245 神話の始まり/かくして少女は魔女となる
三の穴の上の娘・・・三つ目の穴で冬の朝生まれた女の、地獄が始まります。
彼女はここから6874年の歳月を彷徨い、現代に到達することになります。
サバイバルストラテジー、すなわち生存戦略は、人間がその社会性、知性、適応力などを活用して、環境の変化に対応し、集団の中で生き残っていくための戦略ですが・・・。
彼女の戦略目標が「息子との再会」のみになってしまった瞬間・・・手に入れてしまった力に比例するかのように、それは大きく捻じ曲がり、世界が牙をむくことになりました。
神話編、もうしばらく続きます。
仄香
8月10日(日)深夜
長野県茅野市 民宿「マヨヒガ」
幻灯術式を使い、私の最も古い記憶を琴音や千弦、遥香、そして紫雨と星羅に見せている。
このころはまだ記憶補助術式がなかったころで、記憶がかなり断片的だ。
だが、あの頃のことは、忘れたくても忘れることができない。
二時間ほどが経ち、一度休憩をはさむことにした。
すでにお茶も飲み終わり、茶菓子もなくなっている。
それぞれお手洗いに行き、あるいは自動販売機のある多目的スペースに飲み物を購入しに行ったり、購買コーナーに菓子を買いに行ったりしたようだ。
「・・・母さんの魔法って本当にすごいよね。まさか、記憶補助術式で覚えていないのをこうやって対処するとは思わなかったな。」
「そうね。まさか、実写じゃなくてアニメーションも出来るとは思わなかったわ。・・・これ、幻灯術式を使えるようになったら一儲けできるわね。」
「姉さんの言うとおりだわ!でも軒並みアニメーション会社がつぶれるわよ!それはちょっとやだなぁ・・・。」
紫雨と千弦、琴音は先ほどまで見せた映像を楽しんでいるようだが、ここから地獄が始まるのだが・・・。
「ねえ、千弦ちゃん、琴音ちゃん。なんとなくなんだけど、ここから先は覚悟して見たほうがいいんじゃないかと・・・思うんだけど・・・。」
【そうですね。私の記憶が確かならば、この後、最初に死ぬのは私です。・・・アニメーションでよかったですね。自分の死体を見るのはやっぱり嫌ですからね。】
星羅が遥香の言葉に同意する。
・・・そういえば星羅の身体は記憶の中の彼女が亡くなった時とほとんど同じだな。
ただ、彼女の場合は子孫がいないから、この周回で終わらせるのでもない限り、必ず子供を作る必要があるのだけど。
「そろそろよろしいですか?続きを始めても?」
「はーい。今回はどんな大魔法が見れるのかな。」
千弦よ。
魔法を覚えたばかりの娘にそんな要求をするなよ。
ゆっくりと幻灯術式が展開し、再びあの頃へと、周囲の景色が変わっていく。
ゆらり、ゆらりと。
◇ ◇ ◇
???
三の穴の上の娘と呼ばれた娘は、のんきに花を摘み、髪に挿したりしながら丘を登って行った。
この丘は登りきったところに開けた草原があり、そこには数人で腰掛けられる石や食卓代わりになる石、そして大きな木が一本だけあり、突然の雨宿りもできるような、まるで誰かがそう設えたかのような空間が広がっていた。
・・・いや、広がっていたはず、だった。
「なに、あれ?あんなの、あったっけ?」
そこにあったのは厚さが肘から手首よりちょっと長いくらい、幅がその4倍くらい、高さが9倍くらいの石板・・・いや、石のような何かでできた、何かだった。
普段はたくさんいるはずの鳥も、虫も、草までもがソレに触れまいと遠ざかっているように見えた。
不意に、石板の向こうを一羽の鳥が通り過ぎる。
「なに、これ・・・黒い・・・いや、透き通ってる・・・?あれ?向こう側の景色が・・・少し遅れてる?」
娘は石板の後ろに手を伸ばし、石板越しに自分の手をパタパタと動かす。
・・・確かに景色が遅れる。
明確にそれとわかるくらいに。
黒く、半透明な石板の中では、恐ろしく小さな金の線のようなものが規則正しく、かつ立体的に交差し、明滅し、そして幾つかの赤、緑、青の宝石のようなものをつないでいる。
非常に細かく、人間の目ではその細かさを理解できないほどの精密さで、かつ娘がこれまでに見たどのようなものとも違う、きわめて多くの直線で成り立っているものだった。
