227 勇気と恋の決断/踏み出した一歩
仄香
7月16日(水)
川崎市中原区
咲間さんのコンビニ
今日は一日、咲間さんの店でシェイプシフターと一緒に仕事をすることになった。
当然、魔女「ジェーン・ドゥ」であることがバレないように、玉山まで行って変わり身の衣を取ってきて着ている。
・・・千弦には悪いが、一日姿を貸してもらっている。
昨日はあの後、すっかり遅くなってしまい、買い物途中だったのを忘れ始めたころ、グローリエルから怒りのこもった念話が届き、慌てて遥香の家に戻ったのだ。
ショウガのチューブが途中で切れたから、ニンニクとレモン、柚子胡椒で味を調えて調味料を作り、濃縮つゆが途中で切れたから、鰹節と昆布、煮干しから出汁を取って作らなきゃならなかったんだと。
・・・すごいな!?ショウガとつゆがなくても何とかなるものなのか!?
むしろ美味しかったぞ?
さすがはグローリエル。
私なんて何年主婦をやっても、その高みには届かなかったよ。
話を戻して、シェイプシフターの性能であればコンビニの仕事くらいなら一週間もあれば覚えられるんだが、いくら彼をタダ働きさせたところで根本的な解決にはならない。
咲間さんの店を安定させるため、仕事をしながら何らかの対策をひねり出さなくてはならないのだ。
・・・世の中には私のせいで潰れた店、路頭に迷った人がたくさんいるのだろう。
我ながらどうしようもない愚かさに、胸が痛くなる。
・・・え?
直接吹き飛ばした国やそこにいた人間は?
それはまったく気にしていないな。
国家として教会に与したのだろう?
ならば為政者だけに責任があるものか。
老若男女、母親の腹の中の胎児までもが私の敵になる。
それが闘争の作法、戦争の流儀だ。
為政者は、自分の判断でそれら全ての未来が決まることくらい覚悟して戦争しろ。
とにかく、ストアコンピュータの発注端末を持って発注の手伝いを続ける。
・・・ん?この・・・写真がある商品とない商品の差は何だろう?
「すみません、オーナー。この発注端末で、写真があるものとないものがあるんですが、何か取り扱いが違うんでしょうか?」
「ああ。うちは普通のコンビニとは違うからね。写真がない商品はほとんどがウチが独自に入荷してる商品だね。売価を自由に決められるのと、ロイヤリティが売価の一律10%っていうメリットはあるんだけど・・・入荷から何から全部自分でやらなきゃならないから結構大変なんだよ。」
ふ〜ん・・・。
通常のコンビニでは本部が発注台帳に乗せている商品しか取り扱えないが、この店では違うのか。
そういえば、少し前にフランチャイズ契約時に店舗が特定の相手からしか商品を仕入れられないのが独占禁止法だか何だかに抵触するって騒ぎになってたな。
もしかしてその関係か?
「じゃあ、何か目玉商品を入荷して店に並べることができれば、さらに単価がある程度高額であれば店の経営が楽になりますか?」
「まあね。でも、できたら食品がいいかな。衣類とか雑貨だと、リピート率が低いからね。・・・ま、なかなか難しいんだよ。」
そう言うと、オーナーはレジにお客が来たらしく、走って行ってしまった。
・・・うん。
食品・・・。
グローリエルあたりにでも聞いてみようか。
あいつ、やたらと食う物にはこだわってるしな。
◇ ◇ ◇
オーナーの仕事が終わるとともに私も仕事を終えることにした。
シェイプシフターは引き続き別の姿になって仕事を続けるらしい。
バックヤードの更衣室で下着まで脱いで着替えている。
「マスター。お疲れ様デス。・・・ボクが働いていル間のドラクエのレベル上げ、よろしくお願いシマスヨ。」
「ああ。玉山で吉備津彦がやっているはずだ。ストーリーは進めないように言ってあるよ。手に入ったアイテムはすべて売っていいのか?」
「ン〜。基本は取っておいてクダサイ。もし一杯になるようデシタラ念話で連絡をトお伝えクダサイ。」
「じゃ、頑張れよ。可能な限り早く何とかしてやるから。」
