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244 神話の前日/ある少女が母となるとき

新キャラクター「黒髪の女」が登場します。

キーキャラクターですが、その存在だけ覚えておいていただけましたら幸いです。

 久神 遥香


 8月10日(日)朝


 長野県茅野市某所

 民宿「マヨヒガ」


 食堂に集まって、今日もマヨヒガさんが作ってくれた朝食を食べる。

 朝はバイキング形式なので、それぞれ食べたいものを食べたいだけ持って、好きな席に座る。


 それにしても・・・うん。

 強制睡眠魔法のせいで朝までぐっすりだったよ。

 遠くまで出かけたから、寝る前に千弦ちゃんと一緒にシャワーを浴びたかったのにな。


「・・・もう・・・千弦ちゃんも琴音ちゃんもひどいよ。」


「いや、ごめんって。それに、ねえ。」


「ええ。お二人が来てくれて助かりました。まさか、敵の親玉が出てくるなんて。」


 昨日の夜、紫雨(しぐれ)君と星羅(せいら)さんをローザンヌに送り届けた後、10秒もそこに留まらずに引き返したんだけど・・・。


 仄香(ほのか)さんにこっそりと頼まれていた・・・「千弦ちゃんと琴音ちゃんを危険にさらさないこと」を守れなかった私としては、仄香(ほのか)さんがそう言う以上、もう何も言えない。


 それにしても・・・意図的に魅了魔法を使う感覚って、ああやるのか。


 魔法には必ず詠唱が必要だとは聞いていたけど、その理由は精霊や神格などからの精神汚染を防ぐのが一番大きな目的だという。


 つまり、術理魔法である魅了魔法は例外の一つで、本人の身体に十分な処理能力を持つ魔力回路(サーキット)がある場合は、少し魔力の消費が増えるだけで、無詠唱に大きな問題はないそうだ。


 私の魔力回路(サーキット)は特に魅了魔法に適していて、少ない魔力で最大の効力を発揮できるらしいんだけど・・・。


 大事な時に効かなかったじゃん!

 いくら無詠唱で強力な魅了魔法が使えるっていっても、千弦ちゃんに効かなきゃ意味ないじゃん!!


 私は千弦ちゃんのことが大好きなのに!

 ・・・あれ?私、何を考えてるんだろう?


「でもねぇ・・・ああいう逃げ方をするとは思わなかったな。両方ともに遠距離でも起爆できるように術式を込めておいたのに、まさか魔石だけで逃げられるとは思わなかったなぁ・・・。」


「・・・ほんと、姉さんだけは敵に回したくないわ。捕らえた相手の身体に爆発物を仕掛けておくなんて。」


 うん。それはさすがにドン引きだよ。

 ふつう、自分の知り合いの身体に爆弾なんて仕掛けるかな?


「とにかく、私の最初の身体が聖釘(アンカー)の波動で完全に汚染・・・いえ、浄化されたうえで聖釘(アンカー)もろとも粉微塵になったのは幸いでした。千弦さん、本当にありがとうございます。」


「でも・・・大事な身体だったんじゃないの?だって・・・本当の身体なんでしょう?」


 琴音ちゃんが仄香(ほのか)さんに、そっと心配するような言葉をかける。


 ・・・仄香(ほのか)さんはきっと自分のことじゃなく、周りへの被害などを考えて我慢しているんだろうな、と思った瞬間。


 仄香(ほのか)さんの身体からゾワリ、と魔力・・・いや、感情が膨れ上がった。


「な、なんで!?私、今、言っちゃいけないことでも言った!?」


 琴音ちゃんが慌てている。

 いや、千弦ちゃんもだ。


「ご、ごめんなさい。違うんです。琴音さんが何かいけないことを言ったのではなくて、いえ、ごめんなさい。ちょっと感情が止まらなくなって。」


「ん?なんだぁ?変な感覚が・・・。」


 食堂にいる数人・・・ちょっとだけ勘の鋭い部員たちが仄香(ほのか)さんの感情に気付いたようで・・・。


 悲しさや苦しさ、後悔や孤独感、疎外感と恥ずかしさ、そして度重なる諦念と絶望があふれ出ている。


「すみません。ちょっと席を外します。」


 仄香(ほのか)さんはそう言うと、食事を残したまま席を立ち、食堂から出て行ってしまった。


「・・・ごめん、姉さん。私ちょっと追いかけてみる。」


「うん。ここは私に任せておいて。・・・さあ!遥香。魅了魔法の練習をしようか。」


 ・・・千弦ちゃん?

