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246 地獄はこの世にある/ゆえに魔女は堕とされた

結末が分かっている悲劇ほど見ていて辛いものはありません。

ですが、魔女が魔女となる、その全てが本章に詰まっています。

どうか、お付き合いください。

 紀元前 約五千年


 現在のウクライナ北部 ドニエプル川・プリピャチ川合流地点 南西部


 三の穴の上の娘、すなわち後の魔女が石板の丘に向かったころ。


 村の中ではちょっとした騒ぎが起きていた。


 一部の女たちが、「五の穴の上の娘は一の穴の男と寝ていない」といううわさを流し始めたのだ。


 ・・・実際に一の穴の男は五の穴に招かれた後、焚かれた麻の香(大麻草)とブドウ酒の影響で眠ってしまい、性行為を行っていないのは事実であったが、同時に村にいる中年の男二人のうち、片方の男が五の穴の上の娘と数回行為に及んでいることをのたまったのだ。


「なあ、聞いたかい?五の穴の上の娘は二の穴の男と何度も寝てるんだってさ。」


「そうそう。それだけじゃないの。例の夜、一の穴の男が五の穴に入ったとき、ずっと覗いてた女がいたんだって。一の穴の男は軽く触られただけで果てちゃったんだってさ。」


「うわ、何それ。みっともない。・・・でもあれ?長の話だと女の身体に力が宿るのは強き男の精を受けたからじゃなかったっけ?」


「そうそう。そう言ってた。・・・ちょっと待って?じゃあ、おかしくない?一の穴の男が三の穴の上の娘に力を授けたっていうんなら、五の穴の上の娘は誰から力をもらったのさ?」


「・・・あれ?じゃあ、もしかして三の穴の上の娘って、二の穴の男と・・・?そういえば赤ん坊の髪の色が少し薄すぎるような気もする。」


 女たちは井戸端会議に花を咲かせながら、村の中央に掘られた井戸から水をくみ上げ、水甕(みずがめ)に移していく。


 この井戸も三の穴の上の娘・・・一の穴の男の妻が掘ったものだ。


 寸分の狂いもなく地下水脈を穿ち抜かれた穴は、その水圧だけで地表近くまで水を(たた)える、村の貴重な水源となっていた。


「あとは三の穴の上の娘に水の加護を(浄化して)もらうだけね。ふう。川まで往復していたことを思えば楽になったもんだ。」


 井戸の囲む女たちは、若く、そして強い一の穴の男のことは憎からず思っていたが、彼女たちから見ればあまりにも若すぎる。


 その点、二の穴の男であれば年齢も近く、もしかしたら自分たちも相手をしてもらえるのではないかと考えていた。


 一夫多妻が当たり前のこの村において、一の穴の男が二人目の妻を迎えようとしないことも問題だったのかもしれない。


 女たちは程よい大きさの水甕(みずがめ)を持ち、それぞれの穴へと帰っていく。


 だがその時、新設された井戸の隣にある草むらの、その向こうの広場で獲物の解体を行っている男がいることに誰も注意を払わなかった。


「・・・うそだ。アイツが、他の男とだなんて。確かに、アイツの髪色は薄い。二の穴の兄貴みたいに。・・・それに、あの夜、俺は五の穴の上の娘を抱かなかったのか。それじゃあ、やっぱりアイツの力は二の穴の兄貴から?それとも、あの石板から?」


 大ぶりなイノシシの獲物の解体を途中でやめ、男は立ち上がる。


「おい。このイノシシ、残りの解体を頼んでいいか?」


 通りがかった、妻よりも若い女に、獲物の解体を任せる。


 ・・・獲物を解体し、肉を取り分けるのは、獲物をしとめた者の特権であり、肉の配分も決めることができる。


 命がけで仕留めた獲物の解体を家族でない女に任せるということは、ある意味、求婚に近い意味合いを持つのだが・・・。


「はい!じゃあ、切り分けて後でお持ちします!あの・・・毛皮は・・・?」


「・・・好きに使え。俺は肉だけあればいい。」


 この村において毛皮は婚礼の衣装の一つだ。

 男が仕留めた獲物の皮を、女が(なめ)して婚礼衣装とする。


「本当ですか!じゃあ、毛皮はいただきますね。ふっふ~ん!」


 男は言いようのない焦燥感とともに、三の穴に向かう。

 その場に、求婚されたと勘違いした娘を残しながら。


 一の穴の男が三の穴の入り口にかけられた麻布の・・・暖簾のようなものをくぐると、そこには三の穴の母さんと一の穴の母さん・・・つまりは彼の母親の二人が叩いた麻を紡いでいるところだった。