週二回、36時間勤務をすることになってしまったが、シェイプシフターは嫌な顔の一つもしない。
いや、新味のカリカリや限定品の猫ちゅ〜るを買い占められるって喜んでたな。
・・・なんとも、安上がりな奴だ。
私は戻ってきた日常に梅雨が明けてよく晴れた夜空を見上げながら、今夜はどこに帰ろうか、などと宿無しのような気分を楽しみながら、夜道をふらふらと駅に向かって歩き出した。
◇ ◇ ◇
南雲 千弦
同日 午前10時
横浜駅で下車し、中央通路の西口側の『NEWoMan』の前につくと、すでに理君が待っていた。
いつもの学生服とは違う、ゆったりとした水色のサマージャケットに薄茶のチノパンを組み合わせた、カジュアルだけどしっかりとした姿で、彼はこちらに向かって手を振る。
「お待たせ。待った?」
「いや、今さっき来たところだよ。・・・それにまだ15分前だし。」
私はちょっとおしゃれして、白い肩が出るデザインの半そでブラウスにピンクのリボン、紺のミニプリーツスカート、少しヒールが高いピンクのパンプスという出で立ちだ。
メイクはナチュラルに、かつ清潔感を出すようにかなり研究したのだ。
ちなみにリップは以前、理君が似合うと言ってくれた明るいベージュのものにした。
・・・スカートとバッグの中には一応、フル装備が入っている。
だって魔力回路がないから魔法の類いが使えないからね。
もうこれは性分だ。
「ええと、映画の上映開始は何時からだっけ?」
「あと40分くらいあるな。少し余裕を持たせてたから・・・どこか入って座ろうか。」
「うん。」
理君の目線がチラチラと私の服を見ている。
似合ってなかったかな。
普段の言動がアレだからな・・・。
「・・・その、なんだ。すごく、似合ってる。その、かわいいと思う。」
「う、うん。ありがと。」
よっしゃあぁぁぁぁ!
かわいい、いただきましたぁ!
そう、そうなのよ!
こんなんでも琴音と双子だから、着る物さえ気を付ければなんとかなるのよ!
思わずニヤニヤしている私の手を取り、理君が近くのコーヒーショップに連れていく。
ほんの少し、汗ばんだ手。
なぜか、その手のしっとりとした温もりが妙にうれしくて、思わず強く握りしめてしまった。
◇ ◇ ◇
映画が終わり、二人で感想を言い合う。
「あれ、戦場で魔法を使うっていうから、派手な攻撃魔法が飛び交うと思ったけど、ほとんどが回復魔法だったな。・・・っていうか、あの映画、例の事件前に作られたんだっけ?」
「そうみたい。でも、あの回復魔法、大したことなかったね。」
「そうかぁ?切り傷をすぐに塞げたり、折れた骨の位置を治せたり、止血ができたりするだけでも大したもんだと思うんだけど・・・。」
おおっと。
つい仄香の回復治癒魔法と比べてしまっていた。
事実は小説より奇なり。
仄香の魔法は、人間の想像を絶しているからね・・・。
もう少し、このままデートを楽しみたい。
だから、私が魔術師だって打ち明けるにはまだタイミングが早すぎるかな。
デートプランは理君が考えてくれていて、すべて予約が入っている。
ワリカンだ、って言ったのに、いつの間にか会計が済んでいる。
昼過ぎは赤レンガ倉庫で食事をとり、MARINE & WALKでウィンドウショッピング。
セレクトショップやコンセプトストア、ライフスタイルブランドなどを覗きながら、いろいろな服を手に取って合わせてみて、彼と笑いあう。
その後は、よこはまコスモワールドで、スピニングコースターに乗って絶叫した後、コスモクロック21で、横浜港を見下ろし、その景色を楽しむ。
そして、水中突入型のコースター、バニッシュに乗って再び絶叫する。
「あははは。私たち、さっきから叫びっぱなし。もう、声が枯れそう!」
「ち、千弦・・・お前、こんなに絶叫マシン、好きだったっけ?」
バシリウスに切り刻まれて、痛さと苦しさ、そして絶望から出た自分の叫び声が、耳に残っていた。
でも、今は理君と二人、楽しみながら絶叫している私と、理君の声が、それを塗りつぶしていく。
