娘は、嘘などついていなかったのだ。

 娘が力を得たという石板は、確かに存在したのだ。


 それまでの迷いなど完全に吹き飛んだ女は、娘の腕を後ろ手に拘束しているアオガネ(青銅)の手枷と、右足首につながる足枷を注意深く観察する。


 ・・・穴がある。

 ちょうど、長のところから持ってきたアオガネ(青銅)の棒が入りそうな形の。


 カギ、という概念がまだない時代において、それはただの金具留め程度の構造しか持たなかったものの、錆び付いた金具を、女は力任せにこじ開ける。


 足枷を外し、手枷を外した時、ガキン、と音がして棒が折れる。

 だが、確かに娘の腕と足を拘束していた枷は、外すことができた。


 時間をかけすぎた。

 もともと娘の様子を見るだけのつもりであったため、連れ出すことまで考えていなかった女は、洞窟の外から人の声が聞こえたことに気付く。


「今更かもしれないけど、ごめんね。あなたを信じてあげられなくて。・・・立ちなさい。そして、行きなさい。もうあなたを縛るものはない。空の続く遥か彼方まで、あなたの大事なものを探しに行きなさい。」


 女は衣を脱ぎ、娘の死臭漂う襤褸(ぼろ)切れと交換する。


「・・・お母さん・・・?おかあ、さん、なの?」


 それまで虚ろな目をしたままだった三の穴の上の娘は、自分の母親であることにやっと気づいた。


「いい?焦らなくていい。私が時間を稼ぐ。まずはゆっくりと五の穴に向かいなさい。あなたの娘が、手前の寝床で寝ているから。間違えないでね?奥の寝床にいるのは、五の穴の下の娘の子供よ。そっちは髪の色が赤いから間違えないとは思うけど。もし迷ったら右足の裏を見なさい。あなたの娘は、足の裏に小さな傷があるから。」