「おや、どうしたんだい?今日の狩りは終わったのかい?」


「・・・アイツはどこだ。」


 一の穴の男は、自分の母親の質問に答えず、血走った目で周囲を見渡した。


「アイツって・・・三の穴の?それなら赤ちゃんと妹を連れて例の丘とやらに・・・あ、ちょっと!・・・せわしない息子ですまないね。」


 一の穴の母さんが彼女の行き先を告げたとたん、彼は転がるように穴から飛び出した。

 その両手は、解体した獲物の血で汚れたままだった。


「いえ。私もあの子たちが小さな時から見ていますから。一の穴のあの子、娘のことが本当に好きなのね。」


 後ろで自分の母親と義母が何かを言っているが、もはやそんなことなど聞いている余裕もなく、村を飛び出し、藪を切り分け、あの日彼女と歌い、踊った丘に駆けていった。


 一の穴の男は走り続ける。

 狩りで疲弊した身体の悲鳴を無視し、背に弓を、手に矢筒をもって。


 途中の沢を越え、沼地を抜け、谷を越える。


 幼いころはかなりの難所であったが、狩りで鍛え抜かれた彼の身体には踏み固められた道と大差なかった。


「あの石板か?あの石板に触れて、力を得たのであれば・・・二の穴の兄貴は関係ない。だが、石板に触れても力を得られないなら、俺の子じゃないのか?」


 男は考える。

 女たちが井戸端で話していた内容が、耳に残る。

 ・・・五の穴の上の娘を抱かなかったのはどうでもいい。


 好きでも嫌いでもない、あの夜までその存在すら忘れていた女だ。


 だが、そいつが二の穴の兄貴の精を受けた、俺の精は受けてない。

 そして、妻のような力を得た。


 これが意味するところは・・・長が言う「妻が男の精を受けて力を得た」、それが事実なら、妻が産んだ子は・・・俺の子じゃないということに!


「いや、そんな馬鹿な事、あってたまるか!そう、そうだ。俺も石板に触れたら、すべてわかる。俺だけじゃない。五の穴の上の娘が石板に触れてさえいれば、力は石板が与えたことを確かめれば!」


 全身を貫く焦燥が、狩りで疲れた足を、感覚がなくなりはじめた足を前に進める。


 そして、あの丘のふもとにたどり着いた瞬間。


 ・・・耳慣れない、大きなものが、極端に硬いものが砕けるような・・・甲高い雷のような・・・名状しがたき音と、妻の悲鳴が全身を貫く。


 男は、ハッと丘の上の空を仰ぎ見る。

 そこには、泣き叫ぶ我が子が・・・この世の誰よりも愛する三の穴の上の娘が産んだ息子が・・・。


 男が狩りで鍛え上げた視力のおかげで、妻が息子のために作ったペンダントまでもがはっきりと見えながら、地上で妻が泣き叫ぶ声とともに、東の空に消えていくのが見えた。


「何が!何が起きている!」


 男は瞬時に頭の中を切り替える。

 妻は悲鳴を上げている。

 だが、痛みや苦しさからのものではない。

 あれは、別離を嘆く声だ。


 同行していた妹の姿が見えないが、不確定要素は頭の中から排除する。


 ・・・いま、妻が望むこと。

 それは、息子をその手に取り戻すこと。


 男は背にある弓を引き抜き、(やじり)を前歯で噛み千切ったあと、矢筈(やはず)(矢の後端、弦をかけるところ。)に妻が作った釣り用のテグスを縛り付ける。


 流れるような動きで、瞬きを一度するほどの間でそれを成し遂げ、弦につがえて打ち出す!