次々にアトラクションを楽しみ、いつの間にか心地よい疲れが全身を満たしていた。
理君の手を取り、大さん橋へと歩いて行く。
時間が、ゆるやかに流れている。
ふと、海の匂いがした。
潮と鉄と、遠く汽笛の音。
大さん橋のウッドデッキは思ったより広くて、少し風が強かった。日が傾き、空はほんの少しだけオレンジ色になって、雲が港の水面に映っていた。
その景色の前で、私はどうしても、言葉を探してしまっていた。
理君は、私の横に座っている。ちょっとだけ汗をかいたシャツ、風に乱れる前髪。その隣にいることが、たまらなく幸せで、同時に・・・怖かった。
「理君。今日ね、打ち明けることがあるんだ。」
「・・・ああ。どんなことでも、受け止める覚悟はできている。」
喉が渇いていた。
それなのに、手に持ったアイスティーは、もうぬるくなっている。
「ねえ、理君。」
声が少し震えた。理君はゆっくりこちらを見て、いつもの優しい目を向けた。
「今日、誘ったのは、ただのデートじゃないの。ちゃんと、話したいことがあって。私のこと、ほんとうの意味で知ってほしくて。」
「うん。」
理君はそれ以上、何も言わずに頷いてくれた。
私は、深く息を吸った。
「私、実は・・・魔女の血を引く魔術師なの。魔法とか、そういうの。嘘みたいでしょ。でも、ほんとうなんだ。」
言った瞬間、心臓の音がやけに大きくなった。
彼の表情は、驚きとも困惑ともつかない・・・でも、否定ではなかった。
「この前、私がいなくなったの、覚えてる? テロって言ってたよね。あれ、違うの。私は『教会』っていう組織に攫われたの。魔女の子孫だから。彼らは・・・私を、魔女に対する兵器として利用したの。」
理君は黙って聞いている。
でも、どこか思い当たる節があったような、まるで納得したような顔。
「身体を弄られて、切り刻まれて、洗脳されて、生体兵器にされた。大事な臓器を奪われて、自分じゃないものにされた。殺されたほうがマシだった。でも仄香・・・魔女に助けられて、元通りの身体になって、やっと戻ってきた。ここに、理君の隣に、こうしていられるのが・・・信じられないくらい奇跡なの。」
目の奥が熱くなるのを感じた。
でも泣きたくなかった。
泣いてしまったら、すべてが崩れそうで。
「ごめんね、黙ってて。怖がらせたくなかった。でも、もう嘘は嫌だったの」
太陽がビルの向こうに姿を隠し、ゆっくりと世界が暗くなる。
・・・そのとき。
そっと、手を包まれた。温かかった。懐かしい、日常の温度だった。
「・・・ありがとう。話してくれて」
理君の声は、変わらなかった。
いつもの、静かで、優しい声。
「・・・信じるの?」
「信じたいって思った。全部は理解できないけど、千弦が本気で言ってるってわかるから。それで十分だよ」
言葉が、うまく返せなかった。
ただ、視界がぼやけて、にじんで、堪えていた涙がこぼれた。
私は泣きたくなんてなかったのに。
でも、彼の前なら・・・泣いても、いいって、思ってしまった。
「・・・理君、私、まだ怖いんだ。あのときみたいなことがまた起きたらって思うと、全部、夢みたいで・・・。」
「そのときは、俺がそばにいるよ。今も、こうして、いるでしょ?」
もう、何も言えなかった。ただ、頷いて、彼の手を強く握った。
海風が髪を揺らし、ビルから落ちる光が水面にきれいな模様を作っている。
こぼれた涙が、街灯の光に照らされてキラキラと光っていた。
それはまるで、壊れた現実の中に残された、たったひとつの優しい魔法のようだった。
◇ ◇ ◇
しばらく理君の胸で泣いた後、彼にすべてを話す。
まずは、彼の目の前で簡単な術式を使って見せて、魔術とは何かを理解してもらう。
次に、私が魔女の血筋であること、琴音と二人、魔法や魔術が使えること。
さらには、私たちが魔法や魔術を使ってどのように戦ってきたのか。
そして、魔女と遥香の関係。
魔女と教会の関係。