 なんで抗魔力増幅機構(A.I.A.S)を構えてまで・・・?


 何を言って・・・ああ、そうか。

 仄香(ほのか)さんの感情の波を、私の魅了魔法で打ち消そうっていうのね。


「よし、じゃあ、こんな感じかな?」


 身体の中の魔力回路(サーキット)に、魔力を注ぐ感覚。


 自分で言うのもなんだけど、ふわり、と蠱惑的なピンク色の波が広がっていく。

 うわ、食堂にいる部員の目線が一斉にこっちに向いた!?


 いきなり席を立った部員までいる!

 目の色が変わってるし!


 お、襲われる!?

 ちょ、止め方!止め方はまだ知らないのよぉ~!


 ◇  ◇  ◇


 妙に赤い顔の千弦ちゃんが慌てて解呪してくれたからよかったようなものの、もう少しでその場にいる全員に襲われるところだったよ。


 部員全員が興奮し、男子二名、女子一名が鼻血を出したらしいけど・・・。

 ・・・なんで女子も?


 途中から気まずくなった朝食を終え、みんなはエアガンを担いで外へ、マヨヒガさんは食器を片付けている。


「・・・遥香。仄香(ほのか)が話を聞いて欲しいって。私と琴音、それと遥香。あと、紫雨(しぐれ)君、星羅(せいら)さんの五人にって。」


 ドキドキする胸を押さえていると、千弦ちゃんから声がかかる。


 今まで何度か仄香(ほのか)さんの話は聞いて・・・いや、見てはいるけど、数千年の歴史の中の、ほんの一幕ずつしか見ていなかったっけ。


「うん、今行くよ。でも、あれ?千弦ちゃんは合宿に参加してなくていいの?」


「ああ、それなら二号さんにお願いしたよ。(おさむ)君にも一応言ってあるし、二号さんが襲われることはないと思うよ。」


 そっか。

 (おさむ)君も大変だね。

 そもそも好きになった人と同じ顔をした妹がいるのに、さらに同じ顔をした二号さんが登場するなんて。


 いつの間にか集まってきたみんなに従い、仄香(ほのか)さんの泊っている部屋に入っていく。

 琴音ちゃんだけ先に入っているようだ。


「ここね。・・・仄香(ほのか)!みんな連れてきたわよ!入ってもいいかしら!?」


 中から「どうぞ。」という声が聞こえたので、扉を開けてぞろぞろと入っていく。


 部屋のレイアウトは16畳の和室タイプ。

 洋室タイプの私や千弦ちゃんたちの部屋とは違うみたいだけど・・・これと言っておかしなところはない。


 すでに人数分の座布団が並べられ、お茶と茶菓子も並んでいる。


「みなさん。先ほどは取り乱してしまい、申し訳ありませんでした。」


 出迎えるように立ち上がった仄香(ほのか)さんが、深々と頭を下げている。


「気にしないで。それで・・・聞いて欲しいことって、何?」


 一瞬だけ逡巡するような間を挟んで、仄香(ほのか)さんはゆっくりと口を開いた。


「魔法がこの世に生まれた瞬間と、私が魔女になった時の話です。まだ誰にも話したことがありませんが・・・聞いていただけますか。」


 ふいに襲う、まるで沼の水底のような、冬霧の深い極夜の森のような、不自然に淀んだ薄闇と、骨の髄から凍るような寒さに包まれているかのような気配。


 真夏だというのに、それほどエアコンが強いとも思えないのに、一瞬で息が白くなる。


 その場にいる全員が、無言のまま首を縦に振る。


「では、順を追ってお話しします。」


 ゆっくりと、部屋の中に暗闇が広がっていく。

 いつもの幻灯術式とは、全く違う。


 魂が仄香(ほのか)さんと直接つながる感覚。

 ゆっくりと、ゆっくりと・・・心が水底に沈んでいくような・・・。


 ◇  ◇  ◇