「きれい・・・宝石、かしら。それとも、アオガネとかいうものの仲間?いえ、こんなもの、人には作れない。」
まるで蛾や虫が焚火の光に吸い寄せられるように、娘はその石板に手を伸ばす。
・・・頭の中で何か、感じたことがないような焦燥感とも恐怖ともつかないものが叫んでいる。
触るな、触れば取り返しがつかなくなる、と。
だが・・・娘の好奇心が、それらをほんのちょっとだけ、凌駕した。
右手の指先が石板に触れる。
次に、手のひらが、そして左手も同じように、石板に触れる。
その瞬間。
世界が、はじけた。
「キャアァァァ!な、なにこれ!足元が遠ざかる!うそ、飛んでる!いや、違う?あれは、青と、白の渦巻き模様の玉?あっちには石の玉も!あっちには火の玉!?な、なにこれ!赤い玉?どんどん遠ざかる!なに、光の・・・渦巻き!?あっちにも、こっちにも!」
娘は悲鳴を上げながらも、石板から手が離せない。
「うそ!?そんなことで火を起こせるの!山の神の恵みじゃなかったの!えぇ!?力と、物と、魔力!等価性?魔力は両方の特性を備える!?何を、何を言ってるの!」
時間にして、わずか数分。
だが、彼女にとってはそれまで生きてきた時間よりも長く感じるほど、濃密な時間が流れていた。
気付けば、石板から放たれている力が先ほどまでとはまるで違う。
光は弱々しく、石板の透明さも失われているようだ。
三の穴の上の娘は、右手のひらを上に向け、静かに言葉を紡ぐ。
「炎よ。在れ。」
その言葉が終わるや否や、一掴みもあるような炎が生じ、その手のひらの上で燃えている。
彼女の手を焦がすこともなく、しかし、まごうことなき炎の熱さをまとったまま。
それまであどけなさを残していた彼女の顔は引き締まり、代わりになにか、決意のようなものが浮かぶ。
「この力があれば、村のみんなが飢えることもなくなる。あの子の未来に、獲物が尽きない山を、麦や豆が尽きない畑を、そしてきれいな水と沢山の魚がいる川を残せる。」
彼女はこぶしを握り締め、丘から走り出す。
・・・背後に、ピシリと微かな音がしたことに、気づくこともなく。
◇ ◇ ◇
ザザ、と音がして、画面が切り替わる。
あたりには雪が降り積もり、深々とした寒さが村を襲い、村人たちは蓄えた食料を大事に春まで食べ繋がなくてはならない、厳しい季節が始まった・・・はずだった。
どういうことか、村人たちが住む穴の横に、いくつもの煙が上がっている。
それどころか、村の中では雪の上で子供たちが遊び、体力を無駄にできない大人たちまでもその遊びに付き合っている。
「まさか、三の穴の上の娘に山神様が降りるとは思わなかったね。昔から誰にでも優しかったから、山神様がお力を与えてくれたんだろうね。おかげで森の木に季節外れの果物が生ってるよ!」
「ああ。それにしても、お前、見たか?三の穴の上の娘が湿った薪に手をかざすと、一瞬で炎が着くんだぞ!?いや、あれは火の神様がついてらっしゃるに違いない。」
「いやいや、あの娘が神なる河で祈るだけで、水面は魚だらけになるんだ!かごを入れるだけでいくらでも魚が獲れる!水の神様の御加護を授かったに違いないんだ!」
道行く村人は口々に彼女のことを褒めちぎる。
同時に、心なしか村の中が清潔に感じる。
村人が着ている衣服も、繊維が細かくなり、編み方も細かくなっている。
麻を叩く時間を以前よりも長くかけることができるので、以前に比べてかなり着心地がよさそうだ。
村の集会所でもある広場では、貴重であるはずの薪をふんだんに使った炎が常に焚かれており、新たに掘られた井戸の横に置かれている、しっかりとした蓋がされた水甕には、一点の曇りもない清潔な水がなみなみと満たされている。
そんな中、一組の親子だけは露骨に態度が違った。
「あの娘・・・ワシを蔑ろにしおって。これではもう、村人どもはワシの言葉など聞かぬではないか。」
「父さま。あの娘の力の秘密が分かれば私も同じことができるはずです。だって、三の穴の母様と五の穴の母様は双子なのですから。」