魔女がこれまでどのように生きてきたのか、どう戦ったのか。
なぜ、魔女が世界の半分を敵に回して暴れたのか。
彼は黙って、でも優しく最後まで聞いてくれる。
話が一段落したところで二人で物影に入り、ポケットから二つのミミックテイルを取り出した。
「これは?猫のしっぽ?」
「うん。さっき言ってた魔法。今から見せようと思って。」
自分のミミックテイルにゆっくりと魔力を流し込む。
変身する相手は・・・母さんだ。
母さんは、身長も体格も、靴のサイズも私たちとほとんど変わらない。
だから、いちいち着替える必要もない。
「うわ・・・すっげぇ。でもなんで変身を?」
「ふふ。じゃあ、理君はこっちを持って。私が魔力を流し込むね。」
彼の手のひらのミミックテイルに魔力を流し込む。
・・・変身する相手は、ウチのお父さんだ。
この前、理君の服と靴のサイズがほとんど同じでびっくりしたんだよね。
「うわ・・・これ、もしかして千弦たちのお父さん?でも・・・どうして?」
「うん。最後は私が予約したところに行こう?ふふ。さっき弄られた、切り刻まれたって言ったけど・・・一つだけ守り抜いたものがあるの。だから、ね。」
彼の手を引き、大きな半月状のビル・・・ヨコハマ・グランド・インターナショナルホテルに向かう。
直前割引きで見つけた空室は、意外とグレードが高くて二人で六万円以上とお高かったけど、黒川さんのバイトで稼いだお金が役に立ったよ。
ホテルの受付でチェックインし、そのまま彼の手を引いて部屋に向かう。
当然、学生だけでは宿泊なんてできない。
だから、母さんの名前を使う。
「ち、千弦・・・おれ・・・。」
「何も言わないで。ね。次に同じことがあったら・・・そしてその時、もしかしたら・・・だから、後悔するのは嫌なの。だから、ね。」
部屋の中に入り、荷物を放り出し、彼を抱きしめる。
5cmしか違わないけど、背伸びをして彼の唇にそっと自分の唇を触れる。
「俺で、いいのか?」
「・・・うん。理君がいい。」
彼は、ゆっくりと私の服を脱がしていく。
震える手で、でも迷うこともなく。
身体の境界が、あやふやになる。
彼は力強く、でも優しく私を貫く。
ほんの少しの痛みと、大きな波のように押し寄せる感動。
自然とあふれる涙。
日常に戻って、最初の一歩。
・・・そして、私は、彼と一つになった。
◇ ◇ ◇
南雲 琴音
営団地下鉄/都営地下鉄 表参道駅
同日 午前10時
七月の風が、埃っぽい都会の匂いを巻き上げて吹き抜ける。
表参道の地下鉄の改札を出て階段を上り、地上に出た瞬間、私は狭い空を見上げ、少しだけ息を呑んだ。
いつもより少しだけ明るい服を選んだせいか、すれ違う人の視線が気になって、指先をぎゅっと握る。
でも、そのすべてが、彼に・・・紫雨君に、会うため。
「・・・やっぱり、私、変じゃないかな・・・。」
そう呟いた瞬間、まるで空気が一瞬止まったみたいに、誰かが振り返る気配がした。
「琴音さん!」
柔らかくて、少しだけ眠たげな声。
振り向いたその先で、彼がいた。
紫雨君だ。
特徴的な銀髪、白いシャツに黒いパンツ、いつも通りのサングラス。
そして小さな革の鞄を肩から提げている。
なんていうか、国を作って皇帝陛下まで経験した人なのに、どこか不器用で子供っぽい。
「琴音さん。今日は付き合ってくれてありがとう。」
心の底から嬉しそうに、楽しそうに。
たったそれだけの言葉が、胸に染みて、私は思わず目をそらしてしまう。
ずるいよ、そんな顔で、そんな声で言われたら。
「こちらこそ・・・待たせてない?」
「ううん。僕、だいぶ早く来ちゃったから・・・。」
そう言って、紫雨君が少しだけ照れたように笑った。
まるで初めて子犬が笑ったみたいに、ぎこちなくて、でも一生懸命で。
その笑顔を見た瞬間、ふっと肩の力が抜けた。
今日の私は、大丈夫だ。
彼が隣にいる。それだけで、怖いことは何もない。
彼の手を引き、骨董通りに連れていく。