 クマをも一撃で殺すほどの強弓から放たれた矢は、巻き上げられ、水平に飛び始めた息子の、肌着の帯の麻布だけを寸分たがわず打ち抜いた。


 ギリギリの長さで届いたテグスに、クンっと息子の身体の重さがかかる。

 後はそれを引くだけかと思われたが・・・。


「よし!今助ける!・・・ぐぅあぁっ!?」


 男がテグスに力をかけた瞬間、全身を毒蜂に刺されたような痛み・・・いや、男は知らないだろうが、雷に打たれたような痛みが駆け巡る。


「・・・こ、これは、まさか、アイツ、俺を・・・。」


 テグスを握る手が一瞬で握力を奪われ、遠ざかる意識の中、東の空に消える我が子が青白く発光しているのをその目に捉えた。


 そういえば、自分にはなかなか懐かない息子だったな、と今更なことを思いながら・・・それを追う、櫂のようなものに(またが)る黒髪の女のような幻が見えたような気が・・・した。


 ◇  ◇  ◇


 男が目を開いたとき、すでに日は傾き、急いで帰らないと明るいうちに村には到達できないような時間になっていた。


「・・・う、手が・・・。」


 見れば、男の両掌は細いテグスを引き続けたせいか、何か所も切れており、さらには焼けたような跡まであった。


 俺の、息子は・・・あたりを見回すが、そこにあるのは焼き切れたテグスと、弦の切れた弓だけであった。


「とにかく、アイツを探さないと。」


 男は妻が、三の穴の上の娘の悲鳴が聞こえた方向に、藪を払って歩き出す。

 あの時点で悲鳴があったということは、少なくとも生きていたということだ。


 妻の無事を祈りながら、丘の開けた広場に足を踏み出したとき、男の目に映ったのは・・・。


 あの日、彼女と笑いながら歌い、踊った丘。

 あの日と何も変わらない丘の、大きな木の下の岩の上に腰掛け、もの悲しい旋律の子守唄を歌っている・・・血まみれの妻の姿だった。


 丘の中心に、そびえるように立っていた黒く半透明な石板はどこにも見当たらない。

 それがあったと思われる窪みが、妻が座る岩の近くにあるのみであった。


「お、おい・・・大丈夫、なのか?」


 妻は(うつむ)いたまま、真っ赤な手で誰かをあやすような動きをしている。


「・・・ああ、あなた。見て。この子ったら遊び疲れて眠っちゃったの。だからこうして目が覚めるまで、お歌を歌ってあげてるの。・・・そう、あの子はどうしてるかしら。三の穴の母さんが面倒を見てくれているのよね。そろそろお乳をあげなくちゃ。でも、最近はお乳だけじゃなくて、色々なモノを食べてくれるようになったのよ。」


 妻が抱いている、三の穴の下の娘に目をやると、真っ赤に染まった腹からは、(はらわた)がこぼれており、その顔は・・・半分しかなかった。


 残された右側の目はうつろに開き、その瞳はもはや何も映していなかった。


 そんな妹の頭を、手が真っ赤に汚れるのも(いと)わず、妻は優しくなでている。


「お前、ここで何があったんだ。それに、俺たちの息子は・・・なぜ・・・。」


 そこまで言いかけた男は、妻が自分の顔を一度も見ようとしないことに気づいた。


「なあ、こっちを向いてくれ。何があった?なぜ俺たちの息子は、飛んで行ったんだ?どこへ行ったんだ?それに・・・あの石板は?」


 一瞬、彼女は動きを止める。


「嫌アァァァァァ!ウソ、嘘よ!三の穴に帰れば、あの子が、三の穴の母さんがあやしてくれているの!あの子はどこにも行ってない!ウソ、ウソなの・・・。」


 妻は堰が切れたように声を上げ、ボロボロと、まるで水甕(みずがめ)の水を頭から浴びたかのように涙を流す。

 そして、もはや動かなくなった妹を、ぐっと抱きしめた。


 ぼろり、とその頭から赤黒いものが落ちる。


 男は何度も獲物を解体しているから知っている。

 あれは、脳だ。


 長は鼻水を作るだけの臓器と言ってバカにしていたが、頭に矢が刺さった獲物は心臓を打ち抜くよりも早く動かなくなることから、アレこそが生き物を生き物たらしめるものであると、直感的に悟っていた。