 サン・ジェルマン


 同時刻・フランス上空


 久しぶりに魔石だけになった俺は、最後の使徒のひとり、薙沢に運ばれながら、ふと考えていた。


 やはりこの世界で妻を取り戻すのは難しいのか。

 幼い時から一緒で、アレが生まれるまで、いつも同じ(わら)の中で眠っていた彼女。

 凍てつく夜も、大雨の夜も、俺の腕の中でほほ笑んでいた彼女。


 遠い昔の事なのに昨日のことのように思い出せる。

 だが、数千年ぶりに顔を合わせた妻は、俺に憎悪のこもった視線を向けた。


 なぜだ。

 訳が分からない。


《サン・ジェルマン様。まもなくリヨンに到着します。リヨン・サン=テグジュペリ国際空港まで移動して、そこからは空路です。》


《そうか。新しい身体の候補は?》


《残念ながら見つかっておりません。ご希望がございましたら対応いたしますが?》


 ・・・俺は他の魔族と違い、もともとは人間だ。

 そのおかげで、相手が人間だろうが魔族だろうが、この魔石を挿し込めば簡単に乗っ取ることができる。

 ただし、男の身体に限るがな。


 さて、新しい身体の候補か。

 最終的には妻の身体と同じ人種がいいだろうが、今は動きさえすればなんでもいい。


《・・・そうだな、しばらくはドルゴロフのところに潜伏する。奴の息子に魔石を挿し込め。・・・少し眠る。あとは頼む。》


《かしこまりました。では、よい夢を。》


 薙沢の言葉に、ゆっくりと意識を閉じていく。


 ・・・眠りに落ちる感覚とともに、懐かしい景色が広がっていく。

 ああ、あの頃に戻れたら・・・。

 なんと幸せなことか・・・。


 ◇  ◇  ◇


 ???


 冬の朝、雪の上を照らす太陽・・・。

 厳しい寒さの中、大きな川に面した小高い丘の上で、子供が・・・歌い、踊っている。


 ちょっとくすんだ色の金髪の少女と、濃いめの茶髪の少年だ。


 時刻はおそらく、正午過ぎだろうか。

 だけど、かなり低い位置に、少し弱い光の太陽が浮かんでいる。


「なあ!昨日、二の穴の姉ちゃんが女の子を生んだよな!?次は男の子が欲しいなぁ!」


「なにいってるのよ!生むのは女でしょ!それに可愛ければどっちでもいいじゃない!」


 粗末な貫頭衣に、(わら)の編み靴。

 腰回りには、何かの植物をたたいて取り出した繊維を、乱雑に編んだもの。

 そして、明らかにサイズの合っていない、獣の革をなめした・・・マントのようなもの。


 明らかに原始時代と思われる装いの二人が、丘の上で枯れ枝を片手に、不思議な旋律の楽しげな歌を歌いながら、くるくる、くるくると回っていた。


 ◇  ◇  ◇


 ザザ、とノイズが走るように景色が変わる。


 ・・・雨が降っている。

 遠雷が鳴り、誰も出歩かない。


 光が差さない穴の中、数人の男女が身を寄せ合っている。


 そのうちの一人・・・濃い目の茶髪の少年が震えながら声を出す。


「なあ、一の穴の母さんが言ってたんだけど・・・この冬はもう獲物が取れないかもって。それに、具合が悪いみたいだ。前の夏の麦と豆だけで秋まで持つかな・・・。」


 少年に肌を寄せるくすんだ色の金髪の少女は、彼を励ますかのようにその身を引き寄せる。


「食べ物がないとおなかすくよ?じゃあ、私がたくさん魚を獲るから。そしたら、一の穴の母さんも元気になるかな。」


「でもどうやって獲るんだよ?神なる河はずっと怒ってる(氾濫してる)し、このままじゃ麦も豆も足りなくなる。それに・・・干し肉だって残り少ないし。せめてこの雨が止めば・・・俺も狩りに行くんだけどな。」