彼はこの時代に目覚めてからそろそろ半年が経つが、1700年の長きにわたって封印されてきたのだ。
見るものも聞くものも、すべてが様変わりしてしまっているだろう。
・・・それに、彼が生きた時代において来てしまった人や物もあるだろう。
私は自分のことばかりだったけど、彼だって癒されるべきなんだ。
まあ、骨董通りに彼の時代のものはないと思うけど。
「ここが・・・骨董通り?」
紫雨君が、ゆっくりと歩道に視線を走らせた。
オシャレなカフェ、アンティークの家具屋、古い本を積み上げたガラスの向こう側・・・夏の光が、白っぽいアスファルトの上で跳ねていた。
「うん。昔からあるお店も多くて、ちょっと落ち着いてるっていうか・・・静かで、好きなんだ。」
私は言いながら、横にいる紫雨君をちらりと見る。
不思議だった。
何千年も昔に生まれた人なのに、こういう現代の街を歩いていると、どこか年下みたいに見えてしまう。
「この木、イチョウだよね。・・・昔見たイチョウと葉の形が違う。」
そう言って、歩道の木を見上げる彼の目は、まっすぐで真剣で。
私はその横顔に、少しだけ胸が熱くなった。
「ねえ、紫雨君。今日、街を歩くの、楽しい?」
「楽しいよ。すごく。・・・ただ、ちょっと眩しい。いろんなものが、新しくて。」
サングラスの奥から、彼のきれいな紅い目がちらりと見える。
「ふふ。それ、照れてるの?」
「ち、違うよ。僕は・・・僕は、まだ慣れないだけで・・・。それに、日差しが少し強いのかな。」
「じゃあ、日傘、かけてあげよっか?」
私は自分のバッグから、小さな折り畳み日傘を取り出して、彼の銀髪の上にひょいとかざした。
・・・彼の耳が、少し赤くなったのを、私は見逃さなかった。
「琴音さん。僕、やっぱり君といると・・・すごく、ほっとするんだ。」
その言葉は、どこかぎこちなくて、不器用で。
でも私の胸の奥に、すっと静かに沈んでいった。
なんとなく姉さんの気持ちがわかる。
誰かに必要とされるって、こういうことなんだ。
誰かに、心を寄せてもらえるって・・・こんなにも、嬉しいんだ。
そう思った瞬間、なんだか急に目の奥が熱くなって、私は空を見上げてごまかした。
「ほら、次のお店。あそこ、アンティークの万年筆がいっぱいあるんだよ」
「万年筆・・・僕の時代にはなかったな。でも、発明されてから結構経ってるんだろう?」
「もちろん。今はほとんどボールペンね。」
「ふうん・・・金属の隙間の毛細管現象で字を書くんだよね。思いつきもしなかったなぁ。」
まるで、小さな子供みたいに純粋に頷く彼が、愛おしくて仕方なかった。
◇ ◇ ◇
昼前になると、表参道の街並みは少しずつ熱を帯び始めた。
歩道のタイルがじりじりと焼ける音が聞こえてきそうなほど。
「そろそろ、お昼にしよっか。・・・紫雨君、食べたいもの、ある?」
「うーん・・・。この時代のものは何でもおいしいんだけど・・・琴音さんのおすすめってある?」
「ふふ、それはなかなか緊張するお願いだね・・・。」
私は少し考えてから、小さな洋食屋の前で足を止めた。
蔦が絡んだ古びた扉、木製の看板に手書きのメニュー。
どこか懐かしくて、でも今の紫雨君に合いそうな、そんな場所。
「じゃあ、ここにしよう。ハヤシライスが有名なんだって。」
「ハヤシライス・・・?」
「甘めのデミグラスで煮込んだお肉とご飯。たぶん、気に入ると思うよ」
店内は涼しくて、外とは違ってほっとできる空気があった。
窓際の席に腰を下ろすと、紫雨君は静かに周囲を見回して、少し息を吐いた。
「・・・君といると、全部が落ち着く。けど、時々、怖くもなる。」
「・・・怖い?」
「僕は・・・長く生きすぎてるから。この時代にとって、僕が『ちゃんとした人間』かどうか、分からなくなるときがあるんだ。」
紫雨君のまなざしは、ほんの一瞬だけ、過去に沈んでいた。
そうだ、彼は1700年もの歳月を奪われ、いきなりこの時代に放り出されたんだ。
仄香のような、人とのつながりをすべて失って。