「・・・そう、だな。だが女に神が降るのがどうにも納得いかん。あの娘が力を手に入れたのはいつ頃だったか・・・。」
二人は顔を見合わせ、しばらく黙考する。
「そういえば、あの男・・・一の穴の男との間に子供を作った後、突然力を手に入れていましたね。もしかしたらあの娘の力は一の穴の男の力が流れ込んだのかもしれません。」
「・・・そうか。ますます厄介だな。あいつもワシの言うことなど聞かんからな。」
「いいえ、私に考えがあります。近頃は一の穴の男がいくら大きな獲物を狩ってきても、誰も褒めなくなりましたからね。三の穴の上の娘に思うところがあるようですよ。そこを唆せば・・・。」
三の穴の上の娘と呼ばれた娘とよく似た・・・だが、どこか酷薄な印象を受ける娘は、長・・・五の穴の爺さまにそっと耳打ちする。
「ふむ。・・・ではワシも例の物を使うとしようか。いいか、風下には立つなよ。それと・・・煙が目立たぬように広場の篝火を焚いておけ。」
長はにやりと笑うと、二人そろって村の奥に向かい、歩き始めた。
◇ ◇ ◇
再び、画面が切り替わる。
先ほどからあまり時間は経っていないようだ。
一の穴の男は一人、村からかなり遠い所で狩ってきたシカのような獲物を、村の中央の広場で焚火に当たりながら解体していた。
シカ・・・というにはかなり大ぶりな獲物で、それ一頭で集落の者がたらふく食えるほどの獲物だ。
だが、彼の妻が毎日新鮮な魚を獲り、あるいは麦や豆の畑を豊作にし、季節外れでも木の実や果物を採れるようにしたおかげで・・・自然と村人の感謝は薄れていた。
現に、これほどの獲物が獲れれば必ず宴があるはずなのに、今日も数人から労いの言葉があるのみだった。
そのような状況下にあっても、彼が不貞腐れることもなく狩りに出続けたのは・・・ひとえに妻の言葉のおかげだ。
妻は、十分な食べ物がある中でも、「私は一の穴の兄さまが獲ってくるシカやイノシシのお肉が大好き!」と言い、肉を絶妙な塩加減で焼き、あるいはスープにして、とても美味しそうにかぶりついていた。
・・・十分な塩が使えるのも、彼の妻が豊作にした畑の麦のおかげであったが。
彼は考える。
妻とかつて遊んだ丘に現れた石板は、確かに不思議なものではあるのだが・・・。
一度だけ妻に誘われ、触るように勧められたが・・・どうにも腰が引けて触る気にはなれなかった。
気を取り直した男が、妻が焼いてくれた、塩をふんだんに使った肉の味を思い出していると、後ろから声がかかる。
「一の穴の男よ。今日も立派な獲物が獲れたようじゃな。」
「・・・長か。それから五の穴の上の娘・・・まだ解体は終わっていない。何か用か?」
「そう邪険にしないでくださいまし。今日は大事な話があってきたんですの。解体しながらでいいから聞いてくれませんか?」
男は血で手を汚しながら、怪訝そうに振り返る。
「大事な話、ね。それは・・・アイツの事か?」
そこには、まるで我が意を得たり、と言わんがごとく笑う五の穴の上の娘が・・・男の妻によく似たはずの・・・だがまるで表情が違う娘が、日の光を背に立っていた。
・・・・・・。
五の穴の上の娘が、何かを饒舌に話している。
男は、嗅いだことがない、なにか・・・焦げた干し草、枯葉、濡れた植物のような・・・あるいは、イタチの最後っ屁を薄めたような・・・そんな臭いに気付く。
なにか、夢を見ているような、川下の連中が持ってきた酒とやらを飲んだ時のような・・・眠気ともちがう、不思議な感覚がする。
疲れがたまっているんだろうか、という考えが頭をよぎったが、毎晩、妻が疲れた体を撫でてくれているのだから、そんなはずはないと思いなおす。
「・・・というわけですの。試してみる価値はあると思いますが、いかがでしょうか?」
「あ・・・ああ、うん。そうだな。・・・じゃあ、いつ行けばいい?」
「今夜にでも。川下の者が持ってきた酒がありますので、続きの話はそれを飲みながらいたしましょう。」
ぼんやりとする頭で、男はそれまでの話を反芻する。
・・・ええと、妻が不思議な力を手に入れたのは、アイツが生まれてからで・・・。