 そういうと、女は先ほど壁の中の遺体から取り出した石板の破片を、娘に託す。


「こ、これは・・・何?」


「これは、あなたの無実を証明するもの。そして、いつかあなたの助けになるもの。絶対に無くさないようにね。」


 そこまで言うと、女・・・三の穴の母さんはアオガネ(青銅)の刃物を鞘から抜き、洞窟から飛び出す。


「あ、待って・・・お母さん、置いていかないで・・・。」


 おそらくは、母親に対する初めての我儘(わがまま)は、洞窟の中に消えていった。


 ・・・・・・。


 三年ぶりに見た母親の、あまりにも老いた姿に、すぐ気付くことができなかった三の穴の上の娘は、解放されたばかり腕をやっとのことで身体の前に回す。


「足、手、う、動け・・・動いて。せっかくお母さんが助けてくれたのに、今動かなきゃ、何にもならない!」


 彼女の身体の中を流れる、何かの強い力が、アオガネ(青銅)の手枷で固められた肩と肘、手首に集中していく。


 彼女は初めての感覚に戸惑いながらも、それが意味するところを正しく理解し、身体の中の流れを制御する器官・・・すなわち、魔力回路(サーキット)を手足に構築する。


「ええい!動け!動いて!」


 その言葉に応えるかのように刻まれたばかりの魔力回路(サーキット)は輝きだす。

 それまで見たこともない、金色の光が身体を包む。


 気付けば、動かすこともできずに固まってしまっていた腕も、足枷が擦れて傷だらけになっていた足も、ほぼ元通りの動きを取り戻していた。

 ・・・だが、下腹にある、大きく醜い傷跡だけは・・・治ることがなかった。


 ・・・・・・。


 髪を振り乱し、襤褸(ぼろ)(まと)った女が宴に乱入する。

 ・・・今先ほど洞窟を出た、三の穴の母さんだ。


 髪を振り乱し、顔や体を脂のようなもので汚し、一見すると誰か分からないようにしている。


「何をやってるの!とらえて!一の穴の男はどこへ行ったの!早く呼んで来て!」


「だれが三の穴の上の娘を逃がしたんだ!アオガネ(青銅)の剣まで持たせて!」


「痛い!こいつ、本当に切りつけやがった!だれか、早く男を呼んできて!」


 篝火を切り倒し、明かりを薙ぎ払いながら暴れる彼女を、村人は三の穴の上の娘と見間違う。


「こいつ!やたらと力がある!閉じ込められてたんじゃないの!?なんですぐに動けるの!?」


 宴を行っていた広場は、完全に混乱を極めていた。


 村の中で悲鳴が上がる中、這う這うの体で洞窟を抜け出した三の穴の上の娘は、その混乱に乗じて五の穴に忍び込む。


 そこには、三の穴の母さんが言った通り、手前には見覚えがある薄い髪色の娘が、奥には赤いの髪の娘が眠っていた。


 ・・・赤髪。

 川下の連中の中に、見慣れない平たい顔をした赤髪の男が何人かいたと思うが、五の穴の下の娘は彼らの一人を夫にしたのか。


 彼女はわが娘の髪が染められている心配はないと思いつつ、念のために両方の娘の足の裏を確認する。


 ・・・間違いない。

 薄い金髪の髪色のほうの娘の、右足の裏に、小さな傷がある。


 彼女は胸をなでおろす。

 そう、あの洞窟で産み落としたとき、娘の足が洞窟内の石にあたって小さなケガをしたんだっけ。


 自分の身体をそっちのけで娘の傷が腐らないよう、力を使ったけど、少しは効いたのか。

 とにかく、大きな傷になっていなくて本当に良かった。


 胸をなでおろした後、赤髪の赤子のために作られたであろう、背負い紐や肌着のありったけと、五の穴の中にあるアオガネ(青銅)の刃物、麦の入った袋などをかき集める。


 なぜかアオガネ(青銅)以外の円盤状の金属もあったが、念のためすべて持っていくことにした。


「まずは安全なところに!・・・そのあと、お母さんを助けに戻らなきゃ!」


 突然のことに目を丸くしている娘を背負い紐で背中に括り付け、五の穴を飛び出す。


 洞窟に閉じ込められている間に村の周りはどの程度、様変わりしたのか。

 月の光に照らされる程度でははっきり分からない。


 治したばかりの足が、道に落ちている石で激しく傷つくも、構わず走り続ける。

 いつしか素足で走っているにもかかわらず、足の痛みはなくなり、薄い光の膜が膝から下を包んでいた。


 ◇  ◇  ◇


 三の穴の上の娘が娘を連れて川下に向けて走り始めた頃、広場で暴れていた女の前に二人の男が現れる。


 一人は村の長。

 そしてもう一人は一の穴の男だった。


「・・・おまえ、三の穴の・・・アイツじゃない!?」


「おい、どういうことだ。まさか、逃がしたのか!」


 男たちは目の前にいる女が三の穴の上の娘ではなく、その母親であることに気付くと、途端にうろたえ始めた。

 檻が破壊され、あの娘が着ていた襤褸(ぼろ)(まと)った女がいるということは・・・。

 あの娘はこの女が手引きして逃がしたに違いないのだ。


「・・・あんたたち、私の娘に、何をした。あの子はあそこまで甚振(いたぶ)られるほどひどいことをしたのか。それに、下の娘の遺体を調べなかったのか。あの娘の言う通り、石板の破片が刺さっていたでしょうが!」


 女は、自分の娘に無実の罪を着せたのは、間違いなくこの二人であると考えた。

 同時に、今なら、あの娘の無念を晴らすことができるかも、とも考えた。


 女の言葉に、長は鼻で笑いながら答える。


「・・・ふん。そんなこと、もうどちらでもよい。長であるこのワシの言葉を聞かない者がいること、それがあの娘の罪だ。」


「この下衆(げす)野郎・・・じゃあ、あんたはどうなの。仮にも夫でしょう?小さい頃から一緒に育ったあの娘に、なんであんなことができたの!?