私は、何も言わずに彼の手をそっと握った。
冷たくも熱くもない、でも確かな命のある手。
「紫雨君が『今』を生きてるって、私はちゃんと感じてるよ。だって、こうして手をつないでる。」
言ったあと、自分の顔が熱くなるのが分かった。
「それに・・・ね。私も、一度大事な人を失いかけたから。」
思い出す、姉の死。
そして自分の死。
あの何もない病室で、何もできなかった、あの時間。
でも、戻ってきた。この日常に。
「私は・・・もう怖くないよ。紫雨君がいてくれるから。」
そのとき、紫雨君が初めて、まっすぐ私の目を見て言った。
「ありがとう。琴音さん。僕、君の『今』に居させてもらえるなら・・・それだけで、十分だよ。」
ふと届いたハヤシライスの湯気が、静かに、机の上を揺らしていた。
その温かさと同じものが、胸の奥に満ちていくのを感じながら、私はゆっくりとスプーンを手に取った。
二人でハヤシライスを味わい、その感想を言い合いながら食事が終わる。
紫雨君はハヤシライスを気に入ってくれたようだ。
食後の街は、風がわずかに冷たくなっていた。
それでも七月の陽射しは強くて、歩道の木陰がまるでオアシスみたいに感じられた。
彼の手をひいて、ゆっくりと明治神宮へ向かう。
「明治神宮・・・って、ここは神道の『神社』なんだよね?ここの神様からも力を借りられるかな?」
参道の入り口で足を止めた紫雨君が、しげしげと周囲を見回す。
高く伸びた木々の向こう、ざわめきのない空間。
ここだけ時が止まっているような静けさがあった。
「うん。神様にされた人たちが祀られているね。・・・でも、力は借りられないかな。」
ここに祀られているのは、明治天皇と昭憲皇太后の二柱だ。
日本の維新に力を尽くした神々から、さらに力を借りるのは不敬というものだ。
「そうか。でもわかるよ。これは信仰の静けさだね。」
紫雨君の言葉に、私は少し驚いた。
彼の中には、まだ知らない感受性が眠ってるんだと、あらためて思う。
石畳を並んで歩くたびに、蝉の声が高くなっていった。
木漏れ日が揺れるたび、彼の白いシャツの肩に光が落ちる。
ときどき手が触れて、そのたびに胸の奥がくすぐったくて、でも嫌じゃなくて。
「琴音さん。」
「なに?」
「君は・・・僕のこと、怖くない?」
ふいに立ち止まって、彼が問いかけてきた。
「僕は昔、人をたくさん殺した。剣で、魔術で。皇帝として、兵を動かして。」
「・・・知ってる。」
「思い出すたびに、僕は旧世界の亡霊だなって思ってしまう。」
彼の声は、風にかき消されそうなほど静かだった。
けれど、その中にある痛みと悔いと・・・、深い孤独を、私は確かに感じた。
だから、言葉ではなく、私はそっと彼の手を握った。
そして、ぎゅっと抱きしめた。人目も憚らずに。
「怖くないよ。紫雨君がその全部を背負って、今もこうして私の隣にいてくれるなら・・・私も半分背負うよ。」
少しして、紫雨君の腕が、恐る恐る私の背中を包んでくる。
とても優しく、だけど確かに震えていて・・・私はその震えを、きっと一生忘れないだろう。
◇ ◇ ◇
最後に、この時代、この国そのものを実感できる場所へ向かう。
東京都庁の南展望室だ。
新宿の高層ビル群が見える、その展望台に着いたのは、夕暮れがちょうど空を染め始めた頃だった。
エレベーターの扉が開き、私たちはゆっくり展望台のフロアに出た。
ガラス越しに広がる景色は、まるで地図みたいだった。
オレンジ色の太陽がビルの向こうに沈んでいくその瞬間・・・。
この時間に来たのは初めてだった。
東京の街が金色に染まっていくのを、私は言葉もなく眺めていた。
「・・・綺麗ね。」
「うん。君が見てるものと、僕が見てるものが同じだって思うと、不思議だ。」
紫雨君の言葉に、胸が静かに波立つ。
たとえ魔法で空を飛べるとしても、この景色を、1700年前の彼は知らない。
その時間をずっと孤独に過ごしてきた彼にとって、誰かと一緒に見る夕焼けは・・・。