 目の前の妻は、そんなことも分からず、頭からこぼれた脳の破片を、妹の中に戻そうと必死になっている。


 男は、自分が立っている大地が波打つような感覚に襲われる。

 すでに男の頭からは黒髪の女の幻のことなど消え失せていた。


 ・・・幼いころからずっと一緒だった、あの優しく美しく、聡明な妻は・・・もういないのかと、胃の腑を締め付けられるような熱い感覚、そして背筋に雪を流し込まれたような、ぞっとする感覚を味わっていた。


「・・・お前の妹は、俺が背負う。だから、穴に帰ろう。帰って、ゆっくりしたら話を聞かせてくれ。」


 すでに冷たくなり始めた妻の妹の身体を抱え、血まみれの妻の手を引き、男はゆっくりと夕闇迫る道を、二人の母親たちが待つ三の穴へと歩いて行った。


 ◇  ◇  ◇


 村に戻るなり、三の穴の上の娘に対して様々な者が詰問した。


 なぜ、息子を、貴重な男を失ったのか。

 なぜ、年端もいかぬ妹を危険に晒したのか。


 彼女の母親は、妹を死なせたことを口では責めなかったが、代わりになかなか死なせたことを認めなかった彼女の態度を(たしな)めた。


 村人の多くは夜通し、この二つを詰問したが、まれに、彼女がなぜ力を得たのか、という問いも含まれた。


 彼女は、初めは錯乱した。

 妹は眠っているだけだと。

 息子は自分の母か、あるいは年長の女が面倒を見ているのではないかと。

 だが、だんだんと、自分が見た光景が現実のものだと気付き始める。


 彼女は、力を得た理由について、石板に触れたからであると答えたが、獲物も取れず、また途中に難所があるような丘に近づく者はいなかったため、石板の存在を知るものが、そもそもいなかった。