「一の穴の兄さんはまだ体が小さいし、あまり危ないことはしてほしくないな。狩りをするならウサギくらいにしてほしいんだけど・・・。」


「俺だってイノシシくらいは狩れるさ!見てろ!雨が止んだら特大のイノシシを持ってきてやる。そしたら煮込んでスープにしよう!」


 幼い二人はお互いを温めあうように身を寄せ合う。

 雨は止まない。

 遠くの丘に、落雷が響く。


 この時、二人の運命を決めるものが丘に現れたことを、誰も知らなかった。


 ◇  ◇  ◇


 ザザ、という音がする。

 世界が暗転し、景色が切り替わる。


 長い雨季は去り、実りの季節が訪れる。


 少年は槍と弓を持って男たちに同行し、少女は女たちと一緒に木の実を集め、原始的ながらもそれなりの広さの畑でとれた麦をたたいて粉にし、石の上で焼くために練っていた。


「昨日、川下の連中が来たから、麦と引き換えにたくさん塩を手に入れたんだ。これでおいしいスープが作れるわね。」


「一の穴の母さん、すっかり元気になったね。三の穴の母さんも同じくらい元気になるといいのに。」


 少女は少し年上の女に首をかしげながら言うと、女はカラカラと笑い始めた。


「そりゃあ理由が違うからね。でもあんたの母さんは大丈夫。病気じゃないよ。・・・そうだね。もうすぐあんたに弟か妹ができるってことだよ。」


「え!?本当?そうなんだ、じゃあ、私はお姉さんになるんだ。・・・うん。頑張る!」


 少女はそういうと、それまでよりもさらに力を込めて粉を練り始めた。


 ・・・その日の夜。

 少年は雨の夜に宣言した通り、イノシシを・・・それほど大きくはなかったが、自分の手で狩ってきた。


 他の男たちに負けないほど狩りが上達した少年を、大人たちは口々にたたえ、その夜は焼いたばかりの原始的なパンと、収穫したばかりの麦を他の村と交換して得た塩で煮込んだスープ、そして色とりどりの果物が並び、少女の母が身籠ったことと合わせて滅多にない宴となった。


 パチパチと燃える大きな火を囲み、何人かの男女が躍っている。


 そんな中、少年と少女は配られたパンとスープを手に取り、スープをパンでかき回しながら素手でかぶりつく。


「なあ、お前、俺と一緒になろうぜ。俺の子を産んでくれよ。元気な男の子がいいな。そしたら死ぬまで面倒見てやるからさ。」


「あはは、何それ?女の子じゃダメなの?それに私のほうが若いんだから、死ぬまでは無理じゃない?」


「う・・・まあ、女の子でもかわいいけどさ。俺は自分の息子に狩りを教えてやりたいんだよ。な、頼むよ。」


「仕方ないわねぇ。そもそもあんた以外に若い男がいないんだし、初めからそう思ってるわよ。」


 少年と少女は、手をつなぎ、宴の中でお互いの肩を抱き寄せた。


 ◇  ◇  ◇


 再び、ザザ、という音とともに景色が切り替わる。


 秋も終わり冬の終わりが近づき、雪の中から一輪の花が顔を出した日の朝、村の入り口から三つ目の穴で女たちの声が響き渡る。


「生まれた!三の穴の姉さん!女の子だよ!これは・・・大きいね!それにすごく元気だ!ごらんよ!こんなに大きな声で泣いてるよ!」


 薄暗い穴の中に、生まれたばかりの赤子の鳴き声が響き渡る。


「うわ、私もこうやって生まれてきたの?」


「そうさ。お前の母親は同じ三の穴の姉さんだからね。ほとんど同じさ。」


「う~ん・・・お母さん、すごく痛そう。私もこんなに痛いのかな。」


「命が一人増えるんだ。生半可な覚悟じゃやってらんないよ!ほら、お前もこれで姉さんだ。みんな。抱かせておやり。」


 つい先ほどまで脂汗を流していた女が、生まれたばかりの娘を姉になった少女に抱かせるよう、声をかける。


 女たちは、かつて村を訪れた黒髪の不思議な女に教わった通りの方法で作った産湯で赤子を清め、少女に手渡す。


 母なる河と呼ばれる、集落のある丘の下を流れる川の水を、不思議な文様の金属の筒に入った砂と岩を通(濾過)して大地の精霊の力を与える。


 そしてそのまま金属の箱のまま一晩火にかけ(煮沸消毒し)て火の精霊の祝福を得て、最後に湯気を風に当て(蒸留し)て集め、風の精霊の慈悲を得た水で、赤子を清める産湯とする。


 磨き上げられた青銅のようなものでできており、川下の連中が前に持ってきた錆びかけたアオガネ(青銅)の刃物など比べ物にならない精巧さだ。


 これらはすべて、少女が物心つく前にその黒髪の女が置いて行ったものだ。


 ただ、一の穴の兄さんだけは彼女を異常なほど恐れていたらしいが・・・。

 少女はそれを聞いて思わず首をひねってしまう。


「この水を使うようになってから赤子が死ななくなったんだよね。ほら、お前の妹だよ。」


「うわ・・・小さい・・・。」


 少女は、まるで我が子を抱くかのようにやさしく妹を抱きしめる。


 ・・・この時代、まだそれほど多くの人間が町や村を作っていなかったからか、あるいはこの地域の風習か。


 個人名をつける習慣がなかったためか、生まれたその娘、すなわち少女の妹は、「最初に花が咲いた朝生まれた女」と呼ばれ、男が少なく女ばかりの集落だが、愛情をもって育てられることになった。