・・・そもそも、アイツは俺の息子で、妻が力を手にしたのは山神ではなく・・・。
・・・つまり妻の力は俺が授けたのも同然で、だから妻は俺を慕っていると・・・。
・・・じゃあ、あの怪しい石板に触ったから、というのはアイツの勘違いか・・・。
・・・俺は、妻の使い方を考えて、分からなければ年長者に相談するべきで・・・。
冷静に考えれば何一つとして筋が通ってない話なのだが、なぜか心の中にするりと忍び込んでくる。
いつの間にか、村で一番、獲物を獲ってくる男という称号も、誰も口にしなくなって・・・。
大きな獲物をとったときに、宴をすることもあまりなくなって・・・。
そうだ。あんな得体のしれない石板などで力が手に入るものか。
男は、石板に触れられない恐怖を、言い訳のように自分に言い聞かせる。
また、妻より遅れて生まれた、五の穴の上の娘は、妻によく似ていて、それでいて若く、俺を好いていてくれるようで・・・。
同時に、心の中にさざ波のような不思議な感覚が沸き立つ。
だが、妻以外の娘にこんな感情を抱いていることを、妻に知られてはならない。
男はそう思いなおし、途中で止まっていた獲物の解体を続けることにした。
・・・夢を見ているような、濁った眼のままで。
・・・・・・。
夜、男は五の穴・・・長と、その娘がいるはずの穴に向かう。
その穴は、一の穴や三の穴よりも広く、太い柱と立派な梁、そして目の細かな藁が張られており、足元には複数の獣の皮が敷かれていた。
「ようこそお越しくださいました。さ、まずは一杯。」
「・・・長は、いないのか?」
穴の中は、不思議な香のニオイがする。
先ほど感じたのと同じニオイだ。
「父は川下の者たちと話し合いがあるそうで、今日は神なる河のほうに。帰りは明日になるそうです。」
「・・・それでは、話というのはお前がするのか。」
「ええ。ですが狩りと獲物の解体でお疲れでしょう。まずは喉を潤してくださいな。」
男は怪訝に思いながらも、疲れているのは事実だと考え、差し出された器に口をつける。
「・・・?甘酸っぱい、な。こんなものは初めて飲んだ。これは・・・なんだ?」
「ブドウ、という粒が沢山生る果物から作った飲み物だそうです。ささ、もう一口。」
不思議なニオイの中、男は勧められるままにそれを飲んでいく。
ゆっくりと、五の穴の上の娘の声が心に忍び込んでくる。
・・・それが何と言っているのかすら、判然としないまま。
・・・・・・。
夜が明け、男は慌てて飛び起きる。
しまった、昨日は妻が久しぶりによく塩の利いたシカ肉たっぷりのスープを作ってくれると言っていたのに。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
男が振り向けば、藁の上に上質な麻布をかけた寝床から、五の穴の上の娘が裸体を晒す。
「・・・俺は、何を・・・くっ!こうしてはいられん!今すぐ帰れなければ!」
「・・・ふふふ。これで私もあの娘と同じ力を・・・。」
まるで独り言のように、だがわざと彼の耳に聞こえる大きさで五の穴の上の娘は、そうつぶやく。
「き、昨日の夜のことは誰にも言うな!じゃあな!」
一の穴の男はそう叫ぶと、五の穴の出入り口にかかった麻布を開け放ち、転がるように外に飛び出した。
「く、くふふふ・・・馬鹿な男。何もしていないのに、軽く触っただけで果てて。三の穴の上の娘は、あんな男のどこが良かったのかしら。」
五の穴の上の娘は嘲るように笑うと、物影に潜んでいた二人の女に言いつける。
「いい?私があの男に無理やり抱かれていたのを、この穴の外から見たと言いふらしなさい。ただし、誰が見たかは知られないように。あなた達にはまだまだ役に立ってもらうんだから。」
女たちはだまって首を縦に振ると、他の者に気付かれないよう、穴を出ていく。
穴の中には、一人の娘のくぐもった笑い声が小さく響いていた。
◇ ◇ ◇
ザザ、と聞きなれた音がすると、景色が切り替わる。
川で一人の娘が大きなかごを水面に落としている。
かごにつけた紐を手繰り寄せると、かごの中にはたくさんの銀色の何かが・・・魚が何匹も入っているのが分かる。