 翌朝、三の穴の下の娘・・・彼女の妹の葬儀がしめやかに行われる。


 重苦しい旋律の歌が村の中を包んでいる。

 別れのための宴が開かれ、色のない食事が皆にふるまわれる。


 この村では、亡くなった者はすべて、村の北にある洞窟に亡骸を納めると掟で決まっていた。


 粗い麻布で包まれた妹の遺体は、数人の近親者たち・・・三の穴の女たちや、その友人たちが担ぎ、洞窟の中に運ばれる。

 だが、その中に三の穴の上の娘の姿はなかった。


 村の入り口で男女が争う声が聞こえる。

 誰も言葉を発さない葬儀において、その声は村のすべての人間の耳に届いた。


「おい!どこに行く気だ!」


「離して!あの子を探しに行くのよ!東のほう、東に行けば、どこかに必ずいる!」


「ちょっと待て!あんな高さに飛ばされたら、下で受け止める奴でもいなきゃ無理だって!」


 男は、狩りで獲物を崖下に落として仕留めることもあるためか、高所から落下した肉体がどうなるか、よく知っていた。


 だが、その言葉が彼女の神経を逆なでした。


「あなた、それでもあの子の父親なの!?あの子が、地面に落ちて泣いてるかもしれないのに、それを、放っておけというの!?」


「そうじゃない!あの高さじゃもう、助からない、死んでるとしか思えないんだ!もうすぐ本格的な冬が来る!冬に長い道を歩けば、お前まで死んでしまう!」


 わらわらと村人たちが集まる。

 三の穴の下の娘の埋葬もほどほどに、言い争う二人を、村人が取り囲んでいく。


「今、あの娘に出ていかれたら・・・。」


「五の穴の上の娘の力は、あの娘より大したことなかったし・・・。」


「あの力が他の村に奪われたら・・・。」


 それまで、彼女のおかげで飢えることもなく、腹を満たし、質のいい衣服を着、清潔な水を手に入れていた村人が、それを失うことを恐れる。


 商売相手である川下の連中や、まだ見ぬ他の村の者がそれを手に入れることに、嫉妬の炎を燃やし始める。


 だが、まだ口には出せない。

 三の穴の上の娘が、持っている力の底がわからないからだ。


「とにかく、行かせるわけにはいかない!」


 一の穴の男・・・彼女の夫が大きく声を上げると同時に、大きく振りかぶった平手で彼女の頬を叩く。


 頬を叩くつもりが、手のひらの付け根が顎をとらえ、脳が激しく揺さぶられる。

 ガクン、と彼女は膝をつき、そのまま雪の上に倒れこむ。


 村人にしてみれば、非常にあっけないものだった。

 神のごとき力をふるう娘が、村一番の狩りの名手とはいえ、ただの男の平手を頬に受けただけで気を失い、倒れこむ。


 この瞬間、村人にとって三の穴の上の娘は・・・あがめるべき神の化身から管理すべき大事な道具に・・・なり下がった。


 ◇  ◇  ◇


 ぴちゃん、ぴちゃん・・・と、何かが落ちている。

 三の穴の上の娘は、真っ暗な中で目を覚ます。


 鼻を突くような臭い。

 外気に比べればかなり温かい、だが、じっとりと湿り、ひんやりとした空気。

 そして、風の流れがまるでない。


「ここは・・・どこ?」


 上体を起こし、両手で足元を確かめようとしたとき、ジャラ、と聞きなれない音が耳に入る。

 後ろに固定された両手が信じられないほど重い。

 いや、両腕の幅が一定で、それ以上動かない。


 足の力だけで身を起こし、立ち上がろうとした瞬間、何か重いものが、右足にぶら下がる感覚。


「なに、これ・・・?」


 何が起きたか、さっぱりわからない彼女に、どこからか光が・・・松明の明かりが照らされる。


 三の穴の上の娘によく似た、だが酷薄そうな表情の女は、彼女を見下すようにその前に立つ。


「起きた?あなたは手から火を出すからね。川下の連中から仕入れた、アオガネ(青銅)の手枷と足枷よ。それなら燃やせないでしょう?それだけで畑一枚分の麦と交換だったけど、まさか使うことになるとは思わなかったわ。」


「・・・五の穴の!なんであなたが!・・・今すぐ外して!私はあの子を探しに行かなきゃならないの!お願い!」


「ごめんなさいね。一の穴の兄さんがどうしても、っていうから。おかげで父さんのとっておきのソレを使うことになったわ。後の話は彼から聞いてちょうだい。じゃあね。もう会うこともないと思うけど。」


 五の穴の上の娘と入れ替わるように、夫が入ってくる。


 松明を壁の窪みに挿し、そっと顔を近づける。


「お前、あの石板に俺たちの息子を触れさせた、と言ったな。そして、その瞬間、石板が砕け散った、とも。」


「そうよ!でも、あの子には破片は当たっていない!だから、まだ生きてるの!お願い、助けに行かせて。」


「石板が砕けた・・・それは、アイツが砕いたということか。石板はアイツの力に押し負けた?つまり、石板も何かの力はあったが、アイツの力のほうが強かったということか?」


 ブツブツと反芻するように、男は考える。


「なんでもいいから、何でもするから、あの子を助けに行かせて!今ならまだおなかをすかせているだけかもしれないから!」


「・・・なあ、お前、アイツは本当に俺の子か?聞けば、二の穴の兄貴と五の穴の上の娘が寝た後、似たような力が出たらしいじゃないか。それに、俺は五の穴の上の娘とは寝てない。じゃあ、お前、もしかして二の穴の兄貴と寝たのか?」


「何を馬鹿なことを言ってるの!私は二の穴の兄さんとなんて寝てない!あの子はあなたの子よ!それに力だって石板を触れば!」


「・・・石板はもうないんだよ。アイツが砕いたのか?それともお前が砕いたのか。どちらにせよ、アイツが俺の本当の息子かどうか、確認のしようがなくなった。・・・よかったな?疑いの元が両方なくなって。・・・お前のおかげで俺は、いい恥さらしだ。」