 ◇  ◇  ◇


 再びザザ、という音がし、画面が切り替わる。

 季節は初夏。

 複数の男たちが槍や弓を手に、シカのような獣を追っている。


「そっちに行ったぞ!矢が浅い!早くとどめを!」


「今!・・・よし当たった!・・・!まだ動くのか!」


「俺に任せろ!えいやぁ!」


 確かに心臓を射抜かれたシカのような生き物は、胸から血を流しつつも男の一人に突進しようとしたとき、踊りだした濃い目の茶髪の少年がその手に持った何かを振り下ろした。


 それは木の棒で鋭い石礫(いしつぶて)を挟んだまま縛り上げた、鈍器と刃物が組み合わさったような棍棒だった。


「・・・ふう、いや、死ぬかと思った。さすが一の穴の男だ。若いのに大したものだ。」


「二の穴の兄貴。コイツら、胸を打ち抜いてもすぐに死なないんだ。余裕で10数えるほどは走るんだ。だから油断しちゃだめだぜ。」


 獲物の頭を滅多打ちにした棍棒を背中にしまい、一の穴の男と呼ばれた少年は歩き出す。


 すでに身体は大きくなり、少年というよりも青年と呼ぶのがふさわしいほどの体格を手にした彼は、腰が抜けて動けない男を引き起こし、獲物を担ぎあげる。


「そういえばお前、三の穴の上の娘とうまくやってるか?長が言ってたんだが、最近男が生まれないのは血が濃くなりすぎたんじゃないかってさ。」


 二の穴の兄貴と呼ばれた男は腰をさすりながら彼の後に続き、思い出したように口にする。


「・・・二の穴の兄貴。それってどういうことだ?よく分かんねぇ。」


「ああ、長が言ってたんだよ。もし次に女が生まれたら、五の穴の上の娘か三の穴の上の娘を川下の男にあてがうってさ。」


「あてがうって・・・?」


「川下の男と子供を作らせるってことさ。やつら、それをさせるだけで珍しい刃物や塩をたくさんくれるからな。うちの村は男手も減ってるし、いい話じゃないかと思うが・・・。」


 それを聞いた瞬間、濃い目の茶髪の少年・・・一の穴の男は走り出す。

 今先ほど獲った獲物を放り出し、目を丸くした二の穴の兄貴を置き去りにして。


「なんであいつが俺以外の男と!あいつは、あいつとずっと一緒にいたのは俺なんだ!」


 一の穴の男は、集落の中央にある広場で草をたたき、服にするための繊維を取り出していた少女・・・三の穴の上の娘を見つけ、弓矢と棍棒を放り出し、その腕に抱きしめる。


「え、えぇ!?ど、どうしたの、突然!?」


 驚く少女を、彼はそのまま自分の住む一の穴に引きずり込む。

 幸い、その穴に住む他のものは不在であり、日が傾くまで帰ってこないことはわかっていた。


 彼女は抵抗こそしなかったが、混乱したまま(わら)を煙で燻した寝床に引き込まれ、彼に組み敷かれる。


「お前は俺のものだ!誰にも渡さない!」


「・・・何当たり前のこと言ってるのよ。ほら、狩りに戻って・・・きゃっ!」


 初夏の昼日中、穴を掘って上に粗末な柱と梁、そして草をかけただけの家の中、彼は汗だくになりながら彼女を抱き続けた。


 彼女は一瞬慌てたものの、それがどういった行為であるかだけは他の女たちから聞いて知っていたので、いよいよ自分の番かと思い、同時に彼の家族になることにほんの少しの不安と、大きな期待を胸に感じていた。


 ・・・・・・。


 その夜、獲物を切り分ける長のもとに、一の穴の男はふらりと現れる。


「長。俺はあいつを自分のものにした。だから、川下の奴らには別の娘をくれてやれ。」


「・・・勝手なことを。秋にはまた奴らが来るのだ。奴らとはすでに三の穴の上の娘で話がついておるというのに。もし塩とアオガネ(青銅)を減らされたらどうするのだ。」


アオガネ(青銅)・・・例の石でも木でも骨でもない、叩くと形が変わるくせに妙に硬くて鋭い刃物のことか。そんなもん、俺が奪ってきてやるよ。」


「そうではない、アオガネ(青銅)の作り方は川下の連中しか知らんのだ。野山に落ちているものではないのだ。・・・まあいい。連中にはワシから話す。まったく、最近の若い者は・・・。」