「おお!すごい!三の穴の上の娘だけでなく、五の穴の上の娘まで!いやはや、大したものだ!これでもっとたくさんの魚を食べられるというものだ!」
何も知らない村人がはやし立てている。
だが、ほんのちょっと注意深く見れば、三の穴の上の娘の時と違い、魚が全く動いていないことに気付くはずなのだが・・・。
五の穴の上の娘は、掬い上げたかごを近くにいた別の女に渡すと、そのまま村に向かって歩き始める。
三の穴の上の娘は、自分で獲った魚は自分で村まで運ぶのだが、そんな細かなところに村人は気付かぬようだ。
かごを受け取った女は、すぐ近くに潜んでいた長の持つ、別のかごと素早く交換する。
「川下の者が考案したという、簗、だったか。あれほど大掛かりな仕掛けをして、半日かけてもかご半分も獲れぬとは・・・だが、上げ底をしても誰も気づかぬよ。ふ、ふふふ・・・後は三の穴の上の娘の魚と一緒にしてしまえば誰もわかるまい。」
長は、あれから三の穴の上の娘に不満を持つ者たちを選別し、自分の味方につけることに成功した。
さらに、自分の娘も同じような力を得始めていること、一の穴の男と自分の娘が夫婦のように営んでいることを言いふらすよう、その者たちに命じていた。
日頃の娯楽もたかが知れている世界では、そういったウワサが女たちの密かな楽しみになることもあり、瞬く間に村にそのウワサは広まっていった。
そして、一の穴の男・・・すなわち三の穴の上の娘の夫は、やはり石板に不思議な力などないと自分に言い聞かせるようになっていた。
・・・・・・。
そんなこととはつゆ知らず、三の穴の上の娘は一人、三の穴の前に座り、我が子の肌着を編んでいた。
「そろそろ前の肌着が小さくなるからね。新しい肌着ができたら、着せてあげようね。」
二本の細棒を使い、器用に植物の繊維を紡いだものを編んでいく。
おおよその形ができたころ、横から不意に声がかかった。
山菜と思われるものを入れたかごを持った、二人組の女だ。
「なあ、あんた。五の穴の上の娘もあんたと似たような力を授かったっていうけど、ほんとなのかい?」
彼女は一瞬、何のことだろうかと考えるが、すぐにあの丘の石板のことを思い出す。
そういえば、この力を得たのはあの石板を触ったからだった。
ならば、誰が触っても同じ力を得られることも十分に考えられると思った。
「ごめんなさい、私はその娘の力を知らないから何とも言えないけど・・・私と同じならたぶん、そうなんでしょう。」
「ふ~ん。そうかい。じゃあ、あたしもあんたの旦那に頼んでみるかね。」
「あはは!アンタみたいな年増なんて相手にしないだろうさ!忙しいのに悪いね。邪魔したよ。」
二人組の女の言う、「旦那に頼んで」の意味が分からなかったが、同じような力を得たものがいるのであれば、だれがあの石板に触れても力が手に入るのではないか。
いや、あの丘に行くのに、途中難所があるから案内を頼むつもりか?
そう考えつつも三の穴の上の娘は、傍らで眠る我が子を抱きあげ、できたばかりの肌着を当ててみる。
「うん。ぴったりね。じゃあ、お着替えしましょうね~。・・・よし、似合ってる。糸が細かくなるまで叩いたからね。ふわふわでしょう?」
我が子の肌着を着せ替えさせ、外しておいた、水滴の模様が特徴的なペンダントを、その首にそっとかける。
「・・・あなたが生まれた日は、それはもうすごい雨だったのよ。何もかも押し流す、まるで空が泣いているかのような・・・大いなる雨の日だったの。でも、あなたには笑いながら暮らしてほしいな。」
そっと抱き上げ、首が座ってからしばらく経ち、何にでも手を伸ばすようになった我が子に、そっと乳を与える。
そういえば、最近は乳以外の物を口にできるようになった。
乳以外では、麦をドロドロになるまで煮て、湯で薄くしたものを特に好むのだが・・・やはり乳ともなると食欲が違うようだ。
我が子を抱きながら、彼女は何とも言えない幸せさに包まれる。
「ねー。お姉ちゃん。遊んで。どこか連れてって。」
我が子に乳を与えていると、駆けまわれるくらいになった妹が、衣のすそをクイっと引く。