「何を言っているの?ねえ、何を言って・・・。」


「うるさい!お前が余計なことをしたせいで、俺がでかい獲物を狩ってくればすべて済んでいたのに、今じゃ村の中はぐちゃぐちゃだ!お前、俺がなんて呼ばれているか知ってるか?『ホオジロの雄(托卵された男)』だってよ!妻に養ってもらってる情けない男だってよ!しかも、他の男(カッコウ)に種を仕込まれたのに馬鹿みたいに狩りに精を出してる鈍感野郎だってよ!・・・ちくしょう、お前が余計なことをしなければ・・・。」


「・・・ねえ、一緒に村を出ましょう?一緒にあの子を探して、見つかったら、どこか、安全なところに私たちだけの村を作って・・・。」


「それで、またお前の世話になって過ごせってか。冗談じゃない。それに、アイツは死んでるよ。あの高さから落ちて生きてたやつを俺は知らない。」


「うそ、嘘よ・・・あの子は絶対に・・・。」


「はは、簡単なことだったんだ。ここならお前に手を出すやつはいない。それに、お前がいれば井戸も枯れない。川の魚も自然と集まるし、畑も木々も実りが豊かなままだろう?」


「それは・・・たぶんそうだと思うけど・・・。」


「じゃあ、簡単な話だ。脱げ。いや、手枷足枷が邪魔で脱げないよな。切ればいいか。ああ、その前にその腹の中には他の男の種はないよな。まず広げて洗ってやろう。」


「ちょっと、何を、やめ・・・いやぁぁぁぁ!誰か!母さん!」


「母さん?一のか、三のか?両方とも話はついてるよ!」


 三の穴の上の娘は必死になって暴れるも、魔力の使い方を教えてくれる者もなく、またそれほどの力を蓄えてもいなかったがために、数度、男に突風を浴びせるだけでぐったりとしてしまう。


 動かなくなった彼女を、一の穴の男は延々と殴り続ける。


「はあ、はあ、手こずらせやがって!そんなに俺の子を産みたくないか。ふ、よし・・・。腹の中は空だな。なら、次は確実に俺の子だ。ふ、ふふ、ははははは!」


 男は、彼女の下腹に拳を挿し入れ、掻き回した後で高らかに笑い、彼女を犯し始めた。


 夫婦の営みなどには到底見えない。

 だが、汗を流しながら男は動き続ける。


 それも、(わら)の敷かれた寝床などではなく、傍らに蝙蝠(こうもり)の糞が落ちているような場所で。


 意識を取り戻した彼女は、(すす)り泣くように懇願する。


「うっ・・・うっ・・・。お願い、あの子を・・・探しに・・・。」


 松明の炎しかない、暗い洞窟の中で、それを聞いた男は、繰り返し、繰り返し、彼女を殴る。

 洞窟の中、ただ嗚咽だけが響き続けた。


 ◇  ◇  ◇


 ・・・洞窟の中は、どれほどの時が経ったのか、あるいはまだほんの一時なのか、まったくわからない。


 何度か男が食事を運ぶも、彼女は初めは口をつけなかったが、男は構わず古くなった肉を運び続けた。


 暗闇は彼女の正常な判断能力を奪っていく。

 日を追うごとに弱るその体からは、時間の感覚がゆっくりとなくなっていった。


 松明の炎に照らされた彼女の身体には、至る所に痣がある。

 痣だけではなく、岩にこすれた跡や、手枷を砕こうと何度も岩に打ち付けたような傷もある。


「・・・ほれよ。今日の分だ。・・・最近、少しは食うようになったな。そうしなきゃ、アイツを探しに行く前に死んじまうからな。・・・なあ、いい加減あきらめろよ。もうとっくの昔に死んでるって。」