 最近の獲物のほぼ半分は彼が獲ってきているからか、長は語尾を濁しながらもそれ以上は強く言えなくなった。


 この日より、彼は三の穴の上の娘を毎夜のように自分の穴に呼び寄せ、飽きることなく抱き続けた。


 ◇  ◇  ◇


 ザザ、と聞きなれ始めた音が再び響き、かなり大きくなった腹を抱えた少女・・・いや、三の穴の上の娘と呼ばれた娘と数人の女たちが、雨季に備えて自分たちの穴の近くに溝を掘っている。


「あんた!もうかなり腹が重いんだろう?あとは私たちがやるから穴の中で寝ておきな。」


「いえ、私たちが住むための穴ですから。それに、彼が帰ってくれば、きっとおなか一杯食べられるので、ちょっとくらい疲れても・・・。」


「気にしなさんな。それに、川下の連中にはあんたが作った石の首飾りが人気になったおかげで、ずいぶんと塩には困らなくなったんだしさ。今作ってるのが終わったら、あたしにもまた作っとくれよ!」


 一回り以上、歳のいった女が彼女を座らせ、休ませると、別の女が話し始める。


「最近、何も獲れない日が続いてるみたいじゃないか。神なる河の流れも少し濁ってきたし、どうしたんだろうね。」


「川下の連中が川上に住み着いたのがいけないのかねぇ。あいつら、結構な人数だから獲物を狩りつくしちまったのかもしれな。」


「それが・・・あいつら、木を切るばかりで狩りも畑仕事も何もしないんだよ。昨日だって木を切って雑な(いかだ)を川下に流すばかりで・・・アレ、例のアオガネ(青銅)と関係があるのかい?」