 女は、アオガネ(青銅)の剣を棍棒を振るうかのように構える。


「・・・俺は悪くない。アイツが他の男との間に子供を作ったのが悪いんだ。子供の髪の色だって俺より、アイツより薄かった。二の穴の兄貴と同じくらいの色だった。」


「何言ってるのよ。あの娘の妹だって同じくらいの色でしょう?血がつながってる中に同じ髪の色がいるのに、あんたはそれだけで判断したの!?・・・この馬鹿男!」


 アオガネ(青銅)の剣の前に長は腰が引けているが、一の穴の男は、背中から棍棒を引き抜く。

 石礫(いしつぶて)を木の枝でまとめて縛った、刃物と鈍器を合わせたような棍棒だ。


「・・・あの女の母親だから生かしておいたが、もう用はない。殺してその首を村の入り口に晒してやろう。アイツがそれを見たときの顔が見ものだ。」


「あの子の無念は私が晴らす。二人とも覚悟しなさい。」


 三の穴の母さんは、アオガネ(青銅)の剣を振るい、一の穴の男に切りつける。

 頭を抱えて逃げる長を挟むように、二度、三度と剣と棍棒が交差し、何度か長の身体に刃が入る。


「ひぃぃ!痛い!痛い!」


 長は逃げ惑うも、彼女は巧みにその身体を盾にし、若干だがまさるリーチを使って刃を振るう。

 棍棒とアオガネ(青銅)の剣に挟まれた長は、あっという間に血だるまになっていく。


「くっ!おいぼれ女が!なぜ!?これほどまでに動ける!」


「我が子を守る女を舐めるな!男には一生分からない!」


 一の穴の男の棍棒が何度もその肌を抉り、鮮血が舞う中でも三の穴の母さんは、アオガネ(青銅)の剣を振るい続ける。


 だが、やはり最盛期を過ぎた、女の身体。

 狩りで鍛え上げた、若い男には(かな)わない。


「ふ!」


 裂帛(れっぱく)の気合とともに一の穴の男が棍棒を振りぬいた瞬間、棍棒に埋め込まれた石礫(いしつぶて)の一つが、彼女の首を抉るかのように切り裂いた。


「かはっ・・・ふ、ふ・・・首を、さらす、といったわね・・・そんな、ことを・・・しても・・・むだよ。くそ、一人しか、やれないか・・・。」


 三の穴の母さんは、左手で首を押さえ、よろめきながら近くの篝火(かがりび)に近付く。

 金属音とともにアオガネ(青銅)の剣を落とし、一瞬で多くの血を失ったためか、その場に崩れ落ちた。


「何を言っている?・・・まあいい。今その首を・・・ん?なんだ?臭いが違う・・・?」


「洞窟の、死臭を・・・あの娘に嗅がせ続けたことを・・・悔いるがいいわ・・・。」


 男は、彼女が(まと)っている襤褸(ぼろ)が、自分の妻に着せていた襤褸(ぼろ)だとは気づいていた。

 だが、その悪臭に顔をしかめるだけで、彼女の思惑には気付かなかった。


 三の穴の母さんは、松脂をふんだんに混ぜた植物油を自分の身体に塗り込み、悪臭漂う襤褸(ぼろ)の下に焼けやすい乾燥した衣を着ていた。


 そして篝火を素手でつかみ、自分の身体で抱きとめる。


「あはははは!これでもう誰か分からない!焼け焦げた首を晒しなさい!誰か分からない首をね!あはははは!」


 炎は瞬く間に彼女を包む。

 そして、そのまま長を抱きしめた。


「ぎゃぁぁぁぁ!助けろ!ワシを助けろ!ぐ、あぁぁぁぁ!」


「お前も絶対に許さない!私と一緒に燃えなさい!」


 彼女が渾身の力を込めて抱きしめた腕は、長を捕らえて離さなかった。


 慌てて駆け付けた村人の一人が水甕(みずがめ)の水をかけたが、油が弾け、火はさらに勢いを増して二人の顔と胸を包む。


 のたうち回る長と、全身を強張らせて逃がすまいとする女。

 長が暴れながら三の穴の柱や五の穴の麻布の扉をつかむおかげで、村の中は至る所に火の手が上がっていく。


 穴を焼け出されたうちの誰かが二人を引きはがそうとした時には、すでに頬の皮膚が崩れ落ち、骨が黒く覗いていた。


 彼らが砂をかけ、かろうじて消火できた時には、その顔も、指も、性別すらも分からぬ焦げた塊となっていた。


 ◇  ◇  ◇


 三の穴の上の娘は、背負い紐で我が子を背負い、松明を片手に夜通し川下に向かって歩いていた。

 夜が明け、空が白み始めたころ、川面に何かがいることに気付く。