「・・・お願いします。ここから出してください。何でもします。この身体も、命もあげます。だから、あの子を探しに行かせて・・・。」


「そうかい。じゃあ、今日の仕事だ。ほれ、この竿に力を授けてくれ。魚がたくさん取れるようにな。」


「・・・はい。」


 もはや見る影もなくなった娘は、両腕を後ろ手に手枷を嵌められたまま、釣竿に口づけを落とし、何かをつぶやく。


 すると一瞬だけ釣竿が光り、何らかの力が備わったのが見て取れた。


「・・・便利なもんだ。この釣竿で糸を垂れりゃあいくらでも魚が寄ってくる。あと、そっちの弓もな。」


「お願いします。必ずあの子を見つけたら帰ってきますから。だから、探しに行かせてください。」


 娘は弓にも口づけをする。

 釣竿と同じように、光に包まれる。


「そうだな。じゃあ、もう一つのお務めだ。跨がれ。」


 仰向けに寝転んだ男の上に、娘はゆっくりと腰を下ろす。

 濡れたような音が響き、同時に彼女のすすり泣くような声が洞窟に響き渡る。


「ふん。初めから素直になっていればよかったんだ。・・・ん?お前、最近腹が出てきたな。これは・・もしかすると出来たか?あひゃひゃひゃ・・・。」


 嘲るような男の声とくぐもった娘の鳴き声が洞窟にこだまする。

 季節感のない洞窟で、ただ男の着ていた濡れた服だけが雨季の訪れを示していた。


 ◇  ◇  ◇


 ザザザ、と大きな音がして画面が切り替わる。

 男が普段とは違う食べ物を持っている。

 山の幸と、畑でとれた麦、豆を使ったパンのようなもの。


 手枷を後ろ手にかけられたままの娘は、這いつくばり、それを口だけで食べる。


「そういえば川下の連中、変な生き物を従えてたな。『犬』だったか。狼みたいなナリをしていたが、奴らの言うことはよく聞いていたっけ。まるでお前みたいだな。」


 男は完全に濁った眼で、娘を眺める。

 汚れ切り、一糸も纏わぬ彼女の腹は、もはや産み月に近かった。


「・・・男の子を産んだら、あの子を探しに行かせてもらえるという、約束ですよね。後、ちょっとなんです。あとちょっとで・・・うぅ!?」


 娘は唐突に顔をしかめる。

 足元に、尿とは違う液体がバシャっと広がる。


 衛生環境が悪すぎたのか、それとも度重なる心労が祟ったのか。

 本来よりもかなり早く、かつて経験した痛みが、彼女の身体を襲う。


「お、来た来た!よし、今、だれか女を呼んできてやる。ははっ。何か月ぶりだろうな?俺以外の人間と会うのは!」


 呻く娘をその場に残し、男はさっそうと走り出す。

 松明を持ち、出て行ってしまったがために、その場は完全な暗闇となる。


「ふぅ、ふぅ、はぁ、はぁ、く~~~~っ!」


 激痛に耐え、娘はありったけの魔力を下腹に集める。


 彼女にとって恐ろしく長い時が流れ、暗闇に別の鳴き声が響き渡る。


「おぎゃあ!おぎゃあ!」


「・・・ごめんね、こんなところで産んで。あなたを産んで、私はあの子を探しに行くことばかり考えていた。でも、あなたを・・・守らなきゃ。」


 暗闇の中では自分とつながったままのわが子を、見ることもできない。

 男の子だろうか。

 いや、女の子でも構わない。

 あの子を探しに行きたいけれど、この子も育てたい。


 娘は腹が大きくなる間ずっと考えていた葛藤に、やむなく結論を出す。

 だが、松明を手に、その場に現れた男はそれを許さなかった。


「なんだ、女か。」


 その言葉を、彼女は未来永劫忘れないだろう。

 男の言葉に、それまで従順でいた彼女は、反射的に大声を上げる。


「・・・ふざけないでよ・・・じゃあ次はお前が産め!!」


 彼女の頭に血が上る。

 否、すでにプチプチと何かが切れる音が頭から聞こえている。


「うるせぇ!とっとと次を仕込むぞ!股を開け!オラァ!」


 男は罵声と共に、彼女を殴り飛ばす。


 男についてきた、顔も思い出せない誰か。