 女たちがそんな話をしているうちに、三の穴の上の娘はウトウトとし始める。

 磨きかけの石の首飾り・・・水滴模様が目立つ、透明な青い誰も見たことがない石を、同じ石を砕いて作った粉を塗した布で磨きながら。


 そんな彼女を見て、女たちはその村ではかなり上質な、麻をたたき続けて作った繊維で紡いだ、大きな布をそっとかけてやった。


「あんたが子供を産むころには、きっと野山の獣も戻っているだろうし、畑の麦も豆もたくさん実っているだろうよ。何も心配せずにお眠り。」


 ゆっくりと、空に雲が増えていく。

 その二日後、本格的な雨が降り始め、集落は雨に閉ざされていった。


 ◇  ◇  ◇


 ザザ、とノイズが走る。


 穴の外は半歩先も見えないような土砂降りの中で、辺りはゆっくりと暗くなる。


 もし晴れていれば、一年で最も日が長くなるだろう日が、ゆっくりと夜の帳を下ろしていく。


「あいつ、いったいどこをほっつき歩いているんだか!自分の子供が生まれるかもしれないって時に、なんで狩りになんて行くのかね!これだから男ってやつは!」


「い、一の穴の母さん・・・。私は、大丈夫、ですから・・・それに彼は、私のために大きな獲物を獲るって言っていましたから。」


 まだあどけなさを残す娘・・・三の穴の上の娘は、その額から玉のような脂汗を流している。

 一の穴の母さんと呼ばれた女は娘の額の汗をぬぐい、また娘の母親は、彼女の小さな妹を背負いながら懸命に清潔な布や清潔な水を手配していく。


 いよいよ、生まれるかと待ち続けるが、なかなかその時が来ない。


「ここんところ、ずっと獲物が見つからないんだから、こんな時くらいそばにいてやればいいものを!うちのバカ息子ときたら!」


 出産の応援に来てくれた他の女も、産湯を沸かし、丁度良い暖かさにするなどの世話を続けている。


 三の穴の上の娘は、息子のために磨きぬいた石を握りしめ、思わず叫び声をあげる。


「う、アアアアァァァァ!い、痛い、痛い!」


「来た!痛みに合わせて、短く息を吐いて!まだだよ、まだ力を入れないで!」


 彼女は、母親の手を握りながら、一の穴の母さんと呼ばれた女の指示に従い、浅く、短く息を吐く。


「よし!もう少し!松明の火にアオガネの板をあてて!もっと明かりをこっちに!」


 別の女が松明の炎の光を磨き上げられたアオガネの板に当て、一の穴の母さんの手元を照らす。



「見えた!いいよ、開いてる!合図したら下腹に力を入れて!今!」


 何度か同じことを繰り返したのか、それとも数回だったのか。

 彼女は不意に下腹に不思議な感覚を覚える。

 痛みの質がそれまでとまるで変ったことに、気づいた瞬間。


「オギャア!オギャァ!」


 降りしきる雨の音に負けないほどの鳴き声が、穴の中に響き渡る。


「おめでとう!男の子だ!何年ぶりだろう・・・大きな男の子だ!」


 この日、三の穴の上の娘は、少女のあどけなさを残したまま、娘は母となった。

 清潔な産湯で生まれたばかりの息子は清められ、そっと胸に抱かれる。


 言葉にしがたい幸せと、漠然とした不安が彼女の胸を占める中、夫であり、父親である一の穴の男は、翌朝、そしてその夜になっても戻ってはこなかった。


 ◇  ◇  ◇


 降りしきる雨の中、女たちだけではなく周りの男たちの制止も振り切り、一の穴の男は弓矢と槍、そして石礫(いしつぶて)を編み込んだ棍棒を背に、雨の中を走っていた。


「・・・見つけた!今、獲物を持って行ってやるからな!」


 彼は土砂降りの雨の中、木の根元をかじる一匹のイノシシを見つけ、草むらの中、大きく弓を引き絞る。


 雨の音は、足音と気配を消し、イノシシに近づくのを容易にさせる。

 だが、同時に雨で視界は遮られ、矢はまっすぐ飛ばなくなる。


「・・・!そうか、このイノシシ、仔を孕んでいるのか・・・だからこんな雨の中でも食い物を探して・・・!」


 痩せている割に腹だけ大きなイノシシが、何かに気づいたのか一瞬だけこちらに顔を向けようとした瞬間、一の穴の男は矢を解き放つ。


 村一番の強弓は、黒曜石の(やじり)をつけた矢を、まっすぐにイノシシの身体に届かせる。


 左足の付け根・・・すなわち心臓を、矢は狂いなく打ち抜く。

 だが、イノシシは短く悲鳴を上げ、渾身の力で走り出す。


「逃がさない!」


 男は草むらから飛び出し、イノシシに襲い掛かる。


 イノシシの腰に投げた槍が当たり、イノシシは悲鳴を上げながら腰砕けになる。


 ・・・イノシシといえど、母親になるモノの意地か、それとも本能か。

 イノシシは心臓が破れ、腰から下の自由を失いながらも、前足と牙だけで男に襲い掛かる。


「しつこい!はやく!殺されろ!この!」


 棍棒をふるい、何度も殴打する。

 男が、イノシシが絶命したのを知ったのは、それの首から上が完全に変形し、上顎がなくなってからのことだった。


 ◇  ◇  ◇


 夜が明け、小雨になった獣道を、槍に縛り付けたイノシシを引きずりながら集落に入る。


「おい!今帰ったぞ!あいつはどこだ!力の出るものを獲ってきたぞ!」


 男は泥だらけのイノシシの死体を、三の穴の前に放り出す。


「あんた!どこに行ってたんだい!一昨日の夜に生まれちまったよ!」


 三の穴から飛び出してきた、一の穴の母さん・・・つまりは男の母親は、責めるように男に詰め寄る。

 だが、男は自慢げにイノシシを指さし、笑いながら声を上げた。


「ここのところ獲物が獲れなかっただろう?でも結構でかいのを獲ってきた。これであいつの乳も出る。解体を手伝ってくれないか。」


「それ、一人で獲ったのかい?この雨の中?やるじゃないか!よし、じゃ・・・っ!?これ、まさか!?」


「どうした?あいつのお産で疲れてるんなら俺一人でやるけど・・・なあ、聞いてくれよ。こいつ、腹がでかいだろ?多分腹の中に四匹か五匹は入ってるぜ。きっとイノシシの子供の肉は柔らかいからよ。よく煮てあいつに食べさせてやってくれよ。」