最近、二人の母親である三の穴の母さんは、長や年長者たちと会合を重ねることが多くなった。
だから、妹の世話は彼女の仕事になっている。
「・・・そうねぇ。じゃあ、お姉ちゃんの秘密の場所に連れてってあげる。きれいな花が沢山咲いてるところよ。」
「・・・うん!じゃあ、お母さんに言って美味しい果物をもらってくる!そこで一緒に食べよ!」
きれいな花があると聞いてはしゃぐ妹を見ながら、三の穴の上の娘はふと考える。
そういえば、あの石板は自分が触った後、光が弱くなっていた。
もしかしたら、石板から得られる力は、だんだん弱くなるのか?と。
そうであるならば、早い段階で妹と息子にはあの石板を触らせておきたい。
他の村人には悪いけど、どうしてもそれだけは譲れないのだ。
彼女はそう考えると立ち上がり、妹を連れて歩き出した。
・・・・・・。
村からしばらく歩き、難所を二か所、通過する。
難所といっても、足場の悪い谷と沼を超えるだけで、道順さえ知っていれば全く問題ない場所だけれど・・・新しい足跡もない。
あまり村の者は訪れないようだ。
「ねえ、もうすぐ?もうすぐきれいなお花が見れるの?」
「そうよ。お花だけじゃなくて、とっても不思議なものがあるの。触ったらあなたもびっくりするわ。」
「ふう~ん。そうだね。だって手から火を出すお姉ちゃんが言うんだから、きっとびっくりするよね。」
彼女は右手で我が子を抱き、左手で妹の手を引きながら最後の草藪を押しのけ、あの丘の入り口に立つ。
丘の上は、真冬であるにもかかわらず、不思議な温かさに包まれていた。
そこには、あの時見たままの・・・ほんの少し光が弱くなった石板が、汚れもせず、その半透明さを保ったまま、ひっそりとたたずんでいた。
「・・・光の強さが変わってない?じゃあ、五の穴の上の娘は触ってないってこと?それとも、何度触っても同じってことかしら。」
彼女は妹の手を引きながら、石板に近付く。
「こ、こわい!これ、なに!私、触りたくない!」
妹が彼女の手を振りほどく。
だが、そんな彼女に三の穴の上の娘は優しく話しかける。
「お姉ちゃんが不思議な力を手に入れたのはこの石板に触ったからなの。ちょっとだけ触ってごらん?痛くないから。」
「え、えぇ・・・うん、じゃあ、ちょとだけ。」
彼女は再び妹の手を引き、石板の前に立った。
ちょうどその時、腕の中の息子が目を覚ます。
「だあ・・・だぁ・・・!」
幼い息子は、目が覚めたときに母の胸の中にいた安心感からか、幼いはしゃぎ声をあげ、次に、目の前の石板に気付いた。
石板は弱々しいながらも、その中に張り巡らされた規則的な金の線の上を光がチカチカと行き交い、赤、青、緑の宝石が瞬いている。
目を丸くした息子が、石板の中の光に見とれている。
「ふふ。気になる?じゃあ、触ってみようか。終わったらご飯にしようね。」
彼女は腕の中の我が子を、ゆっくりと石板に近付ける。
小さな、まだ硬くなったところもない白い手を、その幼子は石板に向ける。
まるで、母に作ってもらったおもちゃに手を伸ばすように。
「やっぱりなんかやだ。ねえ・・・やめ・・・えっ!!!!」
三の穴の上の娘の、腕の中の幼子が石板に触れた瞬間。
石板の中の金の糸が激しく明滅する。
バチ、バチン、と、何かが爆ぜているような、あるいは灼けているような、不快な音。
「・・・なにか、おかしい・・・?」
三の穴の上の娘は、反射的に全身に力を入れる。
すると、その身体が・・・半透明の膜のようなもので覆われる。
・・・次の瞬間、閃光と突風が三人を襲った。
一瞬で身体の重さがなくなる。
同時に、上向きに引っ張る、強力な力。
今までに感じたことがない力に、無意識のうちに大地に腕を伸ばす。
・・・いや、伸ばした腕は・・・彼女の両の腕ではなかった。
念の腕のようなもの。
見えず、感じず、ただそこにあることが本人の感覚で分かるだけの腕。
大地を見えない腕でつかみ、大地に自分の身体を固定する。
右手で我が子を抱きしめ、左手で妹が宙に浮きあがるのを押さえる。
だが、妹の体は容易く舞い上がった。