 多分、三の穴の母さんかな、と朧げな記憶にある女が慌てて男を止めるも、その腕を振り払って男は腰を振り続ける。


 視界の片隅で、今産まれたばかりの娘の、右足にある傷が見える。

 こんなところでケガなんてしたら、傷が腐ってしまう。

 反射的に、その傷に力を注ぐ。

 せめて、腐らないように。

 早く、傷がふさがるように。


 だが、あっという間に産まれたばかりの娘は、連れ去られてしまった。


「ちょっとあんた!後産がまだだってのに、そんなことしたら死んじまうよ!・・・ああ、もう!とにかくこの子はあたしが預かるから!」


 組み伏せられた彼女は、自分の下腹部がもはや自分のものとは思えないほど痛み、あたり一面を血で汚しているのを、朦朧とした頭で眺めていた。


 ◇  ◇  ◇


 光のない穴の中で、彼女は下腹部からくる激痛に耐えている。


 彼女は、生死の境にいた。


 何かが、腹の中に残っている。

 何かが、腹の中で腐っている。


「く、・・・ん・・・ぐっ・・・」


 朦朧とした頭を、振り回して考える。


 早くしないと、死んでしまう。

 あの子を探しに行かなきゃ。

 あの娘を育てなきゃ。


 胸が張る。

 乳が張っている。


 あの子さえいれば、あの娘さえいてくれたら。

 私はいつ死んでもいい。


 下腹部に、力を・・・魔力を集める。

 イメージは、炎。

 焼くのは、身体の中に残った、何か。


 ・・・臭い。

 ずっとしていた、何かが腐ったような臭い。

 いや、それがなんであるか知っていた。

 あの男に、壁に押し付けられたとき、崩れた壁から見えた、腐った顔。

 妹にあげた髪飾りを、つけていた遺体。・・・妹だ。


 今、自分の身体から、壁の中の妹と同じ臭いがしている。

 早く、外に出さなきゃ。


 熱い。のどが渇く。だるい。変なものが見える。

 誰かがうなり声をあげている。


 いや、これは自分の声だ。


「う、う、ああぁぁぁぁぁぁ!!!」

 

 腹から、何かの肉の塊がゴボリ、と落ちる。

 死臭にも似た悪臭を放つそれは、どこか悲しげな気配をまとっていた。


 彼女は唐突に理解した。

 これは、女だ。

 女を女たらしめるものだ。


 この日、彼女は・・・子を産むことが二度とできなくなった。

三の穴の上の娘(のちの魔女)は、後産に失敗し、胎盤遺残という状態でした。

これは、出産時に胎盤を排出することができず、胎内に残ってしまう状態で、この時代でなくても命にかかわります。


生存率はおそらく、0.01%を切っていたでしょう。

子宮内に壊死した胎盤組織が留まった場合、細菌の温床になります。

特に大腸菌、連鎖球菌、ブドウ球菌などが繁殖しやすく、以下の症状を起こします。

高熱(38〜40℃以上)、悪臭を伴う悪露(血と膿が混ざった分泌物)、激しい子宮痛、腹痛、全身倦怠、震え(悪寒)。


最悪の場合、敗血症(感染が血流に乗って全身に波及)を起こし、ショック状態(血圧低下、意識障害)の後、多臓器不全を起こし、死亡します。


万が一助かっても、重篤な感染や手術により、子宮の内膜や筋層が瘢痕化(傷跡化)したり、子宮癒着症(アッシャーマン症候群)や、今後の妊娠維持が困難になるでしょう。


三の穴の上の娘(のちの魔女)の場合、出血と感染から母体の命を守るための最終手段をとるしかありませんでした。

胎盤が癒着して剥がれなくなり、最終的に子宮ごと摘出をせざるを得なかったのです。


無菌処置なし(むしろ最悪の環境)、抗生物質なし、麻酔・手術なし、当然輸血もなし、さらには子宮内の状態を診る手段もなし(触診すらできない)という医療環境で、彼女が助かったのは魔法による奇跡ですが、それは奇跡だったのか、呪いだったのか。


次回 「247 光の下へ/その手は決して届かない」

魔女の果てしなく長い旅が始まります。


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