 一の穴の母さんを追うように出てきた女たちが、その言葉を聞いた瞬間、凍り付く。

 イノシシを見て顔をほころばせた女たちは、男の言葉を聞いたとたん、顔色が変わった。


「・・・腹に子がいる獣は殺しちゃならねえって、村の掟だろう?お前、知ってたはずだよな。」


 絞り出すように一の穴の母さんが言うが、男は目を丸くするだけで何が悪いかわからないようだ。


「そりゃわかってるけどよ。それってイノシシの頭数を減らすな、とかそういう理由だろう?今はそんなこと言ってる場合じゃないだろう?あいつにはしっかり食わせてやりたいんだしさ。」


「ふざけんな!おまえ、一昨日子供を産んだばかりの女に、仔が腹にいる獣の肉を食わせんのか!母親の腹を裂いて出た仔を、母親になったばかりの女に食わせんのか!」


 見れば、周囲の女たちは一様に男をにらみつけ、遠巻きに囲んでいる。


「なんでだよ!三日三晩、寝ずに獲物を獲ってきた俺に、なんでそんなこと言うんだよ!」


「うるさい!なんでこんな雨の中、あの子のそばにいてやらなかった!あの子は、ずっとあんたが雨の中で足を滑らせていないか、川に落ちてやしないかって心配してたんだ!それをお前!あの子になんて仕打ちを!」


 いつしか雨は止み、村のそれぞれの穴から何人もの人間が顔を出す。


 女たちをいさめる者、男を遠巻きに見る者、久しぶりの肉に、顔をほころばせる者・・・皆態度は違うものの、イノシシの死体に手を出すものは、一人としていなかった。


 ◇  ◇  ◇


 ザザ、と景色が切り替わる。


 秋ごろだろうか。少し大きくなった赤子を背負いながら、三の穴の上の娘が果物の入ったかごを運んでいる。


 その近くにはしゃべれるようになったくらいの少女・・・三の穴の下の娘が付き従い、かなり小さなかごを持ち、数個の果物を運んでいた。


 道の向かいからくる二人組の女が、彼女たちに声をかける。


「なあ、あんたの男、いい加減に長に謝らせたら?あ~あ。うちの村、男がほとんどいないし、あんなんでも初めて男の子を孕ませたからね。おかげで村の中が真っ二つだよ。」


 どうやら生まれたのが男児であったことが、女児しか生まれないことを憂い、外の血を招き入れようとした長の威厳を大きく損ねているようだ。

 同時に仔を孕んだイノシシを殺したことが、いまだに後を引いているらしい。


「そうだよ。あれから二人しかいない男どもは、長のいうことを完全に聞かなくなってさ。それに、女たちも長の家族以外は穴の中でも真っ二つさ。」


 二人の女の言葉を聞き、一瞬考えるようなそぶりを見せ、彼女は答えた。


「彼は私のことを思ってしてくれたんですから、私は責めようとは思いません。それに、結局みんなで食べたじゃないですか。あのイノシシ。」


「う・・・まあ、おいしかったけどさ。」


「そ、そうだね。イノシシの子供なんて食べるところがないと思ってたけど・・・。あんなにおいしいなんて思わなかったし。」


 空のかごを持ち、山のほうに消えていく女を見送り、彼女はため息をつく。


「はあ・・・せめて、私も何か狩りができたらいいんだけどね。」


「あ!じゃあわたし、おさかな食べたい!塩で焼くやつ!」


 娘の妹が、元気よく答える。


「・・・はいはい。じゃあ、この仕事が終わったら考えましょうね。」


 三の穴の上の娘は、集会場でかごを下ろし、完全に寝てしまった我が子と、遊び足りない妹・・・三の穴の下の娘を自分の母親に任せ、空のかごを持って歩きだす。


「そうね・・・今日はあの丘に行ってみようかしら。実のなる木はそれほどなかったけど、しばらく行ってなかったから何かあるかもしれない。それに・・・ちょっと気分転換ね。」


 久しぶりに幼子から解放された彼女は、空のかごを背負ってしばらく行っていなかった懐かしい丘へと向かう。

 そこに何があるかも知らずに、のんきに花などを摘みながら。


普段、人物の内面を描写するために主観視点で話が展開していますが、今回に限り、魔女の幻灯術式が第三者視点になっているのには訳があります。

いつか種明かしをするときに、そういえば第三者視点だったっけ、と思い出していただけましら幸いです。

次回 「245 神話の始まり/かくして少女は魔女となる」

7月16日 6時10分 公開予定。

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