 そこには川を下る不思議な形をした船がある。

 木をいくつも組み合わせたような、不思議な船体。

 柱のようなモノを中央に立て、大きな布を張っている。


「川下の人たち・・・まさか、長に協力しているの?」


 身構え、近くの大きな木に姿を隠す。

 松明の明かりを見られたかもしれない。


「おーい。そこに誰かいるのかー?狼やらイノシシが出て危ないから途中まで連れていってやるぞー。」


 警戒した瞬間、間延びしたような声が響く。

 どうやら、あの村とは関係ないようだ。


「おーい。・・・おお、娘さんじゃないか。そんな恰好でどうした。ひどいケガだな。この子はあんたの娘さんかい?名前は?」


 人のよさそうな、少し平たい顔の赤髪の男が、彼女の身体を心配そうに眺める。


「なまえ?なまえって、何?」


「・・・ああ、『神なる河のほとりの村』の人かい?大火事から逃げてきたのか。アンタもすごい臭いだね。いや、それにしちゃあ早すぎるか。」


 名前を聞かなくても、その男は今のやり取りで彼女の村のことが分かったようだ。


「大火事・・・何があったんですか!」


「昨日の夜、宴の最中に剣を持った女が酒に酔って暴れたらしい。頭から松脂やら油やらをかぶった挙句、炎に突っ込んだんだそうだ。火が付いたまま、近くにいた村長に抱き着いて、二人そろって焼け死んだらしいんだが・・・現場に俺が納品したアオガネ(青銅)の剣が落ちていたらしくてな。奴ら、縁起が悪いから持って帰れってよ。俺だって触りたくはないっての。ったく、寄るんじゃなかったぜ。」


 赤髪の男は、船の上に置かれたアオガネ(青銅)の剣をちらりと見る。

 鞘はなく、至る所が刃毀(はこぼ)れし、曲がり、ところどころに血がついている。

 だが、独特な意匠が・・・彼女の母親が持っていた剣であることを示していた。


「・・・うそ。」


 三の穴の上の娘は、身体から力が抜け、ぺたんとその場に座り込む。


「現場はひどい臭いだったよ。まるで腐った肉をばらまいたみたいなね。で?どうする?今から村に戻るなら、遠回りだが送ってやらんでもない。まあ、雨露をしのげる屋根は片っ端から燃えちまったようだがね。」


 彼女は泣き崩れ、その声に気付いた背中の娘が、声を上げて泣き始める。


「・・・どこか、この子を育てられるところへ・・・連れて行ってください。なんでもします。この身体だって差し出します。」


 一瞬、赤髪の男は驚きながらも彼女の身体を眺める。

 その女は下履きもつけずに、胸や尻を晒している。

 全く日焼けもしていない白い肌は、なまめかしくもあり、幼くもある。

 ・・・なんというか、不思議な魅力のある女だ。


 だが、貫頭衣の隙間から見えた腹の傷に、思わず顔をしかめる。

 

 ・・・おそらく、身売りをしても麦も買えないだろう。


「・・・何があったか知らないが、ずいぶんとひどい目にあったようだ。『捨てる神あれば拾う神あり』だっけ?昔うちの町にいた黒髪の女が言ってた言葉だが・・・まあ、俺の家に来いよ。適当な仕事を探してやるし、身体なんていらねぇからよ。・・・飯と寝床くらいは用意してやるし。」


 それは彼女にとって、何よりもうれしい言葉だったが、同時に赤髪の男は頭を抱えていた。

 ・・・まさか、「黒髪の女」が言っていたことが本当に起きるだなんて、前金で全額もらっちまってるんだよなと。




 キーワードは「黒髪の女」です。

 実際の歴史では、6870年前(紀元前5000年前後)時点において、青銅器はまだ作られていませんでした。

 また、漁網は存在したのかもしれませんが、少なくとも作中に登場する帆船の存在は確認されておりません。

 同時に通貨経済もまだ発生していないはずです。

 ですが、実際の古代文明においては、青銅は価値の塊でした。

 本作における「川下の者」たちがこの時代では考えられない技術を持っている、ということを頭の片隅に入れておいていただけると幸いです。

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