「くっ!力が、足りない!」
彼女は、大地をつかんでいる以外の全ての念の腕を・・・妹の身体を引き寄せるのに使った。
徐々に、上向きに引っ張る力が弱くなっていく。
「あとちょっと、あとちょっと!」
妹の身体を念の腕で何とか手繰り寄せる。
もう生身の左手は、感覚がない。
だが・・・。
ピシ、と何かが割れたような・・・。
ちょうど、鏃にする前の大きな黒曜石が砕けたような音が・・・。
娘の目が、石板を捉えた瞬間。
耳を劈く轟音が、その意識を奪いかける。
「ヒッ!?あ!」
石板が砕け、光の刃となって周囲を襲う。
彼女は身を翻し、我が子を石板から守るために背を向ける。
その身を纏った半透明の膜に石板の破片が次々に当たるも、一つとして膜を貫けるものはなかった。
安心したのもつかの間、彼女の左手にいくつもの衝撃が襲う。
見れば、左手でつかんだ妹に、石板の破片が当たったのか・・・腹と、頭から、大きな血飛沫が舞っている。
「だめっ!」
娘は叫ぶが、両方の手、すべての念の腕は埋まっている。
これ以上動かせる腕はない。
土砂と光の粒が舞う乱流の中、すべての石板の破片が空に上がっていく。
右腕の我が子が泣いている。
お願いだから泣き止んで。
絶対に、お母さんが助けてあげるから。
心の底からそう思った瞬間、とうとう生身の両手が、限界を迎えた。
するり、という感覚。
なにか、身体の中から大事なものが抜け落ちる感覚。
恐ろしくゆっくりと流れる景色の中、右腕から、我が子が上に吸い上げられていく。
「いやあぁぁぁあ!」
思わず左手を妹から離し、我が子の衣を、つい先ほど編みあがったばかりの肌着の手を伸ばす。
あまりにも緩慢な自分の手の動きに、全身を焦燥感が駆け巡る。
・・・もはや握力など完全に奪われている手は、肌着の裾をギリギリつかむ。
間髪入れず、右手を我が子に伸ばした瞬間・・・。
左手がつかむ肌着の、裾が・・・千切れた。
息子のために、少しでも着心地がいいように、と。
麻をたたいて強い繊維を潰しすぎたのが、裏目に出た。
幼子の首に光る、青い、水滴の模様が目立つペンダント。
右手の中指がそれを掠める。
もう、届かない。
抜けるような青い空の中、幼子は空に・・・東の空へと・・・消えていった。
◇ ◇ ◇
石板などなかったかのように粉雪が舞う丘の上。
三の穴の上の娘は・・・その場に座り込んでいた。
傍らには、頭が砕かれ、顔の半分がなくなった妹が・・・その頭と腹からあたり一面に血をまき散らしたまま、倒れ伏していた。
妹の腸を、脳を、かき集めて身体に戻そうとした形跡が見て取れる。
そして、ほんのちょっと、ほんのちょっとだが傷口がふさがった個所がある。
だが、妹は、もはや完全に事切れていた。
「・・・あは。あはは。そう、あの子は、三の穴の母さんが面倒を見てくれてるの。帰ったらあの子がいるの。おなか、すかせてないかしら。」
彼女はその指先に残った、編みあがったばかりの肌着の破片を、握りしめる。
麻を叩いて細かくしてほぐし、編み上げたそれは、確かに息子に着せたばかりの肌着だ。
彼女の上着の、胸のあたりが濡れている。
・・・母乳が、息子に与えるはずの母乳が滴っている。
「肌着・・・そう、肌着を、編まなくちゃ。麻を、叩いて、叩いて、細かくして、そうしないと、肌に悪いから・・・でも、あまり細かくすると、切れちゃうから・・・。」
彼女は倒れ伏したままの妹を抱き上げようとする。
・・・ぼろり、とその身体から赤黒いものが落ちる。
「ああ、いけない。せっかく戻したのに。ほら、帰りましょ。三の穴の母さんも、あの人が獲ってきたシカを食べたいって言ってたの。・・・遊び疲れちゃったの?仕方がないわね。少し、休んでから帰りましょうか。ふふっ。お姉ちゃんが久しぶりにお歌を歌ってあげる。」
ゆっくりと妹の身体を土の上に横たえる。
舞うように降る粉雪の中、彼女は不思議な旋律の歌を口ずさむ。
それはまるで、子守歌のような・・・悲しい旋律だった。
次回「246 地獄はこの世にある/ゆえに魔女は堕とされた」
7月18日 6時10分 公開予定。