たぶん、すごく貴重なものなんだろう。
「紫雨君。」
「うん?」
「ありがとう。今日、一緒にいてくれて。・・・私、こうやって誰かと並んで景色を見るなんて、もう二度とないと思ってた。」
姉さんを奪われたとき。
そして、すべてをあきらめて、自分から命を絶った時。
心も、身体も、希望も・・・。
「私、もう一度生きていいって思えたのは、姉さんを取り戻せたから。でも・・・それだけじゃなくて、紫雨君と会えたから。」
私の言葉に、紫雨君は一瞬だけ目を見開いて、すぐに微笑んだ。
ほんの少しだけ、寂しげで、でも優しくて。
「僕は、君を守れるほど立派な人間じゃないよ。たぶん、まだ何も知らない。」
「ううん。・・・でも、私が触れたいのは、紫雨君の『今』だから。」
そう言った瞬間、なぜか涙がひと粒、こぼれそうになって・・・私は思わず、彼の胸に顔をうずめた。
彼の腕が、そっと私を抱きとめた。
街の灯りが、ぽつり、ぽつりと点いてゆく。
世界が夜に飲まれていくそのとき、私たちは同じ体温で、ひとつの世界を分け合っていた。
◇ ◇ ◇
二人で中央線に乗り、彼の住む国立のアパートへ向かう。
星羅さんは、仄香と一緒に玉山の隠れ家に行っているらしい。
国立の駅前は、夕暮れを過ぎてすっかり夜の顔になっていた。
展望台を出たあと、紫雨君は「もう少しだけ、君と一緒にいたい」と言ってくれた。
私も頷いて、自然な流れで、彼の住むアパートへ向かうことになった。
宗一郎伯父さんが用意したというアパート。
なかなかおしゃれで住みやすそうな、清潔感がある外見。
紫雨君が私たちの時代に根を下ろして生きていることが、すごくうれしかった。
ドアの向こう、2DKの部屋は想像以上に綺麗で、落ち着いた空間だった。
本棚には世界の歴史の本が積まれ、机には作りかけの術式が置かれている。
この時代に慣れようとした努力の匂いと、彼の体温が、同じ部屋の中で静かに混ざっていた。
「ごめんね、気の利いたものが何もなくて。・・・今の僕は、この時代を知ることに必死だったから。」
そう言って笑う彼に、私は首を横に振った。
「紫雨君と一緒にいられるなら、どこでもいいよ。・・・すごく、頑張ってるんだね。」
そう言った私の声は、少し震えていたかもしれない。
足元から、どうしようもなく緊張がこみ上げていた。
だけど、それ以上に・・・胸の奥に灯っていたのは、安堵と、やさしい期待だった。
「琴音さん。」
「・・・うん?」
「君を、傷つけたくない。・・・でも、触れても、いい?」
紫雨君の言葉は、どこまでも誠実で、切実だった。
一人、見知らぬ時代に放り出され、仄香に会うまでは理解者もいなかっただろう。
そして、星羅さんを取り戻すまでは、大事な家族と離れ離れで心細かっただろう。
私も彼の家族になりたい。
だから、私はゆっくりと、頷いた。
触れられる指先は、驚くほど優しくて、
まるで壊れ物に触れるように、私の髪を、頬を、肩をなぞった。
ベッドの上で向かい合いながら、私は小さく笑った。
「ねえ、紫雨君。」
「うん?」
「やっぱり、ちょっと子供っぽいね。・・・でも、そういうところ、すごく好き。」
「・・・子供っぽい?」
「うん。でも・・・だからこそ、信じられる。優しいのって、そういうことだと思うから。」
紫雨君は少しだけむっとしたように見えたけれど、やがて照れたように笑って、
静かに私の額にキスを落とした。
そして、ゆっくりと、ふたりの距離がなくなっていった・・・。
・・・ただ、息遣いだけが重なって。
不器用な手つきで、時間をかけて、確かめ合うように。
肌と心のあいだにあった、わずかな境界線が、やがて溶けていった。
涙がこぼれたのは、痛かったからじゃない。
やっと「生きている」って思えたから。
私は、ここにいる。紫雨君と一緒に。
あたたかい夜の中、もうひとつの絆が静かに始まるのを感じた。
次回「228 戻ってきた魔法/恐怖と恨みと無関心」
6月24日6時10分公開予定。